蛇に飲み込まれた瞬間のことだった。ひかりは直感的に防御ではなく、生存に残るすべての力を振り向けた。安全な殻を造るのではなく、環境への適応を選択したのだ。
すると決闘装束は、ひかりの生命活動を最小限に押さえ込んだ。鼓動は正常時の二割に減り、体温は二十度を切った。指先を動かすどころか、瞬きさえ出来ない。体は生きているだけの状態に留め、意識を深いところに封印した。
体は動かず、意識的な思考もできない。眠っているというよりは、肉体が生きているだけの状態だった。
だが、こうでもしなければ、即刻、邪神官の闇に冒され、心を腐らせていたことだろう。それほどこの空間は異常だった。
ここは汚泥だった。
ここは毒沼だった。
ここは腐海だった。
精神を煮詰めて殺すための大鍋とでも呼んでもいい。世界中の呪詛を放り込み、溶かし、醸造した場所。それがこの蛇の腹の中だ。
そして、この空間こそが、ジュエリストの精霊力を受け付けなかった要因でもある。
決闘装束は人の深層にある願いを精霊力が形にしたものだ。より大きな願いが混ざれば、元の願いは傷み、綻ぶ。
決闘装束の欠損は、すなわち肉体の死である。
邪神官の一柱、『艶羨』のリン・ヴィルヘルハルムは、ジュエリストにとって天敵と言っても過言ではない異能を備えていた。
ひかりの決闘装束にも闇が迫り、小さな小さな穴を穿つ。
やがて肉体へ到達すると、肌から染み入り、心の在処を探すように滲んでいった。
ほどなくして、闇はひかりの心を閉じ込めた殻を捜し当てた。
闇は心を支配しようと企んだ。殻の表面を覆うと、伸ばした触手を束ねては、幾つもの人形を造った。
人形はわらわらと列をなして踊り、口を開いた。
ある人形は甘く切ない声で囁く。
――死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死んでください。お願いだから。
ある人形は喉を掻き毟るような声で叫ぶ。
――助けて。助けて。助けて。助けて。助けてよ。どうして見てるだけなの。
ある人形は無機質な乾いた声で嘲る。
――クズ。クズ。クズ。クズ。ゴミクズ。役立たずは消えちゃいなよ。
無数の声が、延々と呪いの言葉を浴びせ、殻を丸焼きにしようとした。
殻の表面は焦げたが、中身には届かなかった。人形たちの口撃はしばし続いたが、ふと波が引くように消え、後には一枚の姿見が残されていた。
鏡には殻だけが映されていたが、何の前触れもなく、虚像の殻がひび割れた。すると、あたかも卵の殻を突き破るように、中から白い手が伸びた。
そして、真っ直ぐ突き出した手が、腕が、燐光を纏った鏡面から抜け出した。
何かを探すように指先が彷徨い、姿見の縁を掴む。そして、一人の少女が鏡の中から顔を覗かせた。
殻を壊し、鏡を通り抜け現れた少女は美しい顔立ちをしていた。
白い肌、均整の取れた体つき、すべてが”宝生ひかり”と同じで、違いらしい違いといえば、灰色の瞳と薄墨色の髪くらいだ。
さながら、宝生ひかりを単調で複写したような外見の少女が、殻を慈しむように抱きかかえると、そっと長い睫毛を伏せた。
「すごく堅い殻・・・・・・可哀想、こんなので守らなくちゃいけなかったんだ。ねぇ、そこから出て来て? 一緒に昔話をしようよ」
優しく呼びかけるが、ひかりの心を包んだ殻は微動だにしなかった。今も眠ったように静かで、穏やかなままだった。
「ねぇ、始まりを覚えてる? ママの温もりを。パパの優しい笑顔を。あの頃は、ずっと穏やかで居られた。初めて冷たくされたのは保育園だった。よくイジメられたね。意地悪されたね。
ひかりは大好きな先生に誉められたくて頑張っただけ。ただ、何でもでき過ぎた。他の子の存在が霞んじゃうくらい。それを面白くないと思う子たちがいた。無視されたり些細なことを告げ口されたり、何かと攻撃され続けた。
それは大人から見ればたぶん取るに足らないことで、目くじらを立てるようなことじゃなかったのだろうけど、ひかりは傷ついていた。
だから目立たないように、本気を出さないようにしたんだ。答えが分かっていても知らないふりをして、人が通った後を通るようにした」
殻が、僅かに震えた。その様子を、少女は見逃さなかった。
「小学校でもイジメられたね。今度は人と違う色をした髪と目のせいで。何かとからかわれたし、除け者にされた。何でも出来すぎないようにしていたのに。どうしたらいいか悩んだこともあったっけ。家で泣いちゃって、ママを心配させたこともあった。
優しいママを困らせたくなくて、いっぱい考えたんだよね。生まれついたものは変えられない。それでも嫌われないようにするにはどうしたらいいのか?
それである日、ひかりは気が付いた。嫌われないようにするには、好かれるしかないってことに。
それからだったよね。ひかりが誰にでも優しくなって、笑顔を絶やさなくなったのは。
人の言ったこと、やったことをよーく覚えておいて、決まった幾つかの法則があることを知ったのもその頃。どうすればその人が喜ぶか考えて、いっぱい試した。いっぱい失敗したけど、喜んで貰えることが段々増えて来て、ひかり自身も楽しくなってた。しばらくはそれで上手くいってた。
やっぱ高学年辺りだったかな。少しズレ始めた事に気付いたのは。
男の子も女の子もしょっちゅう尋ねて来るようになった。“好きなひとは誰?“って。ひかりは皆が好きだから素直に答えたら怒らせることがあったよね。ちょっかいかけられることも増えたし、それを妬まれることもあった。だから特別な感じを作らないよう、皆が平等になるように気をつけた。そういうのは深く考えないよう鈍くなろうって決めた。それでまた何とか上手く回るようになった」
カタカタと殻が震えた。少女は微笑む。
「人の好きってスゴく厄介。扱いが難しいって本当の意味で実感したのは中学に入ってからだよね。隙あらばって感じでさ。だからもっと距離を縮めて、もっと人を知って、もっと馬鹿になって、もっと鈍感にならなくちゃいけなかった。ただ、この頃はもうそんなこと意識することさえなかったんだけどね。自然に、そう在るように、そう成っていった。順調だった。家も学校も凄く楽しかった。歯車が狂っていたなんて、気付きもしなかった。
“黒岩芽依”が、ひかりを狂わせていただなんて」
殻がぴたりと動きを止めた。
「ねぇ、そんなところにいないで芽依ちゃんの話しをしようよ。そんな長い話しじゃないことはひかりもよく知ってるでしょ?」沈黙×沈黙「・・・・・・まぁ、いいや。気が向いたら出て来て。いつでも歓迎だよ」
少女は殻に背を預けた。
「初めて会ったときのこと、今でもよく覚えてる。入学式のとき、校庭は桜が満開で、それを眺めてたら声を掛けられた。“桜が好きなの?“って。大人しそうな子――それが芽依ちゃんの第一印象だった。少し話しをした後でも普通。それ以上でも、それ以下でもなくて、特別な感じなんてちっともしなかった。
教室で再会したときも別に驚かなかった。クラスメイトは小学校が同じだった子の方が多くて、あんまり代わり映えしなかった。小学生と違うって本当に実感したのは期末テストの後だったかな。クラスの皆が沈んだ顔してた。満点が取れないのが普通だって知ったからだと思う。油断してた訳じゃなくて、実力の差がくっきり映ったから驚いちゃったんだよね。ひかりは――まぁ、いつも通りだったね。
皆で次は頑張ろうって慰め合ってるとき、芽依ちゃんだけが違った。一人でいた。テスト用紙を丸めて捨ててた。後でゴミ箱を漁った子がいて、“全教科満点”だって言い触らしていたのを聞いて、純粋に”凄い”って思った。自慢げにするでも謙遜するでもなくて、普通にしていた。いつも通り、変わらず、淡々と。誰が見ても特別なことなのに、普通にやり過ごす芽依ちゃんを初めてカッコイイって、そう思ったんだ。
それに芽依ちゃんは凄い。何をやらせても完璧にこなすだけじゃない。何も恐れてないし、誰かに好かれたいと思ってない。誰から嫌われたって構わないって、態度で示してた。
私が望んで、でも出来なかったことを平気でやる芽依ちゃんのこと、いつしかもっと知りたい、って思うようになってた」
少女が殻の表面を撫でると表面が研磨されたように光、少女をうっすら映した。
「ちゃんと話しができたのは席替えがあって、芽依ちゃんと隣同士になってから。勉強を教えて貰うようになってからお互いの距離はぐっと近くなった。気付いたら一番の相談相手になってたときはちょっと驚いた。芽依ちゃんはもっぱら聞き役で、私は自分のことばっか話してたけど、芽依ちゃんは嫌な顔一つしなかった。
甘えてばかりは嫌だったから家に招待したり、勉強を頑張ったりもした。やりすぎないように気を付けてはいたけど、芽依ちゃんの教え方が上手すぎて、つい夢中になることもあった。
毎日が楽しかった。ちゃんとバランス取れている。そう思ってた。
だけど、芽依ちゃんが視界に映らなくなった。少し、すれ違ったことがあったのは判ってる。それを偶然だと思っていたら、いつしか本当に距離が遠くなってた。近付く機会を伺ってたらますます遠くなってて、拒絶されるようになった。
・・・・・・何でこうなっちゃったんだろう?」
少女は額をがっと殻に押し当て、殻に映る自分を睨みつけた。
「嘘吐き。本当は知ってるくせに・・・・・・! まだ知らんぷりするの?
何でこうなったかって? 簡単なことだよ。私が芽依ちゃんを選ばなかったから。だから芽依ちゃんは私の中から消えた。それだけのこと」
少女は殻を叩く。握った拳が微かに震えていた。
「思い出して。記憶力はいいじゃない。芽依ちゃんの様子がおかしかったとき、あったでしょ?
――そうだよ。あのときだよ。放課後、芽依ちゃんと二人で勉強したとき、芽依ちゃんが美樹ちゃんとかに呼ばれて席を外して、そしたら、すぐ他の子が寄って来て、“黒岩と付き合うの大変だね”って言って、本当は全然大変じゃなくてただ楽しかったけど、私はその場に合わせて言っちゃったんだよ。“芽依ちゃんについていくのは難しい”――って」
少女を映した表面に一筋の傷が入り、黒く滲んだ。
「そんなの知らなかった! 聞かれていたなんてッ!」少女が叫ぶ。
苦しくて、悲しくて、いたたまれないその顔に、偽りはなかった。
「そう。直接聞かれたかどうかは判らない。後で誰かが芽依ちゃんに告げ口したのかも知れない。芽依ちゃんは何も言わなかった――ううん、何も言えなかった。
私のいないところで酷いことを言われて傷ついて、その後に私が”ありがた迷惑”みたいなこと言ったんだと知ったら、芽依ちゃんどう思うだろう?
“黒岩芽依と宝生ひかりは近くにいるべきじゃない”って、そう考えるに決まっている」
殻はひび割れ、裂け目が生じる。闇が、裂け目から染み込んでいった。
「でも、それだけで壊れるような関係じゃなかった!」少女は必死に抗う。
「そう思ってたのは自分だけ」少女は冷めた目で言う。
「結局、芽依ちゃんに選択させたのは私だった。私が芽依ちゃんを選ばなかった。芽依ちゃんが距離を置こうとしたとき、私はそれを許した。芽依ちゃんではない子と一緒にいて、芽依ちゃんの手の届かないところで楽しそうにした。
だったら芽依ちゃん、納得するしかないじゃん。“自分なんて、いてもいなくても変わらない”って! 芽依ちゃんの家のこと知ってる? 周りからどんな目で見られてたか! それを知ってて自分ちを見せびらかして! 幸せイッパイだってアピールして!
たちが悪いのは”皆仲良く”って偽善者ぶったこと。ただ全部欲しがっただけなのに、醜いとこ隠して嫌われないよう取り繕った!
芽依ちゃんに拒絶されてるって判った後もちょっかいかけ続けたのもそう。私はもう無理だって諦めてた。でも手の届く場所に置いておきたかった。
だって仕方ないよね? 黒岩芽依は、宝生ひかりが普通じゃないことを知られている可能性があったから。勉強も、人間関係も、ありとあらゆるものを計算してるって!
ぜーんぶ擬態! 宝生ひかりは、弾き出されるのが怖くて怖くて仕方がないだけの偽物で、その場に溶け込むしか能がない紛い物だから!」
少女は裂け目に手をねじ込む。殻の切っ先が白い肌を裂き、血が流れた。
「私の罪はそれだけじゃない。私は、救えなかった。異世界のせいで多くの人が死んだ。顔も知らない人達だけど、私がもっとしっかりしてたらそんなことにはならなかった人達だった。
皆そのことに触れないけど、私のせいだって思ってるに決まってる。私なら何とかするだろうって。芽依ちゃんだってそう。絶対私を許してくれない」
少女は殻の中から宝生ひかりを引きずり出し、その細首に両手をかける。
「責任? 覚悟? 何それ。そんなの知らない。私はただ言われたことを、言われた通りやってるだけなんですけど。押しつけられただけなのに、何でそんな大それたもの背負わなくちゃいけないの?
私は特別じゃない。異常でもなければ異質でもない。普通だもん。どうにかできるはずないよ。期待するだけ無駄だよ。価値なんてない。
・・・・・・だったら、こんな私、死んだ方がいいよね?」
そう言って少女が指先に力を込めた。
その瞬間。
――ひかり!!
どこからか呼ぶ声に少女は驚き、振り向く。
「・・・・・・芽依ちゃん? そっか。助けに来てくれたんだ。でも、もう遅い。遅すぎるよ。私たちは分かり合えないって、判っちゃったんだもん。納得しちゃったから。だから、もう――」
――私はアナタが嫌い! 大嫌いよ!!
「それ、言わなくても知ってる」少女は苦笑いする。
――アナタは私が憧れて、欲しがって、諦めたものを全部最初から持ってた!
「それは・・・・・・知らなかったな」
――アナタは私とは違いすぎた。それを認めたくなかった!
「私も同じ。認めたくなかった。自分は皆と違うって」
――だからアナタを遠ざけた。近くにいればそれを認めざるを得なかったから!
「だから私は近寄った。遠ざけたら作り物だって皆にバレちゃうから」
――そこから出て来て! 話しを聞いて! 私がアナタを嫌いな理由を!!
「なんだよ、それ。変なの。芽依ちゃんって、ほんと変わってる。
でもダメだよ。いけないよ。嫌われるのって、やっぱ怖いよ。だから――」
少女が緩みかけた指先に、再び力を込める。
――――――
――――
――ぐぅおぉぉらぁぁぁ! こっちが下手に出てりゃ調子乗んなぁぁぁ!!
「なっ――!?」少女の驚愕
「――にっ!?」芽依の驚愕
自分の声で発せられた台詞に、芽依は言葉を失った。
自分の精一杯の告白を台無しにする暴言に、ただただ目を見張っていた。
芽依が手元の杖に視線を落とすと、石嵌器に収まる石が透き通る紫から薄紅色へ変わるところだった。
「カマトトぶってなんのつもり!? ハーフ? クウォーター? 何だか知らないけどクソ目立つ上に誰彼構わず愛想振りまくって、そんなにチヤホヤされたい!? 八方美人も大概にして!」
芽依が慌てて宝石を手で押さえるが、怒濤の非難は止められない。そもそもどうやって石が発声しているのかさえ不明なのだから当然だろう。
「口を開けばフツー、フツーって。それしか言うことないなんて、アナタどんだけ頭が悪いの!? 人気があればあるだけ敵が多くなるのが普通でしょうが! なのに誰からも愛されたいなんて大概ね。それで実際に愛されていたら、それこそ異常よ! い・じょ・う!」
そうして、芽依が墓場まで持って行くはずだった秘密を、あっさり暴くのだった。
「万人から愛されるための条件は至って単純。周囲を取り巻く人間関係をあまねく計算し尽くした言動だけ。
でも、普通の人間にそんな複雑すぎる系をコントロールできるはずがない。もしそれを可能な人間がいるとしたら、それは唯の天才。
“宝生ひかり”を特別にしているのは、その容姿でもなければ性格でもない。人間すらシミュレートして見せる高い演算能力と、その結果から導かれる配役を演じきってみせる擬態能力。
他人の理想で自分自身すら殺せてしまえる、本物以上に輝ける偽物。それこそが宝生ひかりという人間の本質。
その異常性は、ジュエリストになることでよりはっきりした。
ダイヤのジュエリストの基本特性は《無限の可能性》――精霊力の無制限行使という、実に馬鹿げた特別ルール。
そして、刻印装具《魔法辞典》が、どんな願いも数式化して超高速で顕現させる。
どんな必殺技でも高速かつ無限に出力可能という、言うなれば、ジュエリストの中で最もジュエリストらしいジュエリスト。良く言って理想の体現で、悪く言えば、ご都合主義の権化。反則技と裏技の担い手、それが――」「――もういい止めて」
芽依は頭を振った。
「それは、私の仕事だから」
すると、宝生ひかりの解体/分析がぴたりと止む。
「今だから告白するけど、アナタがひた隠しにした知能にはすぐ気が付いたわ」
芽依は覚悟を決めた。残された思いのすべてを、この場所に置いていくのだと。
「テストで間違ったとこ、少し要点を教えただけで答えられるんだもの。違和感を覚えないはずがないでしょ?
けど、どれだけ注意深く観察しても、アナタの”全力だ”という言葉に、嘘や矛盾は見当たらなかった。
だから私は確かめることにしたわ。学校の勉強を教えるついでに、知能指数を計るテストをやらせたことがあった。
簡単なテストだって騙して平均的な人間に必要な時間の半分を指定したら、アナタは更にその半分の時間で終わらせたわね。
結果は、頭が良いどころじゃない。天才の領域だった。
それからは高レベルな問題にシフトした。誰よりも才能があるんだからもっと出来るはずだ、って。エセ教師を気取ってた。
アナタは真面目に付いてきてくれた。だから実力が伸びることは確実だった。
なのに、変わらなかった。学力は相変わらず並か、それ以下に甘んじてた。それでいて毎日幸せそうだった。
真剣に取り組んでもテストで間違える。普通なら気に病みそうな現象も気にした風でもなかった。
私は混乱したわ。アナタがまったく分からなくなった。
アナタは天才なのに、その態度は”間違えることこそが正しい”と言っているようなものだったから。
自分を貶めることが正しいだなんて認めたくなかった。
だって、私はずっと自分の能力を高めることに腐心して来た。
力さえあれば、誰からも虐げられない。自分に誇りを持てる。愚鈍な他人はただの障害。
そう信じて生きてきた。
なのに、アナタときたら、最高の知性を他者と繋がることに浪費していた。
皆を助け、皆に助けられ、より多くの人の中で満ち足りる。そういう生き方。
私には理解できなかった。正しい才能の使い方をして欲しかった。だから如何に特別なことが素晴らしいか、コーチングに躍起になったときもあった。
そんな折りだった。桜井美樹に指摘されたわ。
“お前の理想を押しつけるな”って。
分かってないのはお前のほうだって、その瞬間こそ反発したけど、直後には自分の過ちを悟った――いえ、思い知らされたと言うべきでしょうね。
本当のアナタは、私を抜き去ることはおろか、隣に並び立つことさえ望んではいなかった。もしかしたら、背中さえ見てなかったのかも知れないわね。
今の在りようが違うならまだしも、目指している未来の方向があまりにも違いすぎた。
私は自分の愚かさを恥じた。反省もした。だからアナタを遠ざけた。私はアナタにとって不要な人間だったから。
アナタのためだって思ってやったことだったけど、少し時間が経って冷静に振り返ったら、関係を断ったことに安堵している自分がいたの。
それで私は完全に自分を理解した。自分の行いは善意でも何でもなく、ただのお為ごかしだったって。
私は、宝生ひかりを組み敷きたいと思って近寄る薄汚い有象無象と何ら変わりなかった。
その事実は結構堪えたわ。自分を聖人君子だと思ったことはなかったけど、その辺の人間とは違う価値を知っていて、それを分け与えられる人間だと信じ切っていたから。
私の自己意識にはいつの間にか膿が溜まっていた。目も当てられないくらい真っ赤に腫れ上がったデキモノになっていた。
治療するために、私は”宝生ひかり”を完全に切除した。
なのに、アナタと来たら、そんな私の痛いところをことごとく刺激した。
素知らぬ顔で、皆仲良くって。はにかむアナタを見て、私は笑えない冗談だと思ったわ。
最初こそやんわり断ったけど、あまりにも学びのないアナタの態度に、段々腹が立つようになった。以後は省くわね。くど過ぎるから。
これがアナタを大嫌いになった経緯。どう? ちゃんと伝わった?
ねぇ、アナタがジュエリストだって気付いたときのもどかしさ、分かる?
ジュエリストの力を手にしても進歩がないって知ったときの失望、分かる?
アナタだったらどうする? 言葉でも分かって貰えない。態度でも伝わらない。そんな相手、どう扱ったら良い?
私は力で浮き彫りにさせることを選んだ。アナタに、“宝生ひかり”の実体を突きつけてやるって、そう決めた。今、この街におきている問題を解決するのに必要なものは、絶対にゴッコ遊びなんかじゃないって!」
芽依が語気を荒げると、呼応するように蛇が身動ぎした。静から動へ。突如として芽依に襲いかかる。
腹で地面を這うのではなく、巨大な刃を足代わりに地面へ突き立て、蜘蛛の如く走った。
その勢いはダンプカーがフルスロットルで突っ込んで来るかと錯覚させる。
芽依はこれを直上へ飛んで躱した。
「私はアナタが嫌い。それでも他の誰よりアナタの本当の力を信じてる。
アナタが、この街を救うに足る人間だと信じるからこそ、このちっぽけな命を、何度でも惜しまず賭けられる」
芽依は手にした白杖を真下に構え、空いた手で四角を描いた。
蛇を囲うように引かれた線が赤く輝くと、地盤が何の前触れもなく沈んだ。
分子結合を極微振動させることで工場地下施設の天板を破壊し、崩落させた。
蛇は逃げ出せず、瓦礫と土砂に飲み込まれた。身動きが取れなくなると、闇雲に暴れた。
頭や尾だけでなく、背の壊れた二翼をばたつかせ、もがいた。
なかなか這い出せずにいると、あろうことか、翼が、蛇の体を引き剥がしに掛かった。
ブチブチと神経らしき管を千切りながら、蛇の背を割って肉食獣の頭部が現れた。
次いで前肢を見せると、全身が一気に飛び出して来た。
新たに誕生した怪物は、全長が十メートルに達した。外見はライオンを彷彿させるが、そこに野生の威厳など微塵もない。
空気に触れた傍から皮膚と筋肉が溶けて、体外へ流れ出していた。しぼんだ眼球がぼとりと落ちた後、眼窩には濃密な瘴気だけが揺らめいていた。
その容貌は、おぞましとしか言い表しようがない。
怪物の正面に降り立った芽依など、不覚にもギリアムの方が幾らか可愛く思ってしまったほどだった。
腐肉の獅子が叫んだ。一般にイメージするであろう雄々しさとはかけ離れた、断末魔の悲鳴といった風情の咆哮だった。
芽依が奇襲に備えて構えると、その思考を読んだかの如く、獅子は二度断崖を蹴って、空を飛んだ。背の折れた翼を羽ばたかせ、恐ろしい速度で舞い上がった。
芽依が灰色の空を見上げた瞬間、まさかの事態を悟る。
『なかなかどうして。思い切りがいいじゃない。さっさと逃げ出すなんてね』
芽依の手元で、呆れ加減の揶揄が飛ぶ。視線を落とすと、石はその輝きを黄から緑へ変えようとしていた。
「追うわ。アレが境界の外へ飛び出す前に、必ず墜とす」逡巡なく告げる。
『なら、こっちはどうするの? 助けるんじゃなかったの?』
芽依の眼前では、蛇が獅子に食い破られたショックから立ち直ろうとしていた。
単眼は潰れたままだったが、他に感覚器が存在するのか、間違いなく芽依を次の標的に定めていた。
芽依は塞がることのない獅子の抜け跡を眺めていた。
「放っておくわ」
そして、電子化を発動、全身に目映い雷光を纏う。
「ひかり。私は言い残してたこと、全部伝えたから。何か言いたいことがあるなら、私を追ってくればいい。私は逃げも隠れもしないわ」
残響が、余韻となって辺りを漂った。
「あはははは! 芽依ちゃんってほんと面白い!」
闇の中に反響する笑い声。
「こんなときでも私が自分で何とかすると信じてるんだ。ふふっ、こんなとこで寝てるだけなのにね」
宝生ひかりの姿を模した少女は、薄墨色の髪を払って天井を仰ぐ。ほんの少し、何も映さない場所を見つめ、ふと思い出したように再び指先に力を込めた。
十指そのすべてが、安らかに目を閉じた少女の首に深く食い込んでいた。
「死ね。死ね。死ね。死ね! さっさと死んじゃえ・・・・・・!!」
呪いを吐きながら、少女は無心で首を絞めた。
人ひとりが絞殺されるのに十分な時間が経ってから、少女は指を解いた。
「気は済んだ?」
唐突に、宝生ひかりが話しかけた。
少女は驚きに双眸を見開いた。
宝生ひかりの本体であるはずの少女は瞼を閉じたまま、唇も動かしていない。
ならば、一体誰が喋ったというのか?
簡単な消去法に少女が気付く。この場には二人しかいないのだから。
「そうだよ。私が宝生ひかりだよ」少女が明言する。
「一体、いつから・・・・・・!?」少女が驚愕する。
「なに言ってるの? 最初からだよ。ここには最初から一人しかいないんだから。
アナタの独白は、全部私自身の言葉だよ。本当は全部分かってた。ただ目を逸らしてただけ」
「まだだよ。まだ終わってない!」
少女が自らの首に手を掛ける。
「うん。そうだね。まだ、終わってない」
パラパラパラと、まるで乾いた塗料が剥がれ落ちるように薄墨色の髪が割れ、中から本来の亜麻色が覗く。
「だから、あたしは――」
蛇は崩落の衝撃と獅子の分離から立ち直りつつあった。蛇はゆるりと瓦礫から這い出すと、次なる標的を求めて地下施設の壁面に刃を突き立てた。その瞬間だった。
蛇の背に空いた大穴から、一条の光が突き抜けた。
天を突くように高くそびえる光源、その頂点には、白光に包まれた制服姿の少女。
宝生ひかりが空に放り出されたまま叫んだ。
「――ベルケムッ!」
呼び掛けより早く、蒼炎の鷹は一直線に駆け上っていた。
ひかりは自由落下する。相対距離は一気に縮まり、両者は激突。蒼炎の鷹は四散し、白い決闘装束を纏ったひかりが出現した。
「ごめんね。待たせちゃって。大丈夫だった?」
ひかりは手元の刻印装具《魔法辞典》に語りかける。
「問題ない。多少やられただけだ。そちらの状態はどうだ?」
《魔法辞典》の中央に収まったベルケムは事なげに答える。
「言われたい放題だよ。でも、このままじゃ終わらない。私、超本気出すから。芽依ちゃんはどこ?」
「リン・ヴィルヘルハルムから分離した個体を追跡中だ。あの様子なら、異世界内で補足するだろう。それより、あの蛇にはアンバーが捕らわれている。彼女の確保が先決だ」
すぐにでも追いかけようとするひかりへ、ベルケムは鋭く指摘した。
「・・・・・・自分を殺そうとした相手を助ける義務って、あるのかな?」
ひかりは眉根を寄せ、苦々しい表情を浮かべた。
「あくまで情報目的だ。アンバーは邪神官と繋がっていた。どうやって協力を取り付けられたのかが知りたい」
「そんなの――」
否定しかけて、ひかりは最悪の可能性に至る。
「そうだ。聖霊の中に背信者がいる可能性がある。現状ではアンバーの契約者であり、長期に渡り連絡の取れないアラリスが最有力だが、問題は、敵が本当にアラリス一柱かどうかだ」
ひかりは、以前にベルケムより受けた説明を思い出す。説明の要旨はこうだ。
この世界に渡って来た聖霊は五体であること。
各自が精霊界における国の代表であること。
全員が知己であり、同じ目的をもっていること。
よくよく考えれば、“精霊界を救うため、この世界を救う”という目的は同じであっても、実現手段が同じである必要はない。
つまり、今この場にいない三体の中に敵がいないとは言い切れない。ジュエリストの少女が聖霊の思惑を知らない可能性さえあるのだから。
黒岩芽依の相棒のように、存在すら把握していない精霊が関与していたケースすらある。既に例外が存在する以上、あらゆる可能性を疑って掛かるべきだろう。
「仲間が背中から撃たれないよう、まずは事実関係を把握したい。その代わりといっては何だが、後の対応順序は君に一任していい」
ベルケムの正論に、ひかりはぐうの音も出ない。
ジュエリストの中に敵がいる――その可能性を考えるだけで空恐ろしかったが、何より、信じた仲間を疑わなければならないことが、ひかりには辛かった。
「分かった。早く片づけちゃおう」
言うやいなや、ひかりは内なる精霊力を爆発的に高めた。
「早まるな。あの蛇の表皮は精霊力による攻撃を無効化する。アンバーもそれで破れたようなものだ。対処に何か物理的手段を講じる必要がある」
「物理的か――うん。何とかなるかも」
「それは、中のアンバーの無事を保証できるものか?」
あっさりと答えを導くひかりに、ベルケムは泡を食ったように認識を促す。
「多分。さっきのベルケムの話しだと、情報が手に入ればいいんでしょ?」
その一言は、暗に”即死させなければ良い”と宣言しているようで、聞く方を不安がらせた。
「大丈夫。私、超超本気だすし。サポートお願いね。ベルケム」
ひかりは本気だった。その言葉には信念が込められていて、溢れる精霊力に微塵の偽りもない。
こうなったときのひかりに対し、ベルケムは何の不安も抱かない。
ただ一つ、精霊界への被害のみを憂いた。
「《超越走行》!!」
瞬間、決闘装束の放つ大陽の如き輝きが胸の一点に収束した。
ひかりは刻印装具を手放し、二つの手でそれを優しく包み込む。
瞬く間に、決闘装束が形を変える。
大きな帽子がサークレットになり、中に隠れていた長い髪は一つ結びで纏められている。
ふわりとしたケープが、同色の軽装甲冑として生まれ変わっていた。
変化は外見だけに留まらない。刻印装具までもが形状を変えていた。
一見して装飾用の剣だ。ところが、剣にとって最も重要な部位である剣身がなかった。
透明化しているのではなく、本当に付いていない。敵を倒す意志をまるで感じさせなかった。
鍔の辺りで、宝石化したベルケムが唸りを上げた。
ひかりの相棒であるベルケムも、《超越走行》の実行は初めての体験だったが、予想を遙かに超えていた。
自己の同一性を体現する決闘装束の形状が変わったということは、内面においてそれに等しい変化が生じたということだ。
控え目で、言ってしまえば実用性は低いながら、武器と防具を/戦う意志を明確に現したのだ。
ベルケムが契約者を選定するにあたり必須条件として掲げた、『単独で邪神官を征する潜在力』を有しながら、これまで唯の一度も戦意を爆発させることのなかった少女が、初めてその真の力を解放しようとしていた。
ひかりが剣の柄を握ると、心臓の位置に刻まれた聖刻が発光。二方向へ文様が広がっていった。
一つは胴をなぞるように背を埋め尽くすと、肉体を離れ、中空に羽模様を描いた。
もう一方は、両肩を駆け上ると、指先まで達し、剣の握りを伝い、やはり中空に剣身を描く。
刻印が生み出した剣には目もくれず、ひかりはただ蛇だけを見据えた。
「行くよ」
そして空を螺旋状に滑り落ちる。多彩な残像が、軌跡となって実体を追いかけた。
「Le déchiquetée est bon à(千切りは得意だから)!」
気合いと共に、空から剣を振り下ろした。
――斬!
あたかも写真をカッターで二つに切ったかの如く、何もない空間に線が入った。
蛇の頭部、及び胴体の一部がほんの数ミリ、左右にずれた直後だった。
――斬!斬!斬!
遅れてやってきた残像が、次々と剣を振り下ろしていった。
――斬/斬/斬/斬/斬/斬!
残像は後になればなるほど間隔が短く、実体と異なる振る舞いをした。
――斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬!
切り口は実体から左右に広がり、言葉通り千切りのような有様となる。
一間置き、幾重にも薄くスライスされた蛇は自重によって左右に別れ、そして形を留め置くことができず溶解した。
地下施設の一面に、乾留液のような真っ黒な液体が飛散/拡散した。
その光景は、一縷の希望さえ塗りつぶすようで、聖霊たるベルケムでさえ、声を絞り出すことが出来ずにいた。
そんな相棒の隠した感情を読みとったように、ひかりがある一点を指さした。
「大丈夫だよ。ほら、あそこ」
ひかりが示した先には、決闘装束を失い、普段着に戻ったアンバーが黒い液体に身を浸していた。
「・・・・・・君には、こうなることが分かっていたのか?」
「うん。蛇に飲まれた後、揺れたり、何かに触れた感じが全然しなかったから、“多分、別の空間なんだ”って思った。アンバーが別の空間に閉じ込められてるなら、この次元を切って別の次元に繋いだりしても大丈夫って分かったから」
“精霊力による攻撃が無効化されるなら、空間そのものを斬ってしまえばいい”と語る相棒に、ベルケムは頼もしさよりも、恐ろしさを感じずにはいられなかった。
使い方を誤れば、本当に世界を滅ぼしかねない。そんな危うさを抱え込むより、眠らせたままでいる方が正しい選択であったのではないかと思えるほどに。
「よし、それじゃあ、拘束してどこかに――」ひかりの思惑を越えて、
「ひかり、君は――」ベルケムの苦悩を余所に、
「残念だが、彼女は渡せない」
黒い革靴が、乾留液に波紋を広げた。
地上から舞い降りたのでもなければ、どこかに隠れていたのでもない。そんな気配はどこにもなかった。長身の男は、何も無いところから現れた。
ひかりは、その男に見覚えがあった。無造作に流した飴色の髪に黒スーツ姿と、出会ったときと出で立ちはやや異なるが、夢乃や七海と買い物に行ったあの日、駅で”戦え”とだけ告げて消えた謎の人物に間違いなかった。
一番先に相談すべき相棒の不在と、ケンカした直後で夢乃らにも相談できず消化不良となっていた事案が、まさかのタイミングで現れたのだった。
「警戒しろ、ひかり。アンバーの傍に何かいるぞ」
「・・・・・・ベルケムには、あの人が見えないの?」
「・・・・・・人だと? 人がいるのか?」
二人の認識にずれが生じたとき、男は足下で気を失ったままの少女を抱き上げていた。
男が見えずとも、アンバーが浮き上がったことでベルケムは状況を察した。
「確保しろ!」
ベルケムに言われるまでもなく、ひかりは動いていた。一瞬で男との距離を詰め、拳を振り抜く。例によって幾重もの残像がひかりの後を追って、拳を突き出した。
実体も虚像も、拳が空を切る。男は後ろに下がっていた。一間取ったところで残像による攻撃の前には無意味だ。幾つかの残像が空振りする刹那、後の残像は拳を途中で止め、回し蹴りを繰り出していた。上/中/下段の蹴りを同時防御など不可能だ。どう受けても男はジュエリストの蹴りで重傷となる――はずだった。
「え?」ひかりの驚き。
だがどうだ。男には掠りもしなかった。拳よりも延びる蹴り足を、男は足を動かすことなく躱していた。
後ろに飛んだ後、接地すると同時に後ろへ滑った――その表現が最も近しいはずだが、ひかりは激しい違和感を感じていた。
続け様に攻撃しようとするひかりへ、今度は男が反撃を繰り出した。
両手はアンバーを抱き抱えているため、当然、蹴りだった。
ひかりに顔面に食らいつく足先。男の蹴りは人間離れした速さだった。だが、ジュエリストの動体視力ともなれば、人間離れどころか、別次元だ。見るだけでなく、捕らえることすら容易い。
ひかりは両手で上段回し蹴りを掴みにいった。ところが、足下を鋭く払われ、転倒する。
まったく訳が分からなかった。だが怯むことなく、訳が分からないなりに、ひかりは考えた。
蹴りの軌道が変わったのではなく映り方が変わる、幻影/幻覚の類だと推察した。
ひかりが素早く起き上がると、男の右足が天を突くように振り上げられていた。
頭頂を割られぬよう受ける、そう思って手を上げた矢先、男の踵が真下から襲ってきた。
細い顎へ綺麗に入り、頭が跳ね上がった。ジュエリストほどではないにしろ、相当な破壊力のある蹴りに、身体ごと持っていかれた。
「避けろ!」
ベルケムがそう叫ぶ迄、ひかりは自分が蹴られたのだと気付かなかった。何故とか、どうやってとか考える前に、横っ飛びをしていた。
それで男の前蹴りは躱せたはずだったが、衝撃が背中からやって来た。
飛んでいるところを蹴られた。踏ん張りが利かないおかげで、ひかりは乾留液の池に突っ込み、転がった。転がりながら、蹴られた理由を考えた。一瞬で可能性に至り、慌てて距離を置いた。
「・・・・・・気付いたか。流石、ジュエリストの第一席に選ばれるだけはある」
ひかりが跳び退る様を眺めながら、男は無感情に賞賛した。
仕掛けて来る気配のない男に、ひかりは訝りながらも隙を探した。
「ねぇ・・・・・・“戦え”って、どういう意味?」
広がった間を埋めるように、ひかりが問うた。男の名前だとか目的だとか、そういうのは捨て置いてでも、投げ掛けられた言葉を返さずにはいられなかった。
「宝生ひかり、それはお前が決めるべきことだ」
「だったら――!」
禅問答のような解で、ひかりの意志は固まった。初めて出会ったとき、無条件で”敵”と結論付けた相手である。遠慮する理由はどこにもなかった。
ひかりはカードを並べるように手を払うと、男を囲うように、幾何学模様が描かれる。
残像がそれに倣い、囲いは半球状に展開された。どこにも逃げる隙などない。
「よせッ!」
ベルケムが制止する前に、砲撃が放たれていた。
コンマ秒で実体に倣った砲撃が繰り出され、幾重にも重なり、男の半径五メートルの地面を半球状に蒸発させていた。
煙がもくもくと立ち上る最中、ひかりとベルケムはしばし無言だった。
男とアンバーが砲撃から逃れたであろうことは、姿を目視せずとも精霊力を追えば明白だった。
程なく、ひかりは膝から崩れた。
同時に、決闘装束が騎士風のスタイルから、元のローブ姿へ戻った。
「ひかりッ!」
「流石に、ちょっと、疲れた・・・・・・かな? でも大丈夫だから。心配しないで。アンバーの件は、皆で話し合って決めよう。私ね――」「今はいい。喋らず、少し休息を取れ」
地に両手を付いてでも言葉を尽くそうとするひかりを、ベルケムは優しく諭した。
これまでの宝生ひかりだったらその言葉に従っていただろう。ベルケムの判断は、いつだって、どうしようもなく正しかったから。
だから、きっと今回も休息に努めて、芽依があの獅子を仕留めてから合流するのが、後の対応をやりやすくする合理的な選択なのだろう。
しかし、ひかりはあえて助言を受け入れなかった。
「ベルケム。芽依ちゃんってさ、絶対、止まらなかったでしょ?」
笑ってしまうほどに震える手足を、転ばぬよう懸命に支えて立ち上がった。
今は少しでも前に進みたかった。いつだって前を行く”黒岩芽依”に追い付きたい、その想いだけが、ボロボロになった身体を動かしていた。
精霊たるベルケムには、相棒の選択は不合理にしか映らなかった。反対することも、言いくるめることも簡単に思えた。
「いいだろう。ここは一つ、芽依を追いかけるとしよう」
だが、ひかりの意志を尊重した。善意や道義に準じて受動的な選択を繰り返して来た少女が、初めて感情を剥き出しにしている。
黒岩芽依は”感情のままに生きる”と明言した。そして、大きな結果を出した。
宝生ひかりもまた感情に従おうとしているのであれば、不合理だったとしても、その選択を見届ける責任があるのだと、ベルケムは信じた。
「ひかり、彼女は使えるものは何でも使う主義だった。もし彼女に倣うのであれば、私という存在を使い倒すといい」
重厚で、渋みのある声が、ひかりの耳を心地よく揺らした。
「了~解ッ!」
明るく返事をして、ひかりは暗澹として映る空へ、飛び出していった。
「墜ちろッ!」
雲の切れ間から、雷光にその身を変えた芽依が現れ、リン・ヴィルヘルハルムから分離した獅子を打ち抜いた。
その鋭さは、さながら稲妻だ。ひたすら街の外を目指して逃げた獅子は、一撃の下に、広大な田んぼの真っ只中へ撃ち落とされた。
この辺りは小桜市の北東部に残存する田園地帯で、辺り一面、刈り入れを待つばかりの稲穂が重くなった頭を垂れていた。
普段なら田舎の風情を感じさせる場面であっても、色彩の抜けた景色に異形の怪物とあっては、感性の働く機会もなかった。
姿を現したときより溶け落ちていた腐肉は、飛翔の風圧によってすっかり飛散しており、見る影もない骸骨姿と成り果てていた。
『芽依。どうやら、あれがリン・ヴィルヘルハルムの核みたいだね』
骨格標本の様相を呈する獅子の頭蓋骨に、黒い光を放つ球が見えた。
ネオアンガーは銀の球が小核だった。その親玉たる邪神官にも核があっても不思議がる話しではない。
「人間の女性を模した部位が話しかけていたものだから、てっきり倒したとばかり思っていたけど、どうやら見立てが甘かったみたいね。ネオアンガーと同じで、核を破壊しない限り幾度でも復活する可能性がある」
翼を持った獅子――改め”生ける骸骨”は、よろめきながら起き上がり、ゆっくり芽依の周囲を歩き出した。
さながら獲物を仕留めんとする獅子のようだったが、その実、逃げだそうと画策する猫であることを、芽依は見抜いていた。
よって、あえて棒立ちとなって隙を与え、相手の攻撃を誘った。
「どうしたの? アナタは邪神官、『艶羨』のリン・ヴィルヘルハルムなのでしょう? あの威厳はどこへ行ってしまったの? 最後まで堂々と戦ってみせて。私を失望させないで」
会話が成立するとは思っていなかったが、芽依はあえて挑発した。
どんな怪物が相手であっても、知性を踏みにじることは恥ずべき行為だと思うその一方で、闇雲に長引かせて異世界の侵食を拡大させる訳にもいかなかった。
すべては早期決着のため、取れる手段は何でも取るべきだという信念が芽依にはあった。
様子見が長引き、芽依から仕掛けようかと考え出した頃だった。
<ああ、口惜しや・・・・・・、口惜しや・・・・・・この我が、よもや、このようなところで終わろうとは>
耳ではなく、脳を引っかくように響かせるその発声は、ギリアムと同じものだった。
「リン・ヴィルヘルハルム。アナタ達は何故この世界を侵略しようとするの?」
芽依の問いに対し、リン・ヴィルヘルハルムは呵々と笑った。
<分からんだろうなぁ、我の意義など。ああ、分かるまいて。我らの怒り、妬み、嘆き。何一つ分からんだろうなぁ>
『芽依。戯言に耳を貸してはダメよ』
「教えて。私たちに歩み寄る選択肢はないの?」
『芽依!』
<ロー・デルヌス老、デュ・ドヴァイク候・・・・・・後のことはよしなに>
短く言い残し、骸骨は天を仰いだ。
核たる球体が、頭蓋骨より咽頭へ落ちてきたところで、頭蓋骨を振って口から吐き出した。
そして、稲の間に転がった核に、骸骨は自らの牙を突き立てた。
芽依の目には、覚悟を決めた邪神官が自決を計ったように映った。ところが、
『・・・・・・!?』
球体から、一筋の黒い光が漏れる。
『逃げて!』手元から警告。
空間を震わせ、一気に膨張する闇の筋。
『ダメ、押さえ込んで!』
鮮やかな掌返しにも、芽依は的確に答えた。一瞬でダイヤの輝きを再現し、闇を相殺する。
目と鼻の先で唐突に開始された闇と光の攻防に、芽依の刻印装具が揺れに揺れた。
『マズいわ芽依』
「私の出した料理が美味しくないみたいな言い方はよして」
『冗談は抜きでいきましょう。この状況は大問題よ』
「端的に言って貰える? 見ての通り、今、かなりよろしくない状況よ」
『リン・ヴィルヘルハルムの核が崩壊したことによって、この異世界に流れ込んでいた精霊界の惰気が噴出しようとしている』
「意味が分からない」
『要するに、異世界という名の風船を膨らませていた空気が、穴が開いて一気に抜け出そうとしているってこと。問題は、その空気が正しい手順を踏まないと、活性化しないという点ね』
「正しい手順? もしかして・・・・・・」
『そ。中央制御核の破壊。中央制御核は、空気が逃げていかないよう魔法のゴム――精霊力の膜を張っている。これが物体を加速的に腐敗させる性質を持つ惰気と混じると、効果が反転し、物体の時間が急激に巻き戻ったような現象が生じる』
「空気の抜けた状態で膜を破っても街は元に戻らない――冗談じゃない」
『だから言ったじゃない。冗談抜きだって』
「止める方法は!?」
『その割れかけの核を完全に消滅させる。それだけだよ。あるいは、今この瞬間に中央制御核を破壊するでも構わない。まあ、そっちは望み薄よね』
芽依は出力を上げるが、押し返す力の方が勢いを増しつつあった。どう見立てても、あと数十秒で押し切られる。
芽依は歯を食いしばって堪えた。
『芽依の特性は創意工夫であって力技じゃない。だから、そういうのはあっちに任せよ?』
瞬間の閃き。
「ひかり――――――!」
芽依は、力の限りその名を叫んだ。
瞬間、芽依が放出していた量の十倍にも相当する光が、天井から降り注いだ。
いつか芽依が見たのと同じ、視界を埋め尽くす輝き。
憧れて、追いかけて、掴み損ねた煌めきが、再び芽依を包んだ。
闇を放っていた核は光に飲み込まれ、完全に消滅した。
ジュエリストの最大の敵である邪神官、その一柱である『艶羨』のリン・ヴィルヘルハルムは、ここに消滅した。
「芽依ちゃん! 大丈夫!?」
ひかりが空から慌てて降りてきた。芽依に触れようとした寸でのところで、芽依がやんわりと押し返した。
「問題だらけで今にも倒れそうだから触らないで」
冗談のような本気の言葉に、いつもの剣呑さはなかった。
「芽依ちゃん。私ね、芽依ちゃんに言いたいことがある。文句も、言い訳も、愚痴も、悩みも、あとは・・・・・・、ちっちゃいこととか、何でもないこととか、オチのない話とか、いっぱい。そうだよ、いっぱい! ありすぎて困ってる。だから、話を聞いて! 私の話を!」
一気にまくし立てられても、芽依は眉一つ動かさなかった。
「そんなことより、この戦いを先に――」「ダメだよ!」
ひかりはムキになって否定した。
「アナタ、状況が分かってるの?」
「分かってる。でも私にとってこっちも同じくらい大切なの!」
真っ直ぐな眼差しが芽依を貫いた。
梃子でも動きそうにない様に、芽依はあっさりと折れる。今は言い争う気力もなければ時間もなかった。
「考えておくわ」「いつ!?」
「この戦いが終わったら」「具体的には!?」
「昼休みにでも」「少ないよ!」
「なら放課後で」「全然足んない!」
「・・・・・・一体どれだけあればいいの?」
「毎日! ずっとだよ! だって伝えたいこと、毎日増えてくもん!」
芽依は呆れてものが言えなかった。
毎日、愚痴やオチのない話を延々と聞かされなくてはいけないなんて、どんな罰ゲームだ。
(いや、それでいいのか。もう白月中学には通わないのだから)
芽依はふと思い付いた上策を披露する。
「いいわ。同じクラスでいる間は、喜んでアナタの話を聞かせて貰う。それで構わないでしょ?」
「・・・・・・絶対だからね。約束だよ?」
ひかりは純真無垢な笑顔を浮かべた。こんな些細な約束を、本気で心から喜んでいるようだった。
芽依は悪魔の微笑で答えようとしたが、結局、苦笑いしかできなかった。
芽依は約束は破っても、ひかりの気持ちを裏切るつもりもなかった。
今、約束を果たすとは断じて言えない。
多分、これから気持ちの整理をつけて、新たな場所で落ち着いた生活をして。
いつか、また同じ屋根の下で出会えたその時は。
(きっと、笑顔で)
芽依は胸の奥で疼く想いを振り払い、前を見た。
田園風景の遙か先で、激しく瞬くジュエリストの光があった。
「ダイヤ。私は中央制御核の破壊に行く。アナタはどうする?」
「もちろん行くよ。皆、きっと苦戦してると思うし。助けにいかなきゃ!」
芽依は無言で移動の構えを取った。
「あ!」ひかりの大声。
芽依が驚いて振り向いた。
「ダイヤにルビー、サファイア、エメラルド・・・・・・だったら、芽依ちゃんはアレキサンドライト?」
「・・・・・・却下。長い。呼びにくい。煩わしい」にべもなく。
ネーミングセンスを否定され、悲壮感を丸出しにするひかり。
芽依の手元でも、刻印装具に収まった宝石が、悲嘆に暮れたように、密やかな薄紅色から、しめやかな群青色へ移りゆく。
だが、少し前の芽依なら、“ごっこなんてしない”と、頭ごなしに否定していたことだろう。幾らかマシになったはずなのに、他人の要求は当人が思うよりずっと高いらしい。
芽依は深呼吸を一つ。
「“アレク”――それでいいでしょ?」
短く言い捨て、逃げるように灰色の空へ飛び込んだ。
小桜市のほぼ全域を覆った異世界が砕けたとき、ギリアムは、リン・ヴィルヘルハルムの現れたビル――小桜市市役所の屋上から、街が修復されていく様を見届けていた。
<はン? ようやく中央制御核を倒したのか。まぁ、こんな街どうなっても知ったこっちゃないがな。問題は力の宝珠だよ、力の宝珠! 芽依がくたばりかけたっていうのに、片鱗すら感じられねぇーとはな。
ふン。アイツの言葉に期待しすぎた俺がマヌケってだけだ。別に恨んじゃいないぜ>
ひと一人いない空間で、ギリアムはギザったらしくポーズを決めながら独白した。
続けてぶつぶつと何某か呟いた後、急に後ろを振り向いて、吸盤の付いた長い指先をピッと突き立てた。
<うえぁあぁおぉッ!?>
蛙似の怪物が、喉を振り絞るように絶叫した。
無理もない。無意味に格好つけてターンしただけなのに、目と鼻の先に人が立っていれば誰でも慌てるだろう。
その意味で男の胆力は大したものだった。ギリアムの容貌や絶叫に怯むことなく、泰然としている。それに男の腕に抱かれた少女も気付いたふうではない。どうやら気を失っているようだった。
ギリアムの驚きだけが途切れなかった。
<・・・・・・王国神官のアンタが、何故この世界にいる? それに、その娘っ子はジュエリストのアンバーか?>
「贖罪の騎士ギリアム、喜ぶといい。ついに力の宝珠が見つかった」
その一言は、ギリアムがにわかに抱いた疑念と反感をいっそう深く刻みつけた。
<この世界を訪れてから随分と時が経ったが、俺は未だにかの秘宝の気配すら掴めちゃいない。どうしてひょっこり現れたアンタがその情報を持っている>
「それを知ってどうなる。お前が知るべきは、お前の契約者である黒岩芽依が、力の宝珠を手中に収めたという事実だ」
ギリアムは翻弄される。一体いつ、芽依が力の宝珠を手に入れたというのか。少なくとも今日までは入手していない。先の戦いで変貌を見せたが、それが力の宝珠によるものだとどうしてわかる。それ以前に、何故この男は芽依を知っている。自分を監視していたのか。それとも――。
ギリアムの疑念は解けるどころか、際限なく膨らんだ。
(そもそも、どうやってコイツは界門を越えた? 神官如きがそんな超高度な法術が使えるはず――いや、待て。おかしいぞ。何故、その姿でいられる?)
精霊界の物質は、この世界では変質せずにはいられない。精霊の法術でも、完全に形を留めておくことは不可能だ。
正規の使者である聖霊ですら、実体を得てなお不安定に揺らいでいる。
非正規の密入者であるギリアムなど、ネオアンガーと同じ呪いを浴びることで実体を得なければならなかった。
ところが、男の風貌のすべてが、ギリアムの記憶と合致した。
長身痩躯、飴色の髪、彫りの深い顔立ちに、生気の感じられない双眸。違いらしい違いといえば、この世界の衣服である黒スーツくらいだった。
(アイツの話じゃないが、こりゃ間違いなく踊らされるな・・・・・・)
ギリアムは薄々と感じていた自分の置かれた立場を、今はっきりと自覚した。
だが、例え自分が操り人形だと分かっていても、ギリアムにこの喜劇を降りるという選択肢はなかった。
力の宝珠を精霊界に持ち帰る――それだけが、地位も名誉も、誇りすら捨て去った男に残された意地だった。
<アンタ、一体俺に何をさせる気だ? 最初に言っとくがな、力の宝珠を手に入れたいってンなら他を当たれ。アイツがみすみす渡す訳なかろうから俺に接触して来たンだろうがな、生憎と俺は失うものがねぇ。命を取られたって渡さンぞ>
ギリアムは剥き出しの敵意を突きつける。
男の唇が開きかけた、その瞬間だった。
「ぅ・・・・・・、」
アンバーが、微かに苦悶の声を漏らした。
「え・・・・・・? 先生?」
見上げた先が見知った顔だと知った途端、少女は身動ぎした。そして、お姫様抱っこをされていると分かると、頭を振って暴れた。
「え? え? 私、やだ! 何で、こんな・・・・・・!」
「花音。今はまだ眠るといい」
そう言って、男は少女の頭を静かに撫でる。それだけで、少女は目を閉じ、眠りに落ちた。
少女の初々しい狼狽に、ギリアムの醸した剣呑な空気は薄れていた。
次の言葉を探して目を凝らすギリアムに、男は感情の宿らない微笑を浮かべる。
「私は、力の宝珠そのものに興味はない。彼女が真に手中に収めたそのときは、譲り受けるなり、奪い取るなり好きにしたらいい」
<何だと?>
「アレはまだ生まれて間もない。健やかな成長を促す手助けがいる」
<それが俺の役割だと? 赤子のお守りか。笑えない冗談だな>
「力の宝珠の成長とは、《起源者》である黒岩芽依の成長に他ならない。お前の存在意義は彼女に試練を与え、窮地へと誘うことだ。それが力の宝珠を完成させる近道になる」
<俺はアンタに恩義がある。アンタの思惑はどうあれ、この世界に来れたのはアンタのお陰さ。けどな、アイツの敵は俺の敵だ。アイツは”俺の敵は味方”とかムカつくことを言うだろうがな。俺は自分の契約者を裏切らないのさ。
・・・・・・別にアイツがおっかないとか、そういうンじゃないからなッ!>
「それで良い、自らの信念に殉じる騎士ギリアムよ。だが、もしも彼女が最後の勝者たらんと願うなら、“きせら”の話しを聞くといい」
<おい、話しは終わってないぞ! 待ちやがれ!>
男は踵を返し、入れ替わるように、暗がりから女が現れた。
ギリアムは近付いて来る女に目を奪われた。男が既に姿を消していることに気付かなかったほど魅入られていた。
それだけ女は美しかった。それこそ作り物のように。
背が高く、豊麗な体つきをしているが、顔立ちはまだ幼い。よくできたマネキンに魂を吹き込んだかのような、奇跡的な造形美の持ち主だった。
芽依よりやや年上かと思わせる少女に、ギリアムの丸まった背筋がピンと伸びた。
何も少女の醸す色香にやられた訳ではない。その証拠に、ギリアムの滑った肌にイボが一斉に立っていた。高まる緊張感に、全身からべとついた脂汗が止まらない。
芽依とのやりとりで磨かれたギリアムの感性が、容姿などどうでも良くなるくらい、それこそジュエリスト級に超危険人物と告げていた。
「こんにちわ、ブサイクな蛙さん。私は縁野きせら。アヴァロンのリーダーで、君の新しいご主人様。ふふふ、カーウェインから話しは聞いてるわ。安心して。君の願いはきせらが叶えてあげる。前の飼い主さんへの仕返しから、精霊界への復讐までぜぇーんぶ。だから、ね。仲良くしましょ?」
きせらのガラス玉のような瞳が、ギリアムを見つめる。脂汗が、滝のように吹き出した。
<・・・・・・ぉぅ>
ギリアムが絞り出した回答はか細い。
きせらは満足げに笑った。無邪気で、人形のように心の宿らない笑みだった。
「じゃあ、行こっか。早速、みんなに紹介しなくちゃ」
きせらが指をパチンと鳴らすと、ギリアムは繋がれた糸が切れたように倒れた。
大の字に寝そべって動かなくなった蛙擬きを見つめ、きせらは笑みはいっそう深くなった。
「みなさん、もっと早く走ってくださいまし! あと、三分で遅刻ですわ!」
秋の乾いた空気を割るように、鳳小夜の喝が響く。
白月中学校のグラウンドに沿って敷かれた道路を、制服姿の少女たちが駆けていた。
「もう諦めようぜ・・・・・・っつーか、遅刻ったって、どうせ一限目には間に合うんだから、別に問題ないだろ。かったりーな」
先頭から振り返る小夜の形相に、うんざりとした様子で御剣七海が言う。
もう随分と走りっぱなしで、口の中は既に鉄の味が充満していた。教室に駆け込むにしても、一息つきたいところだった。
「だね、ちょっと、休憩したい・・・・・・、かも」
七海の隣を走る吉岡夢乃が、控え目に賛成した。
「だよな? アイツ、やっぱ馬鹿だよな?」
「え? 馬鹿? どう、なのんだろ。そうなの・・・・・・、かな?」
しれっと悪口を挟まれ、夢乃は答えに困る。
「いいんだよ、こういうときはノリで答えときゃ」
「夢乃! 騙されてはいけませんわ! 学校のルールを守るのが生徒たるわたくしたちの義務。その女の妄言にいちいち付き合っていたら、風紀は乱れ、無秩序で荒廃した未来が確定してしまいます!」
「・・・・・・やっぱ、馬鹿じゃん」
七海は呆れ加減に天を仰いだ。左右を住宅に挟まれたせいで狭かったが、薄水色の空は、高いところに薄雲があるばかりで、とても晴れやかだった。
誰にとっても爽快な朝だったが、少女たちにはそれを味わう余裕がなかった。
ようやく学校の正門に到着したのは、ホームルーム開始の二分前。時間内に教室の扉をくぐれるかどうか、瀬戸際のところだった。
一番先に到着した小夜が、腕時計の秒針を睨みつけていた。
「・・・・・・わたくしが遅刻? 就学してより無遅刻無欠席を貫いてきたこのわたくしが!?」
息を整えながら、苛立たしげにつま先で地面を叩き始めた頃、
「ふ~、やっと到着かよ。しんどぉ~」
「流石に、ちょっと、疲れたね」
七海と夢乃とが、学校の敷地を跨いだ。
正門付近にもう生徒は見当たらない。開け放たれた校舎の窓から、ざわめきが聞こえるばかりだ。すぐにでも校門を締め切りに教師が来ることだろう。
七海がはだけたシャツで胸元を扇いでいると、夢乃が自分にはない深い谷間に、目を丸くして眺めていた。
「ん? 何?」
「何でもッ!」
七海が素朴な目で夢乃を見上げると、夢乃は慌ててそっぽを向いた。ばったり、小夜と目がかち合う。
息も上がっておらず、大して疲れた様子もない夢乃に、小夜は目つきを鋭くする。
「それにしても、吉岡さんは本当に持久力がありますわね。本当に何も運動をやっていないのですか?」
夢乃は重ねられた単語に小夜の真剣具合を垣間見た。
「え、うん。でも、軽く、流して走ってただけだから、そんな・・・・・・」
飾ることなく答えると、今度は小夜が目を丸くする番だった。
「軽く、ねぇ? ま、アイツよりはあるのは確実だわな」
しゃがみ込んだ七海が、背中越しに後方を指さした。
遙か彼方に、米粒大の宝生ひかりがいた。
「み、みんな~、待ってよぉ~」
情けない声を上げ、よたよた走っていた。足腰がすっかりダメになっていて、右へ左へ柳のように揺れていた。
「ひかり! 急いでください! 私の記録はアナタの両足にかかってるのですよ!」
小夜が発破をかければ、すかさず七海が脇を突く。
「なぁ。そんなに自分が大事なら、先に行けよ。別に誰も止めやしないぞ?」
「何を言ってるのです! そうやって互いを置き去りにしたから、先の戦いでは大・大・大苦戦を強いられのでしょう! もうお忘れですか。本当に鳥頭ですわね、アナタという人は。私達はもう、否が応でも仲間なんです。こういった基本的なところからきちんとフォローしあわなくてどうするのです!」
コクンコクンと小動物的に頷く夢乃。
「ひかりと芽依ちゃんが、助けに来てくれてからは、スッゴく早かった、よね」
七海は僅かにムッとし、そして何かを諦めたようにそっと目を瞑った。
「あ~マジで今日はダルい。アタシも芽依みたいにふけりゃ良かったな」
「彼女はアナタと違って手抜きなどいたしません。一緒に来なかったのも制服がダメになってしまったからであって、着替えて登校するに決まっていますわ」
戦いを終えた芽依の格好は酷いものだった。血と汗と泥にまみれ、あちらこちらが破れ、擦り切れ、見れたものではなかった。
身体の傷は決闘装束によって癒される。ところが、衣服への被害は、聖刻が”精霊力の改変に対する抵抗力”を遺憾なく発揮するおかげで修復されなかった。
「そうか? 聞いた限りじゃ、その辺でぶっ倒れててもおかしくないと思うけどな。そもそも、来るって話し聞いたのか?」
七海はすっかり元の姿を取り戻した校舎を眺めて呟く。
これまでに類を見ない規模で破壊された街並みは、概ね元に復元していた。
これらは芽依を始めとし、ジュエリストが復元しきらなかった箇所を積極的に補修したお陰だった。
そして、こうして彼女達は走って登校する羽目になったのも、異世界が消滅する直前まで修復作業に従事していたせいでもあった。
聖霊たちはこの結果を”奇跡”だと口を揃えて言った。
異世界が破壊された後、聖霊達が成り行きを見守った限りでは人的被害は零だった。
被害らしい被害と言えば、リン・ヴィルヘルハルムの核が開けた穴から漏れた瘴気にさらされた稲が広い範囲で腐り落ちたことくらいだろう。
薄氷の上の勝利とはいえ、ロー・デルヌスの襲来時と比較したら雲泥の差だった。
「それは、明言された訳ではありませんが・・・・・・」
「なら賭けようぜ。芽依のヤツが今日登校するか。チップは昼飯のおかず一品。夢乃も乗れよ」七海のウィンク
「賭けごとはいいや。代わりに、クッキー作って来たから、みんなで食べよ?」
「おお、いいね。んで、お前はどうすんだよ。乗るのか、乗らないのか?」
「私はもちろん来る方に賭けます」
「んじゃ、アタシは来ない方だ」
両者が慢心の笑みを浮かべながらも視線で火花を散らす最中、犬のようにぜぇぜぇ息を切らしたひかりが、ようやく正門にたどり着く。
「み、みんな~、だから、待って、って。言った、じゃんか・・・・・・」
「おっし、行くか。教室ついたら賭けの話しすっから、楽しみにしておけよ」
「さぁ、あと一息です。倒れるのは教室に入ってからですわ! 頑張って!」
「お疲れ様。身体は大丈夫? どこか痛いところない?」
三者三様の労いに、ひかりは苦笑いを一つ。
そして足を緩める――正門をくぐる――ラストスパートをかける。
「あたしが、いッちばーん!!」
三人はキョトンとし、すぐさまひかりの背中を追いかけた。
正門から下駄箱の間の僅か数十メートルを、四人の少女たちは必死に/笑顔で競って駆け抜けた。
二年C組の教室に雪崩れ込んだ四人を待ち受けていたのは、沈んだ教室の空気だった。
「良かった。お前たち揃いも揃って来ないんじゃないかと思ったぞ」
早く座れ――と、教壇に立った担任教諭の浅見杏は、咎めることも、小言もなかった。
「全員揃ったところで、君たちに重要な知らせがある」
「はい、先生! まだ芽依ちゃんが来ていません!」
ひかりは戦い後の高揚感から抜けきっておらず、場の空気を読まずに挙手をした。
夢乃と小夜と七海は苦笑した。それ以外のクラスメイトはみな表情を無くしていた。
「ああ、黒岩はいいんだ」
浅見は柔らかく断りを入れた。それで四人は違和感の正体に気付いた。
「この様子だと既に聞いているやつもいるみたいだな。単刀直入に伝えるが、黒岩は本日付けでこの白月中学校から転校する」
浅見は淡々と告げ、驚きに目を見張る面々の中からひかりに目をやる。
「あと、宝生宛に手紙を預かってる。取りに来い」
あまりの衝撃に立ち上がれずにいる様子に、浅見の方から教壇を降りていった。
ひかりの脇に立ち、机の上にそっと封筒を差し置いた。
「転校の件は、本人から”週明けに公表して欲しい”と頼まれていたんだがな。担任に最後の挨拶もせず、置き手紙で済ませるようなヤツの頼みだからな。私は知らん」
ひかりは浅見を見上げる。
浅見は教師の風上に置けない、酷く意地の悪い/得意げな顔をしていた。
ひかりは急いで封を切り、洒落っけのない手紙を取り出すと、無心で読み始めた。
「黒岩の転校の理由は家庭の事情だから、私から詳しく話せることは特にない。一応、連絡先は聞いているから、知りたいやつは後で聞きに来い。個別に教えてやる。
電話で聞くような話しじゃない、踏み込んだ事情が知りたいやつは突っぱねられる覚悟を持って本人に聞け。それと――」クラス中を見渡す「この件に納得いかないやつは本人に直接クレームを入れろ。以上だ」
突然の出来事に、誰一人声を上げられなかった。
クラス中に慕われていた人物なら送別会の一つでも急遽企画されるのだろうが、二年C組にとって黒岩芽依は異物だった。
大多数の人間にとって別れを惜しまれるような存在ではなく、むしろ居なくなることで心休まる者がいるほどだった。
この奇妙な沈黙も、直ぐに空気に溶けて馴染んでいったことだろう。ところが、
「こんなの・・・・・・、こうだよっ!!」
二度、三度と手紙を読み終えたひかりが、あろうことか、便箋を沈黙ごと引き裂いた。
ビリッ、ビリッ、ビリッ、ビリッと、怒りの丈を現すかのように。
隣の席に座った夢乃は、次に起こるであろう無茶な展開が痛いほど読めてしまったせいで、大げさに額を指先でさり出した。
同じタイミングで、七海は声を殺しながら、腹を抱えて笑った。小夜はさっと携帯を取り出してどこかへ電話を掛けだした。
「先生ぇ! 宝生ひかりはクレームを入れるため早退します!」
「ああ、行って来い」
互いに許可を得る気もなければ止める気もない、心ある形だけのやり取りだった。
ひかりがロケットさながら席から飛んでいくと、次は夢乃が弱々しく手を上げる。
「先生・・・・・・、なんだか頭が痛くなって来たので、私も、早退します」
「ん? あぁ、分かった。気を付けてな」
意外と言えば意外な人物がくっついていくな、と浅見が思えば、意外でも何ともない人物が挙手をした。
「先生! ぷっ・・・・・・くっくく・・・・・・あはは! 腹、腹が、痛い・・・・・・早退」
「・・・・・・まぁ、いいだろう」
どうせ止めても無駄だろうから浅見は止めない。
それはわざわざ目立つよう、大げさに通話を止める動きを見せる生徒に対しても同様だった。
小夜は携帯電話をスカートのポケットにしまい込むと、ガタッ! と勢い良く起立。
「先生ッ!」「分かった。理由は聞かないから。行ってこい」
ノータイムで許可すると、小夜は不快そうに眉根を寄せた。
「先生・・・・・・! わたくしには歴とした理由があります! 体調不良などではありません! どうかお聞きください!」
「・・・・・・何だ。言ってみろ」
「先ほど、わたくしの電話に親戚筋の、幼い頃より大変お世話になっている、ともすると――いえ、間違いなく私の両親よりも親しくさせて頂いている方が、たった今、病院に担ぎ込まれたという連絡がありました!」
それがなにか?――というクラスメイトの視線を、小夜は華麗に無視。浅見が固唾を飲んで見守る最中、欧米的な身振り手振りで熱弁を振るい始める。
「いえ・・・・・・、この情報の真偽は未だはっきりしかねる次第なのですが、わたくし、居ても立ってもいられず、白黒はっきりさせるまでは勉学に集中できないと確信しており、そんな浮ついた気持ちではクラスの皆様方に迷惑を――(云々)」
「もういい。分かった。そこまで言うのなら、(しつこいから)行ってよし」
「ありがとうございます。病院に行って容態を確認し次第、改めて登校いたします。それでは失礼します」
小夜は両手を重ね、優雅に一礼して退室。教室の扉をきちんと締め切った直後、火のついた車のように猛然と廊下を走った。
――お待ちなさい! と、遠くから声が響いてくる。
浅見は凝った首回りを解しながら教壇へ戻った。
悪ノリで行動するのでなければ、幾らでも許可しようと思っていたのだが、その必要もなかった、というのが実際だった。
半分は呆気に取られたままだった。残りの者も、学校という縛りを簡単に逸脱できる者はそう多くはないということだ。
単純に、黒岩芽依と某かの友誼があるような人間がいなかったと、浅見は思いたくなかった。
浅見が把握しているだけで、少なからずいざこざはあったようだし、決して生徒同士の仲が良かったとは言えないが、それでも同じ教室の仲間だ。何より自分の生徒だ。いなくなるときくらい、人間味ある行動をとって欲しい。そう思ってしまうのは、教師としてのエゴなのか――浅見は自問する。
自分の生徒の一人がいなくなることを惜しむ人間が僅かでもいた。その半数は転校してきたばかりだった。
そんな現実を残念に思っているのか、ほっとしているのか、浅見はどちらとも言えない複雑な気持ちでいた。
そして、青春だな――と、しみじみ思う。とんだ甘酸っぱさに、枯れて久しい感性が刺激されたが、教師という立場上、浸ってばかりもいられない。
「よし、じゃあ朝のホームルームは終わるぞ! 一限目の準備しとけよ!」
いつもより多めに気合いを注入し、浅見は教室を後にした。
そして、今晩は誰かを誘って飲みに行こうと、胸に誓うのだった。
ゆっくり、ゆっくり、身体を引きずるようにして、芽依はようやく自宅である古びたアパートにたどり着いた。
途中何度立ち止まっただろう。何度倒れてしまおうかと思っただろう。
決闘装束を解除した後、戦いの疲労と負傷が一気にのし掛かって、まともに動けたものではなかった。
ひかり達とは身なりを理由に別行動を取ったが、本当のところは、唯、付いて行けなかっただけだった。
芽依は戦いを振り返り、今回も無茶をしたものだとしみじみと思う。
ひかりと戦い、アンバーと戦い、邪神官と戦い、中央制御核と戦った。どこにも余裕など無かったし、一歩選択を誤れば死んでいてもおかしくはなかった。
だが、どうにか生き残って此処にいる。ギリアムが言う”悪運”も、あながち間違いではないかも知れない。
不幸にまみれ、なお最悪を免れる運命――それを手放しで素晴らしいとは言えなかったが、あるだけ儲けものだ。
芽依はスカートのポケットから柔らかい石を取り出した。
刻一刻と色彩を変遷させる石など、この地上には存在しない。まして、意志を持って語りかけてくるなどあり得ない。
芽依は自宅の扉の前で立ち止まり、掌の中の石に語りかけた。
「アナタ、力の宝珠なのでしょ? 何故、私の中にいたの? いつから?」
決闘装束なしでは、相手の声は聞こえない。
芽依は答えは返って来ないと分かっていた。そして、どんな回答であっても、今更意味がないことも理解していた。
この扉をくぐればギリアムに譲渡する。そういう契約だ。
力の宝珠と話してみたい――芽依が初めて秘宝のことを聞かされたときの思い付きは、既に叶っていた。
何より、力の宝珠の恩恵は、これからの芽依にとって不要なものだ。
普通に生活をしていくのに特別など必要ないし、この街のことはひかりに託して問題ないと、先の戦いで確信が持てた。
ひかり以外のメンバーも随分と成長していた。結果的に、一人減ってしまったが、その分、結束は強まった。
アンバーと聖霊アラリスの問題は、追々解決することだろう。
気掛かりと言えば、アンバーを連れ去ったという謎の男の話しだ。ひかりの言う特徴からして、恐らくカーウェイン=ストレイマンのことだ。
あの男がアンバーと繋がっていた。その意味を、芽依はずっと考えていた。
その事実が、何を変えるのか。それとも何も変わらないのか。
誰かに相談したかった。あるいは力の宝珠なら、真実を照らすだろうか?
だとしても、それは今日、明日に解決する問題ではないし、もう自分の手の届かないところにある――そう芽依は自分に言い聞かせ、家の鍵を開く。
「ギリアム、いるの・・・・・・?」
人の気のない部屋に呼びかける。返事はなかった。
疲労困憊であの醜悪さを拝まずに済んだことは行幸だった。だが、行き違いは困ったことになる。
午後には家具を廃棄するため業者がやってくる。
夕方までに大家に鍵を引き渡すことになっている。
夜には現地で親戚と初対面することになっている。
新たな門出にトラブルは付き物だが、正直段取りが狂うのは今後を考えると避けたいところだった。
芽依はダイニングの椅子に座った。テーブルの上に力の宝珠を置き、見つめること一分未満。
(待つだけは待つ。けど、ギリアムが間に合わなかったら知るものか。力の宝珠は、ひかりの家のポストにでも投函しておけば問題ないわね)
方針を固め、そっと目を閉じた。
背もたれに身体を預け、脱力する。全身に痛みが広がり、満ちていった。
無性に横たわりたい欲求に駆られた。
(この際、床でも――いや、ダメだ。今、床に横たわったら絶対起きれない。そんなことは出来ない、そんなことをしたらどうなる)
葛藤が繰り広げられ、何度も自身を奮い立たせるが、身体が言うことを聞いてくれない。
瞼が重くなって、上げられなくなる。
意識が離れ、白んでいく。
――――起きて。
――起きて。芽依。
「芽依ッ!」
耳朶を打つ声に、芽依の意識は一気に覚醒した。
「ほら、お客さんだよ」
芽依の正面、ダイニングテーブルを挟んで反対側に座った少女を見た。
だが、それは芽依の見た幻にすぎなかった。
瞬きをすると、もうそこに少女の姿はない。なのに存在を感じるのだ。今もそこで微笑んでいるような、そんな気がしてならなかった。
そのとき、外から人の気配がした。しかも、聞き覚えのある声が幾つもあった。
「あの、不良教師・・・・・・!」
浅い眠りで鈍くなった頭が状況についていかなかったが、とにかく対応しないことには始まらない。
玄関の向こうでは何やら話し込んでいる。カチカチカチと、壊れてならないチャイムを連打していた。
土間を避けるように腕を伸ばし、扉のノブを掴む直前になって、芽依の手が止まる。
ふと、今更どの面下げて話しをしたらいいか、それを考えてしまった。
芽依が答えを出せないでいるまま、扉の前が静かになった。
諦めたものだと芽依が安堵した直後、ガチャッ! と無遠慮に扉が開け放たれた。
「っじゃましま~っす! お、いたいた。ほら見ろよ、やっぱいんじゃんかさ」
目が合うと、七海が軽くウィンクして、“許せ”という。
芽依は怒ることも笑うこともできず、目を逸らせるように、七海の後ろを見た。
困ったような顔をした小夜に、慌てふためく夢乃。そして、酷く不安げなひかり。
視線が絡むと、ひかりは一転して柳眉を逆立て、ズンズン前に出てきた。
七海を押しのけて玄関に突入。芽依と顔を付き合わせるなり、
「逃げるなッ!」
獅子の如く吠えた。
「アタシの知ってる黒岩芽依は、どんなときだって戦ってた! 何もしないままでなんてあり得ない! どれだけ苦しくたって素知らぬ顔で、いつもキレイだった!
だからアタシは黒岩芽依に憧れたんだ。黒岩芽依のように強くなりたかった!
近付きたくて、でも届かなくて・・・・・・今度こそ本当の友達になれると思ったのにッ!」
ライトブラウンの瞳に溜まって零れそうになる涙を、芽依はそっと指で拭い、優しく抱き締める。
「ごめんなさい、これまでのこと」
ひかりの涙が、粒となってこぼれ落ちた。
ポロポロ、ポロポロと止めどない。
「沢山、傷つけた。アナタのことを考えず押しつけたことも、ジュエリストになってからのことも。全部私のエゴだった。これからのこと、また押しつけることになっちゃうけど、どうか許して」
「ひっく・・・・・・、ダメだよぅ・・・・・・、ひっく。そんなの・・・・・・やだ、やだ、やだよぉ・・・・・・、ひっく、せっかく・・・・・・、ひっく。仲直り・・・・・・、できた、のに。そんなのぉ、ないよぉ・・・・・・」
泣きじゃくるひかりに、芽依の胸が酷く痛む。
家族を失ってからこれまでずっと支えていた心の澱が、堰を切って溢れそうになるのを、芽依はぐっと堪えた。
流される訳にはいかない。ここでしっかりケジメを付けなくては、必ず後悔する。
もう、後に残してはいけないのだから。
「ごめんなさい」
芽依は重ねて謝った。心を込めて。どうか受け入れて欲しいと願いを込めて。
その場の空気が沈み切って、誰もが沈痛な面もちになった頃合いだった。
「ねぇ、何が問題なの?」
どこからか、こざっぱりとした疑問が投げ込まれる。
誰が、とは誰も思わなかった。疑問は波打ち、皆に波紋を広げた。
まるで自分たちの胸に突き刺さったままの棘の正体に気付かされたようだった。
「・・・・・・えっと、お母さんと弟さんが、亡くなられて。それで」
夢乃が核心を浮き上がらせる。
「親がいないことが問題なのか? なら後見人がいれば問題解決じゃね?」
七海が何でもないことのように口走る。
「問題は保護者のことだけじゃ・・・・・・、お金もないわ」
芽依が歯切れ悪く答える。小夜が素早く矛盾を指摘する。
「あら? この間は資産があるように言っていた気がしますが、あれは嘘でしたの?」
「それは・・・・・・、学生が一人暮らしをしていくほどはないから」
「鳳が運営する財団に奨学金制度があります。これで学費分はクリアですわね」
「けど、家が――このアパート、今日で契約を切れるし・・・・・・」
芽依の声が、段々と小さくなっていく。戸惑っていたのだ。心境の変化に。
自分の中で、希望が芽吹くのを止められなかった。
「うちにイソーロー!」「うち部屋余ってるから貸すぞ」
ひかりと七海が同時に申し出た。
「でも生活費とか、色々・・・・・・」
最後の抵抗とばかりに、芽依が問題を積み上げる。
「私っ!」一際大きな声で、夢乃が手を上げた。
一同が何事か振り返った。
「その、服とか! 全然着ないうちに、ちっちゃくなっちゃったやつとか、捨てらんないのが、いっぱい余ってるし、少しでも芽依ちゃんの助けになるんだったら、使って欲しいの! 私、裁縫得意だし、少しくらいサイズが合わなくても、何とかなるから、だから!」
夢乃が珍しく早口でまくし立てた。
夢乃の善意に、芽依の抱えた問題を突き破る力はない。しかし、小さな穴を穿っていた。これまで堅く閉ざされた扉を、確実に貫いた瞬間だった。
芽依が言葉一つ返せないでいると、夢乃のピンと張ったはずの背筋が、段々と丸まっていく。
気持ちが折れるすんでのところを、七海が夢乃の背中を叩いて救った。
「いいな、それ。それぞれが持ってるもん使えば何とかなりそうじゃね?」
ニカッと七海が快活に笑う。
夢乃の一言が呼び水となって、それぞれが出せるものをピックアップしていく。
やんややんやと、朝から玄関先で花が咲き、嵐が吹いた。
当人を置き去りにしたまま、怒濤の如く意見をかわされ、現実解が導かれていく。
芽依はくしゃりと、顔を歪めた。
「皆、何でそこまで・・・・・・?」
「面白いからに決まってんじゃん」「つまらないからに決まっています」
七海と小夜がノータイムで異音同義を返せば、
「大切な友達で、信頼できる仲間、だから・・・・・・かな?」
「私が、芽依ちゃんと一緒にいたいからだよ」
夢乃が月のようにはにかみ、ひかりが太陽のように微笑む。
どこまでも暖かく。芽依を包み込む。
目の前にあるすべてが眩しくて、芽依は俯いた。
「私、は・・・・・・感情のままに生きるって、そう決めてるの。誰がいなくたって、自分が正しいと思えたことをして、生きていく、って」
吐き出すその一言一言が重く、苦しかった。
「みんな、ごめんなさい――」
芽依が深く頭を下げた瞬間、四人の顔が強ばる。
芽依は張り裂けそうな胸を押さえつけ、言葉を紡ぐ。
「――私、ずっと独りで、って決めたのに。でも、ココが、皆と一緒に居たいって、そう言ってる。皆に嫌な想いさせたのに、もし許されるなら、私は、皆とが・・・・・・」
一粒、二粒と、宝石のように煌めく滴が落ちた。
弱り切った心と体が叫んでいた。痛くて、苦しくて。それでまた芽依は泣いた。
嗚咽が止むまでの少しの間、みな黙って待っていた。
芽依が顔を上げ、胸を張って前を向くそのときを。
「まったく、アナタという人は・・・・・・一瞬、心臓が止まるかと思いましたわ」
小夜がふーっと大きく息を吐き出した。
芽依は眼鏡のレンズに溜まった涙を払い、綺麗に拭ってかけ直すと、幾らかこざっぱりした面持ちで謝罪した。
「ごめんなさい」
「芽依、こういうときは”ありがとう”でいいんだぜ? じゃなかったら、“どういたしまして”だ。バカの心臓なんざ幾ら止めたって謝る必要なんかねーよ」
「ええ、その通りです。人の感情の機微は、お馬鹿には一生理解できないでしょうから心臓と言わず人生そのものを止めて差し上げますわ。 あら? お礼なんて。いえいえ、どういたしまして」
七海が笑顔で胸ぐらを掴みにいけば、小夜は爪先立ちで額をぶつけにいく。両者が、拳を堅く握った。
まさに急転直下/一触即発。え、この流れでそうなっちゃうんだ? と残る三人が無言で疑問を呈したそのときだった。
「みんなそんなところで騒いでないで、中でこれからのこと話そ?」
一同ギョッとして振り返る。芽依の背後から、少女がひょっこり顔を覗かせた。
少女の年かさは弟の黒岩裕樹と同じほどか。白いワンピースに、長い黒髪のコントラストが印象的だったが、何より見る側の心に刻みつけたのは、芽依とよく似た顔立ちだ。
穏やかに微笑むその表情など、稀に芽依が見せる笑みそのものだ。
「芽依ちゃんの――/――なんだ? 妹か?/え、姉弟は弟さんだけだし――/――ですが、他人のそら似というには」
闖入者に混乱が広がる中、芽依だけがその正体に辿り着いた。
「アナタ、どうして・・・・・・?」
「ごめんね。本当は黙って見てるつもりだったけど、皆を見てたら、もう居ても立ってもいられなくなっちゃって・・・・・・」
舌先をチロリと出しておどけて魅せる。
「初めましてだね。私は亜依。芽依の生き別れの妹――」一間「――というのは冗談。私は芽依の愛から生まれたAIだからアイ。亜依って呼んで」
独特な自己紹介に一同唖然。当人だけがニコニコと嬉しそうだった。
「なぁ、芽依。コイツ、絶対何か変だぞ」
「変わってるというか、少し違和感が・・・・・・」
「何だろ、ね。見た目は、芽依ちゃんそっくり、なんだけど、違う、っていうか」
三人の喉に、何かが引っかかって出てこない。芽依も何をどう話したら良いものか苦慮していると、ひかりが指摘した。
「・・・・・・うん。やっぱり。この子、人間じゃないよ。なんて言うか、精霊に近いかも」
ひかりの核心を突いた一言で、ようやく異物が取れた。
人の形をしているから惑わされたが、確かに精霊から受ける感覚に近いのだと、納得していた。
「ひかりは流石だね。他の子も優秀。普段から精霊に接しているとはいえ、決闘装束無しで感じ取れるなんて、本当に良い感性してるなぁ」
唖然→呆然。芽依も含め、誰もが状況に呑まれっぱなしだった。
仕方なしとばかりに、亜依が手招きする。
「入って。聞きたいことは色々あるだろうけど、まずは芽依と私が住む場所を決めてくれると嬉しいな」
亜依は自分の要望だけ明るく告げ、さっさと家の中に引っ込んでしまう。
どうしたものか、芽依に視線が集まった。
「ごめんなさい。実は私もこの状況がよく分かってないの。ただ、あの子にはこれまで色々と助けられたことは事実だから、多分、敵じゃないと思う。でも、皆も頭から信用するのはどうかと――」
「芽依。“ごめんなさい”は、もう十分です。それに、相手が話しをしようと言うのですから、私達は会話から結論を得ればいい。それだけのことですわ」
小夜は短く決意を表明。率先して玄関を跨いだ。
「大丈夫だよ、芽依ちゃん。全然やな感じしないし。それに何か、ちっちゃい頃の芽依ちゃん見てるみたいで可愛かったな~」
ほくほく顔のひかりが後に続き、
「小学生の頃の服は、取ってないよ、芽依ちゃん・・・・・・」
しょぼくれた夢乃がぶつぶつ独り言をこぼしていく。
「芽依、お前の近くにいると退屈させないよな」
去り際に芽依の肩へ手を載せる七海。
一人取り残された芽依は天を仰ぐ。空は突き抜けるようで、幕は降りてきそうもない。
誰かが”終幕にはまだ早い”と告げるような、そんな取り留めない予感を抱く。
芽依は小さく頭を振り、開け放たれた扉を引く。そして、締め切る間際、
「・・・・・・ありがとう、みんな」
僅かに照れたような横顔を覗かせ、扉を閉じた。
Fin.