Jewelist Mei |

第五章 ~帰結~

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それから少しの間だけ夢乃は泣き続けた。そして、はっとしたように顔を上げた。
 「ご、ご、ごめんね! こ、こんなところで、私・・・・・・!?」
 「いいさ、アタシが蒔いた種みたいなもんだしな。それよか疲れたろ? 帰るか?」
 「そう、しよっかな・・・・・・七海ちゃんはどうする?」
 「アタシはもう少しブラブラしていくわ。アイツを待たなくちゃいけないしな」
 「そっか・・・・・・」
 夢乃は最後まで付き合うかどうか迷う。その心優しさに、七海は微笑みを浮かべずにはいられない。
 共同戦線――という名の即席チームを結成してから間もない。ジュエリストとしての関係は多少なりとも増えたが、七海は吉岡夢乃の事をあまり知らない。
 打たれ弱くて、自分に自信が持てなくて、背の高さと反比例して気が小さい。
 ひかりのようにノリで付き合えるわけでもなく、小夜のようにツッコミ放題な性格をしている訳でもない。
 確実にこれまでの友人にはなかったタイプで、お近付きになろうと思ったこともなかった類の人種だったが、こうして大して親しくもなっていないメンバーを本気で思いやれる温かさを――自分には決して持ち得ないモノを持っている。七海はそれが少しだけ羨ましかった。
 「心配すんなよ。あの馬鹿がやらかしたこともはっきりしたら、今度はちゃんと説明する。もちろん言い方も気を付ける。だから、そんな顔すんな。な?」
 「うん」
 「ひかりには、後でフォローの連絡入れとけよ?」
 「うん」
 「無視されっかもしんねーけど、気にすんなよ。ダチならよくあることだし」
 「うん」
 「なーに、明日になればひかりも落ち着くだろ。そしたらまたいつも通りさ」
 「うん」
 相手が弱っているとはいえ、相槌が過ぎると流石に理解が怪しく思えた。
 「・・・・・・さっきから”うんうん”ばっかだけど、ホントに分かってっか?」
 「うん・・・・・・七海ちゃん大好き」
 不意打ちの告白に、流石の七海も大いに赤面した。それが感情の高ぶりから生まれたものだと分かっていても。
 「お、おぅ・・・・・・」
 動揺は言葉を作らない。それは決意も同じことだった。夢乃は、唇をきゅっと結んで意思を固めていた。
 「・・・・・・七海ちゃん。私、やっぱり、ひかりを・・・・・・追いかけて、みる。多分、まだ、怒ってる。けど――」震える声/青ざめた顔「――このままじゃ、ダメ、だから。みんな、傷付け合うことに、なっちゃうから。だから! ちゃんと、話し合わないと、いけないから!」
 七海はじっと耳を傾け、夢乃の様子を見ていた。
 その顔には自信の欠片も見当たらない。丸まった背筋なんて、相手を説得するだけの材料がありません、と宣言しているようなものだ。なのに、あえて火中に飛び込むと言う。
 その言葉に、七海は呆れてしまう。そして、その勇気に、つくづく感心してしまう。見上げた根性だと、しみじみと思うのだ。
 恐らく夢乃本人は絶対に認めないだろう。だが、怖いもの”怖い怖い”と恐れながら、その場に必要な態度を取るのなら、それは勇気以外の何物でもない。
 例えば、これが七海だったら勇気ではない。七海はそもそも不安に対する感覚が鈍いから、ひかりとの摩擦だって気にすることはない。
 例えば、これが小夜だったとしても、勇気とは呼べない。議論好きの小夜は、喜んでひかりを論破しようと試みるだろう。そこに奮い立たせるような何かは存在しない。
 夢乃は他人と意見をぶつけ合うことすら苦手で、誰かに嫌われるなんて、考えただけで恐ろしいと思ってしまう。
 それなのに、吉岡夢乃は相手を思いやることを止めない。それでも、一歩だけ前に踏み込んでみせる。
 端から見れば、そんな大層なものかと、笑われるかも知れない。
 誰だって一度は通る道で、いずれは乗り越える壁だと諭されるかも知れない。
 されど、感情は絶対的な物差しではない。ひとそれぞれだ。同じものを前にしても、受け止める不安や恐怖の大きさは、心が弱ければ弱いほどより大きく、より恐ろしく感じられるものだ。
 夢乃を奮い立たせるモノの正体を知らないまま、七海はいつもみたくニッカリと笑う。
 他人行儀に、“そんなものは大したことないぜ”と、笑い飛ばしてみせる。
 「おっし、なら急がねーと、なっ!」
 バンと、夢乃の薄い背中を思いっきり叩く七海。
 つんのめりながらも前に進む夢乃。その強すぎる平手打ちに、しかめ顔+涙目――そして微笑。
 夢乃は走り、思い出したように振り返って大きく手を振る。
 七海は胸の前で、小さく手を振り返した。

 夜の雑踏に背の高い少女が消えて無くなる瞬間、七海は柔らかくした気持ちを強く引き締めた。
 近頃はジュエリストであることを最優先にしているのでめっきりご無沙汰だが、元々この辺りは七海の遊び場≒戦場だ。
 そういう意味では言わば勝手知ったる街。でも油断などしない。してやらない。夜更けと共に本性を晒すこの街に取って食われぬよう、睨みをきかせる。
 「さーって、アイツが来るまでどーっすかなぁ?」一人ごちる。
 周囲を見渡せば、携帯の小さな画面と睨めっこしている若者だらけだが、七海は一人でこうシュッシュッとやるのが好きじゃないから倣う気にはなれなかった。
 七海は半身だけ振り返り、背後にそびえ立つエストラントセンタービルを横目に。
 このビルの中層以上はオフィス・イベント用のエリアだが、下層は飲食店、雑貨店、書店、服飾店、映画館、スポーツジム、各種専門店がひしめく、“何でもござれ”の複合施設になっており、暇潰しにはもってこい――なのだが、好奇心旺盛な七海にとって、同じ日に同じ場所で二度もぶらつくのは苦行に等しい。
 それともう一つ。ビル内は”御剣”の関係者が多すぎた。もしばったり顔を合わして気を遣われでもしたら、あちらが気の毒になってこちらが疲れてしまう。
 友人と遊んでいるときならいざ知らず、一人でそんな状況に巻き込まれるのは馬鹿馬鹿しいことだ。
 「・・・・・・ないな」
 思った通り気紛れは起きなかったので、とりあえず、ビルと駅を直結させた”動く歩道”に乗ることにした。
 そして、歩く早さよりゆっくりと進む景色を、なんとなしに眺める。
 この一帯は沿岸部を埋め立てて作った、小桜市の中でも比較的新しく、また最も栄える観光スポットだ。
 コンクリートで完全舗装された海岸には、接岸した観光用舶船が派手にライトアップされている。そのまま海岸線をなぞれば、カップル御用達の広大な緑地公園。更に先まで伸ばせば、水平線上に港湾と対岸の隣街とを繋ぐ巨大な橋梁が掛かっている。
 久方ぶり、といわけでもないはずなのに、どこもかしこも人工の光が溢れ返った街が、どこか知らない場所のように感じられた。
 はて、と七海は小首を傾げた。そして、あの灰色の”異世界アナザー”こそ自分の居場所だと感じている自分に気付く。
 正しくは、“慣らされてしまった”と言うべきだろ。それだけここ最近の異世界アナザーの出現頻度は異常だった。
 それでも、七海は以前の暮らしに戻りたいとは思わない。そんなこと考えたことすらなかった。
 規則きまりの多くて刺激の少ない学校。あくびの止まらない授業。当たり障りのない会話しか出来ないクラスメイト。どれも退屈に過ぎて、神様の策略を本気で疑ってしまう。
 伸びきって無限に近付いてるんじゃないかと思える時間に締め殺されそうだった。
 中学生にして、人生の袋小路に行き着いていた。いっそ海の向こうにでも逃亡しようか本気で考えていたとき、七海の前に一羽の兎――聖霊セイントカタリナ――が現れ、盟約を申し出た。
 兎はその身から白雪を吹き出す不思議な姿なりをしていたが、七海は二つ返事で快諾した。
 それから、望み通りジェットコースターのような日々に飲み込まれた。異常が日常にすげ変わった。それは刃物の先端で踊るような時間であり、常識が吹き飛んでしまった世界だった。
 サイコーだった。のめり込んで遊びまわる暇もない。ようやく人生が走り出した気分だったが、まだ足りない。もっともっと加速したかった。
 誰も体験したことのない早さで駆け抜けたくて、転校までした。こうして新たな友情を形作っている。それでも満たされてはいない。
 まだ自分は決定的な何かを欲している。それを思い出した。
 「・・・・・・しくったなぁ~」
 ぼんやり考えていたせいで墓穴を掘ってしまった。
 一度意識してしまうと、浮かび上がったモヤモヤはなかなか頭から離れてくれない。
 「しゃーない、一汗かくかぁ?」
 不快な気分も渡りに船とばかりに、七海は思いつきで行き先を決定した。
 煌びやかな繁華街の境界となる大通りに沿ってしばらく歩いた。やがて高速鉄道の高架橋とぶち当たると、雨垂れが染み込んで黒灰色になったコンクリートの壁面が長く続いていた。
 自己主張の方法を間違えたペイントサインが軒を連ねるのを横目にしつつ、七海は前に足を進める。
 ガードレールで仕切られた歩道はごく狭く、一人と半人分ほどで、すぐ隣りの国道を無数の車両が忙しく走り去っていく。
 ここは普段から人気の少ない通りであり、制服姿の女子中学生が一人で歩くには不用心としか言いようがないのだが、今夜はすれ違う人すらいなかった。
 七海はそれを、単なる偶然とは思わなかった。
 目的地である高架橋の下の、ぽっかりと空いた空間に設けられたバスケットコートは、いつもなら一組か二組は若者がたむろしている。なのに、今は死者が眠るように静まり返っていた。
 馴染みであるはずの場所が、あの怪物が蠢く異世界アナザーに変わったかの如く感じられた。
 強烈な違和感を覚えると、二の腕がいきなり粟立った。
 「アタシ、霊感なんてあったっけな?」腕をさすって空惚け。
 七海が見定めた先は、コート奥にあるゴールの裏辺り。外灯の陰になって輪郭を持たない闇の中だ。
 そこは一見して何も見当たらないが、何か気配を感じた。
 ジュエリストに変身していれば、その図抜けた身体能力が正体を暴いたのだろうが、生憎と今の七海には変身する術がない。
 何故なら、相棒カタリナは日々自宅に押し止めて登校しているからだ。
 今、合図サインを送ったところで、ここまで飛んで来るにはしばらく時間が掛かることだろう。
 ならば自力で変身だ――と、意気込みたいところだが、実際はそちらの方がもっと現実的でなかったりする。
 現状、精霊の補助無しで変身できるのは、ジュエリストの中でもアンバーだけだった。
 勿論、負けず嫌いの小夜と怖いもの知らずの七海は、独力で決闘装束デュエルドレスの実装=界門の解放に挑戦した。
 精霊たちは口を酸っぱく警告したが、七海らは果敢に挑んだ。そして、二人ともあえなく失敗した。以来、再挑戦する気すら起きていない。
 ひとつには、異世界アナザーが発生する時間帯は精霊が側にいること。何より、失敗したときに怒濤の如く返される懲罰ペナルティが酷すぎることが理由だ。
 大抵の無茶を無茶だと思わない七海でさえ、あんなものに挑むのは真性の馬鹿だけだと決めつけていた。
 「さぁて、と。こりゃどうしたもんかね・・・・・・?」諦め半分のぼやき。
 そして、コートの縁に立った七海は、一歩前に踏み入る。立ち去るか、小夜と合流してから出直すべきだと、正しく理解しているにも関わらず。
 七海は怖いものを知らない。昔は知っていたはずだが、もう霞んで思い出せずにいた。
 幼い頃、二度死の淵を彷徨って以来、七海は恐怖を感じる機能を失っている。
 痛みはある。怒りも覚える。新しい出来事には期待する。なのに、普通の人間が不安に思い、おののく場面であっても心が揺れてくれない。
 そんな七海の様子を、周囲の人間は”大物”と称した。“御剣七海”はいつも堂々と、思うがままで。華やかに、何の悩みもなく、飄々と生きていて。
 きっと誰よりも自由――事実その通りではあるのだが、そんな七海にも気掛かりがない訳でもなかった。
 このまま突き進んだら、自分は間違いなく人間失格となる。そんな確信があった。
 何故なら、怖がらないから。自分の心や体を傷つけることを恐れない。手にしたものを失うことを不安に思わない。そして、他人を傷つけることを恐れないから。
 殴ったり、愚直ストレートに言葉をぶつければ、誰でも簡単に傷つく。普通の人間はそれを怖がる。だからこそ相手の痛みが判るし、傷つけられた相手からの報復を恐れる。
 ところが七海はそこに感情が伴わない。それでもここまで何とか上手くやっているのは、ひとえに経験則だ。これをしたらこんな反応があるんだろうなー、と文字通り他人事として型に当てはめる、ただそれだけ。
 普段はそれで問題ないのだが、例外的に困った事態に陥ることがある。
 例えば、敵対する相手が中途半端なときだ。最近では”十人病院送り”事件だろう。
 当時、七海の仲間は相手の半数にも満たない人数しかおらず、常識的に、袋叩きに会うのは、数に劣る七海達の方だった。
 ところが、七海は全力を振るうことを恐れず、自分が傷つくことも他人が傷つくことも怖くない。スイッチの入った七海が考えたことは、せいぜい『相手が死なない程度にぶちのめそう』程度のことだ。
 グループ同士の対立が鮮明になって、普通なら威嚇が本格化しようかというその瞬間、七海はリーダー格の少年を不意打ちの前蹴りで悶絶させていた。運悪く隣にいた少女を容赦なく掌底打で昏倒させ終えた頃、その場にいた全員――仲間を含む――が七海の危険性を初めて共有した。
 その後の混戦、乱戦の結果は散々たるもので、相手方を殆ど七海一人でのした。近所の通報で警察が駆けつけたとき、死屍累々の様相を呈した現場に立っているのは七海だけだった。
 倒れているのは相手方が九人、うち一人が身内。敵も味方も、動ける者は皆、仲間を見捨てて逃げ出していた。
 病院に運ばれた内の一人は、別に七海がのした訳ではなかったが、“十人病院送りにしたクレイジーな女子”という不名誉なレッテルが張られた。
 特段間違ってもないし、十人も九人も変わらないので、七海はいちいち否定したりしなかった。元々の原因が相手側にあったことも、正当防衛だったことさえ抗弁しなかった。
 暴力は暴力でしかないし、多少なりとも病院で過ごさなくてはならない相手に同情もしたが、最たる理由は自分のためだった。
 実感が持てると思ったのだ。すべて一人で抱えれば、判るような気がしたのだ。
 怖さが。未来への不安が。閉ざされる将来が。
 自暴自棄になっている訳ではない。ただ思い出したいだけだった。
 『誰か私に恐怖の意味を教えてください』
 そう切に願っていた七海に、精霊はジュエリストという選択/救済を与えてくれた。
 絶対に退屈せず、確実に怖いものを知れる。そう思ったからこそ契約した。
 実際、件の大立ち回り以上に死に近い戦いも経験したが、まだ願いは叶っていない。
 例えば、夢乃にとって一歩前に踏み出すことは勇気であり、小夜にとって一歩前に踏み出すことは挑戦だ。
 なら七海にとっては? 一歩前に踏み出すことは実験だ。
 無くしてしまったものを拾い上げるための、誰もが当たり前に持っているものをもう一度手にするための試しだ。
 (さーて、鬼が出るか蛇が出るか・・・・・・)
 一歩、また一歩、気配を殺しながら慎重に近付く。七海はコートの中央から、ゴールの裏側を目指した。
 ちょうどスリーポイントラインを踏もうかという頃合いだった。暗がりから、意外なものが現れた。
 なだらかな放物線アーチを描いたそれは、ポーン、と大きくワンバウントして七海の胸元に飛び込んでくる。
 バスケットボールだった。屋外用のゴム製で、ざらざらとした手触りとカラフルな色合いが懐かしい。
 バスケットコートにバスケットボール。当たり前すぎる組み合わせだとしても、驚嘆に値するだろう。それを放った人物が、先刻まで鳳小夜と一緒にいたはずの少女=黒岩芽依だったなら。


 破壊衝動に満たされた直後、黒衣の少女は夜空の中心にあって、ちょうど昇りたての月に黒点を穿つようだった。
 決闘装束デュエルドレス異能まほうは、まるで重力の楔を断ち切ったかのように、芽依を虚空へ送り出していた。
 「ああああぁぁあぁぁぁぁ!!」
 その喉を潰すような叫びは、凄まじい勢いの向かい風に殺されて誰の元にも届かない。
 よしんば無風だったとして、やはり誰にも聞き届けられることはなかっただろう。
 今は三十階のビルに相当する高さで放物線を描いている真っ最中であり、喧騒に晒された地上の者達に届くはずがない。
 愚かな自分を壊してしまいたくて、芽依は衝動の赴くまま夜空を駆けていた。
 行く当てなどない。代わりにただただ願う。“異世界アナザーよ今すぐ姿を現せ”、と。
 あの空間内だったら、いくら破壊したところで全部無かったことにできる。気の済むまで建物を壊して回ればいい。何ならネオアンガーに八つ当たりしたって構わない。
 罰を欲しがった。馬鹿げた妄想を抱いた罪に。
 痛みを欲しがった。安逸に手を伸ばしかけた報いに。
 ――ほら、見て見て。月があんなに近い。とてもキレイね。
 唐突に、脳裏に響く穏やかな声。もう一人の黒岩芽依わたしの囁き。
 幻聴ではないが、心の声とでも呼ぶべき代物に、黒く塗りつぶされた意識を塗り替える力はない。
 ――ねぇ、芽依聞いてる? おーい。 ・・・・・・仕方ないわね。
 大きな大きな放物線を描いていた黒衣が、ようやく落下の兆しを見せた瞬間だった。
 バチーン! と頬に弾ける音+衝撃。顎が揺れ、視界がガクンと揺れる。
 衝撃=攻撃――どこから!? 一瞬にして混沌に突き落とされる意識。まるで、こんがらがったパスタに頭から突っ込んだ気分。
 それまでどこにもなかった自分自身を、意識の混濁によって取り戻すという矛盾を乗り越える。混乱の元凶が自らの手によるものだと気付くまで更に数秒を要し、そのときにはもう着地点が目前に迫っていた。
 完全に焦点を結んだとき、最初に目にしたのは名も知らないビル/突き出した避雷針。
 直撃コースにある障害物それを壊してなるものか! と理性が叫ぶも、中空では文字通り手も足も出せない。
 その瞬間に思考はなく、よって、出来るか出来ないか意識する間もない。ただ夢中で両手で棒に手を差し出していた。
 そして、指先が触れる。瞬間、避雷針を掴むことなく、掌で受け止め、腰を巻き付けるように下半身を丸める。
 それは神業としか言い表しようのない反射神経だったが、姿勢を変えても勢いは殺せはしない。おまけに、躱すことに全霊を注いでいたため、天地がひっくり返っても――いや、天地がひっくり返ったら着地できそうな体勢だった。
 後頭部と頸椎でもってコンクリートの屋上に激突=生身であれば即死。
 人外の大ジャンプが持つ運動量はやはり尋常ではなく、反発で四肢が大きく跳ね、低めの柵を通り越して黒衣は空に投げ出される。
 落ちる――そう意識するのと、足を伸ばしたのは同時だった。
 爪先をひっかけたスチール製の柵は、ひしゃげながらもへし折れることなく芽依の落下を防いでくれた。
 ところが、逆さ吊りになったせいで、ティアードスカートが傘のように視界を覆い、反対に普段は隠れたショートパンツと、白い太股が大胆に露出する。
 ――わぉ。なかなかスゴい体勢ね。
 「誰のせいだと・・・・・・!」
 いかりの丈をぶつけるように、両腕でビルの縁を押し返す。すると、宙吊りになった体が何かの魔法のように、ひらり舞うようにして柵の内側へ収まった。
 それでも、悪戯では済まされない不意打ちに、芽依の怒りは収まるどころか、溢れてやまない。
 ともすれば、“黒い衝動”とは異なる意味で感情が爆発しそうになった。
 ――どう? 少しは落ち着いた?
 ギリギリの線で踏みとどまったのは、その一言で肝を冷やしたからに他ならない。
 自分は一体何がしたかったのか? 目標を基点に、現在までをなぞった。
 深く息を吐き、自分の状態を確認する。頭から体から、チェックリストに筆を入れるように、一つ一つ丹念に問いかけては問題を明らかにしていく。
 そうやってゆっくり思考を巡らせ、最後に深く息を吐いた。導いた結論は一つだった。
 「多少はマシになったわ。でも、礼は言わないから」小さく尖った唇の呟き。
 一間空け、クスクスと朗らかな声が脳裏に響く。
 自分めいの暴走に対し、軽率だとか愚行だとか指摘しないどころか、まるで姉が妹の幼い抵抗を微笑ましく感じているようで、それがまた芽依の癪に障った。
 なかなか途切れない笑い声に、いよいよ声を荒げようかというその時だった。
 ――そうだ芽依。ちょうどいいから、アレでストレス発散したらどうかな?

 「何故、こんな所に七海が・・・・・・!?」暗がりに漏れる呟き。
 ゴール裏の、ちょうど外灯の青白い光の届かない場所に身を隠した芽依は、予期せぬ来訪者に驚きを露わにした。
 あの少女から勧められ――特に疑うこともせず――行きつけであるこのバスケットコートに足を運んだ――すんなり変身を解いた――芽依だったが、浅慮だったと猛省する。
 せめて、もう少し様子見すれば回避可能だっただけに、ただの不運だと諦めることができずにいた。
 芽依が今一番会いたくない人物が鳳小夜だとしたら、次点はこの御剣七海だ。
 小夜が同じジュエリストに連絡を取るであろうことは想像に易く、またそのとき最もアグレッシブに切り込んで来るのは、吉岡夢乃でもなければ宝生ひかりでもなく、この少女であることに疑いはない。
 しかも、どうしたことか、相手はこの場所に誰かが潜んでいると気付いた様子だ。
 芽依はちらりと背後を振り返る。金網で出来たフェンスはかなりの高さがあり、生身では登るのも一苦労しそうだった。
 分かっていたことだが、逃げ道はない。七海はゆっくりと、だが確実に足を前に進めてくる。接触は不可避だと、警鐘が鳴り響く。
 (・・・・・・まさか、こうなることを判ってて?)
 運命とでも呼びたくなる巡り合わせだ。すんなりと受け入れるには、どうしても理由が欲しくなる。端的に言えば悪因。この場所を示唆したあの少女こそ、最もそれに近かった。
 決闘装束デュエルドレスを解除した今となっては直接問いただす訳にもいかず、よしんば、問い詰めて”洞察通りだ”と自白されたところで、この如何ともし難い状況が変わる訳でもない。
 芽依は無為の妄想を引き剥がし、意識を目の前の出来事に絞る。自然と手近にあったバスケットボールを放り投げていた。そうすることが、この不自然極まりない状況で最も自然な気がしてのことだった。
 「知らなかった。七海でも驚くことがあるのね」感情の乏しい呟き
 「お前、アイツと一緒にいたんじゃ・・・・・・?」
 ゴール下から姿を晒した芽依に、七海は唯でさえ大きな榛色の双眸を、猫のように丸くして驚いてみせた。
 七海の反応はある意味で当然だ。何せ、芽依が鳳の料亭を後にしてから、まだ二十分と経っていない。その程度の時間では、タクシーを飛ばしてもこの場に辿り着けない。
 七海がきちんと情報を連携されており、なおかつ大まかな地理感覚を持っているなら、この矛盾に気付いたことだろう。
 だが芽依は相手の様子から、最悪の事態には至っていないと判断した。
 (小夜が変身わたしの気配を感じ取って、仲間に報せているのかと覚悟していたけど、この表情――どうやら私があの場を飛び出したことは知っていても、決闘装束デュエルドレスとは結びついていないようね。せいぜい、『何故、どうやって、この場所に来たのか?』といったところかしら? なら――)
 芽依は最初のシナリオは破棄して、即興で真実と虚偽の混成ストーリーを書き殴る。
 「さっきまでは、ね。実は途中で体調が悪くなったから、知り合いにバイクで送って貰ったの。ゆっくりでお願いしたんだけど、その人、私が怖がるのが相当楽しかったみたい。随分と荒い運転されて・・・・・・最悪ね。早々にサヨナラしたのは最善だったけど、どうにも運がなかったみたい。近くで腰を下ろせそうな場所がココしかなかった、っていうオチなんだけど・・・・・・それにしても、七海はどうしてこんなところに?」
 恐らくは、これが模範解答だったのだろう。隠した疑問を暴かれた七海は、双眸をすっと細めて警戒の色を見せる。
 一方で、芽依の声や表情に変化はない。すべてを素通りした、完璧な能面から伺い知れる感情はなかった。
 チカチカと外灯が頼りなく明滅すると、長く伸びた陰影もまた、何かにおびえているように瞬いた。
 「んー、こっちもたまたま。時間がちっとばかし空いたから、体を動かそうと思ったってだけだな。ちなみココ、ちょっと前まではしょっちゅう来ていたんだぜ? まぁ、常連だな。大体のやつは顔分かるし。名前とか連絡先知ってる奴も結構いるな」
 今度は芽依が驚かされる番だった。
 「・・・・・・本当に? 私も休日はよく来ていたのだけど」
 「・・・・・・え、マジで? アタシら会ったことない、よな?」
 「そうね。たぶん。時間帯が違ったんじゃないかしら? 私は基本的に朝から昼前までだったから」
 「なるほどな。アタシは反対に夜が殆どだったから、やっぱそうなんだ」
 へぇ~ほぉ~と何やら感慨深いものを口にしていたのも束の間、七海は打って変わってニカッと笑う。
 この流れで極上の笑顔を浮かべる七海に、芽依は不安にしか覚えなかった。
 「じゃ、ちょうどいいや。適当に混ぜて貰おうと思ったけど誰もいねーし、アタシとやろうぜ?」
 ここが野外バスケットコートで、バスケットボールがあるのだからやることはバスケット以外の何物でも無いのだろうが、芽依は僅かばかりずり落ちていた眼鏡をぐいっと強めに押し上げる。
 「・・・・・・人の話、ちゃんと聞いていた? 私は休憩を――」「えぇ~? いいじゃん。別に調子悪そうに見えないぜ? もう十分休んだんだろ? 1ON1、やろうぜ! ついでに何か賭けよう」
 「私はやるなんて一言もいってない。それに怪我が――」
 七海はいきなり手にしたボールを投げつけた。
 「――危ないじゃない」
 思いの他勢いの乗ったチェストパスを、芽依は両手でしっかりとキャッチする。
 もう治ってる、と言わんばかりに、七海は顎をしゃくってみせる。
 事実、その通りだった。ボロ雑巾と化していた左手は、怪我した事実を忘れさせるほど綺麗に修復されている。懸念された神経の後遺症もなく、何の違和感もなく使えることは既に確認済みだった。
 「賭の対象は”“だ。もし芽依が勝ったら――、そうだな。初体験の有無でもスリーサイズでも聞いてくれていいぜ? 何でも正直に答えてやるよ」
 「ルールは?」
 「ハーフコートの1ON1。ゴールかヴァイオレーションで攻守交代。ファウルは申告制で、お互いに合意したらフリースロー1本。合意できなかったらセンターから仕切り直し」
 「制限時間は?」
 「無し」
 「制限時間なし? 先に何点か入れた方が勝ちということ?」
 「ぃんにゃ? 1ゴールを決めた時点で質問1コだろフツー。どっちか止めるまでやろうぜ」
 「バスケットは点を取り合うスポーツなのだけれど・・・・・・」呆れ加減に。
 「心配すんな。アタシらくらいの年だって秘密は山ほどあるさ」あっけらかんと。
 心配してるのはネタ切れなどではない、と芽依が眦を尖らせば、七海は仕方なしと態度を崩す。
 「んじゃハンデやろーか? 一本決めたら二つ聞けるのと、スリーポイントシュートなし。どっちがいい?」
 「どちらも結構。それより、本当にこの格好でやるわけ?」
 芽依は恥じらいを込めて、制服のスカートの裾を摘まんでみせた。
 ハーフコートだから走る距離こそ短いものの、うっとおしいことこの上ない。それに七海のスカート丈は、膝上15センチは確実だ。飛んだり跳ねたりしたら、下着のチラ見せどころでは済まないだろう。
 「気にすんなよ。ここにはアタシらしかいないんだし。それに今日はこんなんだからな~、いくらアタシでも色気なんて出せねー」
 七海はおもむろにスカートをたくしあげ、自分の下着を確認する。
 外灯の明かりしかなくても、その蛍光グリーンのストライプ柄は十分過ぎるほどに目を引いた。それと、ボックスショーツ=色気なし、というのは間違いだ。
 七海の腹部はきゅっと引き締まっており、無駄な肉が一切ついていない。なのに腰回りは豊かで、太股の肉感は実に女性らしい。一瞬で目を逸らした芽依だったが、派手な下着よりも蠱惑的な下半身が、目に焼き付いて離れなかった。
 「いいから、早くしまいなさい・・・・・・!」
 恥ずかしそうに俯く芽依を眺めた七海は、ポンと手を叩いた。
 「おお、秘密のばらしっこなんか止めて、いっそ脱衣ゲ――――ッとぉ! あぶね」
 卑猥な思いつきは、不意打ちで飛んで来たボールに阻まれる。
 だが、七海は、怒るどころか嬉しそうだった。芽依が無言のまま中腰に構えていたからだろう。
 「オーケー。じゃ、バスケットだ」
 七海はボールをターン、ターンと大きく弾ませ、勝負の開始を告げる。
 センターライン付近からゆっくりドリブルする七海に対し、芽依はフリースローラインのややゴール寄りで待ち構える。
 芽依は七海の動きを注意深く観察――そのちょっとしたボール運びで、相手が結構な経験者だと分かる。
 利き手ではない左手でのドリブルは、少しも危なげない。
 やや前屈みにした上体に、軽く静かなその足取りは、本当に女豹のようだった。
 警戒を強めた芽依が、更に腰を落としたときだ。その瞬間を待ち構えていたかのように、七海はドリブルを低くした。
 左サイドから鋭いドライブインだ。その予想以上の速度に、僅かに芽依の反応が遅れた。
 食らいつこうと懸命にサイドステップ。ところが、
 「よっ!」
 そんな気の抜けた台詞と共に、七海は宙にボールを放っていた。
 (は・・・・・・?)
 芽依はゴールを振り返り、ボールの行方を追った。
 緩やかな放物線を描いたボールは、スパッと抜けるような音と共に、リングを通り抜けた。
 そんな馬鹿な、と我が目を疑う芽依。
 確かに彼女はドリブルを仕掛けた。だから芽依は横を抜かれぬようコースを防ぎ、ゴールから遠ざけようとした。ディフェンス側の基本動作だ。
 当たり前の動作だけに、七海もその動きを読んでいた。だから、ストッピングからのジャンプシュートを放った。
 そこまでは理解できる――が、スリーポイントラインという位置から、片手でボールが放たれた現実が信じられなかった。
 片手のスリーポイントシュート。リングに届かせる女子中学生が全国にどれだけいる?
 リングを通せる技術を持つのはその中の何割だ? おまけに、七海のスローイングの早さは異常だ。あれでは動きを読めていても、ブロック出来るかどうか怪しい。
 ストリートで多様なスキルの持ち主を見てきた芽依だからこそ、背筋を突き抜ける衝撃は小さくなかった。
 「お、ラッキ~! なーんか今日は調子いいみたいだ」
 「あなた・・・・・・、それだけの実力があったら、私じゃ勝負にならないことくらい、初めから分かってたはず。弱い者虐めは感心しないわね」
 芽依の抗議に、七海は小首を傾げる。
 「んなこと決めつけんなよ。勝負に乗ったってことは、芽依だって少しは自信があんだろ? チャンスは幾らでもあるさ」
 棒立ちになる芽依に目もくれず、七海はボールを拾い上げてヒョイッと真上に投げる。
 ボールには強い横回転スピンが掛けられていて、七海の人差し指の先で回り続けた。
 「点数勝負じゃないんだし、何が勝ちで、何が負けとか、そいつしか分かんないわけで――」
 ボールの回転が落ちたところを横にはたく。叩く。叩く。
 「もし自分の方が弱いって分かっちまったならさ、自分の方が強いって思ってる奴に、一泡吹かせてやるのが本当の勝負なんじゃねーの?」
 そう言って七海はボールを投げ返した。
 胸の真ん中に投げ込まれたボール/言葉を、芽依は横に躱すことができなかった。
 「じゃ、アタシからの質問な。正直に答えろよ?」
 芽依は否定も肯定もしなかった。すべては質問の内容次第。七海がジュエリストの絡みで触れて来るようなら引く、それだけが確定事項だった。
 「お前の名前は? フルネームで」
 「・・・・・・名前? 一度名乗ったはずだけど、忘れてしまったのかしら? それとも覚える気がなかった?」
 「まあまあ、いいから答えろよ」
 黒岩芽依――と、芽依が答えれば、“知ってる”と、七海が返す。
 唖然。このやり取りの意味が見えなかったが、はっと焦点を結んだ。
 どんな些細な秘密でも、いきなり核心に切り込まれれば拒絶される可能性が高い。だから、答えやすい回答を重ねることで、一皮ずつ心理的な障壁を崩そうというのだ。
 イヤラシいことに、ゲームが進めば疲労が蓄積されて判断力が鈍る。勝ち負けをコントロールする実力があるなら、相手を乗せて、口を滑らせる状況を作り出せる。
 これは罠だ。多少なりとも自分のスキルに自信があって、リスク計算のできる人間ほど陥る類の。
 「それがアナタのハンデ、というわけ? 大した詭弁ね」
 芽依はその舐めきった態度を吐き捨てる。だが、勝負ボールを捨てはしなかった。
 真下に落としたボールはターン、と渇いた音を鳴らし、掌に吸い付くように戻った。
 感触は悪くない。いつもと違う時間帯のせいか、ゴールが多少遠く見える。だが、外す気がしない。変身時に付きまとう万能感は、未だに神経を高ぶらせたままだった。
 「よっしゃ、こーい!」
 芽依と攻守を切り替えた七海は、ゴール下でだらんと両手を広げていた。一見してまったくやる気がないように見えたが、その気構えに隙はない。
 芽依は俯き気味にボールをゆっくり弾ませる。
 ターン・・・・・・、ターン・・・・・・、タタン!
 掌に帰るより先に、体ごと沈めて迎えに行った。低い姿勢で一直線。芽依はドリブルで一気にフリースローラインまで詰めより、そしてジャンプシュート。
 静から動への切り替えは完璧。フォームも崩れていない。指先を伝わる滑らかな感触。
 ――入った。
 確信を得たその瞬間、下から這い出た影が、手から放たれたボールをはたき落としていた。
 そして、ボールがアウトラインを割ろうとした直前、これを七海が拾い、猛然とゴールへ駆ける。
 (速い・・・・・・!!)
 芽依は進行方向を防ぐように立ち塞がるが、相手の動きが鋭すぎた。
 内角に食い込まれ、そのままレイアップシュート。芽依もブロックにジャンプするが、七海は身長で十センチ高く、瞬発力バネはそれ以上に差があった。
 指先に掠りもせず、ボールはボードに軽く当たって、それからネットを軽快に揺らす。
 「うっし。一本な」
 たったの数分で、技術と身体能力の違いを見せつけられた気分だった。
 変身時にあれだけ飛び跳ねていたのだ、芽依の体は十分に温まっている。ゲームにも集中していた。だから、これは出会い頭の事故ではなく、純粋な力量の差。決して追いつけない実力の違いだ。
 夜風が肌寒いはずなのに、芽依の額には早くも汗が滲んでいた。
 「んじゃ、芽依の誕生日を教えてくれ」
 またしてもどうでもいい質問。
 「十月三十一日」
 芽依はすかさず答えた。
 「お、ハロウィン生まれか。いいな覚えやすくて。しかも、もうすぐじゃん? お祝いしないとな」
 ジェスチャーで”ボールを寄越せ”と主張する七海へ、芽依は拾ったボールを投げつけた。
 その強すぎるパスには、やや苛立ちめいたものが足されていた。
 ナイスパス、と容易く受け止める七海は、芽依の感情の揺らぎに気付いたふうでもない。
 (誰が、誰を祝うって・・・・・・?)
 芽依は、自分の誕生日を祝われたいとは思わない。芽依にとって誕生日とは、ただ年齢が一つ繰り上がる日でしかなかった。
 (自分ですら大切に思えないものを、何故他人が大切にできる?)
 過去、芽依の誕生日を心から祝ってくれたのは、弟の裕樹おとうとだけだった。
 なのに裕樹には、そんな無意味なイベントすらもう訪れない。
 この世界の不条理を思い出し、胸がかっと熱くなる。形にならない複雑な感情が、血脈に乗って全身を駆け巡るようだった。
 芽依は暴発しかける感情をねじ伏せ、細く、細く、丁寧に尖らせる。
 芽依には一つだけ確かめたい尋ねたいことがあった。本当にくだらなくて、同時にとても重要で、聞き出したところで何も変わらないのに、でも聞かずにはいられない、そんな質問だ。
 (絶対に、奪ってみせる・・・・・・!)
 芽依の目の色が変わった。遊びが遊びでなくなる瞬間だった。
 「行くぜ」
 言うや否や、七海は再び鋭いカットインを披露。対する芽依はそのスピードに完璧に反応、体ごとぶつかりに行った。軽く接触した瞬間、七海は無理押しはせず、クロスオーバー――ボールを突く手を変えた――瞬間、股下を潜って(レッグスルー)ボールが返ってくる。
 シュートさせまいと距離を詰めていたのが仇になった。動きに吊られた芽依は美事に躱され、そのまま流れるように繰り出される七海のレイアップシュート。ゴール正面の難しい位置であったが、これを難なく決めてみせた。
 魔法の如く魅せるボールコントロールに、芽依は胸の内で何度目になるか分からない唸り声を上げた。
 七海は手先だけでなく、体の使い方が巧かった。手足の運び一つ一つが相手を押さえ込むように伸びて、それだけで僅かに先を行かれてしまう。
 反応で遅れて、技術で押さえ込まれ、身体能力で圧倒される。芽依が相手にならないのは道理だった。
 「おっし。ハロウィン生まれの黒岩芽依さんや、好きな食べ物は?」
 「・・・・・・パスタ」
 「具体的には?」
 ボンゴレ――と、割と正直に答えるが、七海はへぇ~と、かなりどうでも良さそうな反応をする。
 終始やられっぱなしのストレスと併せて、芽依はひとひらの苛立ちを覚えたが、即座にゲームへ集中した。それだけ今の芽依は七海の攻略に没頭していた。
 (とにかく、相手の弱点を探るしかない)
 それからが試行錯誤だった。
 インサイド、アウトサイド、ローポスト、攻守において試せる状況をすべて試した。
 だが、攻める芽依の方がエンドラインに追い詰められ、挙げ句、ゴール寄りでボールを奪われ、そのまま鮮やかなレイバックシュートを決められてしまうと、流石に”弱点なし(オールラウンダー)“の太鼓判を押さざるを得なかった。
 少なくとも、一対一では到底太刀打ちできない。そんな分かり切った結論を得るまで、芽依は自らの身長、体重、血液型と趣味、それと特技まで開帳する羽目になっていた。
 「記憶力に自信がある? ほ~、円周率とか誕生日とか言えちゃうアレか?」
 「そういうのとは少し違う。もっと広い範囲で応用できる」
 「なら、完全記憶能力ってやつか。何でも覚えちゃうっつー、あの」
 「近いようで、遠くなったわね。完全記憶能力は視覚情報の完全な保存だから、思い出したいものがあった場合は、写真を一つ一つ取り出して眺めていくようなイメージだけど、私の場合は、意味的に近いものを記憶の塊から削り出す感じだから」
 「ふーん? なら何か証明してみせてくれよ」
 芽依は七海の追加要求を無視して、拾い上げたボールを抱えて開始位置へ。
 「いいね、そういうの。俄然興味が湧いてきた」唇を舌でチロリとなぞる七海。
 背を向けた芽依が振り返り、相手ななみと視線が激突した瞬間だ。芽依はショートドリブルでゴールへ切り込んだ。
 今のは仕切り直しだ――そう抗議されたら従わざるを得ないタイミングだった。
 ところが、不意打ちの甲斐もなく、芽依のラインは塞がれてしまう。
 身体能力に勝る相手に、パワープレイは無謀だ。芽依はフロントサイドチェンジでコートの反対側へ切り返すが、インサイドに切り込むどころか押し返されてしまう。
 苦し紛れに左に体を振る=フェイク――スピンムーヴを繰り出し、ゴールへ。
 躱した――と思えたのも一瞬で、そこはボードの真下だった。シュートもままならず、そのままエンドラインに沿ってスリーポイントラインまで後退する。
 後ろを追ってきたら再度切り返す気でいた芽依だが、予想を裏切り、七海はフリースローラインから動こうとしなかった。
 「おー、どうした? もっとぶつかって来ていいぜ?」
 息が上がりかけていた芽依に対し、七海は涼しげだった。
 (何故、振り切れないの・・・・・・!?)
 決してドリブルは遅くない。機先は制したはずだった。それとも、フェイクの入れ方が露骨だったろうか?
 考えれば考えるほど、答え(ゴール)が遠くなった。
 迷ってはいられない。時間が経てば経つほど、地力に劣る方の勝機が失われるのは自明なのだから。
 相手にプレスする気がないのを横目にすると、芽依は棒立ちでボールと大きく弾ませる。
 手に返った瞬間、軽いステップと共に膝をたわめ、そのままジャンプシュート!
 エンドライン付近からのロングシュートだ。殆ど角度がないから、直接リングを狙うしかなかった。
 ――入らない!
 そう直感した直後、予想通りリングに弾かれ、ボードに当たって宙へ返る。
 芽依は落下地点を目指すが、七海の背中がそれを阻んだ。回り込むべきか一瞬迷っている間に、ボールは逆サイドへ逸れた。
 ボールはラインを割る前に七海が捕らえた。七海のスキルを鑑みるに、ターンオーバーから突っ込んで来ることも、その場でシュートを放つことも可能だ。どちらにしても、距離を離して自由にさせるようでは問題外だ。芽依は背後に詰め寄り、プレッシャーを掛ける。
 「よっ、と」ジャンプシュートの構えの七海。
 芽依の真似をするように、ゆっくりとしたモーション――ブロックのために全力で飛ぶ芽依――ワンドリブルで横にずれてからジャンプシュート。
 まるで危なげない、入ることが約束されているかのような軌道アーチ。そして、スパンッと、ネットを通過する爽快な音がコートに響く。
 (あんな分かりやすいフェイクに引っかかるなんて・・・・・・!)
 どうやらかなり浮き足立っているらしい――芽依は冷静に状況を分析する。
 何が悪いか、どこに問題があるかなんて分かり切っている。だが、どうすればいいか、幾ら考えても答えが見つからなかった。
 自分のスタイルではないが、パワープレーでゲームを運べば勝機がある?
 小手先の技術は控えて、スピードとテンポの勝負なら相手のペースを崩せる?
 それとも、攻撃は捨てて防御に徹すればカウンターからワンチャンスを拾える?
 試すべきことはまだまだあった。しかし、それが本当に正解ゴールに繋がるのか、芽依は自信が持てなくなっていた。あまりにも勝機が見い出せず、試す価値もないのではないかと、疑いの目を向けてしまう。
 「おーし、んじゃさっきの続き――」
 七海が混乱を押さえ込もうとする芽依を横目に。
 「――と思ったけど、やっぱ無しな」
 うーん、と顎に指を添えて悩むこと数秒。七海は、指をパチンとならし、叫んだ。
 「そうだ、アタシの弱点教えてくれよ!」
 その一言には、流石の芽依も、頭に血が昇るのを抑えられなかった。
 ここまで虚仮にされたのはいつ以来だったろうか? 少なくとも、すんなり思い出せないでいるから中学に進学してからの話ではないはずだ。
 これが嫌みとか嫌がらせであったなら別の話だが、単純に実力で劣るどころか、手も足も出ない怪物がいる。そんな当たり前の現実が、この上なく悔しかった。
 どうしても連想してしまうのだ。井戸の中の蛙は大海を知らない。異世界アナザー偽蛙ギリアムも肝心な情報を知らない。二つは似たり寄ったりなのだ、と。
 芽依はそれが死ぬほど恥ずかしかった。
 「弱点? 特に見当たらないわね。フィジカルは強いし、反応がいい。スタミナもあるみたいだし、ボールコントロールなんてほぼ完璧。同性相手の1ON1じゃまず負けないと思う。でも、そうね。強いて言うなら、その底意地悪いところと、そうやって余裕を見せて遊んでしまう性格が大きな穴ね」
 芽依が容赦なく人格を断じて見せると、七海は眉根を寄せて難しい顔をする。
 「おやま、こりゃ一本取られたな。アイツと同じこと言われちまったし。 ・・・・・・やっぱそうなのか? アタシはそうは思わないんだけどなー、お前らが揃って言うんだったら、きっとそうなんだろうなー。でもさ、やっぱゲームなんだからさ、お互い楽しめなきゃ嘘だろ? 嘘っつーか損? だったら、その何だ。余裕、ってやつも必要不可欠な要素だと思わないか? そもそもアタシのポリシーってやつはさ――」
 ――云々と、七海はぶつぶつと繰り言/戯れ言を語り出す。
 そのちょっとした間に、芽依は目を閉じ、僅かに頭を垂れた。
 (いいわ。お望み通り、見せてあげる・・・・・・!)
 全ての感覚を捨て去り、心を丁寧に折り畳む――目の裏に広がる風景――足下は無限に広がる白亜の砂地、地平に繋がれた目の覚めるような蒼天。
 記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリによって創生された世界は、いつもと同じ在りようだった。
 ただ一つだけ。記憶の象徴たる泉の縁に『彼女』の姿はなかった。
 そこで、芽依の僅かな期待が剥がれ落ちていく。
 「馬鹿な話しね・・・・・・」
 常に正しい助言を与えてくれた彼女ならば、何か打開策が授けられるものと、心の奥底では期待していたのだろうか?
 これは唯の遊びではない、そう意識した瞬間から負けられなくなっていた。
 実際はワンサイドゲームだったが、だからと言って得体の知れぬ相手に助けを請おうとは、愚かにもほどがある。
 廉恥を押しやり、芽依は手にしていた記憶素子キーワードを泉に投げ込んだ。
 ――七海の弱点は何? 性格的なものじゃなく、実際的な意味での弱点。
 複合的な意味を宿した素子は、静かに水面に溶け込み、波紋を広げた。
 すると、泉の中に沈んだ前衛的な形状をした『記憶の塊』が変形し、その一部が絡まる蔦のように伸びた。
 やがて水面から姿を現すと、小さな小さな花を咲かせる。該当ヒットしたのは本当に小さな小さな情報だった。
 芽依はそっと手を伸ばした。そして指先が花弁に触れた瞬間、視界を焦がすような輝き/流れ込んでくるイメージ。
 それは芽依の見たもの/見逃したものを確かに指し示していた。
 決して体の調子が良いわけではない。
 精神こころはもうずっとすり減ったままだ。
 なのに、いつも以上の働きをしてくれる能力からだ。その理由を探し、此処にいない、目に映らない、少女じぶんの姿を幻視する。
 ――頑張れ、芽依。
 ――負けるな、芽依わたし
 確かに聞こえた。不確かな世界じぶんから。
 背中を押す、その温かな声が。

 「反撃――、いいかしら?」鋭利な視線を突きつける芽依。
 静かなその一言は、開始の合図とも、反抗の宣言とも受け取れた。
 これまでと変わりない/完全に別物だ――七海は双方向からの直感を受け取る。
 唯でさえ感情を表に出さない芽依は、表面上どこも変わりない。だが何かが変わった。
 仮に変化があったとするなら、それは胸の内ではなく最奥、体の芯と呼べるような場所。
 そこから消えたものがあった。
 気負いがなかった。
 焦りがなかった。
 不安がなかった。
 怒りがなかった。
 ただ澄み渡る気迫だけ残されている。
 人が気持ちとか気分とか呼ぶところが、この一瞬でまるで別人に置き換わったようだった。
 七海は”御剣”という生い立ちと、幼い頃より続けている古武術のおかげで、そこら辺の機微には誰よりも敏感だった。
 「オーライ。いつでも?」
 七海の返答を皮切りに、芽依は静かにドリブルを始めた。
 正面からゆっくりと近付く。そして、あと一歩――七海から仕掛ける間合いで、ぴたりと立ち止まった。
 嫌な位置だと迷う寸でのところ、七海は腕を伸ばしていた。
 併せるように、芽依の手がボールをなぞると背面を周り、正面へ押し出される。
 芽依は前傾姿勢で一歩踏み出していた。七海の真横を通り過ぎる。
 「ちっ!」
 七海は盛大に舌打ちし、慌てて芽依の背中を追った。一瞬で追いつくも、芽依は既にレイアップ姿勢に入っている。
 フェイクはない――そう判断した七海は全力で跳んだ。
 背後から延びる七海の手――芽依はブロックを避けるように左手を外へ開き、手首を利かせて放った。
 ボールはボード、リングと跳ねた後、リングの周りをなぞって遊び、
 「うぉっ、やられた・・・・・・」七海の確信めいた呟き。
 そして諦めたようにリングの中へ転がり込んだ。
 これが、芽依が七海から奪った初めてのゴールだった。
 「ふ~。今のは油断じゃなくて、マジでやられた。悔しいな~」
 言うほど悔しそうでない姿を見せられたところで、一泡吹かせてやった実感が湧いて来るはずもなく、芽依は黙って息を整える。
 「んじゃ、そっちも何でも遠慮なく聞いてくれよ? あ。一つだぞ、一つ」
 元より芽依の質問は一つしかない。しかも七海個人のことではなかった。
 それが相手にとって失礼極まりないことであると承知しながら、芽依はそれを覆そうとは思わなかった。今晩中に、二度目の奇跡が来る気がしなかったからだ。
 芽依は七海を正面に見据え、唇を開く。
 「ひかりは、?」
 その漠然とした問いかけに、七海は首を傾げた。
 「ひかり? ひかりって、あのひかりか? 本気出した、ってどういう――」
 七海は言葉の真意を確かめようとするが、ポケットの鳴動がそれを遮った。
 取り出した携帯電話のディスプレイには、電話の呼び出しマーク。相手の名前は『アホ』となっていた。
 七海は携帯電話としばし睨みっこするも、一向に鳴り止む気配をみせない。
 呼びつけた手前、無視することも出来ず、芽依に”悪い”と一言断りを入れて画面をタップした。
 『電話に出るのが遅すぎますわ! 三コール以内に出なさい、三コール以内に!』
 出だしから怒声――鼓膜を突き破りそうな剣幕で吠えたてる小夜アホのものだった。
 七海はそれを予期して、あえて携帯電話から耳を遠ざけていたにも関わらず、止まない罵詈雑言は容赦なく鼓膜に突き刺さる。
 「んで? そっちは今どこだ?」
 『どこ? そちらがエストラントセンタービル正面と指定したのでしょうが! そういうアナタ方は今どこにいるのですか!?』
 「そっから近くにあるバスケコート」
 『バスケットコートですって!? こちらが慌てて飛んできたというのに、アナタ達は暇潰しに遊び歩いていたと!?』
 七海はうんざりしたように溜め息をこぼした。何故いつも喧嘩腰なのか、そんなんで人生疲れないのか、無数の疑問が泡のように浮かんでは消えていった。
 「ちげーよ、アイツらは帰った。まぁ、そこはちょっと事情があってな。後で説明するわ。今はアタシひとり――」
 そのとき、ふと思い至る芽依の存在。さて、一緒に遊んでると正直に言って良いものだろうか? 考えを巡らせてみる。
 相手めいの立場を考えると伝えないほうが得策のように思えたが、小夜との間にあったやり取りも気になるところだった。
 「ちょっと、待ってろ」
 相手の返事を待たずして保留のアイコンをタップする七海。
 「なぁ芽依、ちょっと確認あんだけどさ――」
 七海が振り返る。そこには人影ひとつない。辺りを見渡すが、どこにも芽依の姿はなかった。まるで存在そのものが別世界に飲み込まれたかのようだと、ふと嫌な予感に駆られる。
 「・・・・・・いや、幾ら何でも気付くわな」
 自嘲気味に笑い、否定した。こんな近くで異世界アナザーが発生したら気付かないはずがない。
 では、一体どうやって芽依は消えたのか? 七海の好奇心は増すばかりだった。
 不安を感じられない七海は、こういう状況でも考えすぎない。また明日聞けばいいかと、楽観的だった。
 むしろ、問題は一秒待たされる毎にボルテージを指数関数的に上昇させているであろう電話の向こう側の女だろう。
 七海は髪をがしがし掻き毟って溜め息一つ。そして、一呼吸空けてから再び携帯電話の画面を、重々しく叩くのだった。

 七海が電話の相手と口論を繰り広げながら、バスケットコートを離れて行く。その姿を、黒衣の少女――変身した芽依は天井から眺めていた。
 高架橋の天井角の暗がりで、四肢を広げて張り付くその姿は蜘蛛のようだった。
 ――コツ、掴んだみたいだね。
 「そうでもないわ。頭痛が酷くて今にも吐き出しそうよ・・・・・・で、それはそうと、この場所に誘導した理由を教えて貰えるかしら? 危うく秘密が洩れるところだったわ」
 ――このままじゃ勝てないよ?
 誰に/何に、とは問い返さなかった。今の芽依に、倒すべき相手は一人しかいないのだから。
 「勝てなくてもいい」
 瞑目、そして落下する。
 軽やかに着地を決めた芽依は、すぐ側に転がっていたバスケットボールを拾い上げた。
 そしてジャンプシュート――センターラインからリングに向かって描かれる華麗なアーチ。
 そこには、外すという懸念など微塵も含まれない。
 スパッ! ――と、今夜一番の軽快な音と共に、ボールはリングを通り抜けた。
 あるいは入ると思い込むことが、結果を引き寄せたのかも知れない。精霊力レイズはイメージで現実を書き換える力だから、作用した可能性がないとは言い切れない。
 「七海が良いことを言ってたわ。“自分が弱いって分かってるなら、自分を強いって思ってるやつに一泡吹かせてやるのが勝負だ”って」
 強い回転の掛かっていたボールは、意思あるように、芽依の足下へ帰って来た。
 芽依はそれを拾い上げ、ジャンプする。そのイメージは、ほんの少しだけ、足下の柵を飛び越える程度のことだった。
 それだけで黒衣は、センターラインからボールと同じラインをなぞった。
 そして、片手で掴んだボールを、ダイレクトにリングへ叩き込んだ。
 ガンッ、とボードを軋ませる音が静寂に響き渡る。
 ――それで?
 芽依は微かな掌の痺れを確かめる。生まれて初めてのダンクシュートだった。
 「一生縁がないものと思っていたけど、意外な形で実現したわ」
 確かに、これは自分の力ではない。けれど。それでも。
 憧れに――、叶わぬ願いに手が届くというのは、存外に気持ちが良いものだった。
 「他人に買った負けたなんて、くだらないと思っていたけど、たまには悪くない」
 ――そこは素直に、“七海と遊ぶのちょー楽しかった”って言ったら?
 芽依は唇をきゅっと引き締めた。ソレを認めるのが悔しくて迂遠な言い方をしたというのに、まったく身も蓋もない。
 何か皮肉の一つでも言い返さなくては――そう心して顎に指先を乗せたときだ。
 黒の手袋に、蒼い火花が灯る。精霊力レイズの不純化現象だった。
 火花は一気に連鎖反応を起こし始めた。
 ――時間切れだね。
 少女は残念そうに呟く。だが芽依はそれ以上に歯痒い思いをしていた。
 「どうやら、またギリアムの力を借りなくちゃいけなさそうね」
 ギリアムの法術による界門解放は時間制限などなかった。少なくとも、一番最初の特訓では丸二日間連続で解放し続けられたのだから、例え存在したとしても、どうということはない。
 なのに、自力での変身は五分と持たなかった。こんな短時間では、対ジュエリスト戦どころか、ネオアンガー相手でもろくに戦えやしない。
 ――芽依、それがどういうことか、分かってるよね?
 脳裏思い浮かぶ過去の惨事――
 神経を奪われ屋根から転げ落ちたし、コップをひっくり返したみたいな吐血もした。精神を模した世界は崩壊寸前、体は大暴走。
 どう控えめに考えてもハッピーな結末は待ち受けていない。
 ――ギリアムの協力を仰ぐってことは、の命を削るってこと。
 ギリアムの界門解放は時間制限がない代わりに、心身へ重大な障害をもたらす。
 逃れられない死の影が、背中に張り付いているようなものだ。
 それを意識すると、胸がきつく締め付けられた。
 決闘装束デュエルドレスがいよいよ崩壊=暴走する。
 全身が青い雷火に包まれた瞬間、芽依は手を伸ばした。
 あらん限りの力で拳を握りしめ、そして、手を払う。
 炎は幻の如く霧散していた。

 「あたし、ほんとヤなやつ・・・・・・」
 喉ですり潰した呟きは、ホームの喧噪に撹拌され散り散りに。
 時分は既に帰宅ラッシュのピークタイムに差し掛かり、小桜市で最も賑わう繁華街の駅のホームは、やはり数多の人で溢れていた。
 電車を待つ人。電車から降りる人。どこから来て、どこに行くのかも知れない人の群。
 ひかりは、それを何となしに眺めていた。
 スーツで身なりを固めたサラリーマン。カジュアルな服を着崩した女性。揃いの学生服の少年少女に、奇抜な配色の格好をした老夫婦。違うようでどこか似ている人たち。
 ひかりはそんな”どこにでもいる人達”の中に溶け込めない。色も形状も地味な白月中学の制服を無難に着ているはずなのに、ホームのベンチで座っているだけなのに、酷く浮いていた。
 ひかりを目にした誰もが奇異の、あるいは好奇の目を向けた。ちらちらと。あるいは、まじまじと。
 離れていても目を引く美しい亜麻色の髪と白磁の肌、それにこの上なく整った目鼻立ちを併せ持つ美少女を見つけ、興味をそそられない方がおかしいのかも知れない。
 ところが、ひかり自身は、その誰もが羨む美貌を肯定的に捉えたことはなかった。
 何で自分は人と違う色をしているのか、その方がよほど疑問だった。
 唯の遺伝だとはとうの昔に知っていた。偶然与えられた形質であって、結果的にそれが自分だったというだけ。そこに意味などない。それも分かっていた。
 それでも理由を探さずにはいられなかった。
 ――なんで、あたしなんだろ?
 ひかりから見た他人は、誰もが”普通の人”だった。自分だけがズレていた。
 要するに、“宝生ひかり”でさえなければ何者でも良かったのに、何で自分は”宝生ひかり”になったのか。物心つく頃には、そんな哲学的違和感を抱いていた。
 進級するにつれ、薄れてはいったが、根本は変わらない――というより、変えられない。
 異質であり異物。特別ではなく特異。ありていにして言えば異端。
 ひかりが自身を普通じゃないと思うようになった原因は、容姿以外にもあった。
 宝生ひかりには秘密があった。誰にも言えない、誰にも知られてはならない秘密が。
 それはジュエリストのことは勿論、同じジュエリストの少女達にさえ隠し通さなければならなかった。
 もし知れ渡ればお終いだ。今まで築き上げてきたものが、ガラガラ音を立てて崩れてしまう。また、あの頃に逆戻りだ。
 それだけは、何としても防がなくてはいけなかった。例えどんな犠牲を払ったとしても隠し通す、その決意が”宝生ひかり”を規定していた。
 ひかりはベンチに腰掛けたまま、帰りの方面へ向かう電車だけが、もう三本以上先に駅を出ている。伏せ目がちになったまま、時間だけが苛立つほどゆっくり流れていった。
 目下、頭の中では、疑問が盛大なパレードを繰り広げている。
 その賑わいぶりに反比例/正比例し、途方に暮れそうな暗澹とした気分はどこか懐かしい。昔は毎日のように取り憑かれていたものだが、久しぶりに思い出していた。
 きっかけは、分かっていた。
 『変だよ、それ』
 夢乃の一言が、残響となって頭の中を微かに震わせていた。
 変わってるとか、天然とか、オンリーワンだとか、そんなことを言われるのは慣れっこだった。でも、変なのはダメだ。本気で疑うあの目がダメだ。気味悪がる声色がダメだ。
 普通にならないと。そうでなければ受け入れて貰えない。また弾き出されてしまう。
 どうやって直そう? どうやって繕おう? どうやって――
 そうして漠として考え事をしている最中、ひかりは一つの妙な感覚に気付き、ふと面を上げた。
 それは視線だった。どこからか見られているような、そんな気配。
 ひかりはいつも衆目を浴びるので、他人の視線にはすっかり耐性が付いていて、かなり露骨なものであっても無視してしまえた。平たく言えば、相当に鈍感でいられた。
 なのに、今向けられているものは無視できなかった。
 好奇の粘着ではなく、突き刺すような敵意の刃でもない。強いて言うなら、“冷たい手”だ。それは命あるモノではなく、ネオアンガーが標的を捉えたときのような、まるで異質な代物だった。
 警戒を厳に――ベルケムの訓戒が思い出され、ひかりは慌てて左右を見渡した。
 辺りに異変はなかった。的が外れ、急に張りつめた神経が僅かに弛緩する。
 一息ついて姿勢を正した。ふと正面を見やると、一つ向かいのホームに、一人の男性が立っていた。
 長身痩躯。着崩した真っ白なスーツに黒シャツを合わせ、飴色の髪を撫でつけた出で立ちと、クラブのナンバーワンホストといった組み合わせだったが、そこに軟派な印象はまるでない。
 背筋のピンと伸びたその立ち姿は、あたかも百年生きた大樹のごとく堂々として、それでいて瞳は死人のようにどこまでも暗い。
 互いの距離とは無関係に、男の異質な有り様が伝わる。
 宝生ひかりが太陽の輝きを持つ少女だとするなら、男は決して光の届かない場所にある深淵。ひかりとは反対の意味で人目を引いた。
 ところが、周囲の人間は、誰も男に目をくれない。すぐ隣の中年女性など、肘が触れそうな位置に立っているにも関わらず、意識している様子がなかった。男は影のように、日常に溶け込んでいた。
 瞬間、背筋を走る悪寒。
 ひかりは、彼の人物を、紛れもなく”敵”だと認識した。
 その背景や関係性、意図や言動など一切なしに、すべて超えて下される最終結論が、“あの人こそが敵”だと教えていた。
 理由は判らない。だがひかりは一片も疑わず、いつも通り受け入れ、従った。
 しばしば降りてくる確信的直感≒未来視的予感とでも呼ぶべきその感覚は、何の理屈もなしに信じられるくらい違えたことがなかった。
 無意識に、ひかりはベンチから腰を浮かせていた。
 こんな人混みで、相手が何か仕掛けて来る可能性は低い。そもそも、何かされたところで抵抗らしい抵抗などできないだろう。ジュエリストメンバーの中でも、自虐にならないくらい、ひかりの基礎能力はダントツに低い。
 それはひかりが人並みで他のメンバーが異常なのだが、とにもかくにも、ひかりは自分の身を護りきるだけ腕力も、技術も持ち合わせがない。
 (ベルケムだったら、迷わず”変身だ”って、そう言っただろうな・・・・・・)
 だが、異性の住人ベルケムの理屈に倣ったら、それはそれで大問題だ。
 こんな人目のあるところで変身したら、どんなに一瞬のことでも目撃される。奇跡的にでも、決闘装束デュエルドレス姿が携帯電話に収まったら、唯でさえ目立ちすぎる少女を、一躍時の人に祭り上げられること請け合いだ。できるはずがない。
 もっとも、相棒ベルケム不在の今は変身すらままならない。男はこの機を狙って接触して来たのだろうか?
 ややもすると、一人緊張感を高めるひかりに対し、男は泰然と動かなかった。
 両者が向き合い十数える頃、男が何か口にした。
 声の通る距離ではない。そもそも雑踏に包まれたホームだ。叫んだところで定かではないのに、ひかりには男の声が確かに聞こえた。
 ――戦え。
 低く、枯れたような響きは、耳朶を震わせなかった。
 錯覚、だろうか? だが、もし受け取った通りであったなら、一体何と戦えというのか?
 「あなたは、誰・・・・・・? あの黒い子の仲間、なの?」
 答えなど期待していない。ただ問いかけずにはいられなかった。
 「お願い、ベルケムを返して・・・・・・!」
 ひかりが胸の内をさらけ出すと、何とも間の悪い列車が、目の前を突っ切った。
 痛切な想いは、轟々と鳴る車輪にかき消されてしまう。
 過ぎゆく数秒が、途方もなく長く感じられた。
 ようやく流れる景色が途切れたとき、果たして男の姿はなかった。
 まるで、男だけが世界から切り取られてしまったかのようだった。
 そのあっけない幕切れに、ひかりは浮かしかけた腰を、そのままストンとベンチに落とし、うなだれた。
 その態度に、誇張表現はない。ひかりの落胆ぶりは決して小さくなかった。
 ベルケムを奪われてから今日という日まで、ひかりはベルケムを探しに出ていない。
 より正確には、捜索そのものを禁じられていた。
 何の手掛かりがなければ探しようがない――揺るがぬ正論を繰り返す精霊と、ジュエリストメンバーの説得が、足に重石を括り付けていた。
 ベルケムの捜索は、ファルケル、カタリナ、ココロアの三精霊が担った。ひかり達前線のジュエリストの役割は、あの黒い少女を捕まえる戦術の検討と練習だった。
 その分担が最善だというくらい、ひかりにだって判っていた。もしベルケムがその場にいたとしても同じ筋道を語っただろう。普段から何かと衝突の絶えない精霊同士であっても、こんな時の思考は不思議と一致する。
 何かしたくても何もできない状況は、ひかりに随分と忍耐を強いた。
 何もできないんだったら、せめて考えないようにしたかった。
 そうして無理して遠出して買い物に来たというのに、友達らとケンカして、せっかくの手掛かりを逃がして、泥沼的思考にはまっている。
 (みんなだったら、すぐ追っかけていたのかな?)
 ひかりの中で、気持ちばかりが激しく揺れていた。
 (・・・・・・もし、芽依ちゃんだったら?)
 自問――きっと線路を突っ切って/最短距離で――自答。
 そんな無茶苦茶なハードルをも越えてしまえる鮮やかな少女の後ろ姿を幻視した。
 いや、いつも冷静すぎるくらい冷静な彼女のことだ、そんなことするはずがない。状況をしっかり分析してから動くだろう。きっと今の自分と同じ結末に至ったはずだ。
 だが、何故か過ぎた妄想だと笑い飛ばせない。本当に必要だった場合、どんなことでも平然とやってのける。それがひかりの知る”黒岩芽依”という少女だった。
 (あたし、ホント救えないバカだ)
 誰かに今の気持ちを伝えたかった。聞いて欲しかった。知って貰いたかった。等身大の宝生ひかりを。心配で、不安で、でもどうしようもなく無力な自分のことを。羨ましがられる価値なんてない唯の人間だということを。
 だが、同時に怖がった。
 ジュエリストの仲間達には伝えられなかった。迷惑を掛けたくなかった。
 他の友達や両親にも伝えられなかった。失望されたくなかった。
 ひかりは、何も、誰も傷つくことない答えを欲しがった。
 考えて。分からなくて。それでも考えた。
 ――そして、答えに辿り着いた。
 やはり、これを渡して、仲直りして、話を聞いて貰おう。
 いつも堂々として、誰よりカッコイイ彼女なら、きっと正しい答えを示してくれる。
 それがおかしなことだと言われたって構わなかった。
 ――人はいつも自分が正しいと思ってるものよ。自分の正しさなんて、この掌の上の程度なのにね。
 変な子だって言われたってへっちゃらだった。
 ――もし自分と違うものが間違いだというなら、悲しいことに、この世界には正しいものが無くなってしまう。
 普通じゃなくたって。気持ち悪がられたって。
 ――それは、きっと、たぶん、素晴らしい贈り物なのよ。アナタを苦しめるためにあるんじゃない。いつか、正しい使い方が見つかると良いわね。
 ひかりは二つの手を合わせ、額に押しつけて祈った。
 この想いが届くように。二人があの頃へ戻れるように、と。
 そして、ひかりの願いは叶うことになる。
 “黒岩芽依との決闘”という、最悪の形でもって。

 「これで最後ね」
 そう言って芽依は、地図に残された最後の穴をボールペンで黒く塗り潰した。異世界アナザーの出現によって虫食いになっていた探索領域が、ようやく終わりを迎えた瞬間だった。
 芽依は腕時計で時間を確かめる。どうにか日付を跨ぐ前に終わらせることができたようだ。
 日のある内は幼い声の響き渡るこの集合団地も、今は死んだように寝静まり、隣接した小さな公園には、寂しさだけが残されていた。
 芽依はその端っこに設けられたブランコに腰掛け、手元の地図を今一度眺めていた。
 小桜市の全域を表した大きな紙面から、これまでの道のりの長さが滲んで来るようだった。
 勿論、全部が全部という訳ではない。実際は異世界アナザーの出現に紛れ、決闘装束デュエルドレスを使っている。
 工場や森など、人の足でなかなか立ち入れないような場所は、概ね変身した状態で調べた。その割合も相当なものだったが、それでも踏破したという事実に変わりない。
 街灯の青白い光が頼りなく照らす中、芽依は足下に目配らせする。
 「アレはこの世界に――少なくとも小桜市内にはない、それが調査の結論」
 約二週間、昼夜に渡り小桜市全域を隈無く歩き通したのだ。本来なら感慨ひとしおという場面だが、芽依は実に淡泊な物言いをした。
 端っから深海の沈没船を探すような確率の挑戦であることは分かりきっていた。空振りして当然。神様か悪魔の悪戯的なイベントはない。そう割り切って取り組んでいた芽依だからこその態度だった。
 <ふン。結局見つからず終い、か。手掛かりもなし。さて、どうしたもンかね?>
 異形の蛙擬き(ギリアム)はブランコを囲う鉄柵の隅に寄りかかりながら、ギザったらしく額に指を乗せて思案げだった。
 「どうしたもこうしたもないでしょ? とりあえず彼に聞いてみればいい。“実は隠し持ってませんか?“、って」
 芽依が何気ない調子で示唆すると、ギリアムは左右非対称の眼球をぎょろりと動かしては、芽依と、芽依の足下に置かれた鳥籠を交互に見やり、
 <嫌だね。精霊の言葉なんぞ信じらンねーよ>
 忌々しげに吐き捨てた。
 「それは、“自分は嘘吐き妄想癖の最低です”って懺悔していると思って良いの?」
 すかさず揚げ足を絡め取る芽依。ギリアムは唯でさえ歪みきった顔面を崩して憤慨する。
 <今の文脈からどう解釈したらそンな結論に至る!? 俺は例外に決まってンだろ! ソイツが本当のことを白状ゲロするか分からンと言ってる!>
 吸盤の付いた指先が指し示した芽依の足下――鳥籠の中で横たわる蒼炎の鷹=精霊ベルケムだ。
 <大体、何だって連れて行く? 俺が監視してりゃ十分だろうが!>
 「家の中にばかりいたら気が滅入るでしょ。外に出たら、色々と気が変わるかも知れない」
 <お前・・・・・・、本気で言ってンのか?>
 「勿論、冗談」いつもの真顔で「ギリアムの監視、及び対応能力に疑問があったからに決まってるでしょ?」
 <お前・・・・・・、本気で言ってンのか?>
 「当然、本気」
 芽依が変わらない調子で答える。流石のギリアムも、口をへの字にして憤りを堪えるしかなかった。
 元より、自宅アパートでの幽閉を主張するギリアムを押し切る形でベルケムを外へ連れ出したものだから、ギリアムの機嫌はすこぶる悪かった。
 だが、芽依にはリスクを犯すだけの理由があった。
 傍目には夜な夜な空っぽの鳥籠を持ち歩く奇特な少女に映っただろうが、今夜だけは、自分の目の届かない場所に放置してはならなかった。
 「ギリアムの目には、彼がどんな状態に映る?」
 <あぁン? 見りゃ分かるだろ。普通にくたってるぞ。何たって《聖光ホーリー》だ。自分を形作る精霊力レイズを解放したんだ、今ここにいるのが奇跡ってもんだ>
 「10点」
 <ンだそりゃ? 何の話だ>
 「アナタの観察眼の話。もちろん100点満点で10点」
 <人間の数えは知らん。当然、良い評価なんだろうな?>
 「残念。最悪な部類ね」
 <なン・・・・・・、だと?>
 「アナタ、その姿になってから人間の世界に慣れ過ぎてるみたいね。あるいは本気で言ってるのかも知れないけど」
 芽依は地図をコートのポケットにしまい込んで、足を組み直す。
 「弱ってるように見せているだけ。そうやって油断を誘ってる。あるいは隙を伺ってる。精霊力レイズの総量こそ巧く偽装しているけど、流れは規則的になってる。初見での乱れようと比較すると明らかね」
 <・・・・・・まったく、お前の方こそ稚拙だな。せっかく俺が気付かない演技をしてるっつーのに、台無しだぞ>
 「こうやって状況をキチンと把握していると伝えることこそ最大の牽制になる。彼を相手に、中途半端な隠し事は逆効果」
 <何故だ。コイツに対して出来ることが、何故俺にできない!?>
 「嫉妬? みっともないわね」
 <いいや、いい加減ウンザリしてるってだけだ>
 「それは好都合ね。この関係も明日が最後だから。繰り返しになって恐縮だけど、改めて確認するわ。私たちの契約は例のモノの探索に協力することであって、入手する義務はない――そうよね?」
 <ああ、その通りだな。アレがこの世界に――この街にあるのは確実だった。それが見つからないってことは、お前がよほど無能か、俺がちっとばかし不運だってこった>
 それから芽依は、ギリアムの皮肉に応酬することなく黙考した。
 <どうした? いきなり黙りやがって>
 「・・・・・・明日、この街に大規模な異世界アナザーが発生するわ。私はそこではやり残しを片づけて、それでこの街を去る」
 <だから何だ。気でも変わったのか?>
 「いいえ。期待を持たせるようで悪いけど、運が良ければ見つかるかも知れないって、そんな予感がしてるだけ」
 <ほぉ? なら本当に期待していいかもな>
 「・・・・・・何故?」
 <分かるだろ? お前の悪運は底なしだからさ。もっと不幸にまみれやがれクソ人間。そしたら俺はその分だけ最高に幸せになれる>
 「驚いた。ギリアムにしてはなかなか気の利いた台詞ね。ご褒美に、そのよく動く舌を二枚におろして上げたくなる。それで今度から上の方の舌を使って頂戴。そうしたらもっとエレガントな会話を嗜むことができると思うわ」
 一間空いて、一人と一匹は小さく笑い合った――というには冷笑じみていたが。
 恐らくは、最初で――そして、最後になるであろう瞬間だった。
 「歓談中、失礼する」
 二人に繋がり掛けた細い、とても細い糸を断ち切る重厚な響き。
 「幾つか質問をしてもいいだろうか?」
 <ダ――>「どうぞ」
 ギリアムにかぶせて許可する芽依。
 「君たちは捜し物をしているらしいが、一体何を探している?」
 <そう易々――>「力の宝珠よ」
 ギリアムは目を剥いて見上げ、芽依は片手を上げて視線ソレを遮る。
 任せろ、というサインがギリアムの目にどう映ったのか定かではないが、蛙擬きはケッと吐き捨て、押し黙った。
 「精霊界の秘宝、らしいのだけど。何か知ってる?」
 「君が、彼にどう教わったのか定かではないが、情報が正しくない可能性がある」
 「その心は?」
 「力の宝珠は厳重に封印されている。それは個々がどうこう出来る代物ではない」
 「つまり、そもそもこの世界に落とされていない。ギリアムの主張は嘘だと?」
 「そうは言っていない。少なくとも、我々がこちらに来る前にそんな大事件は起きていなかった。こちら側に来た後、我々は頻繁に出現する異世界アナザーの中に飛び込んでいたが、それ以外の時間で秘宝級の存在を感知したことはない。つまり、彼は偽物を本物だと思いこんだ可能性がある、ということだ」
 <おい、分かってるかと思うが、単にこいつらが隠し持ってるだけ、という可能性だって大いにあるぞ>
 「――と、ギリアムは言うのだけど、本当に持っていたりするのかしら?」
 「君達は、力の宝珠を手に入れてどうするつもりだ。何に使う」
 「私は何も。ギリアムが欲しい、といってるからその手伝いをしているだけ」
 「彼が何らかの悪事に荷担しているとは考えないのか? 結果的にこの世界へ害をなすとは」
 「そうね。その可能性は否定できない。本人にその気がなくとも、利用されているだけということもあるし、むしろ、その方がギリアムらしいとも言える――」
 あまりの言いように、ギリアムは怒りに頬をひくつかせ、
 「――でも、それが何か問題?」
 そして沈黙が走る。
 ベルケムはおろか、ギリアムでさえ呆気に取られ言葉にならない。
 「例えば、私が確保したなら、その後でトラブルに巻き込まれる可能性が上がる。それはあなた達が確保しても同じ。意図せず他人を――この街を巻き込む。結局、大きな力は必ず持て余す。誰が持っていても問題は起こりえる。なら、私は”精霊界に持ち帰るだけ”というギリアムの矜持を信じる」
 「・・・・・・そうか。君の意思は分かった。では、彼が正義を成すと信じる君を信じるとしよう」
 「それはどうも。で、持っているの? いないの?」
 「残念ながら持っていない。だが、君が交渉に応じるようであれば、我々は君達の探索に協力してもいい。我々の仲間には君より速く動ける者もいれば、優れた探索能力を発揮する者もいる。君一人が隠れて駆けずり回るよりよほど効率よく捜索可能だろう」
 ベルケムの忌憚ない意見に、芽依は反発も賛同もなかった。
 「・・・・・・条件は?」
 「我々へ危害を及ぼさないこと。また、我々の敵の排除に協力すること。この二点だ」
 「果たしてアナタの仲間がそれを受け入れるかしら?」
 芽依は善し悪しの前に、そもそも成立するかどうかを疑った。芽依に言えた義理ではないが、取引材料を持たないギリアムの意見など、まともに取り合われるはずがない。
 「当然、個々に反発はあるだろう。しかし、結果的に、聖霊セイントは大局的な観点で行動することになる。譲歩できるものがあれば、多少の問題は目を瞑る」
 <多少の問題ときたか。流石、正義の規範たる聖霊セイントだ。言うことが違う。おい、メイ。聞いたか。お前の命がけの特攻なんぞ取るに足らんとさ。現実を教えて貰ってよかったな!>
 そんなギリアムの予想外の抗弁に、芽依は少しだけ――いや、かなり驚かされた。
 (馬鹿にされたとでも思ったの? ・・・・・・本当に馬鹿ね)
 そして、相棒の愚かさを小さく笑った。侮られて気炎を上げるべきは芽依の方だと言うのに。
 「気を悪くしたのなら謝罪しよう。私はあくまで力の宝珠そのものに対して提起したまでだ。君達に対し、何ら含むところはない。私の判断基準に基づきこの問題を確率と優先度を捉えると、“その影響度は小さく限定的”と、そう結論づけた次第だ。
 確かに力の宝珠は秘宝の一つに数えられる。にも関わらず、その機能や性能は一切不明だ。何しろ、誰も使えたことがない。精霊の我々ですら扱えない代物を、こちらの世界の者がどうにかできるとは思えない。確かに他の秘宝であれば、ゆゆしき事態だが、あれに限って言えば可能性の端で僅かに引っかかっているようなものだ。その重要度は高くとも、優先度は限りなく低い」
 自分と同じ結論を語るベルケムに、芽依は軽く首肯して共感を示す。
 「こちらからも条件を付けるわ。アナタ達が探索に協力するとして、本当に回収できた場合、力の宝珠の所有権はギリアムにあり、あなた達は彼が精霊界に戻るまで手出しないこと」
 「・・・・・・いいだろう」
 <甘いな。コイツを見てみろ。幾ら精霊お前らが納得しても、人間ジュエリストが素直に従うわけがない>
 意趣返しとばかりに、力一杯芽依を指さすギリアム。
 「その点に関しては心配いらない」
 すかさず答えたのは芽依だった。
 「彼女達の敵は私であって、ギリアムじゃない。私がこの街を去る以上、問題は――――起こるかも知れないわね。ギリアムの姿や言動を見聞きしたら、私じゃなくても殺意が氾濫する可能性は大きい。姿を隠しておくことを奨めるわ。ベルケムが精霊を説得し、ギリアムの存在を伏せたまま力の宝珠を探すよう誘導。回収し次第ギリアムに譲渡。ギリアムはこれを精霊界へ持ち帰る。どうかしら?」
 <悪くない条件のはずなのに素直に認められないのは何でだッ!?>
 ギリアムは両手の水掻きで顔を覆い/大いに嘆いた。
 「悪いがそれはできない。協力をする以上、我々の前に姿を見せて貰う。一緒に戦えとは言わないが、せめて同じ場所に立って同じ方向を向いて貰う」
 「それは、裏で手駒をコソコソ育てられる可能性を警戒してこと? 残念ながらギリアムにそこまでの甲斐性はないわ。もし、そうならとっくに私のようなジュエリスト擬きが頭数を揃えてる。それでも心配なら、ベルケムの代わりにそこへ幽閉しても良いと思う」
 <・・・・・・おい、ちょっと待て。何故俺が捕虜のような扱いをされなくちゃならん!>
 「そうね。それじゃ鳥籠に失礼だった。ゴミ箱に捨て置くことを推奨するわ」
 <ゴミのような扱いされちまったぞ、おいッ!>
 「“~のような”は不要よ」
 <ゴミ? 俺はゴミなのか? それでいいのか? 俺!>
 「ゴミ・・・・・・というか、不審物? 高火力焼却したい産業廃棄物の方が近いかも」
 <分かる! お前の戯れ言の意味は分からなくとも、何か酷い扱いを受けていることだけは痛いほど伝わってくるぅ!?>
 「いや、そうではない。これは単純に誠意の問題にすぎない。そもそも、ジュエリストの人数は、精霊を上回らない」
 まるで何事もなかったかのように、ベルケムは脱線しかけた話題を引き戻した。
 「それは前も聞いたわ。理由は何なのかしら?」
 「ひとえに個々の契約を重んじる精霊の気質もあるが、最たる理由は、界門を開ける法術が己の存在を賭けているからだ。仮に、君が決闘装束デュエルドレスを纏った状態で命を落としたとする。その場合、界門を開く鍵となった彼も同時に失われる。つまり、契約者を増やせば、確かに戦力は強化できるが、己が消える可能性をも高めることになる。唯でさえ聖刻を持った人間は少なく、その中でも特別な資質を持った者は限られている。粗末な二人目を考えるくらいなら、才能豊かな一人のパートナーを成長させる方が理にかなっている」
 ベルケムは原則を語りながら、例外を否定しなかった。奇跡的に複数人見つけられた場合、その限りではない、ということだ。
 相手に隠し玉がいる可能性を心に留めつつ、芽依は更なる可能性を模索した。
 「・・・・・・反対に、契約した精霊が先に消滅した場合は?」
 <そんときゃ決闘装束デュエルドレスが使えなくなるだけだ。それ以上の問題はねーよ。それこそ大した問題じゃないだろ>
 初めて聞かされる不利益ペナルティに、芽依は僅かに眉根を寄せた。
 決闘装束デュエルドレスの制約といえば、ギリアムの背負った呪いのとばっちりだけだと――自分が被害を被るばかりだと――思っていた。だが、実際はギリアムもリスクを分けあっていた。
 如何なる覚悟を持って芽依に契約を持ちかけたのか。相棒となった芽依への期待がどれほどのものだったのか。
 手前勝手に過ぎるその心中を察し、じわりと胃が熱くなった。
 それでも、芽依は相手の思いの丈に応えてやろうなどとは、一ミリたりとも思わない。
 ところが、
 (ギリアムの選択は間違っていない)
 「ギリアムと心中なんて気持ち悪い」
 胸を挟んだ内と外で、言葉がすれ違うのだ。
 「そのときはお願いだから、私の後を追って来ないで貰える?」
 <・・・・・・馬鹿野郎。こんなところでくたばってたまるか。“死霊”になってでも力の宝珠を手に入れてみせるぜ>
 「それはよかった。それと、今更だけど、ギリアムが消えると、決闘装束デュエルドレスも失われるなんて聞いてなかった。それって、ジャンプ一つの最中でも死ぬ可能性があるってことよね? 重ねてお願いするけど、勝手に死なないで。もし死にそうになったら、ちゃんと私にお伺いを立てた後、こちらが許可を出したタイミングで速やかに逝って頂戴」
 <ふン。自分の消えた後のことなんぞ知ったことか。それに、お前には《部分兵装解放パーティシャルアクト》っつー盛大な自爆技があるだろうが。手前てめぇでなんとかしやがれ。それとな、死ぬの死なないので言えばお前の方が圧倒的に死地に近いぞ。この前のことを、その足りない頭でよーく思い出してみるんだな>
 ギリアムの酷く耳障りで、思いやり皆無のフォローを、芽依は秋夜のそよ風の如く流しては微笑を浮かべる。
 満月と並ぶ穏やかな横顔――宝石にも劣らぬ美しさ/気高さ――劇薬混じり/一泡の夢は見られず。
 「それで、提案は受け入れて貰えるだろうか」
 「却下ね」<却下だ>
 一人と一匹は口を揃えて即答。
 「理由を、聞かせて欲しい」
 体躯より溢れる蒼炎は揺らげど、ベルケムはブレない。
 <俺は誇り高き精霊だ。そして、今はこのクソ生意気な人間が俺の相棒だ。だから相棒の敵は俺の敵だ>
 ギリアムの粛然とした面持ち――とは言い難い容貌だったが、真摯な想いが伝わる。
 「ちなみに、私の理由はギリアムと全然違う」
 それを踏みにじり、芽依は己が筋を通さんとする。
 「私の目的は、この街を、あの狂った世界から護ることだから。ここで宝生ひかりを叩きのめさなくちゃ、この街を護りきれない。だから、宝生ひかりを擁護するであろう人間とは相容れない。もちろん、精霊とも」
 ベルケムはじっと芽依を――芽依の精霊力レイズの流れを視ていた。
 自らの意思を語る少女の言葉に、嘘偽りはなかった。
 「そのおかしな言い分を聞くのは二度目だな。君の説得が困難なようなのでこちらも実直に述べさせて貰うが、その思考は破綻している。何の実も持たない論理だ。彼女と協調することが最も合理的な解である以上、対立していては真の敵を利するだけであり、君にも、この街にも益をもたらさない」
 「理解し辛いと思うけど、私があの子と共に歩むという選択肢は、初めから存在しないの。話の前提条件はね、私はこの街を去る、ということにあるから。これは私とあの子の関係や、ジュエリストがどうのこうのではなく、人間社会としての制約だから、私にはどうにもならない」
 「この街を護りたい、それが君の願いではないのか?」
 すべてをなげうって別世界に飛び込んで来た精霊に、たまたま巻き込まれた一人の少女の気持ちなど分かるまい。まして、復讐するための力を欲して、復讐の相手が何処にもいないのだと悟ってしまった愚者の感情など。
 芽依は自身の葛藤を解きほぐすように、丁寧に説明を始める。
 「そう。私はこの街を、あの異世界アナザーの侵略から護りたい。私のような間抜けは、もう一人たりとも出したくない――でも、すべて自分の手で護りきるだなんておこがましいことは、一言も言っていない。極論、私は見てるだけでもいい。誰か優秀な人が真剣に引き受けてくれるならそれで構わない。例え、その結果が最悪なものであっても、私はきっとそれを受け入れられる」
 「なるほど。君は彼女達の姿勢から、全力を出していないと考えたわけか。それで未知の敵を演じ、緊張感を煽ろうと――」
 いいえ、と芽依は強く遮った。
 「他の子のことは知らない。私が問題視しているのはではなく、だけ。ベルケム、アナタの相棒は、これまで一度たりとも全力を出していない」
 「・・・・・・彼女の名誉のために言っておくが、彼女は常に全霊でもって取り組んでいる。実力の及ばない部分は多々あるが、そのための仲間であり、戦術だ。決して彼女一人の問題ではない」
 大きく首を振る芽依。
 「違う。やはり彼女一人の問題でしかない。あの子が全力を――、持てる才能を十全と活かせないのは他の誰のせいでもない、あの子自身の問題だから」
 芽依の固執ぶりに、流石のベルケムも訝った。何が芽依をそこまで確信させるのか図りかねるのだ。
 「そうなると、まるで君が彼女を鍛え、その才能を引き出す、とでも言いたげだな。それがこの街を護ることになると? 君は彼女を過大評価しすぎている。ジュエリストの能力は人智を超えるが、それでも人間だ。人間は万能足り得ない。故に、彼女に眠れる才能があったとしても、それは一個人の力に過ぎない」
 過大評価/一人の人間の限界。面白い表現だと、芽依は思う。
 人の手は二つしかないのだから、できることは限られている。それが常識だ。
 だが、ジュエリストに――宝生ひかりに――芽依の常識は当てはまらない。
 芽依は宝生ひかりという人間を――嫌いだと豪語してやまない人間の才能を――絶対的に信用していた。
 「“引き出す”? それこそ本気でとおこがましいと思う。私に、あの子を鍛えることなんてできない。これでも自分と相手の性能スペックを公平に評価しているつもりよ」
 芽依はブランコから腰を上げ、ジーンズの埃を払った。ポケットから取り出した黒の手袋を二つの手にはめ、冷えた指先を曲げ延ばしして感触を確かめる。
 「・・・・・・では、君が、彼女と相対することの本質は何だと?」
 「ねぇ、ベルケム。アナタ達精霊は、ジュエリストの刻印装具シールズと融合した際、その制御を担うのよね?」
 芽依は相手の問いに、自らの疑問を被せて潰す。
 「だから、刻印装具シールズと精霊の組み合わせ次第では、ジュエリストに成り立てから最強である可能性も皆無じゃない――これは、精霊にジュエリストの能力を引き出す機能があるとするギリアムの意見。だけど、それって、反対の意味での解釈も可能よね。
 つまり、制御するのだから、ジュエリストの能力を抑制することや、最悪、禁じることだって出来るんじゃない?」加速する質問/畳みかけるように「精霊は、ジュエリストから能力を奪える。自分達の意図にそぐわぬ働きをするなら押さえつけざるをえないと、穏やかな恫喝をしているようなものね。でも、それは悪じゃなく、むしろ道理。精霊だれだって無償タダで力を与えるわけがない。自らの使命を持ち、この世界から消滅するリスクを背負っている以上、慎重に慎重を重ねるのは当然のこと。まぁ、そもそも引き出してあげている、という時点で、そんなリスクは低いのだけど・・・・・・」
 芽依は一区切り置く。本題に切り込む直前の一間が、妙に重かった。
 「問題は、相棒が害意も、敵意も、悪意すらなく、無意識≒無自覚に力を発散させてしまうような場合。これは無理矢理にでも抑制する必要がある。
 もう少し相手の立場に寄り添った表現をするなら、上手く制御してあげなくてはならない、かしら? そうしなければ――そうでもしなければ――敵より先に味方が、味方より先に、この街が滅んでしまいかねない。そんなが相棒だった場合、精霊アナタは、の如き力を、普通の、一個人の力に落とし込まなくてはならない。そうよね?」
 押し黙る相手ベルケムに対し、芽依はふと思い出したように切り出した。
 「そういえば、先ほどのベルケムの質問だけど――“対立することの本質”、よね? 眠れる才能を引き出すつもりでないなら何なのだ、と。そうね、その点に関しては色々考えたけど、結論としてはそんなご大層な話じゃないの。あの子のああいう態度にムカついたっていう、ただそれだけのこと。要するに、ただの八つ当たり。くだらない動機で申し訳ないわね」
 「・・・・・・今の彼女に手を出すのは止めた方が賢明だ。それが出来ないというのであれば、せめて私を解放したまえ。さもなければ死ぬことになるぞ。確実にだ」ベルケムの警告/勧告。
 雄弁な助言よりも真に迫る重厚な響きが、芽依の胸をジクリと打つ。
 瞬間、言葉にできない感嘆が芽依の四肢を振るわせていた。
 聞きたかった一言が、ようやく聞けた。自分の推察は間違っていなかった。それを保証された。ただそれだけのことで、満足感が溢れそうだった。もう自分が渇望した結末は約束されたようなものだった。
 (後は、自分がどれだけあの子をぶちのめせるか次第・・・・・・)
 薄い唇が、綺麗な三日月を描いて己が運命を嘲笑う。
 「望むところよ。私に罰をくれるっていうなら、代わりに見せてあげる。本当の”死に物狂い”が、どんな素敵な顔をしているかって」
 見上げた夜空には輝く満月/白い雲で薄化粧。
 月下で咲き乱れる黒い衝動は、少女自身の願いと重なり、深く影を刷る。
 鋭利な刃物を思わせる少女の双眸は、月明かりで研がれ、狂喜の光を映していた。


 最後の日の朝は、拍子抜けするほど普段通りだった。
 いつも通り古びたアパートの一室で目を覚まし、いつも通り身支度を一通り整え、いつも通り簡単な朝食を一瞬で済ませ、いつも通り一人玄関をくぐる。
 通い慣れた通学路を歩く。乾いた冷たい風に、色づく銀杏の落ち葉が蹴散らされていた。
 冷たい空気に、差し込む朝日が暖かい。気まぐれに顔を覗かせた冬の気配だった。
 日々眺めていたはずの景色に、四季の移り変わりを映し見て驚く。
 過ぎた時間のなんと早いことか。瞬く間とは言い得て妙だ。
 ほんの一月にも満たない間に、この世界の在り方は変わりすぎてしまった。
 目を閉じれば消えてなくなりそうな、そんな儚さを感じずにはいられない。
 別に感傷に浸っているのではない。現実と異世界アナザーを行き来し過ぎたせいで、破壊と再生を繰り返すこの街が実在するのか、それが曖昧になりかけていた。
 他に幾つかの実感は狂って壊れたが、新たに芽生えたものもある。
 感情と薄皮一枚隔てた意識の向こう側。そこで当たり前のように巣くった”黒い衝動”の存在を感じていた。
 芽依が黒い衝動と呼ぶ、決闘装束デュエルドレスの副作用で実体化した情動は、世界めいに牙を突き立てる機会を虎視眈々と狙っていた。
 これまで幾度恐れ、苦しめられただろう?
 克服などしていない。この先も、飼い慣らすことなど不可能だろう。手に負えないからこそ怪物なのだ。
 そんな制御不能の怪物じぶんだが、今は頼もしくあった。
 これから戦う相手はそれと同じくらい理解と常識を超えている。非常識を殺せる武器は一つでも多い方が良い。例えそれが自爆スイッチであったとしても。
 やがて白月中学校の正門へ辿り着く。早朝というだけあって生徒の気配はなかった。部活の朝練が始まるまで、まだ暫く時間がありそうだ。
 下駄箱で上履きに履き替え、職員室に向かった。
 失礼します、と一言添えて入室する。中には誰もいなかったが、どこか人の気配が残されていた。教職員の誰かはいるが、今は席を外しているのだろう。
 気に留めず、デイバッグの中から封筒を取り出し、担任の机にそっと置いた。
 “退学願い”と書かれたその封筒に、特段意味はない。ただ、こんな物珍しい書類を出す上でクリアファイルでは何となく色味がないと、洒落を利かせたまでだ。
 この期に及んでくだらないと自嘲するが、反面、何事もケジメは大切だとも思う。
 多分、人には儀式が必要なのだ。これが終わりと始まりの節目だと印象付けるための儀式が。
 芽依は無言のまま教室を退室し、儀式の準備に取り掛かった――と言っても、相手を待つだけだから、これといってやることはない。
 準備運動くらいしておくべきか一瞬だけ考えたが、公平さに欠けるし、最初は準備運動みたいなものになることが明白だったので、そのまま待つことにした。
 校舎の端っこ、朝日の差し込まない廊下で壁に背を預けた。目を閉じ、腕を組んで、静かに呼吸する。
 幾らか時間が過ぎた頃だ。人の気配を感じ取り、目を開いた。
 「・・・・・・あれ? 芽依ちゃん?」
 驚きの声はやや遠巻きから。
 小声でも十分に届く距離まで相手が近寄ってから芽依は返事をした。
 「お早う。今朝は随分と早いのね」
 普段なら夢乃はひかりと遅刻ぎりぎりで滑り込む。誰よりも早く教室に入り、本を読んで時間を潰す芽依にとっては、意外な出会いでもあった。
 「あはは・・・・・・今日は、ちょっと、その、いろいろ、訳があって・・・・・・」
 芽依はぶつ切りにトーンダウンしていく理由を追求することなく、そう、と気のない相槌を打ち、それっきりと黙った。
 朝の爽やかな空気が重くなる前に、夢乃はポンっとわざとらしく手を叩いてみせる。
 「あ、そうだ。芽依ちゃんに渡したいものがあったんだった」
 そう言って夢乃が手提てさげ袋から取り出したものを、「はい、これ」と、やや押しつけるように芽依へ手渡した。
 「クッキー?」
 透明なビニル袋に赤いリボンでラッピングされた贈り物は、どこからどう見てもクッキー以外には見えない。芽依が確かめたかったのは、それが何故自分に贈られたのか、だ。
 「うん。昨日、作りすぎちゃったんだ。お裾分け。良かったら食べて? 味は悪くない、と思うんだけど――――え?」
 芽依はおもむろに包みのリボンをほどき、クッキーを一つ摘まんでは頬張った。
 甘すぎず、しっとりとした触感が第一印象。次いでバターの香りが口の中に広がる。
 シンプルで絶妙なバランスの味わい。手作りにしては上等すぎる。
 「驚き。本当に美味しい。私、お菓子作りは門外漢だけど、これってかなりの出来だと思う。誰から教わったの?」
 「・・・・・・え? あ。は、初めは本を、見て。その後は、自分で。お母さんとか、意見を聞きながら、だけど」
 夢乃は丸まりかけていた背筋をピンと伸ばし、たどたどしく答えた。
 「これ、ありがとう。残りも美味しく頂かせて貰う」
 「え? あ、うん。分かった」
 いちいち驚く素振りを見せる夢乃に、芽依が訝る。
 プレゼントを受け取って、褒め称えることが、そんなに意外だったのだろうか?
 意外だったのだろう。もしかしたら渡す予定もなかったのかも知れない。
 まだ何か言いたげな表情の夢乃に、芽依は視線で問うた。
 「あのね! また今度作るから、絶対。あの、だから・・・・・・また、食べて貰える?」
 今度は芽依の方が驚かされた。
 最近は会話の度に、いちいち驚かされっぱなしだった。
 夢乃/七海/小夜、花音/詩音、ギリアム/ベルケム、そしてカーウェイン=ストレイマン。奇縁としか言いようのない出会いばかりが思い出される。
 ――あの子とも、話せば何か驚かされる?
 予期せぬ想いが頭を掠め、はっと我に返る。
 「そうね。アップルパイだったら考えておく。 ・・・・・・ああ、私、ここで人と待ち合わせしてるから、お先にどうぞ」
 「うん。じゃあ、また、教室で」
 はにかみ顔を見せて立ち去ろうとする夢乃だったが、ふと、その足を止めた。
 同時に芽依も夢乃と同じ方向に向き直る。
 そこに、宝生ひかりが立っていた。
 ひかりは真っ直ぐ二人の元へ歩いた。声のかかるところまで近寄って、おはよう、と夢乃に軽く挨拶をする。
 芽依からは夢乃の背中しか見えなかったが、両者の雰囲気がいつもと違うことに気付いた。喧嘩でもしたのだろうか。
 「黒岩さん、おはよう! はい、これ、プレゼント!」
 ひかりは唐突に、信じられない大声と小箱を芽依に差し出した。
 マットな感触の包装が、品質の高さを裏付けるような箱だ。反射的に返そうとしたが、ひかりは押しつけるようにして持たせた。
 「もうすぐ誕生日だよね? だからちょっと気が早いと思ったんだけどさ、渡したくなっちゃって。もう我慢できないぜーって! あはは。開けてみて! きっと似合うと思うんだ」
 言われるまま、芽依は丁寧に開封する。小箱の中には白いマフラーが入っていた。
 その見た目もさることながら、指先で触れると、とても滑らかで上質だった。
 使い古したものしか持たない芽依にとっては、喜ばしいことこの上ない贈り物だ。
 「あたし、黒岩さんと仲良くなりたい」
 ひかりの真っ直ぐな瞳が、芽依を見つめた。
 「みんなが、黒岩さんと仲良くなって貰いたい」
 真剣で、真摯で、切実な思いをぶつけた。
 「今までごめんなさい。あたしが、変なこと言ったり、やらかしたり。迷惑かけちゃったと思う。あたしって自分のことばっかで、人の気を知らないっていうか、ドンくさいとこあって、黒岩さんが気分悪くしたことあったと思う。これからはそうならないように気を付けるから、だから」
 ――ごめんなさい、とひかりは頭を垂れる。
 深々と下げられた頭を、芽依は遠い目で眺めていた。
 芽依には、自分ではない別の誰かに謝罪しているように思えてならなかった。
 芽依は箱の蓋を閉め、剥がした包装をまた丁寧に戻し、
 「謝らないで。貴女は何も悪いことなんかしてない」
 静かに小箱をひかりへ差し戻した。
 「待って、芽依ちゃん! ひかりはちゃんと誤解を解こうとしてて!」
 居ても立っても居られず、夢乃が叫んだ。
 「・・・・・・あたし、許して貰えないのかな?」頭を下げたまま問うひかり。
 「許す? 何を? さっきも言ったけど、貴女は何も悪くない。悪いものがあるとしたら多分――というか、確実に私。貴女は私以外の人間と幸せを築ける。私とはできない。だから私が元凶。私が、私を許せない――って、ただそれだけのことなの」
 「あたし! と仲良くなりたいんだよッ!?」
 (私は、貴女と仲良くなりたくなんかない)
 「あたしは、みんなと同じくらい芽依ちゃんのことが好きなんだよッ!?」
 (私は、貴女のことが嫌いなの)
 「あたし・・・・・・あたしはッ・・・!!」
 (本当に分からない子)
 ひかりが必死に想いを伝えれば伝えるほど、芽依の思考は冷めていく。
 複雑に絡まった感情が解け出し、自らの役割や、この街の命運はどこかに消えて、自分と相手の二人きりになった。
 向き合った両者の違いだけが、浮き彫りにされた。
 生まれ、育ち、容姿、住まい、家族、友人、知人、思考、嗜好、思想、夢、希望、在り方、生き方。何一つ被らない。二つは何もかもが違う――違いすぎる。
 そして、芽依は自分を恥じた。
 人と人とが違って当然であることを認められない自分を。
 どうにか折り合いを付けようと努力する相手を赦せない狭量な自分を。
 それでも、感情のまま生きたかった。それが正しい人間の生き方なのだと信じた。
 赦せないなら赦さなくていい。
 考えて、見方を変えて、それでも赦せないなら、それは正しいことなのだ。
 「
 芽依はいつ以来になるか分からない名を呼んだ。
 ひかりは面を上げ、朗らかに笑いかけて、その途中で曇らせる。
 芽依の双眸は研ぎたての刃物のように光、眼前の敵を斬り刻まんとしていた。
 「もう、終わりにしましょ。私たちのすれ違いは哀しすぎる」
 「え・・・・・・? それって、どういう・・・・・・?」
 瞬間、芽依の下腹部に襲い来る刺痛。
 これまでの比ではない痛みの大きさに呻きを上げそうになる。
 芽依は堪え、代わりに口端を釣り上げる。
 ギリアムの言を認めざるを得ない自分の悪運に、自嘲するしかなかった。
 「来るわ」
 芽依が始まりを告げる。するとタイムラグもなく世界が暗転。色彩を奪われ、あらゆるものが黒灰色に染まった。
 学校が丸ごと異世界アナザーに飲まれていた。いや、学校どころではない。これほど途方もない存在感だ。小桜市全域が覆われていてもおかしくない。
 「芽依ちゃん・・・・・・どういうこと?」
 受け入れがたい真実。夢乃は驚愕に打たれ、棒立ちになっていた。
 「だって、ここ、異世界アナザー・・・・・・何で、そうしていられるの?」
 「どうもこうもない。
 芽依は冷淡に答え、夢乃が思うすべてを肯定した。
 「夢乃ちゃん、行って」
 混乱する夢乃を余所に、ひかりは落ち着きを払った声で告げる。
 「で、でも・・・・・・!」
 「いいから。ここは任せて。どうせ今のあたしは何もできないし。それより、何かすっごく嫌な予感がする。この前の邪神官か、それ以上の奴が出てきたかも。一刻も早く皆と合流して欲しい」
 ひかりの確信めいた予感に、夢乃は唇を戦慄かせた。死刑宣告された囚人のように、一歩も踏み出せない。
 「無理、だよ・・・・・・! 前の――ロー・デルヌスだって、五人掛かりでも互角だったのに。ひかりがいなくちゃ・・・・・・!」
 泣き出しそうになる夢乃。
 ひかりは振り返り、力強く笑ってガッツポーズ。
 「大丈夫。あのときは皆バラバラだったけど、今はちゃんとしたチームだよ。それに一人一人が前よりずっと強くなってる。絶対、負けないよ」
 握った拳には勇気の魔法でも詰まっているのか、夢乃は歯を食いしばって打ち負かされそうになる現実に堪えてみせた。
 「本当にごめんね。こんなときに限って役立たずでさ。この戦いが終わったら、絶対埋め合わせするから。そうだ。皆でさ、ウチで集まってぱーっとやろ? きっと楽しいよ?」
 だから行って――と、最後の一押し。
 背中を押されたように、夢乃は全力で走った。
 芽依の横を――躊躇わず/脇目も振らず――ただ一秒でも早く精霊ファルケルと合流しようとして。
 そして、ひかりと芽依は向き合う。それは、恐らく、出会ってからこれまでで初めてのことだった。
 「・・・・・・黒岩さんは、ジュエリストなの?」
 「ジュエリストの定義が、決闘装束デュエルドレスを纏った人間、ということならYESよ」
 「私たちを襲ったり、ベルケムをさらったりしたのも?」
 「ええ、私」
 「ベルケムはどこッ? 返してッ!」
 叫びが廊下に反響する。ひかりは仮面を脱ぎ捨て、感情を露わにする。
 異世界アナザーの発生に邪神官の登場。駆けつけられない自分。そして、芽依の告白。
 一度に起きて動揺せずにいられるはずがなかった。
 「返せと言われて素直に返す馬鹿はいない。力ずくで奪ってみたら?」
 芽依の安い挑発に、ひかりは辺りを見渡し、気配を探った。
 それだけで芽依には意図が伝わった。芽依の契約した精霊がどこかに隠れていないか危惧したのだ。
 「私の相棒なら家で彼を見張ってる。ここには私だけよ」
 優しく相手の不安を払拭する芽依。
 「ならどういうつもりなのかな? ちゃんと話し合い、してくれるってこと?」
 「私はさっき力ずくでどうぞ、と言ったばっかりなのだけど・・・・・・ひかり、人の話はちゃんと聞くものよ」
 シンプルな物言いをしたつもりだったが、全く相手に伝わらない。
 これまでもそうだったが、流石に芽依も理解しつつあった。ひかりに何かを伝えるには、直接的なだけでは駄目で、その背景まで含めて説明する必要がある。
 恐らく言葉の意味は理解している。納得しないだけ。頑固というより、納得したくないのだろう。そのやり方が許せないのだ。
 持ち前の純粋過ぎる善意が、手足の自由を縛っている――ならば、一つ一つ解いていくしかない。
 「ひかり、変身しなさい。さもなければ、アナタ死ぬわ」
 芽依の真に迫る宣告に某かの危機感を悟ったのか、ひかりは身構えた。
 それでも変身する素振りはない。黙し、一人では変身できないのだと認めていた。
 「精霊は決闘装束デュエルドレスの――界門の解放に必須じゃない」
 芽依はセルフレームの眼鏡を外し、
 「《栄光は我が手の中に(オープンザジュエルグローリィ)》」
 魔法の言葉を唱える。
 「え・・・・・・?」
 意表を突かれたひかりは、眩い輝きに包まれる芽依の姿を呆然と眺める。
 黒い颶風ぐふうが吹き荒れると、ひかりは堪えれず飛ばされた。
 そして、リノリウムの床を転がされながら、しかと見た。
 芽依の腕に、足に、腰に、首に巻き付く風が重なり、生地となる様を。
 嵐が収まると、黒衣を纏った少女が姿を現す。
 薄い体に張り付くように包むノースリーブ。三重に重ねたティアードスカートの深く走った割れスリットから、危険領域ホットパンツが覗く。
 すべてが変わり果てた中、唯一、背中まで届く黒髪に映える紫紺の双眸だけが、変わらぬ鋭さを宿していた。
 芽依は左手で摘まんでいた眼鏡を一振り。絹のように滑らかな布地へ変え、耳元から頬をなぞる。その一瞬で、黒のフェイスヴェールが顔の半分を覆い隠していた。
 「精霊がいないのにそんなことして唯で済むわ――」
 ヒュンッと、何かが横たわったひかりの頬を掠めた。
 ガズンッと、遠くで何かを破壊した音。
 背後を確かめるまでもなかった。
 芽依の放ったそれは、マットな感触が高級そうな包装の、マフラーを包むだけの小箱は、五十メートルも先にある突き当たりの教室の扉に突き刺さっていた。
 「死にたいなら、そのままでいなさい」一切の熱を持たない声。
 瞬間、ひかりは逃げだしていた。正しいとか間違っているとかそういう判断とは無関係に、本能が告げるまま、驚くほどの駆け足で。
 階段を三段飛ばして駆け上がった。呼吸を忘れて/無我夢中で。
 最上階である三階まで登り切ろうというところで、ひかりは芽依てきの追いかける気配がないことに気付き、僅かに背後を振り返った。
 いや、振り返ってしまった。
 その一瞬で、壁を鋭角に蹴って登る残像が視覚に入り込む。
 正面を向き直ったときには遅かった。天井から跳ね返った黒衣が、同着で三階に到達。
 階下に戻れば足が止まる。一瞬でも止まるなんて、ひかりには考えられなかった。
 逃げきれないと知りながら、ひかりは芽依の脇を駆け抜けようとした。
 芽依がブーツの爪先を上げる。
 「あっ――」
 それだけで、ひかりは転倒。自重で胸が押しつぶされ、肺から空気が漏れた。
 四肢を打ち付けた痛みに悶絶していると、カツン、カツン、とリノリウムの床を鳴らす足音がした。
 ひかりが振り返る。首もとに細い指先が伸びると、軽々と持ち上げられていた。
 「あ”ぁ・・・・・・ぐ、がぁ・・・・・・」
 「変身しなさい」
 ひかりは両手で芽依の腕を掴み、少しでも体を離そうと足掻いた。
 「あた、し、できないもん・・・・・・」
 「だから人の話はちゃんと聞いて。貴女が出来るか出来ないかなんて知らない。私は、“やれ”と言ったの」
 芽依は微かに指先に力を込めた。
 喉が押し潰される前に、頸動脈を圧迫されて窒息しそうになる。
 「そう。いいわ。なら、これから帰ってベルケムを殺す」
 「!?」
 「でも、その程度じゃ私の腹の虫が収まらない。そうだ、他のジュエリストに嫌がらせでもしたら面白いかしら。必死に戦っているところを背後から狙い撃つとか」
 「そ、んな、こと・・・・・・!!」
 ひかりの両手に力が入るが、芽依には小虫が触れる程度しか感じられない。
 むしろ、その必死の抵抗に、芽依はひとひらの苛立ちすら覚えた。
 予想はしていたが、これほど強情とは思わなかった。
 「それとも貴女の家を焼き払って、家族を殺したらいい?」
 すると、今にも光を失いそうなライトブラウンの瞳に理解が灯った。
 「うそ、つき・・・・・・芽、依ちゃ・・・・・・、そ・・・・・・な、こ、でき、い」
 潰れかけた喉が、真実を鋭く突く。
 指先に、更なる力が込められた。
 「しない、か、ぁ・・・・・・絶、対・・・・・・」
 最後の力を振り絞り、ひかりは笑う。
 「なら、いっぺん死になさい」
 紅玉ルビーに輝き出す芽依の左手。その手に握られた真っ白な短杖は、芽依の刻印装具シールズたる霊宝杖≪エーデルワイス≫だ。
 閃くように取り出した美麗な杖の先端には、四枚の密やかな花弁。柄には四つの穴があり、その一つにはめ込まれた小さな球は今、燃えるように輝き、空気を震わせていた。
 ルビーの固有技術である≪分子運動制御モルモーション≫は、原子の固有振動を制御する。
 つまり、その影響範囲下にある物体は、如何様にも状態を変えられる。
 芽依は杖を通し、命令を下す。
 ――塵となれ、と。
 瞬間、ひかりが釣られるように横目にした廊下が爆散。衝撃波が全身を襲った。
 頭部が揺られ、内耳が傷つき、ひかりは一時的なショック状態に陥る。
 生身の感覚が飛んでいた。
 フワフワした意識。
 キンキン鳴る鼓膜。
 モクモク上がる煙。
 ボロボロの廊下。
 芽依の口元が何か動く。
 ――サヨナラ。
 分からない。
 (――何?)赤い光。
 聞こえない。
 (――何が?)消える光。
 遠くなる。
 (――何で?)青い光。
 落ちていく。
 晴れているのに空の灰色が不思議で、それをずっと見ていた。
 
 校舎の三階から投げ捨てられたはずの体は、アスファルトの地面に激突する寸前で停止していた。
 「ほんと、手の掛かる子」
 芽依は青い光を収めた。発動寸前だったサファイアの固有技術である≪物体念動サイコキネシス≫を踏みとどまらせたのは、ひかりの精霊力レイズの爆発的な変化だ。
 にわかに眼下で溢れる輝き。優しく、暖かな光が、彩りを忘れた世界を変える。
 清らかで、安らかな煌めきに偽りの闇は去り、ただ、正しさだけが残される。
 ひかり/光の奇跡/軌跡は、夢を、未来を、希望を照らすようだった。
 夢見心地――
 空に触れそうな気がして、ひかりは手を伸ばした。
 何かが掴めそうな気がして、ひかりは拳を握った。
 ――夢見心地
 「《栄光は我が手の中に(オープンザジュエルグローリィ)》」
 そして、ひかりは魔法の言葉を唱えた。


 外へ発散していた光は婉曲し、虹光となってひかりの体を取り巻いた。
 腕を、胸を、首を、腰を、脚を、頭を、鳥の羽が撫でるよう包み込んだ。
 体に触れる度に光源は失われ、光源が失われる度に生地へ置き換わっていく。
 発光現象が収まると、ひかりは白を基調とした衣服を纏っていた。
 祭服から啓発されたであろうジャケットアレンジのワンピース。ドレープのついた厚手のケープ。膝丈のロングブーツ。大きくてふわりとしたクラウンのベレー帽。フリルとレース、それにリボンのあしらわれたフェミニン全開の装いに、プラチナホワイトの髪とヘブンリィブルーの瞳が合わさることで、少女の完成された美貌をより完全なものへと近付けていた。
 宙空に静止していたひかりは上体を起こし、芽依の目前までゆっくり浮き上がった。
 「もう、どうなっても知らないからね。全部、芽依ちゃ――」
 ゴン、と骨と骨がぶつかる音。
 果たして、“全部、芽依ちゃんが悪い”とでも言おうとしたのだろうか?
 その前に、校庭まで一直線に吹っ飛び、おまけで砂面を数メートルほど砂煙上げて進んで止まる。
 ひかりは何事が起きたのか判らないまま、顔を上げると同時に慌てて身を翻していた。
 空から黒衣が降って来た。その手には、剣と呼ぶには余りにも大雑把な、剥き出しになっていた壁の鉄筋コンクリートから生成した長大な得物。
 躊躇うことなく振り下ろされた剣劇は空を切り、勢いのまま叩きつけられた地面が爆ぜた。
 幾らジュエリストが使おうとも、コンクリート製では威力など知れている。決して決闘装束デュエルドレスを突き破れまい。
 こんなの大したことない――ひかりもその理屈は分かっている。なのに襲い来る巨大な斬撃からひたすら逃げた。
 躱した、と呼べるほど華麗な様ではない。ただ翻る分厚い刃が、そこに込められた無言の気迫が恐ろしかった。
 たまらず、ひかりは後ろにジャンプ。大きく距離を取った。
 ほっと気を緩めたのも束の間、視界に黒衣は無かった。
 「・・・・・・どこ!?」背筋に悪寒。
 いきなり背後の暗闇が動き出した。そうとしか思えぬほどの唐突さで芽依が襲い来る。
 弓なりの軌道でジャンプしたひかりに対し、芽依は《高速移動ライトニングステップ》による直線の追走・鋭角の跳躍。空を走る一個の弾丸となって背後を取っていた。
 逆袈裟に奔る大剣。暴風を纏った刃をからがら避けるひかり/体勢が崩れる。
 一方の芽依は、勢いのまま暗転した空へ吸い込まれるかと思われた。
 しかし、そこで芽依はひかりとは違った空の飛び方を魅せる。
 旋回――風にはためくティアードスカートがギュンと巻き付けられる。
 剛脚――スリットから飛び出した白い足が虚空を蹴る。蹴る。蹴る。
 瞬間的に空気を集約+固定し、空に足場を生成すること三度。軌道を逆向きに変えると、芽依は視線の先に白い衣服を捉えていた。
 「はぁぁあぁ!」芽依の裂帛。
 全身のバネを使い大上段からの振り下ろされる巨剣は、宙とは思えぬほど鋭い。
 だが高度な飛翔技術を持つひかりにとって、空中は地上より自由に動ける。
 (避けれる・・・・・・!)
 だからこそ判断ミスをする。
 芽依が手首を返し剣の腹を見せると、ただでさえ幅広である巨大な剣が、偏平に伸ばされていた。
 線を躱す気でいたひかりに、面での攻撃は避けられない。強かにはたき落とされ、校庭に陥没がまた一つ出来上がる。
 「ッ・・・・・・!」上半身を起こす。
 そこへ芽依の蹴り足が振り抜かれる。ちょうど校庭に転がったサッカーボールを蹴るような具合に、ひかりは校庭に併設された体育倉庫まで吹っ飛ぶ。途中にあった鉄棒など、柵にもならなかった。
 木製の体育倉庫には大穴が空いていた。本来の出入り口である鉄扉は衝撃で外れ、用をなさない。
 ガラガラガラと用具の崩れる音と共に、石灰が狼煙のように立ち上り、静寂が訪れる。
 そして、突然の爆風。
 倉庫のトタン屋根が上方へ弾け飛び、正面からひかりが飛び出した。
 スピードに乗せ、全力で殴りつける。他方、芽依は厚みを再調整した剣――というより盾か、唯の”壁”といった具合の代物で受けた。
 だが所詮は元鉄筋コンクリート製、拳は易々と貫いた。
 顔面に入る――そう思われたところで芽依は得物を持ち上げ、軌道を逸らす。
 空振りに終わったパンチを引っ込めようとして、ひかりは自分の手が捕らわれていることに気付く。
 瞬間、攻守が入れ替わっていた。
 芽依は剣を下方に引き寄せ、相手が重心あたまを前へずらしところへ、飛び膝蹴り。
 顎に直撃し、上体が仰け反る。更に空中からの踵落とし。
 ひかりはこれを倒れ込みながら躱した。転がり、すぐさま起き上がろうとしたが、既に芽依は距離を詰めていた。
 ダンッと右足を踏み込み、精霊力レイズを全開。全身の関節を駆動させ、左腕を極限まで加速。強く握った左拳が触れる刹那に、すべての力を注いだ。
 パンッ! と空気が弾ける音。まるで校庭の砂地を滑るように押し出される白い服飾。
 乾坤の一撃をひかりは辛うじて上腕でブロックしたが、その凄まじい衝撃に、肩が外れ掛ける。
 芽依の猛追が始まった。
 右・左・右と連続パンチ/受け流され(パリィ)、中断蹴りから変化――下段蹴り/もろに命中クリーンヒット
 その金属バットをもへし折りそうな鋭さに、ひかりの美貌が歪んだ。
 続け様の攻撃をどうにか捌くが、胸部を狙った肘打ちから裏拳が繰り出されるとは思わず、鼻梁を打たれて怯む。
 ダメージこそ大したことはないが、接近戦に慣れていないどころか、傷を負う機会そのものが減っていたひかりは及び腰になる。
 分かり易い弱点が露呈すると、芽依は執拗に顔面を狙い。上半身に意識を縫いつけたところで水月へ掌底打を見舞う。
 「がっ――ぁ・・・・・・!」
 重く背中まで突き抜ける衝撃に、ひかりは腰を折って悶絶。たまらず、亀のように身を堅く縮める。
 格闘戦なら乱打を浴びせるハイライトシーンだが、ジュエリストの戦いはスポーツとは次元が違う。
 芽依は音もなくひかりの背後に回り込むと、腰を両手固定クラッチ。そのまま持ち上げ、背を反りながら地面へ叩きつけた。
 ゴギリ、と関節の鳴らす不吉な音を響かせたのも束の間、芽依はエビ反り状態から後方へ大きく飛び――二回転――おまけとばかりに頭部を地面へ打ち込んだ。
 杭打ちパイルで叩きつけたに等しい陥没が生じ、砂煙を吹き上げる。
 素早く跳ね起き、構えを取る芽依に対し、ひかりはその場に倒れ込んだまま、ぴくりとも動かない。
 確実に頸椎か頭蓋だかが損傷している。即死だと言われても頷いてしまうだろう。
 それくらい人間には不可能な、超大技アクロバティックが鮮やかに決まった。
 しかし、それを仕掛ける方はさることながら、受ける方も相当に常識の範疇にない。
 白のスカートが、ふわりと舞い上がる。
 「痛ってて・・・・・・今のはキいたなぁ~」
 首筋をさすって状態を確かめるひかり。
 まったく学びのないその様子に、芽依は矢のような蹴りを放つ。
 見事に命中――したかのように見えた。
 ところが、真っ直ぐの伸ばされた蹴り足から、反動が返って来なかった。
 (力の向き(ベクトル)が分散された?)
 ひかりの左手に、淡く光る一冊の本。
 ジュエリストの個性にして固有の武器である刻印装具シールズ――《魔法辞典マジカルデザイナー》――が発動していた。
 初めて見せられるタイプの防壁に、今度は芽依が動揺する番だった。
 勇気を振り絞り、芽依は攻撃を継続。側面に回し蹴り、頭頂に手刀と繰り出すも、小波さざなみが立つが如し。
 ならばと、自身の刻印装具シールズである《霊宝杖エーデルワイス》に呼びかけ、新緑の輝きを引き出す。
 そして、通常の三倍に届く速度でステップを刻み、打撃を繰り出した。
 神経に極微の電流を流し込み、脊髄反射によって四肢を動かすという荒技で、まさに四方八方/縦横無尽、あらゆる角度から叩きまくった。
 猛攻に併せるように《魔法辞典マジカルデザイナー》のページが猛烈な勢いでめくれ、金色の文字が刻まれていく。
 「これで・・・・・・!」
 芽依の左手が荒々しくひかりの顔面を掴み――
 左手に灯る紅玉ルビーの輝き/爆発的に増幅される光量。
 空間の分子振動によって高温高圧状態となり一気にプラズマ化に至る。
 ――そして左腕に右手を添えた。
 「・・・・・・爆ぜろ!」
 臨界を誘う魔法の言葉スイッチ
 一定空間に押し込めたエネルギーが外に向けて炸裂し、大爆発を誘発。
 衝撃波がグラウンドを粉砕し、芽依自身も背後に大きく飛ばされるが、危なげなく体勢を立て直し、立ち上る噴煙の奥を凝視した。
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・・・」
 心臓が勢い良く鼓動し、全身から汗が吹き出た。一連の猛攻撃によって、体力と集中力が随分と摩耗している。
 それはまだ良い。まだやりようがある。
 だが、指先から、ほつれるように散る青い火花の方は無視できない。
 自力で解放した決闘装束デュエルドレスの崩壊が、早くも始まっていた。
 (お願い。もう少しだけもって頂戴・・・・・・)
 そんな芽依の祈りを嘲笑うように、颶風が巻き起こった。
 まるで時が逆巻いたように粉塵が払われ、視界が一気に晴れる。
 そこには白いドレスを纏った少女がいた。
 足下の僅か数十センチを残して爆散したグラウンドに、寸刻前と変わらぬ姿でそこに立っていた。
 何ら外傷を負った様子はない。まさかの無傷だった。
 これには流石の芽依も喉を唸らせた。
 《精霊融合ユニオン》状態にあるならまだしも、自力での完全防御だ。
 創造物の精度は想像イメージの強度に直結する。あらゆる角度からの攻撃をこれだけ柔軟に受け流すにはどんな思考が必要だろうか? 芽依には想像も付かなかった。
 無為な想像を捨て去り、芽依は構えを取って次の手合いに備えた。
 これからが本番だった。何故なら、ひかりの真に埒外な特性は、絶対的な防御能力ではないからだ。
 「今度はこっちの番だよね? ホントのホントに、どうなっても知らないんだから」
 ひかりは眉根を寄せ、苛立ちを露わに。そして、やおら芽依を指さした。
 「《穴が空く(シュート)》」ぼそりと。
 その何気ない仕草に、芽依は突き動かされるように真横へ飛んだ。
 直後、戦慄と閃光とが走った。
 ひかりの人差し指が煌びやかに瞬き、一筋の光線がグラウンドと、その奥に構える民家を焼き払っていた。
 グラウンドの土は蒸発し、家屋からは爆炎と黒煙が噴き上がる。
 「やっぱ全然ダメだ。上手くコントロールできない」
 不愉快そうに声を枯らすひかりに、芽依は疑問を投げつけたくなる。
 ――制御できないのは出力か。方向か。それとも自分自身か、と。
 だが、口を開いている暇はない。襲い来る次弾に対し、芽依は五感を総動員した。
 精霊力レイズの流れを追い、指先と目の動きから照射のタイミングを予測し、動きに微妙なフェイントを入れる。そこまでしても回避が際どい。余裕などまるでなかった。
 決闘装束デュエルドレスがある以上、命中≠即死のはずだ。
 だが、万全でない状態で受けた場合に穴が空かない保証もない。その一点が、心臓や顔面である可能性も然り。
 覚悟を決めかねた。一発貰ってでも距離を詰めるべきかどうか。
 閃光が瞬く度、周囲が焦土と化していった。十手ほど躱したところで、二人の学び舎は無惨に変わり果て、敷地の周囲も炎に包まれつつあった。
 ひかりはその様を暗澹と眺めた。
 「黒岩さんのせいで酷いことになっちゃったじゃん」苦しげに。
 「九分九厘がた貴女のせいでしょ」事も無げに。
 芽依が正確に状況を表すと、ひかりは口をギュッと強く結んだ。
 「馬鹿げた責任転嫁はやめてくれる? そこまで筋違いも甚だしいと流石に不愉快だわ」
 「っ・・・・・・! 絶対ッ、黒岩さんのせいだから!」
 ひかりは叫び、二本指で空に十字を切る。
 その跡をなぞるように、上空に巨大な幾何学模様が出現。壮大なイルミネーションの如き光の軌跡が、二人を祝福するように照らした。
 (あれは・・・・・・!)
 記憶に紐付く情報を吟味するより早く、芽依は《電子制御エレクトロン》を緊急発動。
 十字模様から十の光線が同時に照射。裁きの光となって降りかかる。
 その無慈悲な神の如き攻撃を、芽依は電子化による超高速ステップと遮蔽物を駆使して躱す。狙い撃ちされぬよう、大きく飛び退きたくなる衝動を押し殺しての回避運動だった。
 上空からの攻撃は、徐々に激しさを増していく。
 ありとあらゆるモノが音もなく光に飲み込まれ、灰と炎に置き換わった。
 至る所に穿孔が空いた。まるで、射手の苛立ちを代弁するようだった。
 片や芽依は防戦の一方、フェースヴェールの奥で、歯を食いしばっていた。
 反撃もままならない。手も足も出ないまま、怒りを腹にため込んでいた。
 精度を欠いた無差別射撃に、戦術の稚拙さに、憤りしか覚えなかった。
 やがて、決闘の分水嶺が訪れた。
 芽依の《霊宝杖エーデルワイス》に装着された霊子球ランプが限界を迎えた。
 銀色の球面が真っ黒に染まり、新緑の輝きは弱々しく、今にも途切れそうだ。
 芽依の纏った決闘装束デュエルドレスが限界を迎えた。
 青白い火花が全身に移り、時折、衣服が明滅した。
 (まだ・・・・・・!!)
 芽依が駆けながら《霊宝杖エーデルワイス》から崩壊寸前の霊子球ランプを排出し、スカートの奥から新品を取り出したところだった。
 道路を行く先から突如として現れる白い服。
 芽依の動きを読み、先回りしたひかりだった。
 「《すべて洗い流して(ウォッシュアウェイ)》」
 揃えた人差し指と中指を、スッと折り曲げる。すると、指先の動きに併せ、道路から光輝く文様が浮かび上がった。
 罠――芽依がその存在に気付いたときには手遅れだった。
 上空の十字模様から道路脇をなぞるように、一斉掃射が開始。左右への退路が断たれた。
 次いで、正面から道路に沿って無数の光の柱が噴出。列をなし、次々と吹き出すその様は、光の津波でも迫って来るようだ。
 芽依は全身を屈めて防御に全神経を注ぎ、散り散りになりかけた決闘装束デュエルドレスを必死に繋ぎ止めた。
 今、決闘装束デュエルドレスを失えば確実に焼け死ぬ。そんな確信だけがあった。
 息を飲む間に、芽依は光の嵐に飲み込まれ、そして凶熱に焼かれた。決闘装束デュエルドレスで護られているはずなのに、全身の細胞が沸騰したかのようだ。
 閃光が辺りを焼け野原に変え、焼け残ったアスファルトの異臭が漂う。
 地獄絵図の真っ只中に、芽依はまだ立っていた。だが、黒衣は溶けて穴だらけで、焼け爛れた皮膚が露わとなっていた。
 そして、限界を迎えた決闘装束デュエルドレスが、一際目映い火花を散らして消えた。
 元の制服姿に戻ると、疲労と火傷と頭痛に襲われ、芽依は膝から崩れ落ちる、それでも倒れ込むことを良しとしなかった。両足で懸命に踏ん張り、眼前の敵を睨みつけた。
 芽依とは対照的に、ひかりは悠然と歩いていた。一体どんな裏技を使っているのか、あれだけの膨大な精霊力レイズを行使したというのに、消耗した素振りさえ見せない。
 ここに勝敗は決した。
 まったくもって埒外。異常にして異質。特異であり特別。芽依の知っている”宝生ひかり”は、ジュエリストであっても”宝生ひかり”だった。
 「もう、あたしの勝ち、ってことでいいよね? ・・・・・・ベルケムは返して貰うから」
 それだけ告げ、踵を返した。ひかりは空へ跳び、そのまま宙に浮いて方向を見定める。
 敗者めいに、立ち去ろうとする勝者ひかりを止めるだけの強制力ちからは残されていない。
 だが、芽依にとって勝敗など関係なかった。
 そんなもの、どうでもいい。
 大切なことは思い知らせることだった。
 重要なことは思い出させることだった。
 外してはならない。
 許してはならない。
 ジュエリストの戦いとは何か。
 ジュエリストの存在とは何か。
 自覚/目標/対象/対処――あらゆるものがズレてる。
 それを刻みつけてやるのだ。傷つけてやるのだ。
 それが/それだけが、自分にできる/自分だけにできる、たった一つの役割なのだから。
 芽依は、空に浮かぶひかりに疑問を投げかける。
 「加害者の言うことを真に受けるなんて、どれだけ脳天気なの?」呆れ加減に。
 ひかりは、いつかと同じ言葉で切りつけられ、顔を強ばらせる。
 「ひかり、アナタって本当に救いようがないわね」
 遅れてやってくる痛み。最初から騙されていたのだと知り、ひかりは悔しがった。
 相手めいを信じたことが、相手めいと理解しあえると思い込んだ自分が馬鹿だったのだ、と。
 自責の念に駆られ、同時に、相手めいに純粋な怒りを覚えた。
 ひかりはこれまで、どんな不幸な出来事も、自分が悪いと思ってきた。
 他の誰かのせいにしたことなど唯の一度もなく、すべて自分の至らなさが生んだ罰だと頑なに信じて来た。
 だから、悪いことが起こらないよう努力して来た。直感だれかの言う通り従って来たのだ。
 事実、それで皆幸せになれた。絶え間なく笑顔があって、温かな未来を見せてくれた。
 今も直感だれかがまた告げてくる。
 曰く、お前が悪い。
 曰く、お前がちゃんと理解していなかった。
 曰く、お前が他人めいという例外を計算しきれなかった。
 もう一度あらゆる関係性を掌握し、運命を組み直せ。そうすれば皆幸せになれる。
 「・・・・・・そんなの、xxxxx、だよ」
 外国語スラングで変換された呟き=聞く者の目を剥くような語彙。
 今度ばかりは、直感だれかに従わなかった。従いたくなかった。感情ままに選択をくだした。これだけのことをされて、被害者じぶんが悪いなんて有り得ない、と。
 これが、一人の少女が、生まれて初めて他人めいを”敵”だと認識した瞬間となった。
 ひかりの編み出した精霊力レイズ防壁シールドは完璧だった。芽依の如何なる攻撃も防いでみせた。だが、には、何ら効果を発揮しなかった。
 ひかりは地上に降り立ち、今にも倒れ込みそうになる芽依の胸ぐらを掴んだ。
 「ベルケムはどこッ!?」
 今まで見せたことのない荒々しさを目にし、芽依は嗤う。
 「・・・・・・そんなに彼がいないと不安?」
 「黒岩さんにはカンケーないから」
 絡み合う二つの視線。
 ヘブンリィブルーの双眸が――ひかりの心が揺れていた。
 芽依は不意に目線を脇に。相手の視線を誘導し、
 「ねぇ、どんな気分? こんな壊滅的な惨状を生み出せる才能って」
 そして相手の柔らかいところを的確に刺す。
 「ベルケムが側にいないと不安な理由、当ててあげる。アナタがベルケムを助けようとする理由は、彼が相棒パートナーだからじゃない。まして、彼がその馬鹿げた力を制御してくれるからでもない。そんなこと、どうでもいいんでしょ? アナタが彼を必要とする理由は、彼が責任を取ってくれるから。
 何か失敗したとき、不都合が起きたとき、指示はすべて自分が出したことだ。ひかりのせいじゃない。ひかりは悪くない。ひかりはやるべきことをやった――って。そう言って貰えることが判ってるからでしょ? もしかすると、彼とそういう契約でも交わしたかも知れないわね。でも当人がいなければ、そんなくだらない言い逃れも出来ない。だから一刻も早く助けたい。違う?」
 「違うよッ! そんなんじゃない! そんなこと考えてない! あたしの相棒パートナーだもん、助けたいと思うのは当然でしょ!?」
 必死に食い下がるひかりに、芽依は苦笑してしまう。
 その点だけは、アチラの方が真っ当な思考/志向だ。自然で優しい人間の在り方だ。
 だが自分は違う。冷たくて利己的な人間なのだ。
 「私だったら、相棒パートナーを助けたいだなんて思わないわね。迷惑はかけるな、自力で何とかしろ、ってそう思う。そして、自分が信頼に値する人間は、同じように考えられる人だけ。だから、“無様でもいい、自分の足で立って見せろ”って、そう言ってくれると信じてる」
 正反対の考え方を突きつけられ、ひかりは絶句した。
 絶対自分の方が正しいに決まっている。ひと一人はそんなに強くない。それほど強くあれない。弱い。弱いから頼る。頼るからこそ頼られるし、助け合える。
 それは自然な、圧倒的に正しい姿のはずだ。
 なのに、何一つ言い返せない弱い自分ひかりがそこにいた。
 その隙に、芽依は一つの大きな賭に出た。負ける公算の高い大博打ギャンブルだが、打って出るよりない。
 芽依は有らん限りの力でひかりの腹を蹴った。
 無論、決闘装束デュエルドレスを纏った相手にダメージを与えられるとは考えていない。どうにかしたかったのは、掴まれたシャツの方だ。
 目論見通り、襟首がビリビリビリと盛大に裂けた。
 拘束を逃れると、芽依は駆けた。必死に。フラフラになりながら。小石に躓けばそのまま転倒してしまいそうな調子で。
 端から見れば、さもみっともない姿だったろう。
 走りフォームはバラバラ。髪はほつれザラザラ。体も衣服もボロボロ。
 普段の芽依なら、とっくに白旗を上げている。
 だが、このときだけは自身を叱咤する。
 “体面など化け物蛙ギリアムに食わせておけ”、と。
 こんなときに馬鹿げた冗談ジョークだ。くだらないにも程がある。
 全身に冷たい汗。決闘装束デュエルドレスを失い、体調は最悪。
 勝ち目の無い戦い。それは最初から判っていた。結果は悲しいくらい予想通り。
 状況は詰んでいる。それなのに芽依は笑った。
 相棒の存在が、ほんの僅かながら、今にも折れそうな心を奮い立たせていた。
 (つくづく役に立つ相棒ね・・・・・・!)
 胸の内で相棒ギリアムに賞賛と冷笑の花束を贈呈。
 むせび泣くギリアムの事故的絵面を思い浮かべた瞬間、嘔吐感が限界に到達した。
 芽依は胃の中身をすべて空にしたい欲求と葛藤を繰り広げつつ、道路の先にあった緑豊かな公園へ逃げ込む。
 このとき、ひかりがどんな様子だったか、芽依には確かめる余裕がなかった。ただ止まりそうになる手足を動かすので精一杯だった。
 園内は広く、鬱蒼とした木々に覆われており、身を隠すのにはもってこいだった。
 しかし、常人ならまだしも、超人ジュエリストを前にしては無意味だ。
 芽依は逃げながら、たった一つだけ考えたことがあった。
 ――めいが必死になって逃げる様を眺め、どう思うか?
 さて、少しお遊びに付き合ってやるかと思うか。
 それとも、図星の衝撃に動けないでいるだろうか。
 頭が沸騰して、いきなり暴力に訴える可能性は――――低い。
 幸せな家庭環境で生まれ育った人間に、躊躇いなく人を殺す覚悟は持ちえない。
 決闘装束デュエルドレスの力を調節できないひかりなら殊更だろう。
 混乱させれば機会は必ず巡る。芽依はそう信じていた。
 これは天秤の片皿にひかりの善意×慢心、もう片方の皿には自身の悪態+悪運とを乗せた賭だ。
 果たして、二つ皿の重さは釣り合わない。天秤の針は片側へ傾こうとしていた。
 「はっ、ぁ・・・・・・!」不意に漏らした呻き。
 芽依は何もないところで躓き、倒れ込んだ。偶然か必然か、倒れ込んだ先は、大きな欅を囲うようにして設置された円形のベンチだった。
 息を荒げ、痛々しい傷を晒す一人の少女の後ろ姿を、ひかりは宙から眺めていた。
 当たり前のように追いつき、悄然と見下ろしていた。
 この戦いに一体何の意味があるのか、ひかりにはそれが判らなくなっていた。
 芽依の考えていることは理解できない。言ってる言葉の意味が分からない。自分はただ相棒パートナーを取り戻したい、それだけの事なのに。
 正直、こんなことで時間を浪費している場合ではないのだ。一刻も早くベルケムを助け、仲間達の元へ駆けつけ、敵を倒してこの街を元に戻さなくてはならない。
 そんなひかりの切なる想いを、芽依はつぶさに読みとった。
 「その眼・・・・・・まだ腹を括ってないようね。とっくに判ってるはずよ。そうやって大事なことから目を逸らしていたって、どうにもならない。“宝生ひかり”は特別なの。異常なの。異質なの。どうやったって普通になんかなれやしないし、普通の人間の振りをしてはならない。いい加減、現実と向き合いなさい」
 芽依は冷たく切りつけた。感情を排し、苛立ちを胸に押し止め、言葉数少ないままに。
 それでも、ひかりは言葉の痛みが感じられなかった。
 「・・・・・・そういうの、いいから。オセッキョー? 必要ないって。アタシ、別に特別でも何でもないし――っていうかさ。誰だって自分はフツーだって、そう思ってるんじゃないかな?」
 もう理解する素振りさえ見せなかった。
 そして、知るよしもない。
 外苑を林で覆われた、この緑豊かな小桜市立中央公園が、芽依とその相棒パートナーが昼夜を問わず指定した待ち合わせ場所であり、このベンチこそが、その目印であったことを。
 「確かにそう思い込むのはアナタの勝手。けど、何の覚悟もなく、自らの責任を背負ったふりをする人間に”ジュエリスト”を名乗らせたくない。もそう思うわよね――」
 芽依は不敵に口端を釣り上げる。
 「――ギリアムッ!」
 <わーってる。こんな近くで騒ぐな。お前のクソみたいな口上はずっと聞こえてンだからよ>
 芽依の叫びに、酷く耳障りな濁声が応える。
 一体何処に隠れていたというのか。巨大な蛙似の化け物が、芽依の背からその歪んだ顔を覗かせた。
 そのあまりの醜悪ぶりに、ひかりはネオアンガーだと思った。
 ところが、怪物の指先には虹色の光が灯っていた。
 それが精霊が決闘装束デュエルドレスを――精霊界と人界とを繋ぐ界門を――解放する法術だと気付いたときには手遅れだった。
 「《栄光は我が手の中に(オープンザジュエルグローリィ)》」
 一人と一匹の指先が繋がると同時に、再び黒い颶風が巻き起こる。
 一瞬にして決闘装束デュエルドレスを纏った芽依。
 凛々しい後ろ姿から覗く紫色の瞳が、肩越しに鋭い眼光を放っていた。
 芽依は逃げ回ったのではなかった。戦うために賭けた/駆けたのだ。
 相手めい自分ひかりの思考を見抜いた。自分ひかり相手めいの思考を見抜けなかった。悔しさに、ひかりは唇をぎゅっと噛みしめた。
 (やられた!/それが何?)
 咄嗟に負けを認めそうになった――だが、ベルケムの教えを思い出して救われる。
 “相手をよくよく観察しろ”、“外見に惑わされるな”、“精霊力レイズの流れを追え”
 ちゃんと診れば判る。芽依の精霊力レイズ出力量ゲインはひかりより圧倒的に下だ。芽依の攻撃は防壁シールドを抜けない。唯の一手で芽依は倒れた。超近接戦でなければ遅れを取ることもない。何も心配いらない。すべて計算の範囲内だ。
 ひかりが導くあらゆる演算が勝利を約束していた。
 たった一つ、自分の直感を除いて。
 芽依はひかりに振り向き直ると、前傾気味の中腰に、左手で右手の手首を掴むという奇妙な構えを取った。
 「好きなだけ暴れなさい。敵は目の前よ」
 それはまるで、檻に閉じこめた猛獣を解き放つように。
 芽依が自身に魔法ゆるしの言葉を唱えた瞬間、強烈な感情の波に攫われる。
 憤怒/義憤/憎悪/愛憎/悲哀/葛藤/苦悩/辛苦。
 これまであらゆる激情を押さえ込んできた心の枠が壊れ、腐った中身が一気に吐き出される。
 芽依の心に巣くった怪物――黒い衝動が、嬉々としてソレに喰らいた。
 飲み込み、我が身とすると、少女の肢体の隅から隅まで一気に浸透。
 自我めいを侵食し、無色透明であるはずの精霊力レイズを、黒一色に塗り潰した。
 精霊力レイズの変質は、内面を越えて外見にも変化をもたらす。
 両手の爪が黒く変色し、獣のように長く、そして鋭く研がれる。
 背まであった黒髪は更に伸張し、膝裏まで達した。
 白い素肌に浮き出た黒い文様には、明確な意味/忌みが刻まれていた。
 双眸は金の幽光を帯び、細く閉じた瞳孔が、まるで月に浮かぶ影のように映る。
 薄い唇は鮮血で染められたように赤く、赤く、彩られていた。
 一人の少女が禍々しくも美しい黒獣に変わりゆく。その様を、ひかりは慄然と見送っていた。
 「ネオアンガーを、取り込んでる? そんなこと出来るわけ・・・・・・」
 変貌する様を眺めていなければ、とても信じられなかっただろう。
 事実、目を閉じれば、眼前の存在が人間だと感じられない。
 力を利用しているとか応用しているとかいうレベルにない。これはネオアンガーの醸す気配そのものだ。
 芽依は、人間であることを捨てたのだ。
 「、ァ――」
 見上げた空には灰色の太陽。
 獣の金瞳へ、くすんだ朝日が差し込まれる。
 「――オ”ォォァア”ア”ア”ァォォオ”!!!!」
 誰かの死を悼むような悲しい獣の咆哮が、世界を揺らした。
 何かの比喩ではなく、空気を伝わる音が衝撃波となり、背後にあった大きな欅をベンチごと爆砕した。
 地面とて例外ではない。黒獣の周囲は、掘削機で掘り起こしたような大穴と、その縁を囲う残骸しか残されていなかった。
 尋常ではない破壊力だったが、あまねく防壁に守護されたひかりにとっては、涼風が吹いたに過ぎなかった。
 両者の優劣は揺るがない。だというのに、ひかりは無意識のうちに後ずさっていた。
 まるで獣が隠し持つ牙を恐れるが如く。
 黒獣はその隙を見逃さない。全身を屈め、バネのように弾け飛んでひかりへ襲いかかった。
 その判断が良いか悪いか関係なしに、ひかりは真横へ跳んでいた。
 そして避けた/裂けた。防壁が、決闘装束デュエルドレスごと持っていかれた。
 ひかりは宙で身をよじりながら自身の刻印装具シールズである《魔法辞典マジカルデザイナー》を確認――全機能正常動作オールグリーン――顔色を変える。
 「《受け流す(パリィ)》が・・・・・・!? 黒岩さん、止めてよッ!」
 ひかりは接地と同時に《受け止める(ブロック)》を発動。目の前に不可視の壁を造り上げる。
 獣は切り返して突進――直後、透明な壁に激突。痛覚が切れているのか、ぶつけた額を気にするでもなく、壁を殴りつける。
 拳と防壁がぶつかる度、砲弾が炸裂したかのような轟音が園内に反響。
 芽依の研ぎ澄まされた攻撃とは正反対の、唯の力任せの攻撃に、ひかりはたじろいだ。
 頭の中は防御一辺倒で、反撃のタイミングすら掴めなかった。
 激しい乱れ打ちにも揺るがぬ障壁に、獣はとうとう手を休めた。やや後ろに仰け反り、だらりと両手を下げる。
 (・・・・・・この隙にッ!)
 ひかりが後ろに跳び退ろうという瞬間だった。
 獣の両腕から闇が吹き出し、熱く抱擁するように両手を交錯させた。
 それだけで防壁がたわむ――間隙を縫って、ひかりは上空へ――ねじ切れる。
 まさに間一髪。少しでも躊躇していたら、獣の魔爪はその身に届いていた。
 血の気の引く思いから一転、ひかりは遙か上空から反撃の構えを取った。
 その表情からは、一切の余裕が削がれている。追い詰めていたはずが、一撃も食らうことなく、追い詰められていた。
 ひかりはベルケムと二人で戦い始めてからこの瞬間まで、これほど危機感を覚えたことはなかった。高まる不安に、ひかりはある選択を迫られた。
 「お願いだから。絶対、避けてよ? ほんとに、こんなこと、したくないんだよ・・・・・・!」
 暗く、沈んだ願いは、はなから絶望で満ち満ちていた。
 したくない。でもせざるをえない。したらどうなるものか。
 分かり切っている。すべて終わるのだ。相手も、そしてある意味、自分自身も。
 《魔法辞典マジカルデザイナー》の用紙が風に煽られるようにめくれ、何も記述されていない紙面に、金色の文字が刻まれていく。
 精霊力レイズが溢れ、突風となってひかりの決闘装束デュエルドレスをはためかせた。
 右手で大きく○を描くと、周囲半径五メートルほどに数十の円陣が出現。
 その一つ一つから、数え切れないほど蛍火が放出される。
 燐光にも似た輝きが、灰色の空を賑わした。
 「グォオォォゥ!!」獣の咆哮。
 その叫びは、まるで世界を呪うような怒りに満ちていた。
 ひかりは恐懼に駆られ、右手を振り下ろしてしまう。
 すると蛍火が一斉に落下。地表付近で、花火のように四方八方に弾けた。
 火花は極近距離で消失したが、たまたま弾ける前の蛍火に接触すると、不思議なことに、そこから一回り小さな蛍火が幾つも生まれ、その蛍火が弾け、更に多くの蛍火を生んだ。
 精霊力レイズから精霊力レイズが生じるという、従来は考えられない現象により、さながら小さな太陽が地表に生まれ落ちた。
 蛍火の一つ一つは、息をするような大きさでも、その総量ともなれば、先に芽依が受けた波状攻撃を遙かに凌駕していた。
 木々が燃えた。芝も土も燃え、みんな塵に還った。園内に設置された外灯は焼きごてのように真っ赤に腫れ上がり、自重に耐えきれず頭を垂れた。
 広大な公園のいたる場所が炎獄だった。
 黒煙で視界が真っ黒になっても、ひかりは手を緩めなかった。
 とにかく近付かれたくない。だから手数で勝負する。
 その思考に戦術などない。唯の力業。物量にモノを言わせた圧倒的暴力。
 冷静に観察していれば取り得た簡単な対処方法を、完全に見逃していた。
 虫一匹残さず息絶えたであろう焼け具合になって、ひかりはようやく手を止めた。
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・・・!」
 流石に息が切れていた。体力だけでなく、気力も擦り減っていた。それでも決闘装束デュエルドレスは維持されていた。
 ひかりは意図的に決闘装束デュエルドレスを解放したことがなかった。試したことはないし、また試そうと思ったことすらなかった。
 契約に先んじてベルケムから警告されたのと、自分より遙かに才能豊かだと思える小夜と七海の大失敗を目の当たりにしているせいでもある。
 校舎から投げ出された際に解放できたのは本当に偶然で、今もって自身が一体どうやって維持し続けているのかも判っていない。
 ただ自然と/直感的に/何となく、こんな風に意識したら上手くいくのではないかと頭の奥から響く示唆に従っているだけなのだ。
 だから、今のやり方が正解だとは思えなかった。そんな曖昧なことで使えるようになるのだとしたら、かの少女達は勿論のこと、“黒岩芽依”が完全拾得マスターしていないはずがない。
 宝生ひかりにとって、“黒岩芽依”は特別だった。
 何でも一人で出来て、どんな困難も自身の力で成し遂げる。
 決して躓いたり、失敗したりなんかしない。
 どんな時も凛々しく、堂々と。
 鮮やかに、格好良く。
 例え手酷く裏切られたとしても、それだけは変わらない想いだった。
 (・・・・・・なんで、いまさら?)
 ひかりは現状を省みる。決着が付いて、集中力が途切れ掛かっているのだ。薄々と気付き始めていた。地上に精霊力レイズの流れは感じられない。それが一体何を意味するのか。
 ――
 ひかりはしばし悄然と焼け野原と化した公園を見下ろしていた。
 刹那、直感に突き動かされ、体軸をずらした。
 間髪を容れず、左肩に目の醒めるような衝撃――長爪が肩口に突き刺さっていた。
 痛みを実感する前にひかりは首を捻り、首筋目掛け襲い来る黒獣の牙を薄皮一枚で躱す。
 どこから来たかなど考えない。
 出来るかどうかなど考えない。
 その行為の意味など考えない。
 唯、思いっ切り肘を背後へ突き立てていた。
 肉に食い込み、骨を砕く感触が伝わる。お返しとばかりに、頭の芯まで届きそうな衝撃がひかりの右耳に返ってきた。
 それが獣の繰り出した蹴りだと気付かないまま、ひかりは無我夢中で回し蹴りを放つ。
 日頃、ベルケムから散々”もっとコンパクトに”と言われていたのに、胴回し蹴りほどの大振りになっていた。
 当たるとかどうかは関係なかった。攻めるしかない。引けば死ぬ。守れば死ぬ。受ければ死ぬ。死ぬのは嫌だ。だから倒す。それだけだ。
 一縷の願いを込めた蹴りを全力で叩きつけた。
 獣は視界の外側から振り下ろされた蹴りに反応出来ず、鎖骨を粉砕される。ぐらついた隙を突いて、ひかりの左フックが続く。
 タイミング的には十分ねじ込めたはずだった。
 「痛ッ――つあぁぁ!」
 腕を膨らませたところで、今更のように激痛が走り、拳が止まった。
 そこで逆に手首を捕まれ、思いっ切りぶん回された――二回転――おもむろに投げつけられる。
 公園を越えて、隣接する大きな建物まで一直線。煉瓦造りの外壁を軽々と突き破って室内に投げ出されていた。
 ひかりが薄く目を開けると、そこには見覚えのあるエントランスがあった。
 「肩、痛った・・・・・・!」傷口を押さえて起きあがる。
 投げ込まれた先が、小桜市立文化会館なのだと気付くと、ふと懐かしさが過ぎった。
 半年ほど前、あの扉の奥にあるステージでひかりの吹奏楽部はスプリングコンサートを催したのだ。あのとき、ひかりはジュエリストですらなかった。
 「こんなことになるなんて、思わなかったなぁ・・・・・・」
 損壊した建物に心の中で詫びつつ、自分が開けた大穴へジャンプ。
 縁に足を掛けたところへ、狙い澄ませたように獣の手が掴み掛かる。
 それを何となく予期していたひかりは首を捻って躱しつつ、クロスカウンターで右拳を獣の顔面へ叩き込む――痛みは無視――体を思いっ切り捻ってフルスイング。
 今度は獣の方が見事に吹っ飛んだ。
 文化会館と中央公園を隔てる道路で、面白いように転がる。
 「からのぉ~・・・・・・」
 銃を模した手の形/銃口ゆびさき標的めいへ。
 (大きいのはいらない。一発を確実に)
 先の反省を踏まえ、指先の一点に精霊力レイズを集束させる。
 先端に形作られる小さな光球/超高純度の精霊力レイズ
 親指の照準エイムで標的を固定ロック――と願いを込め、力を解き放つ。
 「――《溜め撃つから(ガンシュート)》!」
 高速旋回する光弾――紡錘状に変形/殺傷力強化――軌跡の先には黒獣の胸部。
 タイミングは完璧。ひかりは命中を確信した。
 「え・・・・・・?」
 間抜けな声が漏れた。それだけ予想外な動きだった。
 道路に横たわっていたはずの獣が飛び跳ね、弾撃を躱したのだ。
 受けるでも防ぐでもなく、回避した。唯の”野生”では納得いきそうのないその超反射に、ひかりはここに来て初めて違和感を覚えた。
 光弾の初速は音速を軽く越えている。この距離なら、動作を見てからでは躱せない。
 (こっちの追い打ちを読んだ・・・・・・?)
 そう考えた方がまだ納得感があったが、何か引っかかる。
 技巧派テクニカルな芽依とは対照的な、闘争本能剥き出しの獣性。
 攻撃に十、防御に零の、まるで痛覚を切り離した戦い方。
 喰うか喰われるか。やられる前にやる。
 そんな主義ポリシーが伺えた。
 ひかりは違和感の正体が見えないまま、獣の反撃を迎え撃った。
 相手の突進に対し、細かく後方へ距離を取りつつ隙を狙った。
 光弾はことごとく躱された。ひかりはそれが不思議でならなかった。
 先の接近戦ではダメージなど意に介さなかったくせに、牽制攻撃にはきっちり対応する。
 逆ではなかろうか? 決闘装束デュエルドレスで小さな攻撃を受け、爪牙で必殺の一撃を与える。それが最も自然なはずだ。
 何故だ? ひかりは考えた。猛烈な勢いで記憶を遡り、見逃した違和感を探した。
 目の前の攻防に集中しつつ、脳裏で無数の計算式が踊った。
 すぐ解は出た。ただ理解できなかった。
 その選択に、一体何の意味があるというのか?
 黒獣の熾烈な攻撃を前に、突然、ひかりは足を止めた。
 ひかりの自殺行為に応えるように、獣の指突は心臓の位置に迫った。
 易々と障壁を破り、決闘装束デュエルドレスに触れた瞬間だった。
 ひかりは変身を解いた。虹色の粒子を散らし、白色の衣服が消えて元の制服姿に戻る。
 魔爪は、胸の前で静止していた。
 獣の金瞳は突然見失った標的を探し、宙を彷徨っていた。
 獣に、ひかりの姿は見えていなかった。腕を伸ばせば届くこの距離で、気配すら掴めていない。
 睨んだ通り、獣の五感は機能していない。減退しているのではなく、死んでいる。ひかりは決闘装束デュエルドレスを閉塞することで、それを証明してみせた。
 獣は五感を代償に、精霊力レイズの知覚に特化している。だからこそ、精密な長距離射撃を躱し、あれだけ広大な絨毯爆撃のすり抜けられた。
 芽依は初めから、決闘装束デュエルドレスを纏った相手を標的に設定していた。
 変身をけしかけ、その相手に戦う意思ある限り終わることのない戦いを仕掛けたのだ。
 結果だけみれば、単にどちらかが倒れる結末を望んだかのように映る。
 なのに、今のひかりには、そんな単純な答えさえ信じられなかった。
 「何で・・・・・・? どうしてそこまでするの? これ何の意味があるの? あたし、やっぱりぜんぜん判んないよ・・・・・・」
 両者の思考はまるで噛み合わない。芽依は一体何がしたかったのだろう?
 ただ傷つけたいだけなら、決闘装束デュエルドレスなんていらない。闇討ちでも何でもすればいい。芽依は目的のため、手段を選ぶようなタイプではない。
 ああまでしたのは、何としても変身させたかったからだ。だからこそ、変身した後になって本気でぶつかってきた。変身させることに意義があったとしか考えられない。
 そして本気で戦ったからこそ確信したのだ。ベルケムに依存している理由――責任から目を逸らしていることも、責任を果たすための覚悟がないことも。
 “ジュエリスト”を名乗って欲しくない――その通りだ。
 本気を出したことがない人間に、他人を護れる訳がない。
 ひかりはこれまで何だって真剣に取り組んで来た。けど、どれも本気ではなかった。
 本気を出してはいけない。そんな誰も言わないけど皆が望んでるルールがひかりを雁字搦めに縛り上げていた。
 何故なら、安全で決められた枠の中に収まるには、フツーであることが条件だからだ。特異で、特別で、異質な人間は弾かれる。ルールは守られるためにあり、破った者には罰が下る。
 だから、いつだってフツーでいる必要があった。
 そのひた隠しにしていた願望を、芽依は知っていた。知りながら、黙っていた。
 「だから、認めさせたかった・・・・・・? あたし自身に?」
 そこまで思考を辿ると、何かが掴めそうな気がした。そんな折りだった。
 ザクッと、肉を切る音がした。
 一振りの剣が、獣の背に突き立っていた。
 背を抜け胸から飛び出したその剣は、すべてが金色。太刀ほどの長さだが、握りはなく、刀身がカミソリのように薄い。精霊力レイズでしか成し得ない業物だった。
 「グ、ァ・・・・・・オオオァァアァァ!」
 喉を振り絞るように、獣は絶叫した。
 胸を貫かれてなお、空に現れた敵を切り裂こうと、手を伸ばした。
 「この剣――」空を見上げるひかり「――待って!」
 言うより早く、空から無数の剣が降り注いだ。
 瞬く間に、獣は四肢をメッタ刺しにされ、立ったまま地面に縫いつけられていた。
 血が滝のように流れ落ちていた。そのあまりの量に、どの傷口から流れているのかさえ判らない。
 それでも前へ進もうとする。悲しそうな呻き声を上げながら。前へ。前へ。
 だが、どれだけもがこうと、剣は楔のように抜けなかった。
 「へぇ・・・・・・まだ動けるんだ? ハハッ、俺の相棒よかよっぽど根性あるじゃん?」
 無惨なその様を、曇りのないソプラノが嘲る。
 国道を挟んで向かい側に位置する病院の屋上の縁に、一人の少女が腰掛けていた。
 七分丈のスラックスに、派手な青紫色のデニムジャンパー。中に着込んだパーカーのボリューム感のあるフードは被らず、普段は隠された顔を露わにしている。
 少女――ジュエリストのアンバーは、一人と一匹を退屈そうに見下ろしていた。
 手元では、金色の剣が宙で縦に横にクルクル、クルクルと旋回。指先で踊るようなその様は、いかにも投げつける気満々だ。
 「アンバー、待って! この子は敵じゃない!」
 「はぁ? 寝ぼけてんのかダイヤ。どっからどう見たってネオアンガーだろ~? ネオアンガーは俺たちの敵。敵は殺さなきゃな~。だからソイツを殺す。別にどこもおかしくない」
 「違う! 人間だよ! この子はッ、アタシのッ・・・・・・!」俯き加減に「友達、なんだよ・・・・・・」
 どうにか言葉を繋いだひかりに、アンバーはくぐもった笑い声を上げる。
 「何言ってんのかさっぱりだ。せっかく危ないとこ助けてやったってのによ」
 アンバーは二本指で宙で回る刀身をキャッチ――投擲の構え。
 「ダメ!」
 ひかりは獣を庇って前に立ち、両手を広げる。
 だが、こんなことでは妨害にすらならない。
 ジュエリストは物理法則を如何様にでもねじ曲げるし、彼女のはメンバーの中でも屈指の精度を誇る。この距離でも、ひかりを傷つけることなく射抜くなど造作もないだろう。
 芽依を本気で護りたいなら、ひかりも決闘装束デュエルドレスを纏うべきだ。
 だが、そんな都合の良い偶然が二度続くだろうか? 失敗したら?
 ひかりが逡巡する間に、アンバーは無情な一撃を放っていた。
 金色の剣が空から襲い来る。
 「ヴォオオオォォ!」
 獣は激しく身震い――血飛沫が舞う――幻想から成る剣をへし折る。
 だが、それだけだ。空からの攻撃に間に合わない。
 ところが、剣が空の間で木っ端微塵に砕けた。破片は硝子細工のように煌めいて消失。
 獣とアンバーの中間に、白いケープがはためいていた。
 「・・・・・・違うって、そう言ったよね?」
 決闘装束デュエルドレスを纏ったひかりが、これ以上は言わないという強い意思をアンバーへぶつける。
 「♪~」賞賛の口笛「決闘装束デュエルドレスの単独解放。しかも馬鹿みたいなその速度ときたら。流石はあの人が目を付けるだけのことはあるな。さって、と。んじゃ、お次はこんなんどうよ?」
 アンバーの全身から喜色が溢れ、精霊力レイズの急激な高まりを感じた。
 今度は本気だった。あくまで攻撃する気でいるなら、幾ら仲間とは言え、実力をもって止めさせるしかない。
 ひかりが身構えると、三つの出来事が立て続けに起こった。
 一つ。ドサッと、鈍い音。
 ひかりが見下ろした先に、鮮血に染まった制服の少女が道路へ倒れ込んでいた。
 二つ。真っ赤に燃える遠くの空。
 その夕日が差し込んだような明るさは、今まで誰も見せたことのない強さだった。
 まるで命ごと燃やしているかのようで、不吉なものを感じずにはいられない。
 三つ。不吉な予感より、確実に悪いもの。
 異変は駅から程近い位置、国道と面したところにある小桜市の市役所で起こった。
 市役所は十数階にもなる高層ビルだったが、その中層部が赤黒く腐食し、真っ黒に染まった中心部が突然、隆起した。
 ビルの壁面に単眼の巨大な蛇の頭部が浮かび上がると、孔から押し出されるように、後から後へと胴部が現れる。その長さと来たら、全長を現すまでビルをひと巻きするほどだった。
 単眼の蛇には鱗もなければ蛇腹もない。およそ蛇と称するだけの特徴はなく、代わりに、胴の左右に下向きの大きな八つの刃を生やし、刃と向きと反対に二つの翼があったが、極めつけは二翼の付け根に埋まった一人の女だ。
 下半身が蛇と一体化し、上半身は裸身で痩せて肋骨が浮いている。肌は薄青く、長い白髪が申し訳程度に乳房を隠し、枯れたような両腕は、たすき掛けしたベルトに緊縛されていた。
 女の双眸は、瞼を糸で縫い止められているため知れない。裂けたように顎もとまで広がる口から、乱杭状の牙を覗かせていた。
 人といえば人であり、人でないといえば人でない。ひかりがその人と怪物の境目に位置するような風貌を目にしたのは二度目だった。
 一度目は半月程前のこと。初めてルビーとサファイア、そしてアンバーに出会った夜。
 ジュエリストの真の敵であり、異世界アナザーからの侵略者である邪神官の一人、『憤怒』のロー・デルヌスがそうだった。
 中央制御核セントラルコアを遙かに凌ぐこの只ならぬ気配。間違いなくアレは残りの邪神官のどちらかだ。
 ひかりが敵の正体を推察すると、それをアンバーが裏付ける。
 「『艶羨えんせん』のリン・ヴィルヘルハルムのご登場・・・・・・ったく、ジュエリストが三人もいて足止めすら出来ないわけ? 異世界アナザーぶっ壊れてないってことは中央制御核セントラルコアも仕留めてないと。ホント、呆れるくらい使えねー奴らだな、アイツら」
 散々な言われようだが、ひかりにそれをフォローする余裕も、時間もない。
 「アンバー! お願い、少しだけでいいから時間を稼いで!!」
 ひかりは思うより早く、想いを告げる。
 後のことを全部置き去りにして、唯一つ願った。
 「《時間は私の認識であり、私の主観と共に動く。私が認識しない現在は無であり、私が過去に在る世界は過去となる》!」
 今までの比ではない程の勢いで、手にした刻印装具シールズ――《魔法辞典マジカルデザイナー》――のページがめくれ、目映いばかりの輝きを放った。
 すると、刻一刻と芽依の体から流れる出る血液が、ぴたりと止まった。いや、それどころの話ではない。流れが、まるで逆再生をかけたように戻っていく。
 異世界アナザーの破片がそうしたように、芽依の時間を、強制的に巻き戻していく。
 時間遡行など、ただ願って叶うことではない。ジュエリストにとっても奇蹟の所行を、ひかりはこうも容易くやってのけた。
 巨大な単眼の蛇は精霊力レイズの発露に機敏に反応、鼻先をぴたりと中空のひかりに定めた。
 「ダイヤさんよ~相手は仮にも邪神官だ。んなことやってる場合か?」
 「判ってる・・・・・・! でもこっちも危ないの! もう少しだけ・・・・・・せめて命が繋がるまで・・・・・・!!」
 全神経を注ぐ猛烈な演算に、ひかりの額に汗が滲む。即答しないアンバーへ視線を振り向ける余裕すらない。ただ、精霊力レイズの急速な高まりを、意思表示として受け取っていた。
 (よし! あとちょっとで・・・・・・)
 失血は止まった。後は開いた傷口が閉じれば問題ない。
 なんとか間に合った。また彼女の命が拾えた。それが何よりの喜びで、達成感で心が満たされていた。
 だから、自分が墜ちていることに気付かなかった。
 そして、激痛がすべての感情を満たす。
 「・・・・・・え?」驚愕の一音。
 背面に刺さった無数の金色の剣。余計な空気抵抗を受け、体がくるりと上向きに回る。
 見上げた空で、アンバーがにこやかに嗤って、手を振っていた。
 “じゃあな、ダイヤのジュエリスト”
 それが、最後に聞いたアンバーの台詞だった。
 後は闇。ひかりは、なす術もなく、単眼の蛇に飲み込まれていた。


 <うおおおぉぉおおい! おいおいおいおいおい!! 飲まれちまったぞ! 丸飲みだ! つーか、何だあの金色のジュエリスト!? 何で仲間を撃ちやがった!? 意味が判らんぞ! おい、どうなってんだこりゃ!>
 ギリアムが混乱をそのままに叫んだ。それはもう叫ばずにはいられなかった。
 芽依の決闘装束デュエルドレスを解放した後、一度は戦場を離脱したが、こうして死地に戻っている。
 今はちょうど市役所のビルに隣接するシティホテルの屋上から、驚愕の瞬間を目撃したところだった。
 芽依の作戦は中央公園での合流決・闘装束デュエルドレス解放まであって、以後の行動については特に指示がなかった。強いて言うなら、こうして人質ベルケムが大人しく鳥籠に収まっているか見張るくらいだったが、芽依が破れ、ひかりが邪神官にやられた今となってはさしてたる意味もない。
 <おい、こら聞いてんのか!? テメェの仲間がテメェの相棒を攻撃して、邪神官に飲まれたんだぞ!>
 ギリアムが異常にテンションを上げる最中、ベルケムは鳥籠の中でじっと戦況を見守っていた。
 <何かあるだろが! 相棒として一言くらいよ!>
 「ギリアム。君は自分の相棒の心配をした方が良い。現状、最も危機的状態にあるのは彼女だ」バリトンが重い響き。
 ギリアムには、それが事実だとにわかに信じられない。
 「ダイヤの精霊力レイズは感じられないが、彼女はまだ生きている。私が現存していることがその証拠だ」
 <だが、後数秒で死ぬかも知れんだろうが!>
 「その通りだ。そして、それは君も同様だ。こんなところで悠長に構えている場合ではないのだが、ここから出して貰えないだろうか?」
 <よく言う。仮にも聖霊セイントたる存在だろ。この程度の檻、壊せないはずがない>
 「それが致命傷とならない保証はない。ならば交渉で通るのが道理だ」
 <はン? この期に及んで交渉と来たか。アンタを解放して俺たちに一体何の益がある?>
 「ダイヤを助けだし、邪神官とアンバーをまとめて排除する。結果的に、君は相棒を救うことができる」
 <嘗めるな。聖霊セイントはそこまで万能じゃねぇ。たった一柱ひとりで何ができる。まだ残りのジュエリストに助けを求めた方がマシだ>
 「それではダイヤと芽依の両方が手遅れになりかねない。今は何より対処速度が優先される。急げ、躊躇している時間はない」
 全くもってその通りだった。芽依は中央制御核セントラルコアに取り込まれても生還したが、“死ぬ寸前だった”と告白した。邪神官より中央制御核セントラルコアの方が強力ということもあるまい。時間が鍵となるのは明白だった。こうして会話する時間すら惜しいだろう。
 <だがな、どうやってジュエリストを助ける? どんな策で――>「《聖霊光ホーリー》を使う」
 粛然と、ベルケムは宣言する。
 「先日の戦いで、私は芽依がネオアンガーの堕気を纏っていたから発動させた。結果的に失敗だったが、今回は確実に効果が見込める。瞬間的にでも隙が生じれば、ダイヤなら十分打開可能だろう。アンバーの裏切りは想定外だったが、知れていれば対応可能だ。邪神官と同時に相手しても、彼女なら負けない戦いができる。
 後は防戦ができればいい。エメラルド、ルビー、サファイアのうち一人でも加勢すれば均衡。二人加勢できれば優勢。全員加勢すれば勝利が確定する。
 我々と、この世界に必要なのは私ではなく、彼女だ。私ではどちらも救えない。だが彼女ならば可能だ。今ここで失う訳にはいかない。何を犠牲にしても助けなければならない」
 ギリアムは蒼炎を揺らす鷹を睨む。
 <《聖霊光ホーリー》は人間が決闘装束デュエルドレスを解放するのと同じ、究極の自爆技だろうが。聖刻を持たない精霊が界門を開ければ、流れ込む力と一緒にこの世界に溶けちまう。アンタが今存在してるのは、メイのおかげだ。あのとき、アイツがアンタの法術を破ったからこそ消滅は避けられた。だが今回は誰も止めらンねー。仮に、邪神官に《聖霊光ホーリー》が通用したとして、アンタの相棒は確実に解放されるのか? 助け出すより先にアンタが燃え尽きた瞬間、決闘装束デュエルドレスが失われ、結局、ダイヤは死ぬことになるぞ>
 整然とした指摘に対し、ベルケムは淡々と答える。
 「彼女の幸運に賭ける」
 その短い一言に込められた願いの重さを、ギリアムは知らない。
 正直、ダイヤのジュエリストがどうなろうが関係ないし、まして、二つの世界がどうなろうが知ったことではない。
 だが、ここで相棒メイを失うのは純粋な損失だ。
 他の精霊と接触してしまった以上、今後、この街で秘密裏に協力者を育成する余地はなくなったと考えていいだろう。そういった意味で、芽依の利用価値は、以前に増して跳ね上がったのだ。
 まずは何とかこの場を切り抜けること。欲を言えば、恩義の一つでも売れれば上出来だ。
 だが、そのためにはまず、芽依に立ち上がって貰わなくては話にならない。
 ギリアムの胸の内で打算が首をもたげた。
 <違うね。賭けるべきはアイツの悪運さ>
 歪んだ、凶悪な笑みで否定する。不謹慎にも、ギリアムは心躍らせていた。
 常に幸運に恵まれる少女と、苦難になるほど結果を手繰り寄せる悪運の少女、一体どちらが勝利を掴むのだろうか。
 賭事など、堅実を旨とするギリアムの趣味ではない。しかし、崖っぷちに立ったなら話は別だ。
 《解放アンロック》――とギリアムが唱える。檻は元のガラクタに還った。
 <アンタのよりほんの少しだけマシな策がある。乗るか?>

 黒い衝動から自我を取り戻したとき、芽依は国道のど真ん中に転がって白線を舐めていた。
 傷口が火を吹いたように熱く、喉がひりつく。体中から、痛みばかりが溢れて、身動ぎさえ苦痛だった。
 それでも、物語の顛末を未だ見ぬ眼差しは、白い衣服の少女を探していた。
 本当は誰に問うまでもなく知っていた。決着は付いている。こうして倒れているのだから、自ずと答えは知れる。
 黒岩芽依は負けたのだ。黒い衝動の力を利用し、文字通り死力を尽くしても宝生ひかりを凌駕することはない。
 もう一人の自分が予言した通りの結末を迎えた。ただそれだけのことだった。
 芽依は大きく息を吐いた。
 これで自分の描いた脚本通りだろうか。
 ひかりは全力を出し尽くしただろうか。
 この後は本気になって貰えるだろうか。
 僅かな満足感と激痛に震える体に鞭打ち、芽依は寝返りを打った。
 ようやく見上げた空に、白く輝く光はない。
 仲間の元へ駆けつけたのか、それとも――
 芽依は突如、違和感に気付く。
 「この気配・・・・・・」
 痛みが酷すぎて、それ以外の感覚に鈍くなっていた。だが、一度気付いてしまえば振り払うことなど出来ない。
 あの日、あのときと同じだった。極寒の中に放り込まれたような、肌を突き刺すその感覚を、忘れられるはずがなかった。
 視界の端で、金色の輝きが火花のように瞬いた。直後、視界に収まりきらない黒い巨大な物体が映り込んだ。
 「邪神、官・・・・・・!」
 初めて見るにも関わらず、一分も疑わなかった。
 何故、アンバーが邪神官と戦っている。
 何故、ダイヤは邪神官と戦っていない。
 二つの不確定要因イレギュラーを目撃して、自身の策が功を奏したなどと思えるほど芽依は楽観主義者ではない。
 むしろ、最悪の方向へ転がってしまったように思えた。
 「こんなところで、寝てる場合じゃ・・・・・・、ない」
 血の引く想いをねじ伏せ、立ち上がる。少なくとも芽依はそのつもりで全身に命じた。
 だが、あっさり裏切られた。僅かに頭が持ち上がるばかりで、四肢は言うことを聞かない。
 立て! 立て! 立て!
 どれだけ強く念じても、まともに体が応じない。まるで電池が切れかけの玩具のように、微々たるものだ。
 「決闘装束デュエルドレスさえ、あれば・・・・・・!」
 比較的動く顔を左右に振り、眼球を目まぐるしく動かして異形の相棒を探した。
 ところが何処にも見当たらない。巻き添えを考慮し、公園から退避するよう取り決めていたのが失策だった。死んでも構わないから近場にいるべし、そう宣言しておけば――
 恐らくギリアムが呆気なく死んで、決闘装束デュエルドレスを失っただけだ。芽依は不意に首をもたげた愚考を投げ捨てる。
 (もう一度、自力で解放するしかない)
 だが、心身共に正常な状態であれだけの時間だ。今の酷い有り様を鑑みれば、限りなくゼロに近い。下手をすれば罰則ペナルティだけくらう羽目になるかも知れない。
 頭のどこかで、諫める声がする。
 だが、芽依はそれを”弱さ”だと唾棄した。雑念を振り払い、一心に願った。
 「《栄光は我が手の中に(オープンジュエルグローリィ)》・・・・・・!」
 厳かに唱えた言葉は、何の変化ももたらさなかった。界門が開く感覚もなければ、精霊力レイズの動きもない。
 自分の不甲斐なさに、芽依はぎりりと奥歯を噛みしめた。
 「何か手立てを・・・・・・」
 一手一手考えるも、無情な現実がつぶさに踏み潰されていく。どだい一人では無理な話しなのだ。荷が勝ち過ぎている。
 (せめて頭だけでもあれば・・・・・・!)
 らしくもなく、自身の無能を呪った瞬間だった。
 誰かの声が聞こえた。脳裏に響く微かな声は今にも消え入りそうで、芽依はラジオのチューニングをするように声の主に意識を注ぐ。
 すると今度ははっきり聞こえた。
 ――芽依。聞こえる?
 「アナタ・・・・・・どうして?」
 ――界門の解放は、成功してる。ただ、小さ過ぎて、変身、できない、だけ。
 「私の見たものは把握してる? 何故、ひかりは何処に行ったの? アンバーと邪神官は、いつ出てきたの?」矢継ぎ早に畳みかける。
 ――アンバーが、裏切った。あの子は、蛇の、腹の・・・・・・中。
 衝撃的な返答だった。アンバーが裏切った? なら何故、邪神官と戦っている。そもそも何故裏切る? 何故このタイミングなのだ。
 答えに倍する疑問が浮かんだが、今は途切れ途切れの声の方が気掛かりだった。
 「・・・・・・そちらの状況は?」
 芽依が鋭く切り込むも、返事はなかった。
 声が届かなくなったのか、黙っているだけか、それとも答える余力すら残されていないのか。
 不安が駆り立てられていった。どうしてこんなに焦るのか不思議なほどだった。
 自分と同じ姿で、記憶を共有しているだけの、全く違う性格の、赤の他人なのに。
 訓練に付き合わせて。戦略を話し合って。助けを求めて。散々利用した。しまくった。それでも何一つ見返りを求めず、ただ芽依じぶんと一緒に居たい、話をしたい、そう無邪気に笑う少女に、自分は何を想うのだろう。
 想いが擦れ、熱を持った。
 動悸がする。頭が痺れる。乾き切った喉が痛い。
 焦がれながら、芽依はじっと辛抱強く待った。
 ――正直、かなりピンチ。世界が、壊れ、かけてて。息が、苦しい・・・・・・。
 芽依は双眸を細める。悪い予感は的中するものだ。
 変身につぐ変身。そして、“黒い衝動”の意図的暴走。心身に悪影響が出ないはずがない。
 芽依は、自身のことであれば幾ら代償を払っても良いと考える。だが、他人を犠牲にするのは我慢ならない。
 宝生ひかりもそうだ。必要があったから戦ったが、負けるのは自分でなくてはならない。相手に恨まれようが、罵られようが前進させる。それが目的だったからしたまでだ。
 決して、誰か他の人間に利用させるためではない。そんなことあってはならない。
 散々練った計画の結末がこれでは死んでも死にきれない。
 怒りに沸騰する頭が、口端を無理矢理釣り上げた。
 「奇遇ね。こちらも半死半生。ゾンビの方がまだ機敏に動いてる感じ」
 渾身の自嘲に、微かな笑い声が一つ。
 ――こんなときに、笑わせないで。よけい、苦しくなる、じゃない。
 「教えて。アナタとひかりの両方を助ける方法を」
 ――教えるまでもない、かな? ほら。
 <メイ! 生きてンなら返事しろッ! もし死ンでるなら泣いて俺に詫びやがれ!>
 どこからか響く、酷く耳障りな雑音を無視した。
 「却下。今、変身したらアナタが死ぬ」
 ――なら、あっちね。
 高い空から、蒼炎の鷹が舞い降りて来た。
 芽依は一瞬で相棒らの意図を悟った。
 ギリアムが敵の意識を引きつけ、その隙にベルケムが接触。芽依を変身させるつもりだ。
 「私が死んだらベルケムが消える。あの子にはベルケムは必要なの。だから却下――」双眸を細める「――というか、読まれていたみたいね」
 地表付近で着地姿勢をとったベルケムに,狙い澄ませたように金色の剣が襲い来る。
 しかも一振りではなく、十はくだらない。
 蒼炎の鷹が急旋回した。その巧みな動きで直撃こそ避けたが、すべてを避けきることは出来ない。
 幾つかの剣が翼を切り裂き、ベルケムは墜落した。地面に叩きつけられたが、それをものともせず、すぐさま起き上がると、再び羽ばたこうと翼を広げる。
 そこへ空からアンバー自身が強襲。ベルケムを思いっきり踏みつけた。
 アスファルトに亀裂が走り、ベルケムの体は真っ二つに割れた。
 生物なら即死だろう。だが精霊は分類学では定義できない。下半身は即座に消滅したが、上半身は動こうとした。
 「はは。無様なもんだな、芽依。どんな気分だ? 親兄弟の敵が目の前にいてな~んもできないってのは?」
 アンバーは身動きのとれない芽依を見下ろし、蔑んだ。
 「折笠、死音・・・・・・! アナタの目的は何!?」
 「おお、スゲェ眼! おっかないねぇ~。でもイイ。やっぱイカすよ、お前。ジュエリストの中じゃダントツだ。他のヤツラはヌルいし何かと鼻ついて仕方なかったんだよな~。金持ちだったり、ツラ良かったり、何も考えてなかったり、見るからに幸せ一杯! みんな苦労とか悩みとか縁がなそうでムカついたんだわ。ああ、でもルビーのあのエロい体は悪くないと思うぜ。むしろ中学生でありゃ反則だろ?」
 呵々と笑い、悪童ぶりを惜しむことなく披露する。
 「芽依・・・・・・契約を」
 ベルケムは地を這いながら芽依を目指した。後少し、芽依が手を伸ばせば届く距離だ。
 アンバーは手中に、針のように極細の剣を無数に生成、投擲する。
 蒼炎の鷹が針鼠のような姿になり変わる。
 「ベルケム・・・・・・!」
 芽依の声に、ベルケムは反応しなかった。
 「必殺・精霊封じ! な~んつってな。俺ってば、精霊を殺さないように痛めつけるのは慣れてるからさ。安心して苦しめよ。くはははははっ!」
 狂ったように哄笑するアンバーを芽依は指さす。
 「そんな余裕ぶってる場合?」
 「あん?」
 より正確には、アンバーの背後に音もなく迫った単眼の巨蛇――邪神官である『艶羨えんせん』のリン・ヴィルヘルハルムだ。
 大口を開け、アンバーに襲い来る。その巨体からは想像も付かない素早さだ。
 「ヤバい! やられちまう――」身を縮めるアンバー。
 何の抵抗もなく丸飲みにされる直前、“待て”としわがれた女の声がした。
 「――なんつってな」
 アンバーはおどけて見せる。
 縦に開いた大口は少女アンバーに触れる直前で静止していた。
 芽依は、単眼の蛇を初めて直視した。何を置いても、まずその大きさに驚く。
 頭部だけで二メートルはあるだろうか。続く胴体は曲がりくねっているせいで全長が何十メートルあるかも判らない。
 全身に鱗も蛇腹もなく、ただ闇が固まったように黒い。胴の左右に下向きの大きな八つの刃を生やし、地面に突き刺している。刃の向きと逆向きに付いた小振りな二翼、そして、その付け根には女が一人埋まっていた。
 女の下半身は蛇と一体化している。上半身は裸身だ。薄青の肌。長い白髪。枯れたように細い両腕は、たすき掛けしたベルトに縛られていた。瞼は糸で縫い止められ瞳は見えない。裂けたような大きな口から乱杭状の牙を覗かせていた。
 確かに風貌は恐ろしい。だが、真に恐るべきは敵の圧倒的な力だ。芽依はこれまでの敵と比較し、計ろうとするが想像が届かなかった。これまで見て来た中央制御核セントラルコアは強敵だったが、こちらは次元が違う。
 (こんなの、一体どうしろっていうの・・・・・・!?)
 全く持って期待外れだ。アンバーと邪神官がぶつかればチャンスが回ってくる。それが蓋を開けてみればどうだ。ふりをしていただなんて、一体誰が想像する。
 折笠死音がジュエリストの仲間と距離を置いていたのは、折笠花音と折笠死音の二重人格が原因ではなかった。敵側と通じていたから。だから万が一にも悟られないよう、距離を置いていたのだ。
 正真正銘、最悪だ。芽依は目眩を覚えた。
 (・・・・・・!?)
 寝そべっているのに視界が揺れた。呼吸が浅く、早くなる。
 意識が朦朧としていた。
 「その様子。邪神官の瘴気に当てられたな。どうするよ芽依。お前、死んじまうぞ?」
 ――ダメ・・・・・・これ、は、邪神官の、瘴気。芽依、逃げて・・・・・・!
 奇しくも忠告が重なった。だが、自分でどうにかできるようならとっくにそうしている。
 『何をしておる小童や。そこの精霊は、我らが仇敵ぞ。疾く滅せよ』
 蛇の背に半身を埋めた女が尊大に命じた。芽依のことはその視界にも入っていない。自分が放つ瘴気で苦しめていることさえ知らない。
 「まぁ、もう少し待ちなって。後、一押しってとこ何だからさ」
 アンバーが意味の分からないことを言う。だが、芽依に洞察するだけの余力がない。
 「なぁ、芽依。助けてやろうか?」
 悪魔が、天使の声で囁いた。
 芽依は藁にもすがりつきたくなる気持ちを最後の気力で抑え込む。
 「地獄に、落ちろ・・・・・・!」震える指先を天に突き立てる。
 するとアンバーは一間空け、腹を抱えて笑った。
 視線を外して空を見やる。ルビーの輝きも、サファイアの輝きも、エメラルドの輝きもない。世界は変わらず色褪せていた。
 もう間に合わない。自分は死ぬ。もう一人の自分と、相棒ギリアムを巻き添えにして。
 ベルケムだって救えない。ベルケムを救えないから、ひかりも死ぬ。決闘装束デュエルドレスを失って終わるのだ。
 手酷い計算違いによって、都合四つも命が失われる。
 自責の念に堪えるように、芽依は瞼を強く閉じた。
 (何で、そんなことが許せる!? 何かできることは!? 誰か助けられるひとは!?)
 そして答えを探し続けた。どうにもならないと諦めることなど出来なかった。
 残された力を総動員し、ガタガタになった思考を無理矢理回す。
 (この世界とか、この街とか、そんな大それたことは言わない。この残りカスに何か使い道が――)
 そのとき閃く。たった一つだけ、成し得ることがあった。
 芽依は必死だった。だから、それが自身がされることを最も嫌う”善意の押し付け”だとは思わなかった。
 「アナタだけでも、救ってみせる・・・・・・!」
 ――芽依・・・・・・?
 「体をあげる」
 ――ダメ。止めて。それは・・・・・・。
 もう一人の自分が慌てて叫んだ。
 ――今、私たちの心の置き場を替えると”黒岩芽依”は死ぬ。
 少女は自分の痛みを隠し、芽依に思いやりを寄せる。
 ――崩壊する精神世界と一緒に消えちゃう。それでいいの? そんな終わり方で!
 芽依は掲げた手を、ゆっくりと胸に添える。
 「早とちり。アナタだってこんなボロボロの体、貰ったって嬉しくないでしょ?」
 芽依はありったけの願いを込めると、柔らかな光が芽依の手を包み込む。
 (精霊力レイズが想いを形作るというなら、どうか叶えて。私の最後の願いを)
 胸の奥底に意識を伸ばすと、光は静かに体の中へ流れ込んでいった。
 深く、深く。奥底まで至ると、何か暖かいものに触れた。
 それは酷く恐がりで、雨雪に震える子犬のようだった。
 大いなる光が、あたかも母が生まれたての我が子をいたわるように優しく包み込んだ。
 壊れぬよう、傷つけぬよう、慈しみを込めて。
 「おいで」
 そして、芽依は小さな命を救い上げるように、両手を天に掲げる。
 すると宙に虹色の輝きが溢れ、一人の少女が形作られた。
 白いワンピースを纏った少女は薄目を開く――絡まる二つの視線――双眸を見開いた。
 芽依は微笑み、力尽きる――真っ直ぐ伸びた腕が沈む――少女が手を取る。
 『芽依の手はあったかいね』
 その一言を残し、少女の全身が砕けた。
 まるで硝子細工が砕けるように、無数の破片に変わる。
 創生の失敗――最後の希望が砕け散る様に、芽依は喉を絞り、
 『さぁ、皆を助けよう。始まりの言葉は分かるよね?』
 もう聞き慣れてしまった声に、息を飲んだ。
 頭の中に住み着いた少女に実体を与えるという芽依の願いは成功しなかった。けど、失敗でもなかった。では彼女は一体どうなったというのか?
 すべてを明かすため、芽依は魔法の言葉を唱える。
 『「《栄光は我が手の中に(オープンザジュエルグローリィ)》」』
 二つの呪文が重なった瞬間、白と黒の光に包まれる。

 「この輝き・・・・・・ジュエリストかや!?」
 予想外の伏兵に、リン・ヴィルヘルハルムの本体である異形の女が動揺らしきものを見せる。逆に単眼の蛇は敵性に反応し、いきり立った。唯でさえ大きな口を限界まで縦に開き、光輝く芽依を丸飲みにしようと襲い来る。
 巨体にそぐわぬ俊敏さで一瞬にして間合いを詰め、巨大にして強大な顎を閉じた。
 だが、口端が噛み合うことはなかった。金色に輝く長槍が、下顎を地面に縫いつけ、上顎につっかえることで閉口を防いでいた。
 「何をする小童! 我らを裏切るつもりか!?」
 邪神官のヒステリックな叫びにも、アンバーは動じる様子はない。
 「今すぐ妾を開放せい! よもや、これがあの男の意思ではあるまいな・・・・・・!?」
 「さぁね? あの人の考えは知らないし。ぶっちゃけ、誰もわっかんないでしょ? 死人の考えることなんてさ。俺は”二人を追い詰めろ。ただし殺してはならない”って言われただけだかんなー。それ以外は勝手にやらせて貰ってる。ただそれだけのことさ」
 それどころか、いけしゃあしゃあと言って退ける。
 「痴れ者がっ!」
 リン・ヴィルヘルハルムがアンバーへ敵意を露わに。
 大蛇は刃で肉を裂きながら前進した。アンバーが横に飛び退く。すると、蛇はその動きに食いついた。
 「んじゃまぁ、あっちの準備が整うまで遊んでやるよ」唇を舌なめずり。
 そして、金色の輝きが、色彩の失われた街に飛び交った。

 芽依はこれまで体感したことのない精霊力レイズの奔流に翻弄されていた。
 精霊力レイズの爆発は一瞬であるはずが、吹き出すばかりで一向に決闘装束デュエルドレスとして実体化しない。
 戸惑いを隠せない芽依へ、どこからか少女の声がした。
 『さぁ芽依、思い描いて。アナタの望む姿を。なりたかった理想を。“命短し、ドレスを纏えよ乙女!“ってね』
 そこで手の中にある柔らかな感触に気付き、五指を開く。
 いつの間にか、虹色に輝く小さな石があった。虹色といってもオパールの輝きやダイヤモンドのちらつき(シンチレーション)とも違っていて、刻一刻と配色が変遷するという自然界ではあり得ない光方をしていた。
 見たことがない。にも関わらず、芽依には覚えがあった。
 「――」一瞬で想い至る与太話「――
 『今は余計なことを考えないで。思い出して。ジュエリストの戦いを。その存在意義を』
 はっ、と芽依は思索を中断し、これまでと変わらぬ自分の姿を想像する。
 今更望むスタイルなどないし、考案するだけの時間もない。一刻も早くひかりを助け出す――それだけを芽依は想う。
 呼応するように二つの光が凝縮し、全身を取り巻いた。
 刹那で血塗れた制服は決闘装束デュエルドレスへと早変わりする。
 その姿はこれまでの黒一色で背徳的な服装から一変していた。
 手足はロング・グローブ/スパッツで覆われ、上着トップスは裾の大きく二つに分かれた変形チュニック。下衣ボトムスはショート・パンツ/ヒールブーツ。
 服装の白×コントラストに、美しい亜麻色の髪と透き通るようなライトブラウンの瞳がよく映える出で立ちだった。
 その姿は見るものにある種の既視感を与えた。どの角度から眺めても、多分に特定人物の影響を受けていたが、芽依自身そのことに気付かないでいた。
 右手に収まった白杖――刻印装具シールズ高貴なる白エーデルワイス》――を握り直し、石嵌器セッターに虹色に輝く石を装填する。
 四つの爪が石をがっちりくわえ込むと、杖の先端に施された蕾を模した細工が膨らみ、四枚の可憐な花弁が花開く。
 『これが《霊子融合ユニオン》――精霊とジュエリストの在るべき姿。芽依の本当の力を、私がレクチャーしてあげる。とりあえず、ベルケムの救助から始めてみよっか?』
 芽依は改めてベルケムを見やる。アンバーの極細剣に貫かれた現状は、蒼炎の鷹というより金色の針鼠だ。人間なら輸血しながら針を一本一本除去するのだろうが、精霊の手術式など検討も付かない。
 『一気に砕いてもいいけど、ちょうどいいから引き抜いてみて。もちろん手は使わないで』
 「・・・・・・気軽に言ってくれるわね」
 少女は《念動力サイコキネシス》でやれと示唆した。
 刺さる方向がある以上、逆向きに抜けば良いことくらい芽依にも判る。
 だが、精霊力レイズの操作は思考の操作だ。一本一本に対し、向きと加減を意識する必要がある。やって出来ないことはないだろうが、今は時間がない。
 躊躇いが疑念に変わった瞬間だった。
 『芽依、細かいことは私がやるから、アナタはこの針を抜くことだけ考えて――』一間『――私を信じて』
 芯を貫く想いに背中を押され、芽依は《念動力サイコキネシス》を発動。石嵌器セッターに装填された虹色の石が、青玉サファイアに輝きを放った。
 結果は呆気ないにも程があった。数十にも及ぶ突起物が、音もなく宙に浮いていた。
 芽依は我が目を疑った。正直、何も考えていなかっただけに、ここまで自動化されてしまうと、自分が本当に実行したのかさえ疑わしい程だ。
 あの厄介な制御行程は何だったのか? これまでの研鑽が、正規のジュエリストにとって呼吸する程度の労力でしかないと悟ったとき、芽依は言葉にならない複雑な気分を抱いた。
 『安心して、《霊子融合ユニオン》はそれほど万能じゃない。精霊はジュエリストの思考や演算を代行しているだけだから、無茶な要求は通らないし失敗もする。精度の高低があれば、連続回数や時間間隔に制限もある。もしかすると、ジュエリスト自身が制御した方が早いってことだってあるかも知れない。あくまでも精霊はジュエリストの補助でしかないの。だから、芽依が培って来たものは決して無駄にはならないよ。
 さて、次はベルケムを回復させよう』
 「精霊力レイズを分け与えるの?」杖を構える。
 『それも一つの方法だけど、今は効率優先。芽依、ベルケムをエーデルワイスに取り込んで』
 芽依は膝を折って、ベルケムにそっと触れる。
 「ベルケム。聞こえる? 私よ、黒岩芽依よ。返事をして」
 やや遅れて身動ぎ。
 「・・・・・・芽依? 君はどうやって・・・・・・それにその姿は一体?」
 「細かい話は後で。ひかりを助けるから、《宝石化リジェム》をして」
 芽依は掻い摘まんだ説明すら省いた。
 「契約も無い状態では、君の力を制御することはできないが?」
 『その必要はない。何故なら、芽依には私がいるから。《宝石化リジェム》するのはアナタの為だよ、ベルケム』
 芽依と同じ声/異なる口調が口を挟むと、ベルケムが瞬時に警戒を強めた。黙然と、周囲の気配を探っている。
 「前に言った、ギリアムとは別の協力者よ。害はないわ。多分ね」
 『むしろ益しかない。少なくとも今のアナタ達にとっては』
 芽依の皮肉めいた口振りに、もう一人が煽りを入れる。
 二人の軽々しいやり取りにベルケムは驚き、同時に憤る。口にこそしなかったが、感情のうねりが伝わってくる。
 「ベルケム。私を信じろとは言わない。アナタ達を害したは事実だから。それに対して私は何ら反省している訳ではないし、今でも必要な選択だったと思っている」
 「その結果がこれか? こんなものが、君が望んだ結末なのか」
 ベルケムの語気は荒く、いつもの余裕が感じられない。
 きっと身勝手だと、断じていることだろう。
 「いいえ、違う。私の計画は失敗だった。でもまだ終わってない。過ちはこれから正すわ。だから結果をもう一度見て判断して。私の行動は一理でもあったか、それとも唯の暴挙だったのか」
 ベルケムは芽依を肯定しなかった。その言葉はもう信じるに値しないということだ。
 当然だ。そもそも芽依が決闘など挑まなければこんな事態にはならなかった。それ以前に、襲撃などしなければ良かったのだ。ダイヤとベルケムなら、裏切り者がいようと、邪神官相手が相手だろうと退けることができたはずだ。
 芽依は早々に説得を諦めた。誰も彼も判り合えるとは思わない。それは人間も、精霊も同じことだ。説得に費やす時間が惜しかった。
 芽依は視線を外し、立ち上がる。
 「あの子はね、世界で一番悲劇のヒロインが似合わない。必ず異世界アナザーの侵略からこの街と、この街に住む人々を救って、これから多くの人を愛し、それ以上の人たちに愛される。そういう運命が待ってる。少なくとも、私の生き方に邪魔されて終わって良いような人間じゃない。だからこそ私は、この命を賭して助ける」
 芽依は隠した想いを打ち明け、そして拳を強く握り締める。
 『そして私はそんな芽依を助ける。いいよ、ベルケムはそこで。芽依はね、押し付けられた責任を果たそうとしてる。ひかりも、他のジュエリストの子もそう。動機は一人ひとり違って、やり方もバラバラだけど、この悲しいことだらけの世界を護ろうと必死になってる。私はそんな”人間”を、深く信じ、愛さずにはいられない。
 さぁ、行こう。手遅れになる前に、全力を尽くそう』
 芽依はエーデルワイスに願いを込める。
 ――早く、誰よりも速く、あの子の元へ。
 石嵌器セッターの石はその想いに応え、エメラルドの目映い輝きを放った。

 「クソがッ! いい加減しつけぇーんだよババァ!!」
 アンバーは周囲に金色の剣を展開させると、リン・ヴィルヘルハルム目掛け、五月雨式に打ち込んだ。
 剣はビルの壁面を回り込むように軌道を描く。波打つように、ビルのガラスが衝撃波で乱れ割れた。
 そして、巨大な蛇の体に命中――いや、暗闇が形を成したような体表に飲み込まれ、それっきりだ。ダメージは微塵もない。
 数々のネオアンガーを屠り、中央制御核セントラルコアはおろか、ジュエリストでさえ貫いた精霊力レイズの剣も、文字通り形無しだ。
 当然、アンバーは本体である異貌の女を狙うが、幾度剣を放とうと、空をうねる巨体に阻まれる。
 遠距離からの射撃では邪神官の反応速度を越えられない。距離を詰めれば、射速が勝るだろうが、そのときは間違いなくダイヤの二の舞だ。
 一度捕まれば、恐らく二度と出られない。いかに決闘装束デュエルドレスの加護があろうと、蛇の腹の中で死を待つだけだ。アンバーはそんな馬鹿げた戦い方をする人間ではなかった。
 「カカカァ! ほれ、先ほどまでの威勢はどうした!?」
 タンクローリーより巨大な蛇が空を急上昇。胴体に生える八つの長大な刃を順に羽ばたかせながら急下降した。
 蛇頭が信じられない速度で突っ込んで来る。アンバーはそれを空中で宙返りして躱す。飛翔しているとは思えない軽業で、逆に蛇の尾に食いついた。
 背後からの追撃を振り払おうと蛇は街中を駆け回った。通り道となった民家は長大な刃によって草木を凪払われ、行く手を阻む電線や高速道路の高架橋は正面から突き破る。
 街を壊して回る怪物を、アンバーは背後から注意深く観察していた。
 精霊力レイズで構成された武器はネオアンガーに絶大な効果がある。対ジュエリスト戦を想定し、《同質抵抗現象リペリング》の緩和策も施した。お陰でこれまで優位に動けた。
 だが、この邪神官は特性が違う。精霊力レイズは体表で吸収されてしまう。
 ダメージを与えるには実体を用いる必要があった。だがあの巨体だ。どれだけのエネルギーが必要になることか。
 「俺とあのBBA、相性最悪だっつーの。もう帰っていいか? いいよな――」口端を上げる「――芽依!」
 そのとき、雷光が空から降り注ぐ。
 直後、アンバーは眼前に現れた芽依へ、瞬時に生成した細剣で切りかかった。
 芽依は上体を反らして躱し、すくい上げるように拳を叩き込み、アンバーの顎を跳ね上げる――距離を詰める――半回転から左フック。
 旋回の加速に全体重を乗せた一撃が、アンバーの体を二つ折りにする。
 「ごふぇっ!」
 アンバーは唾を吐き出しながら、無理矢理に刺突を繰り出す/刃が腹部を掠める。
 芽依は伸びきった腕を脇で抱え、肘間接をめる。逆の手でアンバーの顔面に掌底打――心中を痛撃――そのまま顔面を押さえ込み、極めたままの肘を更に持ち上げると、靱帯を裂きながら後ろ倒しに。
 後ろといっても空中の出来事だ。ぶつかる面がないので下方に落ちながら、アンバーを更に下に投げつける。
 地面に直撃する前にアンバーはぴたりと静止する。反射的に上方を仰ぐが、視界に映ったのは靴裏だった。
 芽依の両足が顔面を狙い打った。運動エネルギーのベクトルに乗って、アンバーは地面へ一直線。激突先は鉄橋上の道路だ。
 橋の下は小桜市を縦断するように一級河川の三坂川が流れる。
 すぐ隣には同市の南方を首都圏に向けて延びる路線で、国内でも有数の運行本数を誇ったが、異世界アナザーに飲み込まれた今となっては、消失点を強調するだけの建造物でしかない。
 「痛ってーな、クソが・・・・・・。やってくれんじゃねーか」
 道路脇に寝そべったアンバーが上体を起こすと、背の下でひしゃげたガードレールがいきなり体に絡まり、押し倒される。
 その隙をついて、次から次へとガードレールが襲い来る。金属の板が地を蛇行する姿は、大蛇そのものだ。獲物目掛け飛びかかり、全身に巻き付いた。
 幅十mmもある金属が独りでに曲がるなど有り得ない。これが誰の手によるものかは明白だった。
 芽依が空から降り立ち、巻きになったアンバーを睥睨する。
 「テンプレートで悪いけど、一応聞いてあげる。死音しおん、一体どんな気分? 復讐者に命を握られている気分というのは?」
 芽依が、先と逆の立場で問いかけた。
 「馬っ鹿じゃねーの? こんなんでこの俺を捕まえたつもりか?」冷笑+余裕
 アンバーは四肢に力を込める。すかさず芽依はエーデルワイスを通じて拘束レールを強化。両者の力は拮抗し、拘束は解かれない。
 「それが本気? まさか捕まえれるなんて思ってなかったんだけど?」微笑+余裕
 芽依の挑発的反復ミラーリングに、アンバーの怒りは沸点に達する。
 「うざってーんだよッ!」
 精霊力レイズの爆発的に高まり。
 空が、金色の剣で埋め尽くされた。
 「俺の剣は精霊力レイズの同質抵抗を中和させる特別製だ。てめえらジュエリストにゃ防げないぜ? 邪魔できるならしてみろよ!」
 拘束具レールの破壊と芽依の排除を両立てにした戦術が明かされると同時に、無数の刃が驟雨の如く降り注ぐ。
 芽依は瞬時に能力を《電子制御エレクトロン》へ切り替え(スイッチ)。雷光を纏い、地を蹴る。
 芽依は以前と同じ轍を踏むことなく離脱に成功する。
 一方で、《武装錬成クリエイション》が途切れたことにより、ガードレールの締め付けは停止。そこへ無数の刃が飛来し、豆腐よりも滑らかに切り裂いた。
 手足を解放されたアンバーが跳ね起きる。
 「仕切り直しだ。次は本気で相手してやるぜ」芽依を指さすアンバー。
 「仕切り直す必要はない。もう詰んでるから」アンバーの足下を指さす芽依。
 その一言を待っていたかのように、川の水面が爆発。水中から真っ黒で巨大な蛇の頭が飛び出した。
 アンバーが背後を振り返ることなく離陸体勢に入る。そして膝を曲げた瞬間、脇で寝ていたガードレールが一直線に飛んで来た。
 アンバーはそれ片手で押し止めた。ダメージもない――が、よろけた。
 飛翔イメージに僅かな乱れが生じ、僅かにタイミングが遅れる。
 その刹那が明暗を分けた。
 蛇の大顎が、下方から鉄橋ごとアンバーにかぶりついた。
 丸飲みにされる瞬間、アンバーは芽依に中指を突き立て、そして消えた。
 「言ったでしょ? “私は捕まえる気がない”って」
 芽依は肩に掛かる長い髪を払う。
 「安心して。アナタもついでに助けてあげる。まだ聞きたいことが山ほどあるから、それまでは勝手に死んで貰っちゃ困る」
 事も無げにアンバーを排除した芽依だったが、その表情は厳しく、慢心の欠片も見当たらない。
 張り詰める芽依に、手元から声が掛かる。
 『準備運動には物足りなかった?』
 「そうでもない。死音は少なからず消耗していたし、そもそも、アレと一対一で渡り合える時点で並の人間じゃない」
 鉄橋に空いた大穴を挟み、芽依と邪神官リン・ヴィルヘルハルムが対峙する。
 新たな姿となって以前に増して力を感じたが、それでも眼前の敵には及ばない。芽依の自己分析は悲観的結果を弾き出していた。
 『それは謙遜を通り越して嫌みだね』
 ところが少女がこれを否定する。
 「・・・・・・どういう意味?」
 『他のジュエリストと比較しても芽依が一番だよ。知力で鳳小夜に負けても、器量で御剣七海に劣っても、体力で吉岡夢乃に追いつけなくとも、可能性で宝生ひかりに及ばなくても。それでも芽依が勝つ。他の誰よりも深く想う芽依が、この世界で最も輝くんだよ』
 それは精霊力レイズの扱いに長けているということだろうか?
 記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリという得意/特異技に現れるほど深い自己意識が、想いを形にする精霊力レイズと抜群に相性が良いことを示唆しているのだろうか?
 答えを出すこともなく、芽依は鉄橋の上で《霊宝杖エーデルワイス》を構え直した。
 「ふふ、あの小癪な小童めが。大言の割に遊び甲斐のない――して、次はお前が妾を楽しませてくれるのかや?」
 蛇の背に半身を埋めた奇矯な女が、初めて芽依を認めた瞬間だった。
 「妾は邪神官が一柱、『艶羨えんせん』のリン・ヴィルヘルハルムじゃ、この名を絶望と共に刻んでおくがよい。短い時ではあるがのぅ?」
 邪神官が自ら名乗ったことに、芽依は少なからず驚く。よもや怪物と対話する機会が訪れようとは想わなかった。
 女はカタカタカタとぎこちなく顔を動かし、瞼を縫い止められた双眸でねぶるように芽依を視た。
 「それにしても、聖霊セイントは五体だと聞かされていたが・・・・・・ロー・デルヌスの老骨めが、口ほどにもない。お前は一体何者じゃ? それに、その奇妙な輝き、それは聖霊セイントなのか」
 「名乗るほどの者じゃない。けど、強いて言うならそうね、白月中学二年黒――」『“アレクサンドライト”のジュエリストとでも名乗っておくわ』
 芽依がお決まりの台詞を言いきる前に、手元の石が代弁した。同じ声で口調まで真似されては、本人が宣言しているに等しかった。
 すると、邪神官から予想外の反応が返って来た。
 「・・・・・・なんじゃ、それは?」微かな動揺「同じ気配が、何故二つある? そんなことはあり得ん。貴様ら、何を隠しておる?」
 「教えてもいいけど、一つお願いを聞いて貰えるかしら?」
 自分の体より数十倍も大きな相手を前にし、芽依は一歩も退くことはなかった。
 『芽依?』
 芽依は指先で少女にジェスチャーを送る。
 ――任せろ。
 「なんじゃ、言うてみるがよい」
 「アナタに飲み込まれたジュエリストの子を返して貰えないかしら?」
 「それは無理な相談じゃな。何せ、妾もこの体のどこに収まっているか判らんからのぅ? それとも、人間は自分が食うた餌を出せと言われて出せるのか?」
 異貌の女はせせら笑う。
 「勿論、出せる。いつでも、どこでもね」高らかに。
 「では、やって見せよ。今すぐに」低い声で。
 「仰せのままに――」
 芽依は優雅に右足を上げ、そして、鉄橋のアスファルトを踏み抜いた。
 ダンッ! と轟音が打ち鳴らされ、橋全体に亀裂が走る。
 割れ目から覗く鉄骨や、岩肌が細く棘となって蛇の体に突き刺さった。
 「き、貴様ぁぁ!」
 蛇が身動きが取れなくなった瞬間、能力を《念動力サイコキネシス》を発動。
 掌と数十トンにも及ぶ鉄橋の一ブロックの間に数十センチ空けて浮かべ、
 「見せてあげる。人間流の嘔吐の
 思いっ切りぶん投げた。
 重力を無視してすっ飛んでいく巨大建造物は、蛇に激突。衝撃にのた打ち回る。
 芽依は狙った場所が腹だとか、急所だと考えた訳ではない。まして、こんなことで吐き出されるとは考えていなかった。
 ただ、物理耐性の具合を計ろうとしただけだ。同じ手が二度、三度と通じるとも思っていないので、ここからは計画無し(ノープラン)だ。
 「さて、物理攻撃が有効だと判ったところまでは良かったけど、後はどう攻略したものかしら? 正直、火力不足だと思うのだけど」
 『違う。足りないのは知識の方。それを実感して』
 芽依は強襲する蛇の牙を横っ飛びで避ける――鉄橋から川へに落下――水中に沈むことなく、水面を蹴って駆ける。
 『まずコスト計算。そうやって足先に発生させた電磁力で水面から反発を得ているけど、他の方法もある。例えば水を凍らせたり、空気中の窒素を固定したり。反重力物質を使って空を飛んだっていい。違いは難易度と費用コストだけ。
 現実を侵食するためには心を削る必要があるから、効果が同じなら目的に合わせて節約した方が良いに決まってる』
 蛇が追ってくる。全身をしならせ、その巨体からは想像も付かない速度で水面すれすれを飛ぶ。
 芽依は迎え撃つことなく、ひたすら逃げた。
 『原則的に、現実的でない手段の方がより多く費用コストが掛かる。この場合は、電磁力で反発を得るより、水中の不純物を集めてダイラント流体化した方が安上がりで安定する』
 瞬間、芽依は足先の一点に集約した高電流を散らせ、足裏全体に広げる。
 そして、水面を蹴った。
 まるで堅い地面を踏みつけるように、反発があった。
 『電流多すぎ』
 言われるまま力を弱める。今度はくるぶしまで埋まってスピードを落とす。
 リン・ヴィルヘルハルムとの距離が詰まり、背に強烈な重圧を感じた。
 『今度は落としすぎ――』呆れるように。
 『――そうそう。いい感じ、いい感じ』称えるように。
 精霊力レイズの調節を終えると、芽依は川を全力で走った。
 水面を飛び跳ねていた時よりも機敏に、それこそ、平地と殆ど変わりない速度で縦横無尽に駆けめぐる。
 『芽依の想い違いその一。力は一点に集中させることで効果的な場合と、そうでない場合とがある。確かなことは、この世界の摂理に背けば背くほど効率が悪い。覚えておいて。これ、テストに出ます』
 芽依は無言で記憶に索引を付け、チラリと背後に目をやる。後を追う蛇は芽依の瞬発力に付いていけず、距離を広げつつあった。
 一方、獲物を追うリン・ヴィルヘルハルムは楽しげだった。
 「それで逃げおおせるつもりか? 我が眷属の真の力、とくと見るが良い――」
 女は大きく息を深く吸い込み、胸を大きく膨らませ、
 「――ギィィィェィィィッ!!」
 天を引っかくような金切り声を発した。
 すると蛇が動きを止め、二つ翼がバキバキバキと軋んだ音を立てながら伸張する。
 幾つもの節から新たな翼が生まれ、昆虫の下翅のような薄膜が広がった。
 そして大きく羽ばたく。ただそれだけで嵐を呼び込んだ。
 『避けて』
 芽依は助言に寸分も遅れず空へ飛び抜ける。
 刹那、颶風を纏った巨体が、弾丸さながらの速度で突貫。
 遅れて、川底を深く抉り、水飛沫が津波のように反り立ち、両岸の河原や河川設備と、そこにあるもの全てを凪ぎ払った。
 その距離は実に数百メートル。心胆を寒からしめるには充分な規模だった。
 翅を生やした蛇が、大きく円を描いて反転する。
 「・・・・・・あんなの、どう対処するわけ?」
 『アレを使ってみて』
 芽依が意識したのは河川敷に設置された送電用の四角鉄塔だ。川を挟むようにして送電線が張られていたが、先の突撃の余波で切断され、火花を散らしていた。
 「あの程度の質量じゃ壁にもならない」
 『壁じゃない。弾だよ。芽依は好きでしょ、そういうの』
 その一言で、芽依は少女が何を言わんとしているか把握する。
 以前、自分が思い描いた空想科学を実現させようというのだ。
 「問題は切り替えのタイミング。弾丸を生成出来たとしても、電子操作をしてたら射出が不安定になる」
 『芽依の思い違いその二。能力は多重発動できる』やや嘆息気味に。
 『芽依の基本特性level 1は、対象の技術を観察するだけで高精度の模倣を可能にする《可変性能力ヴァリアブル》 。他の子のような出力はないけど、どんな場面にも対応可能な汎用性を秘めてる。そして超越特性level 2は《能力合成アッセンブル》。複数の能力を同時発動し、新たな価値を創造する力。いかにも芽依らしいでしょ?』
 少女のからかうような語りに、芽依の心は弾むように躍った。
 「上、等・・・・・・!」
 気炎万丈/意気衝天。思いっ切り口端をあげる芽依。コストパフォーマンス最重視人間の血がたぎった。
 芽依が鉄塔の近くまで駆け寄ると、大きくジャンプ。構造体の真ん中までショートカットすると、後は二、三歩とほぼ垂直に駆け上がり、頂上へ到達。
 視線の先で、リン・ヴィルヘルハルムが真正面に構えようとしていた。
 敵が大量に漏らす瘴気によって、景色が歪んで見えた。それだけでも蓄積された力の大きさが分かる。
 その破壊力は、既に先の一撃を凌駕していることだろう。恐らく次を回避することは出来ない。後に動いては間に合わず、先に動けば蛇が追ってくる。
 エメラルドの《光速短距離移動ライトニングステップ》を使えば離脱は可能だが、それも時間稼ぎにしかならない。いずれは捕捉されることだろう。
 逃げる術など無かった。まるで眼前に突きつけられた拳銃だ。銃の撃鉄は起こされ、引き金に掛かった指先が、今にも引かれようとしている。
 心臓は高鳴り、背筋は悪寒が幾度も駆ける。胸が締め付けられ、胃に穴が空きそうだ。 全身痛みのないところを探す方が難しい。壊れかけの肉体を無理矢理動かした代償は大きかった。今は決闘装束デュエルドレスに生かされているようなものだ。
 されど、芽依の心は奇妙なほど静かだった。心象を覗き見なくとも判る。腐った感情が、黒い衝動が跡形もなく食い尽くしたからだ。
 確かに芽依の内なる世界は崩壊した。だが、それがどうした? 想像/創造の世界は蘇る。何度でも。黒岩芽依が黒岩芽依である限り。
 瞳を閉じ、胸に原風景を描く――
 「命は此処に」
 突き抜けるような蒼穹。
 「祈りは力に」
 キャンバスのように白く乾いた大地。
 「願いは形に」
 無限の世界で独り佇む自分。
 ――胸に手を当て、囁いた。
 「《超越走行オーバードライブ》」
 瞬間、下腹部の聖刻に鮮烈な輝き。
 全身から精霊力レイズが瀑布となって溢れ出し、決闘装束デュエルドレスが激しくはためく。
 芽依が頭上に自身の刻印装具シールズである雪白の短杖エーデルワイスを掲げた。
 鉄塔が紅玉ルビーの輝きに染まると、無数の粒子状に分解/分裂。直ちに落下する金属粒子。
 杖を正面に下ろすと、青玉サファイアの輝きが辺りを包む。
 すると、バラバラに散った粒は意志を与えられたように空の一点に集まる。
 赤と青の光が重なり、濃紫色に変化した。変わったのは輝きだけではない。
 球状の巨大な金属塊が瞬く間に細長い三角柱を形成、四つ葉のクローバーのように接合されていた。
 巨大な創生物の全長約二十メートル。中心に空いた小さな真円の空洞には、一ミクロの歪みも無い。
 芽依は右手を脇に差し出す。すると、力なく垂れ下がっていた鋼線が、さながらダンスに誘われるように掌へ乗った。
 断面から火花を散らす鋼線を、芽依は躊躇いなく掴んだ。
 膨大な電子が体内で騒ぎ、跳ね、踊り狂う。果てには、砲塔の端から大きな雷火となって迸った。
 競うように、リン・ヴィルヘルハルムが雄叫びを上げた。蛇から延びた翅が震え、溜め込んだ力を一斉解放。
 芽依は手にした鋼線を引きちぎって先の細く尖った杭に作り替え、
 「破ぁああぁぁぁぁ!!」
 そして、砲塔の空隙目掛け、全力で投げ込んだ。
 砲塔に空いた直径と杭の太さの際はコンマ一ミリ以下。にも関わらず、杭は吸い込まれるように空洞へ誘われる。
 招かれた先に待ちかまえるは莫大な電力の嵐。接触面に生じたローレンツ力によって杭は劇的に加速。莫大な摩擦熱が杭の後方を融解/プラズマ化するも不可視の力によって形状を維持、内部が超超高圧となる。
 バンッ!!――と、雷鳴さながらの爆音が轟くと、コマ落とししたように、リン・ヴィルヘルハルムは土手に激突していた。それだけで運動エネルギーを吸収しきれず、その先にあった高層マンションは巨大な刃で破断され、隣接した工場施設は、転がる巨体になされるがまま蹂躙される。
 芽依とリン・ヴィルヘルハルムが仕掛けたタイミングはほぼ同時。結果として、初速が両者の明暗を分けた。
 翅による加速は音速に達したが、電磁誘導砲EMCはその三十倍にもなる。弾頭のポテンシャルが充分なら、この間合いで負ける理由はない。
 神懸かった一撃は、リン・ヴィルヘルハルムの本体である異貌の女を粉砕するのに充分すぎた。翼のへし折れた蛇の巨躯は、工場施設内でぴくりとも動かない。
 芽依は難敵を仕留めた。なのに、声もなかった。
 あっけない幕切れに、喜びより、むしろ戸惑っていたくらいだ。
 全力を込めた。だから通じて欲しかった。それは確かだ。だが、唯の一撃で屠れる相手とは思っていなかった。
 最後の敵とは、もっとしぶとく、狡猾で、捨て台詞か断末魔を吐いてから退場するものだと相場が決まっている。少なくとも芽依が読んだ小説や冒険譚はそうだった。
 物語の山場だと分かり易く演出するための手法だと判っていても、このあっさり加減が現実なんだと受け入れられない。
 芽依は大きく息を吐いて気を取り直す。傍らに、超越走行オーバードライブに耐えきれず瓦解した鉄屑が転がっていた。
 成形鋳造、電力制御、弾頭保護、照準調整、砲塔固定、一体どれだけの技術が同時並行的に展開されたことだろう。間違いなく自力では御し得なかった。果たして、他の精霊ならば成し得ただろうか?
 ――少なくともギリアムには不可能だろう、と芽依は根拠もなく決めつけた。
 芽依は瓦礫の山を飛び越え、蛇の骸に駆け寄った。
 その巨躯を前にして、ようやくジュエリストの潜在能力ポテンシャルを実感した。
 蛇の頭部に大穴/見る影もない単眼。背の双翼は無惨に折れ、付け根に埋まっていたはずの女の上半身はごっそり消失。赤黒い肉を覗かせていた。
 飛ばしたのは高圧電線を組み替えた杭、つまりは鉄とアルミの合金だ。体積も質量も大層なものではない。
 それに、単に杭が貫いただけではこうはならない。込められたエネルギーが貫通の瞬間、綺麗に分散したのだ。例えば、弾丸が砕けるとか、面積を増やすとかして。
 芽依は自分のシミュレーションに戦慄する。現代の未完成技術すら再現してしまうジュエリストという存在を空恐ろしく思えた。
 だが、怖がってばかりもいられない。目的は倒すことではなく、救い出すことなのだ。
 「ひかり! 何処にいるの!? 返事をして!」
 芽依は声を張って呼びかける。
 蛇の頭から尾まで走り、叫び続けた。
 「お願いよ・・・・・・返事をして――――ひかり!!」