Jewelist Mei |

第三章 ~暗転~

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低い姿勢から繰り出された芽依の前蹴りが、真っ黒なゼリーを思わせる物体を目掛け、放たれた。
 蹴りの衝撃は凄まじく、ベクトル上には大穴。入り口の直径は実に三十センチメートルを越え、トンネルをのぞけば、蠢く壁面の先に沈みゆく太陽。
 対象の全長は二メートル程度。ただし、横にも奥にも同じくらい広がった巨大な半固形物ゲルで、不透明度が低く、所々、背後の景色が透けて見えた。
 内臓や脳髄のような器官は見当たらず、神経もない。あるのは眼か、口と思しき鈍い赤色を灯す部位。そして、人間が一人。
 人を丸飲みにした異形それは、『ネオアンガー』と総称される怪物だった。
 ネオアンガーは土手っ腹に空いた大穴を僅かな身震いで済ませると、
 ――ブシュルォワアァー!!
 反撃の狼煙のろしとばかりに吠え猛る。
 動物とはまったく異なる発声でも、怒りの丈だけは芽依にもよく伝わった。
 次いでネオアンガーの側面が大きく盛り上がる。瞬く間にできあがった瘤から触手が伸び、打ち下ろされた。
 襲い来るその一撃は、残像が生じるほどに速い。
 だが、芽依は奇襲を見越したように軽やかに旋回。紙一重で躱し、手刀でもって触手を切断。切り離された物体は、慣性によってあらぬ方角へ飛んでいった。
 一瞬/ネオアンガーの動きが停止。
 一間/交錯する二つの視線。
 一転/駆ける疾風。
 ネオアンガーが身動みじろぎする頃、芽依の回し蹴りは振り抜かれていた。
 真一文字に抉られた胴体が、ゼリー状の肉片を盛大に撒き散らした。
 <おい・・・・・・中の人間ごとやっちまってないだろうな?>すかさず濁声。
 距離を感じさせないその鮮明な疑念は、五階建て校舎の屋上から、頭の中に直接届いた。
 ネオアンガーは輪切りの一歩手前といったところだった。例えばこれが人間だったなら、何人束になったところで結果は変わらない。間違いなく致命傷アウトだ。
 故に僅かな狂いも許されない。芽依の大胆すぎる攻めに、ギリアムが不安を抱くのも無理はなかった。
 「問題ないわ。もし当たってたら――“ゴメンナサイ”ね」
 しれっと、悪びれもなく返せる程度には芽依にも確信があった。
 ここ数日の訓練によって、芽依は決闘装束デュエルドレスまとった自分の基本性能スペックを概ね理解している。この程度は苦もなかった。
 <油断するなよ。まだ動くぞ>
 ギリアムの忠告通り、怪物は痛みも知らず、芽依を捕食せんとした。
 ボコボコボコと不気味な音を立てて全身が波打ち、次々に瘤が生じる。
 「それは失策」芽依の嘆き節。
 大量に触手を生み出そうとしているからか、あるいは被ダメージによって機能低下を招いたのか判らないが、明らかに挙動が遅い。
 はっきり言って、芽依には止まって見えた。慌てもせず、手近に駐車してあった乗用車に握りグー。窓を叩き割り、ドアを掴んでは無造作に引き寄せた。
 施錠ロックの存在を感じさせないまま、あっさり駆動域を超過。逆関節をめられた付け根はへし折れ、ドアがもげた。
 すかさず、芽依は手にした巨大鈍器ドアでネオアンガーを側面から叩きつける。
 コンマ何秒かの差で、触手が延びる前にネオアンガーの側面を掘削。
 返す刀で反対側から殴打。おまけとばかりに頭上から振り下ろし、ネオアンガーの前半分を完全に粉砕してしまった。
 瘤の隆起が止まり、ゼリー様の塊が地面に広がった。
 それでもネオアンガーは蠢く。遅々としていたが、決して止まることはなかった。
 <よし、内部を探れ。例のものがあるはずだ>
 芽依は半透明/半固体の肉塊を注意深く観察する。
 果たして――ギリアムの指示は的中した。内部から感じる小さな反応を手繰ると、汚泥のような肉の中に、ピンポン玉ほどの物体を見つける。
 芽依は果敢に踏み入り、それを素手で取り出した。
 取り出す前は黒色か無色であるように映ったが、実際は鈍色にびいろ。驚くことに真球で、どこか人工的な臭いがした。
 一見して古びた健身球といった感だが、弾性があり、金属というより粘土のそれに近い。
 <あったか? それがネオアンガーの『小核コア』だ>
 程なく、地面で悶えるネオアンガーが完全に動きを止め、半固体ゲルが霧散した。
 「確かにこの小核コアが急所のようね。視認可能シースルーなのは、初心者への配慮かしら?」
 からりとした軽口。ただし、言うほど芽依は楽観視してはいない。
 相手は得体の知れない化け物だ。確かに、明確な急所があるのは喜ばしい――が、やはりその大きさが問題だ。おまけに、人質の存在が事態の複雑性を飛躍させる。
 決闘装束デュエルドレスを使いこなせば、小核ごとネオアンガーを擦り潰す方法など誰でも思い付く。
 しかし、巻き添えを回避するためにタイミングを見計らい、小さく見え難い弱点を突くとなれば、それは至難の業だ。
 誤れば人を殺す。謝れば済むことではない。
 相手が木偶であっても気苦労が知れない。だというのに、実際は動き、襲い来る。
 一体二体ならまだしも、それが何十ともなれば手の打ちようがなくなってしまう。
 あの『金色の少女』は、敵を正確無比の一撃で屠っていた。今ならそうせねばならない理由もよく分かる。
 最悪なのは、複数の人質を抱え込んだ複数のネオアンガーに囲まれた状況だろう。それを防ぐためならば、多少の人的被害など気にしてられないのだ。
 敵に攻守同率の特性があり、時間の経過と共に不利になっていくのが明白である以上、その選択は正しい。
 理想は捕らわれる前に速攻で叩くこと。それが叶わないのであれば、捕らわれた誰か(マヌケ)に尊い犠牲になって貰うしかない。
 自分の身に降りかかった災難も、覚えていなければ夢を見たのと同じこと。ただの悪夢に過ぎない。
 異世界アナザーに飲み込まれ、魂の砕けてしまった人間は生き餌という訳だ。
 再生が約束された世界の特約を最大限に活かした最低な策だが、もし本当にネオアンガーが釣れるのなら、価値は釣り合ってしまう。
 常に不意打ちが可能になるなら、それだけでリスクは減り、討滅の難易度は格段に下がる。逆説的だが、一刻も早く倒すことが、街や人の被害を低減させるのは事実だ。
 最小の犠牲によって成果を最大化すると考えれば、実に合理的スマートな戦術だった。
 合理性は芽依の最も好むところである。
 されど、芽依はそんな選択いきかたを否定する。
 「誰かの犠牲を前提にするなんてナンセンス」一人ごちる芽依。
 <あン?>
 「唯の独り言。構わないで」
 信条ねがい心情こころに反するものは受け入れられない。
 “家族を助けたい”と願った芽依にとって、それは本末転倒も甚だしい。
 仮にそれがどれだけ最良な選択であっても――そしてどれだけ最悪な状況であったとしても、許されざる選択なのだ。
 芽依は五感を広げて周囲を警戒――人の気配はおろか、生き物の気配すらない。
 緑豊かな通りの両端には、五階建ての校舎が立ち並んでいた。合間合間に近代的な建物があり、中には学生食堂、大手コンビニエンスストア、吹き抜け付きのオープンラウンジ、小洒落たカフェテラス、大型書店と、サービスの充実ぶりが伺える。
 普段ならもっと活気のある場所だが、今は生の途絶えた廃墟の静けさだけがあった。
 小桜市の北西部、全国でも名の知れた大学の医学部キャンパスにおいて、現状、芽依とギリアムだけが意思ある者だった。
 何故そんな場所にいるかと言えば、《異世界アナザー》進入直後の不運のせいだった。
 頭の中の地図と異世界アナザー内の一帯を照らし合わせ、最も偵察しやすい位置を模索していた矢先、芽依は一体のネオアンガーに遭遇した。
 本来なら無視するべき間合いで、実際、デイバッグから顔だけ出したギリアムも、一瞥をくれると、見間違えであったように振る舞った。
 芽依もきっと同じ態度を取ったに違いない。車に寄りかかって伏せた在学生と覚しき青年が、黒い影に、今まさに飲み込まれようとする場面シーンでもなければ。
 化け物の注意を引き付ける間もなく彼は喰われ、その胎内に収まった。
 目を逸らしたところで誰に責められる訳でもない。放っておいて問題はなかった。この異世界アナザーではままある事故なのだから。
 芽依はただの女子中学生であって、警官のように社会的義務ある人間でない。まして世界を救うヒーローでもなければ、そうありたいと願ったこともない。
 “大概の不幸は救われない”――その道理を、この世界の不条理を、芽依はもう十二分に味わっていた。
 だが、喰われた人間が母と重なってしまった。
 ギリアムは芽依の精霊力レイズの変化を機敏に捉えたが、制止するよりも早く、芽依は校舎の屋上から飛び降りていた。
 こうして何事もなく標的を屠ったが、余韻に浸る暇もなく状況は動いた。
 校舎やベンチの物陰が、陽炎のように揺らめいた。そして影がぬぅっと伸びたと思えば、赤い目が暗闇に灯る。
 同族の散らした臭気にでも誘われたのか、新たなネオアンガーが湧いて出た。しかも一つや二つではなく、十は下らない。
 芽依は敵を待たなかった。
 (受け身は状況を悪化させるだけ・・・・・・!)
 時計回りに大きく回り込む。
 その動きに合わせ、湧出した黒影は蛞蝓なめくじのように地を這った。
 芽依は駆けながら手近な一体へ、手にしたままだった自動車の扉を投げつける。
 上手投げ(オーバースロー)でなく、一回転ターンからの横手投げ(サイドスロー)――円盤投げの要領だ。
 投擲物ドアの重量は競技用の二十倍に相当したが、見る者が目を疑うような速度ですっ飛んでいった。
 生まれたてのネオアンガーに直撃/霧散。猛烈な左回転の掛かったドアは左方に軌道を変えながら二体目を両断。そのまま背後の三体目も巻き込むかと思いきや、鈍い金属音にはばまれた。
 「・・・・・・!」目を見張る芽依。
 『盾』だ。そのネオアンガーは身体の一部を隆起させ、防壁を作り出していた。
 一体あのゼリー様の肉塊でどうやって防いだのか? タネは一目瞭然だ。ネオアンガーは総じて身体全体が透けているので、密度の差異は区別し易い。五十センチメートル四方に肉を凝縮させることで、飛来する鋼鉄をも防ぐ硬度と柔軟性を両立させていた。
 芽依は膝を柔らかく使い、機敏に進路変更。予想外の防御を見せた個体の懐へ飛び込んだ。
 そして明らかに密度の低い部位へ右フックを放つ。
 握り拳に返る粘土を叩くが如き感触――芽依は無意識に舌打ちする。
 なんと、盾が移動していた。人間なら体勢を変えて防ぐところを、ネオアンガーは器官たてを内部で動かしていた。
 思い付きで触手を生やせるような可変性は既に確認済みだ。この程度の奇行は予想して然るべきだったが、不覚にも芽依は動揺した。
 これが初見であったこと以上に、決闘装束デュエルドレスの性能が絶対的だと信じ切っていた反動ギャップでもあった。
 慌てて左・右・左と三連突打。されど肉の盾は抜けない。ならば、と一度距離を置こう決めた瞬間、目が合ってしまった。
 ネオアンガーの赤目ではなく、死んだ魚の濁った黒目レンズ――胎内に取り込まれた人間の半眼が、芽依を見つめていた。
 (コイツも人持ちか・・・・・・!)
 当然、捕食された者に意識は無い。芽依が『見られている』ように錯覚しただけだ。だが、それでも人間が其処にいたのだ。
 ふと、鋭い空気が後方より迫る。芽依は考えるより早く身体を捻ってそれを躱す。
 太いつなのようなものが脇を抜け、地面を叩き付けた。
 それを一体何と言い表したものか。先に切り飛ばしたのは『触手』だと思えたのだが、これは明らかに違った。
 先端が二股に割れた綱状の物体は、ネオアンガーの口から伸びていた。よって、一般的には『舌』か、軟体動物だから『歯舌』とでも呼ぶべきだろう。
 ただ、汚泥のような粘膜と、捕食用に特化した細かな歯状突起に覆われたグロテスクな部位を、一括りに『舌』と呼んでしまうのは、言語化不能な抵抗感があった。
 芽依は仕切り直しに大きく飛び退る――が、着地点にまたも予想外の襲来。
 「くっ・・・・・・!!」反射的に繰り出す両手。
 常人を超える反応速度が掴んだのは、海獣のイッカクを思わせる長い長い『角』だ。
 幻想種で例えるなら白きたてがみの一角獣ユニコーン。しかし、蜘蛛くもの如き多脚で地面を掘削しながら驀進する怪物は、やはりネオアンガー以外の何者でもない。
 その推進力は”凄まじい”の一言に尽きる。芽依の全力でもってしても足止めが効かず、じりじりと押し切られようとした。
 されど芽依も考え無しではない。分が悪いと判断すれば、力比べに頓着することなく去いなす。
 突貫に巻き込まれぬよう横っ飛びで回避。今度こそ間合いを確保した。
 そこできようがくに打たれる。走り抜けた個体の最後尾には、大きく膨れた腹部。
 中にはヒールを履いた足。他にも透けて見える腕と足先、そしてすねと覚しき部位があった。
 これがバラバラ死体でもなければ、最低三人の人間が取り込まれている計算だ。
 「はぁ、はぁ、はぁッ・・・・・・!」
 口内に広がる苦い鉄の味。敵の波状攻撃に、早くも息が上がっていた。
 額に滲む汗で、長めの前髪が張り付いていた。
 (うっとおしい・・・・・・!)
 不快を覚えた途端、ひやりと、内臓に冷気が流れ込んだ気がした。
 ――考えろ! どうするべきか! 考えろ!
 命が危険に晒される実感さむさは、思考を猛烈に回転させて対処。
 ――落ち着け。大丈夫。まだどうにかなる段階フェーズじゃない。
 生命線である思考回路が過電圧フローで焦げ付かないよう深呼吸。
 気を弛めすぎて歯車ギアが外れないよう、気負いすぎて急停止ロックしないよう心の舵取りに神経を尖らせる。
 (『人持ち』の他に実体の曖昧な個体が十前後。そっちは物の数じゃない。戦力比は実質的に一対三だ。敏捷性はこちらが優位。落ち着いて対応可能な間合いは確保できる。
 攻撃面でもこちらに分がある。囲われても突破可能。敵に組織的連携は見られない。個々がこちらの動きに反応しているだけ。
 不安要素は――持久力スタミナ精神メンタルの損耗/決闘装束デュエルドレスの防御性能/敵の隠し玉――想定通り。例外的事態イレギュラーはない)
 多少手擦るかも知れないが殲滅は可能――それが現時点における芽依の総評だったが、即座に反撃に転じようとはしなかった。
 『出来る・出来ない』ではなく、『やるべきかどうか』が酷く曖昧だった。
 何故なら、この戦闘に戦略的な意味は存在ない。源泉は一時の激情であって、目減りは早く、長期飛行には些か頼りなかった。
 より冷静に考え出すと、自分が何処までやろうとしているのかさえ見えていないことに気付く。
 あくまで敵の殲滅に拘るか、それとも適当な手合いで退くべきか。戦端を開くのは容易かったのに、収束させるは早くも難しくなっていた。
 これが着地点ターゲットを定めない見切り発車の過失――悟る芽依は、無性に傍観者ギリアムへ助言を請いたくなった。
 <気は済んだか? ぁン?>呵々と、おきまりのちようろう
 芽依の心理よわきを見透かしたように、ギリアムがちくりと刺した。
 刺激おかげで目が覚めた――というより、従来いつもの冷ややかな感覚を取り戻した。
 他人を当てにするなんて”らしくない”と自嘲しつつ、ふと新事実に驚嘆。くどくどした助言より余程有益な”ギリアムの使い道”の発見だった。
 <・・・・・・おいおい。お前の悪運は本当にどうなってやがる? それとも初心者の運ってやつか? その引きの強さ、何で”力の宝珠”探索で使われないかねぇ?>ギリアムも驚嘆。
 一瞬、奇跡の瞬間を共有して貰えたかのように思った――が、すぐに改めた。ギリアムの緊張感には、別の理由があった。
 <来るぜ、来るぜぇ? 彼女達ジュエリストの第一標的――中央制御核セントラルコアのお出ましだ!>
 辺り一帯に広がる、これまでと明らかに違う気配。
 ネオアンガーは汚水の澱んだ気配を醸すが、これは更に濃い。瘴気をまとった何かが、空からゆっくりと降って来た。
 そのまま着地するかと思われた瞬間、ソレは乗用車の屋根上で音もなく停止する。接地はしていない。屋根を円形にかんぼつさせておきながら、その足先すら触れてはおらず、中空に浮遊していた。
 「ヒト・・・・・・?」
 口にしておきながら、芽依の脳は全力で否定していた。
 落ち着いて眺めずとも、人間と相容れぬ存在であることは明白だった。
 ソレには人間と同じ手足があり、頭部がある。顔面も人間と酷似していた。
 しかし、毛髪は獅子のたてがみ。耳は鳥類の羽で、後頭部からおさげのように伸びた虫類の長い尻尾――だろうか?
 首下も当然のように異物。水晶で出来たその裸体は分光器プリズムとして機能しており、角度を変えながら、ちらちらと虹色光スペクトルを放射していた。
 異様としか言い表せない。とにもかくにも、人間に在ってはならないものばかり付いている。
 その彫像のような静かな佇まいを眺めているだけで嫌な汗が滲んだ。交感神経が壊れたように高ぶり、落ち着かない。
 酷く、喉が渇いていた。
 「コイツが中央制御核セントラルコア――この異世界アナザーを維持している存在・・・・・・!」
 震え出した手を強く握りしめた。ギリリと奥歯で弱気を噛み砕き、腰溜めに構えを取る。
 <おい、待て! そいつは他のとはモノが違うぞ。不用意に近づくな!>
 ――ッ!!
 芽依は短く息を吹き付けて突進。ギリアムの制止を置き去りにする。
 『中央制御核セントラルコア』を庇うようにして黒い影が立ちはだかった。
 だが、存在感の乏しい『影』に、芽依の突破をはばめはしない。霧を散らすが如く、ぞんざいに振り払って消し去った。
 あと一間、あと一呼吸で手が届く。しかし、後背に空気を切り裂く気配。
 『舌』が伸ばされ、『盾』と『角』が飛来した。
 命中の瞬間、黒衣がぶれた。
 三種の攻撃が貫いたのは芽依の影にすぎない。実体はしゃがんでかわし、同時に地を思いっきり踏みつけていた。
 凄まじい摩擦熱に煙を吹き上げるタイル。溶かしたのは靴裏ではなく、その間に生じた精霊力レイズだ。
 腰溜めを作ったときに蓄積ストックした『止まっている』イメージを制動に付加することでタイルとゴムの間に生じる摩擦係数を書き換え、瞬間的に、本来は得られるはずのない摩擦力を導くことに成功。
 そのまま逆方向へ地面を蹴りつけ、クラウチングスタートを切っていた。
 たわめた全身のバネを解き放ち、『角付き』との距離を一気に削り取った。
 長い角をくぐり抜け、前傾となったネオアンガーへ左ストレートをぶち込む。
 芽依のクロスカウンターが炸裂――いや、クロスカウンターで
 ネオアンガーの胴体中央から後方にかけて、上半分が爆発したように吹き飛んでいた。
 下半分に捕らわれていた人間は計算通り無事だが、小核コアは破壊できていない。
 だが、芽依は流れを重視。勢いを殺さずに駆けた。
 『舌』が引っ込むのが早いか、芽依の足が早いか。両者ほぼ同着であったが、双方の選択が明暗を分けた。
 再度舌を伸ばそうとしたネオアンガーより芽依の方が早かった。当然だ、芽依は仕掛けずに脇を駆け抜けてしまったのだから。
 ネオアンガーは慌てて向き直り、『舌』を伸ばした。
 紫の双眸を『盾』に定めたまま、芽依はしなる舌を躱した。
 『盾』が、待ち受けるように前面に防壁を突き出していた。
 芽依の突進を警戒して? いや、別の理由が、芽依を追い越して迫った。
 『盾』には同族なかまが攻撃して来たように映ったことだろう。芽依が『盾』と『舌』の直線上を駆けたのは意図的だ。
 『盾』が『舌』を防ぐ直前、芽依は直前に蓄積ストツクしたクラウチングスタートのイメージを解放。
 人間の物理法則を超えた、多段階加速ロケットダッシュによる射出。
 『盾』が衝撃にたわんだ瞬間、芽依は敵の側面を通り越していた。
 目標線ライン上に人影なし/“やれる”と直感/脳の知覚と軸足の回転が連動。
 蹴り足が、対角線上まで振り抜かれていた。
 しん――と音もなく。
 芽依の長い睫毛のお辞儀に遅れ、ゼリー様の肉塊に切れ目。
 上半分が、するすると滑り落ちた。
 まんまと利用された『舌』がいきり立った。
 黒衣の小娘を捕食せんと三度『舌』を伸ばし――三度失敗する。
 芽依は間合いを無視した攻撃を難なく回避し、懐へ潜り込んでいた。
 ネオアンガーは『舌』を戻しつつ、今度はその巨体でのしかかろうとした。
 バシュッ! と肉片の飛散する音。
 下から突き上げるように延びた蹴りが、頭部を爆砕。こうなれば如何にネオアンガーといえど沈黙するよりない。
 固唾を飲んでいたギリアムは逆に、ようやく言葉というものを思い出していた。
 <・・・・・・突っ込むと見せかけての逆撃、だと? お前、本当に戦いの素人なのか?>
 ギリアムはいよいよ相棒の特異な才覚センスに疑問を抱く。
 性格は辟易するが、思考力や応用力は突き抜けている。この数日でこれだけの成長を見せるなら、この先一体どうなることか不安を覚えるほどだった。
 ところが当の芽依は謙遜するでもなく、ただ聞き流した。
 ギリアムが思うほどに余裕はなかったからだ。
 そんなもの、あるはずがない。ほんの数日前、力を手にする前は武道の心得すらない、一介の女子中学生だったのだ。
 ただ、黒岩芽依という人間の持ちうる才が、決闘装束デュエルドレスと相性が良すぎたに過ぎない。
 緊張と興奮で胸を暴れ回る心臓は、持ち前の自制心で押さえ込んだ。
 何としても仕留める――その使命感にも似た鋼鉄の意思が、身体を芯から支えていた。
 様々な意味で世界が変わったあの夜、芽依には成し得なかったことがある。
 家族を連れて、この異世界アナザーから抜け出したかった。
 なんとしても抜け出さなくてはならなかった。
 それはもう、永遠に叶わぬ願いだ。だからこそ。だからこそ――だ。
 中央制御核セントラルコアを倒し、この異世界アナザーを破壊することがケジメだった。それだけが、抱えたままの負債を清算する唯一つの方法に思えた。
 (絶対にここで叩く・・・・・・!)
 分析――
 『人持ち』* 三体みっつ行動不能たおす討滅ころす
  ∴復活の可能性◎(オオアリ) → 要注意ピリピリ
 中央制御核セントラルコア → 変化なし(イエロー)
 第六感なんとなく:“安全いける”<“危険やばい” →厳重注意ビリビリ
 ――完了。
 コンマ一秒の判断から、芽依は再び真正面から仕掛ける――と見せかけ、途中で地面に転がっていた乗用車のドアを拾い上げ、『特異体』へ投擲。
 野球少年が惚れ惚れするような制球力コントロールでもって直撃軌道ストライクコースに乗せた。
 (さぁ、どう出る!?)
 芽依の予測は『表皮で弾かれる』だった。
 理屈は無い。そんなもの立てようがない。ただ相手の緩やかな動きや、他の個体とは違う硬質な質感から、高い防御性能を連想したまでだ。
 芽依の直感はある意味当たりで、ある意味大外れだった。
 高速回転するドアは確かに弾かれた。しかし、弾いたのは体表ではなかった。
 『特異体』は微動だにしていない。見えない何か――強化された芽依の視力でもってしても捉えきれない何かが撃墜していた。
 芽依は『目に映らない何か』ではなく、『目に映るドア』の方に着目した。
 四十キログラムに近い鋼鉄の塊が、真っ二つに割れていた。
 (透明な刃物? それとも精霊力レイズを使った奇術トリック?)
 エネルギー転移や物質変換を引き起こす精霊力レイズだが、果たして『鋭さ』そのものが表現可能であるか? 芽依に思考実験している暇はなかった。
 敵が初めて動きらしい動きを見せた。
 乗用車の屋根から、音もなく地面へ降り立った。
 現れたときと同じだ。接地しない代わりに石畳が穿たれ、大口を開けた。
 『特異体』は芽依に真っ直ぐ向かって来た。宙に浮いた異形の彫像が進む度、スプーンでアイスクリームの表面を削るが如く、地面がめくれ上がった。
 敵の進撃は異常だったが、幸いにして欠伸が出るような速度だ。芽依は余裕で間合いを取り直す。
 ところが特異体はその動きに反応せず、『角』の真横を素通りした。
 (・・・・・・?)
 ――素通りした。
 少なくとも芽依の瞳には、何かをしたようには映らなかった。
 だというのに、半壊で地を這いずるネオアンガーがむくりと起き上がるのだ。
 肉の削げ落ちた体が、ぼこぼこと沸騰したように泡立っていた。それが急速に元の形状へ戻ろうとする兆候サインであると気付くのに、さほど時間は掛からなかった。
 次いで『特異体』が『舌』の付近を通り過ぎると、これも新たな生を与えられたかのように復元を始めた。
 「なっ・・・・・・!?」不意に開かれる薄い唇。
 派手な演出エフェクトのない静けさが、逆に意表を突くこともあるという斬新な驚きだった。
 これで『盾』まで再生されては、芽依の優位性は完全に失われてしまう。他の固体も、動き出すまで幾ばくの猶予もないと悟れば、覚悟が固まるのも早かった。
 <中央制御核セントラルコアの能力が掴めないな。ここは無理せず撤退しろ。アレを破壊するのは他の奴らに任せればいい>
 「多少のリスクは覚悟の上よ。敵の配置が整う前に叩くわ」
 真っ向からすれ違う思惑。正しいのは恐らくギリアムだった。
 <まったく分からん。こんなところで無理して何の意味がある? お前ならそれくらい分かってるかと思うがね>
 「・・・・・・そうね、意味なんてない。ただ、それなりの意義がある」
 ――少なくとも私だけには。
 最後まで口にすることなく、正論ギリアムに背を向ける。
 残されたタイミングは、『盾』の再生に進路を変えるであろうその瞬間だ。
 果たして的中した。特異体は芽依てきではなく、眷属なかまに向かって方向転換した。
 芽依は小さく息を吸い込み、力と神経いしきを腹の一点にぎゅっと集める。
 そして、零から一気に最高駆動トツプギアへシフト――<イメージを蓄積ストツク
 芽依の狙いは二段階の不意打ちだ。背後からの強襲と、直前の急加速とで意表を突こうというのだ。
 黒衣は夕闇と一つとなって存在を殺し、疾風が如く姿を霞ませた。
 敵の背を間合いに収めた。気付かれた様子はない。完全な不意打ち体勢に、駄目押しでイメージを解放した。
 《急加速アクセル》――時間を置き去りにして、必殺となる左回し蹴りを繰り出し終えた瞬間、芽依は敵の頭部を粉砕したものと確信していた。
 それほど流麗な運びであった。故に、芽依の受けた衝撃は大きかった。
 視界が、目まぐるしく回転していた。
 その現実に、まったくと言って良いほど理解が追いつけない。
 芽依がしてやられたのだと認識できたのは、二十メートル超の距離を転がり、小洒落たカフェのテラス席に並ぶ机と椅子を薙ぎ倒して沈んだ後の話だった。
 人間ボーリング――芽依の転がる瞬間を眺めた人間がいたら、きっとそう評したことだろう。
 「痛ッ――て・・・・・・」
 無意識の喘ぎ。肩口から斜めに走る鈍痛に、息が詰まった。
 <メイ! 生きてるか!? おいおいおいおいおい! いきなりやられちまってねーだろな・・・・・・おい、聞こえてるか!? 返事しやがれこの性悪娘ッ!>
 頭蓋骨をひっかく、泡を食った濁声ノイズ
 気付けにはちょうど良い酷さだと、芽依は目を回しながら実感した。
 「ギリアム、そんなに心配しなくても大丈夫よ――」少し明るく「――私が死ぬときは残されたギリアムが寂しくないよう、一足先に地獄へ送ってあげるから。絶対・確実・迅速にね」かなり冷酷に。
 <・・・・・・!?>
 確率を二重に補強する辺りに相手の本気度合いを垣間見るギリアム。
 芽依は相棒を優しく絶句させ、愛しの静寂を獲得。ヘッドスプリングで跳ね起き、傷口をその目で確認――別の意味で絶句する。
 傷一つなかった。人体より確実に強固な乗用車のドアがバッサリ二つで、こちらは唯の打ち身。
 飛ばされた距離と苦痛とが釣り合わないと、そこはかとなく感じていたが、これ程とは思いも寄らなかった。
 「決闘装束デュエルドレスの性能は驚かされるばかりね」
 ただ驚いてばかりもいられない。『特異体』、そして復元した三体の『人持ち』。合間を埋める無数の影が、芽依を嘲笑うように揺れていた。
 状況は振り出しに――いや、これは想定していた最悪のケースだから、状況は『悪化した』と言うべきか。
 単独性能では圧倒しているはずの芽依が、殆どが頭数にもならない敵の群に、言い知れぬ不安を感じていた。
 にじり寄る有形無形の怪物達を前にして、芽依の選択肢が一つ加わる。
 滲む『撤退』の二文字。
 元々、この戦いに戦略的な意味はない。敵の情報も多く掴めた。自分の戦い方や決闘装束デュエルドレスの特性も学べた。これ以上は得るものが少なく割に合わない。戦いはこれからも続く――云々。
 多すぎるくらいの理由を掘り出し、自分への言い訳も抜かりない。
 そうでもしなければ、自ら仕掛けた理由から目を逸らすことなど出来そうにもなかった。
 いつの間にか鬱蒼うつそうと立ち込める瘴気が、異世界アナザーのくすんだ橙の夕日を、黒く染め上げていた。
 腐敗した空気に、にわかに活気付くネオアンガーの群れ。
 特異体に率いられるようにして、冷たい死の気配が迫った。
 いよいよ後がなくなった。芽依は心に掛かる重みに堪えかね、足を一歩後ろに――
 「君は何のために此処までやってきた」
 疑問とも非難とも聞こえぬ声に振り返る。
 芽依のすぐ後ろ、十メートルも離れていない位置だ。スーツ姿の男が、アンティークの椅子に腰掛け、古びた本を眺めていた。
 そこは大学構内という立地にしては古めかしい瀟洒な建物で、店内からテラスまで地続きで繋がったオープンスタイルのカフェだった。
 芽依が行儀悪く転がっていたのがテラス席で、男が優雅に座していたのが店内席という構図だ。
 男は人を拒絶する世界の中にあって、悠然と珈琲を啜った。
 映画のエキストラの如く場に溶け込んだその男を、芽依は知っていた。
 「カーウェイン=ストレイマン・・・・・・!」
 先日、学校の保健室で出会ったばかりである正体不明の男が、何故こんな所にいるのか? いや、そもそも何故この場でそうしていられるのか? 飲み込まれる人間は極々一部で、飲み込まれてしまった人間は意識を保てないはずだ。弟の裕樹や、ショッピングモールに居合わせた人々がそうであったように。
 数々の疑問が思い浮かんだが、投げ掛けはカーウェインが先だった。
 「君の道はあまりに険しく、君の未来はあまりに暗い。それでもその足は止まることを知らず、その鼓動は未知へと誘う。君は頼るものがない。君は何も持たず、愛することを知らない。そんな君が何故此処にいる?」
 ――何故此処に。
 奇しくも芽依と同じ問いだった。その語り口にはひとひらの熱もなく、その死人の瞳には何も映さない。
 本の一節を読んでいるようには思えず、かといって本心を語っているとも思えない。
 出所の判らない言葉が飲み込めず、眉間にしわを寄せる芽依。
 彷徨えるストレイマンは、静かに本を閉じた。
 「逃げることは決して恥ではない。だが、何も得ないまま逃げおおせたとして、何も成し得ることはない。それでは終わらせることはできない。始めることさえままならない。
 唯、繰り返すだけだ。同じ現実を延々と、飽きることもなく」
 芽依への投げ掛けが、芽依には何故かカーウェイン自身の追憶に聞こえた。
 あるいはその両方――、だろうか?
 この生者にも死者とも判らない、人の形をした虚ろな男に、芽依は奇妙な親近感を覚えていた。
 理由は簡単だった。この男が、暗に”黒岩芽依”という存在を肯定しているからだ。
 別に”正しい”と言っている訳ではない。カーウェインの言葉は芽依の現状で、芽依の感情そのものだったから、それを『受け入れられている』と錯覚している。
 人は共感に弱いものだ。傷ついた心であればあるほどに。
 「どうせなら、『倒せない敵に挑むのは愚かだ』と謳って欲しいものね」
 だから芽依は自省を促す意味で、あえて感情の反対を口にしていた。
 「黒岩芽依――ジュエリストたる君に『倒せない敵』はいない。例え『倒せない味方』が存在したとしても」
 この姿で出会うのは初めてのはずが、カーウェインは当然のように黒衣の下の正体を告げた。直感的に、男の危険性がより大きく感じられた。
 正体を知られていることよりも、それを包み隠そうとしないことに、何か大きな意図を感じずにはいられなかった。
 「一体、何が言いたいの?」
 警戒を厳に。ネオアンガーとの間合いに注意を払いつつ、相手の言葉に飲まれないよう、芽依は言葉に力を込める。
 「戦いたまえ、真実を欲する者よ。すべての力を出し切らずに味わう敗北は真実たり得ない。同時に、すべての力を出し切らずに得られた勝利もまた真実たり得ないのだから」
 「・・・・・・全力を出していない? 貴方は私の何を知っているわけ?」
 「何も。私の中にある君の像は、君が信じるものとは違っているだろう。君が客観性という幻想を信じているのなら、あるいは共有できる”何か”があるかも知れないが」
 相手の言葉の意味を咀嚼する前に雑音ノイズが邪魔をする。
 <おい、メイ! 何ぼーっとしてやがる! ネオアンガーが動き出しているぞ!>
 校舎の屋上から観賞/干渉するギリアムには、カフェの店内が死角になっていた。
 カーウェインはこの異世界アナザーに耐性を持っているにも関わらず、何故か精霊力レイズがまったく感じられない。まして強化された芽依の超感覚でさえ気配を掴ませなかった死人の如き存在感である。遠く離れたギリアムには、反撃を受けたショックで芽依が二の足を踏んでいるように映ったことだろう。
 「何でもないわ。少し考え事をしてた」平然と吐き出される虚言。
 芽依はあえて第三者の存在を晒さず、カーウェインもまたそのことに触れようとしなかった。
 <戦場で考え事だぁ? 余裕を出すのも大概にしろ。怪我では済まなくなるぞ!>
 「ギリアム、相棒として一つ意見を聞かせて」
 <・・・・・・何だ、改まって?>
 「私の現状持てる技術で、中央制御核セントラルコアの破壊は可能だと思う?」
 <無理だな>
 遠慮/忌憚一切なし。芽依のこれまでの研鑽を、一太刀の下に斬り伏せた。
 <この分だと通常攻撃が通るか怪しいもんだ。お前の《武装錬成クリエイシヨン》――だったか? あの練度じゃ実戦に耐えられんし、刻印装具シールズにも頼れない以上、決定力に欠く。お前が幾ら知恵を絞ったところでな>
 「率直な意見をありがとう。反論のしようがないわ」
 芽依は自分の性能スペツクを理解しているが故に、戦局にある程度見通しが利く。
 幾ら決闘装束デュエルドレスの性能が圧倒的でも、使う側には限度がある。復元能力を持つ堅牢な中核が頭数を維持するなら、最終的な敗北は濃厚だった。
 では何故、カーウェインは”戦え”と言ったのか。
 敗北の味を知れとでも言うのか。
 では何故、カーウェインは”倒せない敵はいない”と言ったのか。
 絶対性能に由来した言葉の綾か。唯の揶揄か。
 何かが違う。どこか違和感が付きまとう。
 不確かなら実践ではっきりさせる、それが芽依の志向マインドだ。
 「《我に栄光の光を(オープンザジユエルグローリィ)》」
 芽依の清らかな詠唱。眼前の空間が捻れ、景色が水紋のように歪む。
 ゆらゆらと揺らぐ虚空に、絹糸の裂け目。芽依は厚み零の境界線へせんしゆを伸ばし、一振りの短杖を取り出した。
 杖の先端には、恥ずかしげに閉じた花の蕾を思わせる精巧な宝飾。雪白の柄を取り巻く蔦を辿れば、四つの爪を持った五つの石嵌器セツターが整然と並ぶ。
 穢れなき白と繊細な白銀が美姫を思わせる短杖――『高貴なる白エーデルワイス』と芽依が銘打った、芽依の刻印装具シールズだった。
 「刻印装具シールズ――私の才能・・・・・・」
 芽依は杖を眺め、初めて手にした晩を思い返す。

 青白く輝く月の下、不気味な斑模様を輝かせる巨大蛙ギリアムが語り出した。
 <ジュエリストは拳で岩を砕き、脚で大地を割る。肉体そのものが凶器みたいなもんだが、お前達にとって真に『武器』と呼べるものは一つだ>
 そして、水掻きの付いた指先を芽依に差し向ける。
 <刻印装具シールズ――伝承ではそう呼ばれている。決闘装束デュエルドレスも広義では武具だが、その実体は莫大な精霊力レイズだからな。個々人で本質的な違いはない。原則的にお前にできることは他の奴にできるし、他の奴にできることはお前にもできる。ある意味、ジュエリスト共通の能力だ。
 だが刻印装具シールズは違う。一言で言うなら、生まれ持った”才能”だ。秘められた能力は皆、異なるのさ>
 いよいよ語りに悦が混じり出すと、ぷっくり膨らませた頬がシュコーシュコーと不気味を響かせた。
 <《我に栄光の光を(オープンザジユエルグローリィ)》――過去のジュエリストはそう唱えたそうだ。さぁ、お前も試してみるがいい!>
 気障ったらしいポージング――のはずだが、容姿が容姿だけに滑稽こっけいだった。
 平然と耳を傾けていた芽依が、コホン、と咳払いを一つ。
 頬の強ばりをほぐすついでに雑念を払い、復唱/詠唱。
 「《我に栄光の光を(オープンザジユエルグローリィ)》」
 静かな声色に呼応し、眼前の暗闇がぐにゃりと歪む。
 まるで雑巾を絞るような捻れに、一本の縦線。空間の傷痕のような線は、線と認識できるのに、どの角度から眺めても厚みのない不思議な領域だ。
 導かれるように、芽依は左手を差し入れる。すると、歪みは緩やかに消えて無くなる。
 掌にしっとりした感触。そして確かな重み。
 芽依が後に『高貴なる白エーデルワイス』と名付けることになる、雪白の短杖だけがその手の中に残されていた。
 しばし眺め、クルクルと指先で回し(コンタクト)――<落下ドロツプ>――手首で一回転リストロールさせて、水平掴み(グラブキヤツチ)。
 まるで危なげない手捌きを披露し、所感を述べる。
 「――で、どうやって使うのかしら?」
 無論、たっぷりと疑念を込めて。
 <知るか。他人に言われて”はい、できました”だったら生きていくのに苦労しないな。そいつはお前の”才能”だぞ。自分で使い方を探し、磨くんだよ>
 もうお決まりの曖昧さに、いい加減うんざりした。至極真っ当なはずの見解にすら反発するほどに。
 「他人だからこそ気付く類の才能というものもあるわ」
 <成る程、な。では一つだけ。お前は他人をなぶることに関しては天才的だ、と言っておくとしよう>会心のしたり顔/歪な造形こころ
 「貴方の被虐嗜好にこそ非凡なものを感じるわ。底なしでとても愉快ね」
 スッと細められる紫瞳。薄布で覆われた口元は恐らく弧を描いていない。
 化物蛙と幼魔女による月下の罵り合いは、秋の夜風よりも渇き、凍てついていた。
 そんなどうでもいい応酬かいわを繰り返しながらも、芽依は自分の白杖さいのうから目を離せなかった。
 一目見た瞬間から、その美しさの虜だったが、最も気に入ったのは造形の美麗さではなかった。
 それは”白杖はくじよう“そのものに込められた意味にあった。
 ギリアムの言う”才能”や”武器”の象徴アイコンとして、こんなにも自分に相応しいものはないだろう。
 白杖=はくじょう=薄情――は、間違いなく自分の才だ。
 それに白い杖は視覚に障害ある者のしるし。その眼に光があろうと、未来あすも描けぬ者は盲目、そう言われている気がした。
 眼の不自由な薄情者に与えられた美しすぎる杖――この上なく上等な皮肉しやれが効いた素敵な贈りさいのうだ。
 そんな感性を持った芽依だからこそ、エーデルワイスの柄が、歩行具にしては些か柄が短すぎることを、あまり気に留めなかった。
 真っ先に連想したのが『視覚障害者用の杖』で、次が『バトントワリング』。それだけだった。
 美しい装飾の施された短杖に込められた本当の意味を、真に担うべき役割を、このとき知る由もない。ただ刻印装具シールズを起動させようと試行錯誤を繰り返した――が、果たして何の反応も見せなかった。
 振ろうが回そうが、うんともすんとも言わない。ギリアムなど、“壊れてるんじゃないか”と不躾なことを言い出す始末だったが、それでも芽依は落胆しなかった。
 エーデルワイスそのものを気に入っていたのと、本当に”才能”だとするなら、早咲きもあれば遅咲きもある――それが芽依の通念だった。
 刻印装具シールズの使用が難しいと判れば、早々に後回しにして、次に取り掛かったのはスキルデザインだ。
 芽依は決闘装束デュエルドレスをベースに、三つの力を想像デザインした。
 一つ目は必殺技。リスクと引き替えに確実に敵を倒す力。
 二つ目は武器。変化する状況に形を変えて対応する柔軟な力。
 三つ目は体。変身できない例外事態において生き残る最低限の力。
 単独ひとりで戦い抜くことを前提にした場合、最も重要なのは二番目の汎用性――あらゆる状況に耐え、逆転の機会を創出する能力だ。
 他のスタイル――例えば『一撃必倒』であったり、『とある条件にはまれば無敵』といった類も一度は検討してはみたものの、『局所型ニツチ』や『極点型ピーキー』であるほど博打的要素が強まるのは否めない。持ち前の悪運をもってしても、延々とさいを振り続けていられるほど異世界あちらは優しくはない。
 そもそも、誰かと戦って勝つことが芽依の目的ではない以上、基本戦略は”負けない戦い”にある。合理的に考えれば『総合型ジェネラル』が最適解となるのは自然な流れだと言える。
 芽依は二番目の力を『武装錬成クリエイシヨン』と呼んだ。
 身近な素材――例えば硝子や鉱石、金属等を精霊力レイズで加工し、刀剣や盾などの武具を即席で作り出そうというものだ。
 コンクリートや金属の固まりである市街地なら、素材に困る事はまずあり得ない。そして自在に練成可能になれば、ある意味で無尽蔵の武器を手にしたに等しい。
 あの金色のジュエリストが使っていた能力と同系統ではあるが、あちらは純粋な精霊力レイズのみで生成している点で意味合いが違う。
 ギリアムの言ったように、彼女にできることは芽依にも実現できるだろう。だが単独行動ソロであるが故に、より省エネである方が賢明だ。
 理屈の面ではよく考えられた芽依の方法論メソツドだったが、いざ習得となると、すぐに壁にぶち当たった。しかも途方もない大きさのものだった。
 結論から言えば、芽依とギリアムが『武装錬成クリエイシヨン』に対して下した評価は”使いものにならない”だった。
 例えば、金属から刃物を生成したとする。大きさは果物ナイフから刀剣大まで挑戦したが、どれも仕上がりは散々だった。
 第一行程である素材の『抽出』は、その場からむしり取るようなものだったので、比較的簡単だった。第二行程である平面の『加工』も、一度コツを掴んでしまえば大したことは無い。
 ところが、最後の『仕上げ』が曲者で、刃先の先端数ミリの繊細な細工がどうしても表現できなかった。
 芽依は持ち前の思考の構造化フレームワークで、“素材”と”大きさ”の観点から数十パターンも組み合わせを試したが、どれも実物ほどの切れ味は再現できず終いだった。
 よしんば時間と鍛錬によって本物と同等の鋭さが表現できたところで、内在する致命的欠陥は克服できそうにもなかった。
 問題は、直径三十ミリにもなる鋼鉄製スチールの棒であっても、芽依の尋常ならざる膂力に耐えられないことだ。一度殴りつけると、曲がるのは当たり前。最悪、芯から砕けてしまった。
 これは芽依自身のミスリードだったが、それも致し方ない。誰に想像できるだろうか、金属より屈強な女子中学生の手足など。
 これで銃器や爆薬の類が作れたのなら、また違った議論があったはずだ。しかし、複雑な構造物に必要とされる精度は刃物以上だ。薬品なら素材の変性も必要になるが、そこまでいくともう手に負えない。
 モノの変性行程が想像イメージできないものは、如何にジュエリストといえど再現できないのだ。化学式をイメージしても無意味で、ミクロ世界を横断して変化を理解せねばならない。
 芽依の刀剣生成が比較的順調に進捗したのは、対象の形状や行程が単純であったことが大きな比重を占めていた。
 品質の観点から発想を逆転させてもみた。刃物が粗悪なら使い捨て(インスタント)と割り切ってしまえ、ということだ。
 ところが現状の習熟度では棒切れ一本作るのに約十秒。より上等なモノを作ろうと思ったらその十倍の時間を要する。
 まさか、敵を目前にして”一本作るからちょっと待ってて”と口にしていたら、もう冗談ギヤグにしかならない。そもそも『精度を捨てる代わりに速度を最大化する』という選択が妥当かどうかもよく判らないので、思い切って舵を切ることもできずにいた。
 かくして、技術的・時間的制約から、《武装錬成クリエイシヨン》は暗礁に乗り上げてしまった。
 だが芽依は完全に見限ってはいなかった。残された疑問が限界突破ブレイクスルーの切っ掛けになる可能性があったからだ。
 すなわち、“何故、あの金色の剣には桁違いの破壊力があったのか?“という命題である。
 素材の有無は違えど、モノを生み出している以上、同じ問題にぶち当たるはずだ。いや、むしろ実体が存在しない分だけあちらの方が難易度が高いはず。
 その疑問に、ギリアムは短く答えた。
 <恐らくだが、アイツは刻印装具シールズを使っている>
 「そう。彼女のジュエリストとしての成熟度はそこまで高い、ということね」
 <いいや、そうじゃない。最初のジュエリストがこの街に現れたのは、お前達の暦でおおよそ――二月ほど前になるか。当初は今ほど頻繁に実戦の機会はなかったし、あの金色のジュエリストは最近みかけるようになった新人だ。お前と大きな差があるとも思えン>
 だったら何故――と問わず、芽依は相棒の見識を待つ。
 <裏があるンだよ。ど素人でも刻印装具シールズの能力を引き出す裏技がな>
 ふぅ、と苦々しい顔を浮かべるギリアム。
 <『霊子融合ユニオン』と呼ばれる、こちらの世界に来た俺達の特性が――――そう睨まず黙って聞け。
 ・・・・・・いいか、基本的に精霊はこちらの世界で実体を保てない。精霊は血と肉と精霊力レイズで作られているからだ。どうしても揺らぐンだよ。形が保てないくらいな。
 『霊子融合ユニオン』はそれを逆手に取った裏技だ。不安定な状態にある精霊は変化を受け入れ、自らの姿を宝石に作り替えることで、刻印装具シールズとの融合を可能にする。
 融合ってのは文字通り一体化だ。一時的にだが、自分の身体を捨て、心を道具に移し替える。そして刻印装具シールズの制御を担い、未熟なジュエリストを補佐する。だからどんなヘッポコでも、刻印装具シールズの発動は自動化するって訳さ。
 刻印装具シールズの性能と精霊の力量、そして両者の相性次第で、そいつは初っ端から無敵、なんて可能性も皆無じゃない。
 そもそも、“ジュエリスト”という呼び名の由来はな、宝石化リジェムした精霊を宿す者の別称だ。お前達と俺達はな、切っても切れない関係なン――>「おかしいわね」
 間髪を容れず芽依の指摘が刺さり、ギリアムのなだらかな肩がビクンと震えた。
 「確か”精霊と契約することでジュエリストになる”と、自称”精霊”のギリアムさんから聞いたのだけど。どうも話しが食い違っているみたい」
 ぬらぬらと怪しく光る肌から脂汗が吹き出し、ぎとぎとになった。
 「それとも、その安定し過ぎた身体は仮初めの姿で、やる気を出せば宝石化リジェムとやらが可能なのかしら? ねぇ、精霊のギリアムさん?」
 かと思えば、事実でっぷりとした全身を赤黒く変色させた。芽依の鋭い揶揄に、自尊心が刺激されたらしい。
 <別に霊子融合ユニオンしようがしまいが、お前自身の実力に変わりねぇからな。ヘッポコはヘッポコのままだ! それに考えてもみろ。刻印装具シールズという最大の切り札の制御を委ねるということが、お前達にとっては常に利益となると思うか? 刹那で勝敗が決するジュエリストの戦場で、精霊の判断と異なる場合や、互いに不審を抱いた状態を想像してみろ! 敵より味方に殺されかねないぞ!?
 ふン。よりにもよって、お前の刻印装具シールズと融合だぁ? 勘弁して欲しいね、幾つ命があっても足りないぜ。まったく!>
 「・・・・・・それもそうね。何処の馬の骨とも判らない輩に自分の命運を委ねるなんて、まったくもって正気の沙汰じゃない」
 <お前は俺と契約して力を手に入れた。それは事実なはずだ。はン、それとも何か? お前は”ジュエリスト”という肩書きが欲しかっただけなのか?>
 「いいえ。別に文句なんて無いわ。ただ、刻印装具シールズが使えないことが戦いにおいてどれだけ影響があるのか、それが心配なだけ」
 <よかったな、安心しろ。決闘装束デュエルドレスさえあれば、ネオアンガーなんぞ相手にもならんさ。中央制御核セントラルコアだけは厄介だろうが、あんなのはほっとけばいい>
 「・・・・・・中央制御核セントラルコア?」
 <あの異世界アナザーを維持している特別なネオアンガーのことだ。中央制御核セントラルコアを潰さない限りネオアンガーは増え続けるし、異世界アナザーは広がり続ける。
 だから、この街を護ろうとする彼女達ジユエリストの第一目標は、中央制御核セントラルコアの破壊にある>

 「・・・・・・何となく判った」
 回想から結論が出た。もう一人の自分の囁きが聞こえて来るようだった。
 カーウェインの――あの『生ける死人』の言葉が意味するところは単純そのままだ。
 <あン? 何がだ?>
 左手のエーデルワイスと、右手に握ったままの銀球コアを交互に眺めると、銀球をエーデルワイスの柄に空いた穴――石嵌器セツターに押し込めた。
 しかし、銀球の方が大きく、石嵌器セツターは受け付けない。すかさず芽依は《武装錬成クリエイシヨン》を発動させ、柔らかな銀球を強制的に圧縮。石嵌器セツターに最適な大きさへ変換リサイズする。
 カチリ、と音を鳴らし、石嵌器セツターの周辺に付属する四つの爪が銀球を掴んだ。
 杖の先端、恥ずかしげに閉じた蕾の中から、ふわりと灯る優しい虹色。その小さな息吹は、刻印装具シールズが目覚めた証だ。
 此処までは芽依の予想通りだった。
 どういうわけか、カーウェインは決闘装束デュエルドレス刻印装具シールズに関して精霊ギリアム以上に知っているらしい。そして《武装錬成クリエイシヨン》が、エーデルワイスに応用可能であることも見抜いていた。
 その上で、もし自分の才能を正しく使うなら、どんな敵にも負けることはないと断言したのだ。
 “何故”、を問い詰める時間はなかった。狂ったように地を突き鳴らし、ネオアンガーの『角』が切迫。蜘蛛くものごとき多脚が生み出す怒濤の勢いに、視界が揺れた。
 驀進する巨体。致命的な反応の遅れ。回避が間に合わない!
 (受けきってみせる・・・・・・!)
 右手を前に。右足で地面を強く踏みつけた。
 腕一本犠牲にしてでも凌ぐ。その覚悟を示した芽依だったが、まさか地面に守られるとは思ってもいなかった。
 芽依の右足が、引き違いに敷き詰められたタイルを割って奥の土までかんぼつし、周囲の土が隆起――否。そんな生やさしいものではない。地中で何かが炸裂した。そうとしか思えない勢いで湧出した高さ二メートルにも届く土壁が、眼前の景色を一変させた。
 イッカクの如き長大な角は、柔らかな土など物ともせず突き破った。ところが、その巨躯は反対に衝撃を吸収され、停止する。押せども引けども、突き刺さった角が邪魔をしてどうにもならない。
 「これがエーデルワイスの能力!?」瞬時に可能性を模索。
 ①状態制御――地面の流体化/粒状体の固体化。
 ②土壌操作――土粒子の複製・結合/間隙と水分の調整/土塊の整形。
 ③空間置換――衝撃伝達⇔空間転送
 数秒のうちに、思いつく限りの可能性を列挙。どれもが近く、そして遠い。
 芽依は収束しない可能性と土壁を一足で飛び越え、ネオアンガーの頭上へ。
 グルンッと前方回転し、縦の旋回力トルクと重力を乗せた踵落としを繰り出す。
 そのときを狙い済ませたように右側面から『舌』が伸びる!
 未だ旋回中の芽依は、相打ち覚悟で振り下ろす!
 (絶対に当てる――!)
 振り下ろした踵に掛かる反発/水を切るような重さ。
 そして現実が芽依の常識を裏切った。まさか大蜘蛛くもの如き巨体が先に潰れるとは思ってもいなかった。
 それは地べたを這う虫が、無邪気な子供に踏まれたかのようで。まるで分厚い空気の塊のようで。
 突如、現象と脊髄が直結/大脳皮質をショートカット/刹那の返戻。
 ――踏め。
 身体が思考に先んじて動いていた。
 振り下ろしたのとは逆の足で、虚空を踏みつける。
 直上へ舞い上がる黒衣。両膝を抱え込んでの後方宙返り。
 最中、真下を通り抜ける『舌』を視認。
 鮮烈な閃き。できるかどうかなど考えず、ブーツの靴紐を思いっきり引っ張った。
 足首から膝下まで覆う黒革のブーツにびっしりと通された長紐が、一瞬にして解ける/元に戻る。
 決闘装束デュエルドレスの特性である『恒常性ホメオスタシス』によって、まったく同じ靴紐が二つに増えた。
 「槍――」
 放たれた気迫に押され、たわんだ靴紐が直立。長さ二メートルにもなる凶器に早変わりする。
 「穿うが――」逆手に持ち替え「てぇッ!」直下へ投下!
 靴紐は一本の矢となって『舌』を縫い止めた。ネオアンガーにしてみれば針金と変わらない靴紐で? いいや、『舌』を貫通していたのは槍だった。無数の靴紐が束になり、こよりを成すなら、それはもう槍と呼ぶしかない。
 舌が戻せず、ネオアンガーは必死に足掻いた。
 芽依は垂直に落下。接地と突進は同時だった。ネオアンガー目掛け、直角に弾け飛ぶ。
 ピンと限界まで張った舌を手刀で切断。縫い止めていた槍を引き抜き、大きくバランスを崩した敵を横薙ぎにする。
 一閃。
 靴紐で作られた槍に切れ味など無かった。あくまで芽依の膂力のみで、ネオアンガーを上下二枚におろしてしまった。
 敵の絶叫を背中で受けながら進路を『盾』へ。
 胎内に剛柔併せ持った盾を宿すネオアンガーは、『幾らでも突いて来い』と言わんばかりに身を小さく縮こまらせ、前より大きな防壁を三つも作り出していた。
 この時点で、敵の敗北が確定する。
 芽依は敵の前で急停止し、右手に握ったエーデルワイスで左手の槍をコツンと叩く。
 途端に槍の結束がばらばらと解け、元の靴紐に戻ってしまった。
 ネオアンガーに表情というものがあるなら、きっとこれがそうなのだろう。
 眼下の人間が何を企んでいるのか判らず硬直していた。斜めに傾く頭部が、小首を傾げているようだった。
 「これでも防げるかしら?」
 純粋な疑問を投げ掛けては、手首を柔らかく振ってみせる。ひらひら、ひらひらと。
 それでネオアンガーも気付いた。そして、気付いたところでどうしようもないことにも気付き、猛り狂った。
 ただの靴紐の束のはずが、いつの間にか伸びていた。長く、長く。元の三倍にも達していた。
 そして無造作に振り下ろされる無数の鞭。その幾つかは盾が完全に防ぎ、幾つかは盾と盾の隙間をすり抜け、腐肉を深々と切り裂いた。
 今度は縦に三枚おろしだった。自重に耐えられず、『盾』が左右にべろんと広がった。
 『人持ち』の三体を再び屠り、芽依は中央制御核セントラルコアである『特異体』に向き直る。
 「今度こそ潰す・・・・・・!!」
 白杖を差し向け、鮮烈な意思を示す芽依。
 だが『特異体』は何も語らない。何も表さない。くすんだ夕日を浴びた水晶の身体が、分光器プリズムとなって極彩色を放つだけ。
 そこには使命も本能もない。ただ己が役割を果たすべくプログラムされた機械であり、悲劇を広げるためだけに動く装置。それが中央制御核セントラルコアという存在だった。
 あくまで無防備に、決められた手続きのように、『特異体』は同属の修復に赴く。
 ゆっくりと、地面をアイスクリームのように削り取りながら、徐々に詰まる間合い。
 その一瞬を見定め、芽依が仕掛ける。
 「踊りなさい」
 凍える、古き御伽噺フェアリーテイルの魔女の如き口調で命じ、芽依はブーツの爪先で、地面をトントンと小突く。
 精霊力レイズを通じた強制労働めいれいに、炉端に転がる石が、コンクリートの破片が、大小構わず一斉にぽーんと跳ねる。
 同時に短距離疾走シヨートダツシユ
 勢いの乗った膝で、その一つを強突。旋風を彷彿させるステップ&ターンが続き、裏肘、正拳突きと流れ打つ。
 芽依の全力で加速させた小石は、もはや弾丸だった。
 三連斉射が特異体を襲った。三つのうち、胴体に着弾するはず一発が件の”何か”に防がれる。もう一つは的外れ。最後の一つは腰部を掠めた。
 唯の擦り傷。されど狙いを芯で射止めた感触。敵の自動逆撃カウンターの正体に手が届きそうな予感。
 (防がなかった? いいや、防げなかった?)
 芽依は特異体の正面へ流れ込み、放物線を描くコンクリート片に、ボレーシュートをねじ込む。
 ――破ッ!!
 ちょっとやそっとでは砕けぬはずのセメント塊が、芽依の気迫によって、散弾銃の如く爆散。至近距離での広範囲攻撃ワイドシヨツトは、その殆どが弾かれ、無為の火花を散らした。
 しかし、その光景こそ、危険を冒してまで接近した目的だった。
 生じた火花から浮かび上がった形状は、面でも円でも、まして球でもない。
 それは体全体を覆うほど大きく、胴部を中心にした半径一~二メートル程度に広がっていた。
 続けて、芽依は手にした靴紐の束を真横から振るう。
 ネオアンガーをいとも容易く三枚下ろしにした凶器だが、敵も自動車のドアを両断した実績を持つ。靴紐が不利であるように思われたが、結果は意外なものであった。
 靴紐は切断されなかった。そして切断もしなかった。ただ、見えない何かに絡みついていた。
 理屈は単純だ。芽依は横から靴紐を振りながら、その長さを更に伸張したのだ。
 たわみがあると、先端になるほど遠心力は伝わらない為、幾ら高速で振り抜いたとしても、全体としてはゆっくりしなる。
 敵の見えない攻撃を受けた際、芽依は精霊力レイズの多寡を感じ取れなかった。よって、相手の攻撃が物理的なものであると目星を付けていた。
 そして物理的なものならば、相手の動きに反応する必要があり、相手より後に動かなければ防ぐことにはならない。どれだけ反応速度が優れていようとも、だ。
 (だから、タイミングさえずらせたなら切られることはない)
 靴紐の束は特異体を包むように絡まり、その形を浮き彫りにした。
 芽依の推測は正鵠を射ていた。羽か、さもなければ昆虫類の多脚のようなシルエット。
 どこからどう繋がっているのか定かではない。だが背中の辺りから複数の器官が前面に伸びているのは確実だ。
 先端は恐らく刃状。個別に動き、間合いに入ったものをサソリの尾よろしく迎撃――仮説を組み立てただけで滅茶苦茶な造りだと判る。
 芽依は想像と実体を同時に見ていた。
 毛髪は獅子のたてがみ、耳は鳥類の羽、後頭部からおさげのように伸びた爬虫類の長い尻尾――ではなく巨大な蛇の胴体。そして先端の頭部。
 (――?)
 絡み付く視線。蛇の金色の双眸が、芽依をじっと見つめていた。
 (――!!)
 言葉にならない予感/悪寒が背筋の神経を切り付け、次いで本当に切り刻まれた。
 正確には頭部・上腕・胸部、三カ所同時に斬り付けられていた。
 回避する間もない。ピーンボールのように吹き飛ばされながら、芽依は敵の攻撃が物理的なものであると確信。更に認識を一部修正。
 ×『サソリの尾』
 ○『千手観音』
 胸に刺突、腕に横払い、脳天に振り下ろしと多彩な剣線は、人間の腕と同等の代物でなければ不可能だ。
 終着点は偶然にも元のテラス席。数分前を再現するように、転がり込んでいた。
 「がッ――、ぁ、は・・・・・・はぁ、はぁ、はぁ!」
 ガラクタと化したテーブルセットから這い出て、ふらつきながら起きあがる。
 頭を強く打っていた。全身から悲鳴クレームが一斉に鳴り響く。
 肉に染み込む痛み。傷口に熱と激しい痺れ。口内が切れて充満する血の臭い――ふと思い出す遠い、遠い、感覚はは過去おや
 昔々、今となっては原因すら思い出せない、純粋な痛みだけが残された記憶。
 腹を蹴り飛ばされ、頬を張り飛ばされ、瓶を投げつけられたときの痛み。
 ああ、ガラスの灰皿で頭を殴られたのなんかは、とても良く似ていた。
 ああ、痛い。唯唯、痛い。
 沸き上がる
 沸々と、爪先から腿を這い上がり、股を通って下腹部を冒した。
 神経を刻み、臓物を愛撫しながら腹を抜け、背骨を抉っては胸に至り、こねくり回す。幾度も。幾度も。執拗に。
 やがて首筋を、頬を、舐め取るよう伝った。そうして眼球を突き刺す。眼底を掘る。突き破って脳幹をすする。
 抗うこともできず、成されるがまま蹂躙された。そんな自身に、殺意を覚えた。
 知識を身に付け、智慧を養い、力を手に入れた。幼き自分はもう何処にもいない。無力で無為な場所から抜け出したのだ。
 弱さとはとうの昔に決別している。痛みなど、最初に克服した余計な感覚のはずだ。
 ――だというのに/なのに、何故?/何で?
 過去むかし現在いまが一緒くたになって疑問符が打たれた。
 両者の比較など無意味だ。けれど二つが引き剥がせない。
 惨めな過去むかしを持つ人生が無価値ガラクタに思え、無性に”現在いま“を未来これからごと壊したくなる。
 “惨めなモノを晒すくらいなら、いっそ消してしまえ”――誰かが囁いた。
 グパグパグパ――頭は沸騰。
 パキパキパキ――心は凍結。
 キチキチキチ――痛みが和らぐ。
 チラチラチラ――不安が薄らぐ。
 芽依は黒い衝動で満たされた。芽依が黒い衝動になった。
 紫の瞳は焦点を無くし、眩暈を起こしたような危なげな足取りで前に進んだ。
 「黒岩芽依――」
 カーウェインが立ち上がる/芽依は立ち止まらない。
 「それは大切に持っているべきだ。傍らに置き、眺め、寒ければ炎にくべるといい。凍えたからといって、くれぐれも君自身を投じてはならない」
 一瞬、衝動に理性が拮抗する。
 「・・・・・・それはアナタの経験? それとも唯の一般論?」
 その奇跡的瞬間に、口を付いて出たのは何の益体のない疑問。
 「どちらでもない。私は残された一つの記録を再生しているに過ぎない。私に可能なことは、かつての自分だった者と、その隣にいた者が残した経験をなぞることだけだ」
 ――そう、と心なく呟く芽依。
 不可思議な言葉の意味も咀嚼できず、丸飲みしていた。
 紫の双眸には、もう『敵』しか映し出されていない。
 だというのに、カーウェインは驚くべき方法でもって芽依を振り向かせる。
 「君が望むなら与えよう。血と錆の真実きろくを」
 芽依が”イエス”という前に/答えなど聞くまでもないと、疾く/躊躇無く、指先を――自らの眼球に突き刺した。
 「ッ・・・・・・!?」釘付けになる視線。
 視神経を引きちぎり、眼窩より鮮血の滴る球体を抜き出した。
 麻酔か麻薬でも打っているのか、カーウェインは呻き一つ漏らさない。
 決して義眼などではない。抉られた右目が激しく出血し、赤い涙が頬を伝って滴り落ちていた。
 その非日常シユール過ぎる場面を目にして、なお瞬きだけで済んだのは、ひとえに黒い衝動のお陰だ。
 心まで凍らせていなければ、間違いなく手酷い心的外傷トラウマを負ったはずだ。
 「一体、何のつもり?」
 「勝利には報酬が付き物だ。君が今、最も欲するモノ・・・・・・例えば、あの晩に起きた出来事の一部始終を収めた眼球というのはどうだろうか?」
 カーウェインは眼球/対価を、テーブルにそっと置く。
 やはり、その真意を語るつもりはないらしく、この場を去ろうとする気配が伝わって来る。
 「カーウェイン=ストレイマン」
 今度は芽依が呼び止める/男の足は止まらなかった。
 「眼はもう少し大切にした方がいいわ・・・・・・手遅れみたいだけど」
 皮肉のつもりはなかった。謝意を込めた訳でもなく、まして憂慮している訳でもない。
 他意も善意もない。弱視である芽依が、芽依なりに感じ取ったカーウェインの苦労これからが、何となく口を突いて出ただけだった。
 そんな少女を横目に、カーウェインはウインクをした。
 今度こそ完璧に呆気に取られた。
 伽藍堂になったはずの右目には、死んだ魚のように虚ろな瞳が収まっていた。
 いつの間にか流血も止まっている。ウインクしたのは、あくまで復元した眼球の調子を確かめたに過ぎなかった。
 男の口元に、薄い笑み。
 皮肉か、嘲りか――だが、男からは他意も何もあったものではない。
 優雅にカフェの出入り口へ向かったのを最後に、それっきり気配を見失った。
 “『報酬』を掠めとって去る”という選択肢も残されたままに。
 けれど芽依は戦うことを選び直した。いつもの矜持きようじが顔をのぞかせたからではなく、胡散臭さ過ぎる報酬に心奪われたからでもない。もっと単純シンプルな動機だ。
 カーウェインが報酬を先払いしたのは、芽依がこの戦いに勝利すると疑わなかったからだ。
 だから芽依も疑わなかった。ちょっとした意義オマケ足されたこの戦いを自らの手で終わらせ、堂々と掴み取れば良いのだと。ただそれだけの、単純な解答だった。
 芽依の口元に、薄い笑み。
 未だ全身を侵したままの衝動と共に、芽依は中央制御核セントラルコアへ向け、三度突撃した。

 「ぁあぁぁ――ッ!」裂帛の声。
 突進/極端な前傾姿勢。
 直進/最短距離を最速で飛ぶように。
 さながら超低空飛行の戦闘機。その瞳には標的しか映さない。
 だが、その一手は勇敢を通り越して無謀だった。
 敵の武具は音速の礫をも打ち落とした。その精度と初速はジュエリストの超人的瞬発力であっても越えられない。
 領域テリトリーを一歩でも侵した瞬間、慈悲もなく撃墜されること請け合いである。
 故に、これは特攻だ。当人がそれを痛いほど自覚していた。
 ただ芽依のそれは、玉砕覚悟カミカゼではなく、死中に一本の細い活路を求めた綱渡り(タイトロープ)である。
 眼を逸らしたくなる程の恐怖は黒い衝動に喰わせ、敵の機械の如き精密さを信じ切るという狂気を抱えて、境界を踏み越える。
 同時に、芽依は突き出した顔面を両手で庇った。
 だが、その行為に何の意味があろうか。敵の精緻な攻撃は、その程度で防ぎきれる類のものではない。
 芽依の細い腕では、護れて額と眼球、そして喉元が関の山。口元までは隠せない。刺突で貫くのに十分過ぎる隙間が残されたままだった。
 案の定、不可視の刃は口元を覆うフェイスヴェールを易々と突き破った。
 如何に決闘装束デュエルドレスの加護があるとはいえ、人体の弱点が集中する顔面だ。クロスカウンターが直撃したなら唯では済まされない。
 そう。まともに食らったならば、だ。芽依は逆にそれを喰らった。
 正確には、不可視の刃を、上下の歯でがっちりとくわえ込んでいた。
 無論、それだけでは剣勢を殺しきれない。両腕でもって、上下から押さえつけることで静止させた。
 それに悪運も芽依を味方した。不可視の刃の腹にある無数の凹凸が、制動に一役買っていた。これが研がれた鏡面であったら一体どうなっていたかは言わずもがな。
 極端な突撃姿勢も、土壇場での防御も、両手の隙間さえ、この一瞬を呼び込む為のものだった。
 僅かでもタイミングが狂えば、大怪我では済まされない大博打。されど特異体は跳ね上がるような心臓を持たない。事も無げに、不可視の刃を振り上げた。
 その彫像めいた外観からは想像も付かぬ膂力で、芽依の痩躯はあっさりと振り払われ――ない。
 無拍子で繰り出した芽依の膝蹴りが僅差で競り勝っていた。刃の腹を豪打し、一気に叩き折った。
 本体から離れた途端に、チタングレーに染まる刃。芽依はその無骨な、野太刀を思わせる大きな刃先を握り込み、縦・横と続けて振った。
 ヒュンヒュンッと、消え入る風切り音。それだけで、掌には柄の確かな感触グリツプが生まれ、丁寧に削り出したとしか思えぬ美しい刀身がその先に続く。
 そして恐れも知らず踏み込み、逆袈裟に虚空を斬りつけた。
 一間開け、何もない空間から、何の脈絡もなく物体が落下。
 昆虫の節くれた腕が無造作に転がり、切り口から白濁した液体を盛大にまき散らした。
 その光景を眺めることなく、芽依は更にもう一歩前進した。
 だが、いかなる奇策にも二度目はない。ならば、その黒衣の内に奥の手を潜ませているのだろうか? いいや、そんなものがあるならとっくに使っていた。
 今の芽依に出し惜しみする余地などない。特攻など、しないに越したことはないのだ。
 先の一撃はあくまで勘だ。へし折ってやったのだから、その先には腕が付いているはずと、とりあえず振ってみた。唯それだけのことである。
 得意の戦術もこれで打ち止めだった。今の芽依には、圧倒的に経験値が足りない。急拵ごしらえではイマジネーションが薄っぺらく、選択肢が広がらなかった。
 だが何の策もなければ、たちまち斬撃の餌食だ。
 懇願するため手を組む暇も無かった。強烈な一撃が、芽依の腕を横薙にしていた。
 今夜何度目かになる直撃。しかし、これまでと違った。身体ごと飛ばされることなく、その場に留まっていた。
 上腕骨が軋んだ。それでもその細い足は、大地に根を生やしたように動かない。
 “根を生やした”とは言い得て妙だ。例え石畳であっても、両足にびっしり巻き付ければ、屹立する大樹のそれに匹敵するものらしい。
 芽依は左腕で止まった不可視の刃を肘で押し上げ、曲刀を翻した。
 二本目の腕が切って落とされた。こうも続けざまでは、特異体といえど対処を改めざるを得なかった。
 大振りな一撃は不用意と判断したのか、重い一撃から素早い乱撃に切り替わる。
 すぐさま全身の至る場所が斬りつけられた。
 本来なら百回は挽きミンチになって然るべきところだったが、決闘装束デュエルドレスはそんな小さな被害ダメージなど意に介さない。
 付きまとう痛みを無視して、芽依は溜めの一撃を見舞った。
 本来なら当たるはずのない全力素振り(フルスウィング)。だが、これだけ四方八方から襲い来るのであれば、外す方が難しい。
 芯を捉えた感触。ザクリと陰惨な反響。今度はまとめて二本、地面に仲良く寝ころんだ。
 それでも特異体はものともしない。いや、それどころか、腕を失う前より激しさを増した。
 特異体の猛攻を受ける度、芽依は愚直に補正と反撃を繰り返す。
 打撲と裂傷をみるみる増やし、敵の見えざる腕をみるみる減らした。
 それはそれで確かな成果だったが、芽依は”策など無い”と言い張るだろう。
 ただ斬られたら斬り返すだなんて、芽依にとって子供同士のケンカにも劣るのだから。 『肉を切らせて骨を断つ』とは無策、ないし、あって愚策の類だ。恥ずかしくて、口に出すのも憚られるというものだ。
 畢竟、壮絶な果たし合いは、どちらかが音を上げるまでの我慢比べ。感情こころを知らない特異体に分がある。
 ところが、先に動いたのは――否。先に止まったのは、特異体の方だった。
 雨嵐の如く襲っていた刃が、ぴたりと止んだ。
 (・・・・・・? まだ『腕』は残って――)
 嫌な予感がした傍から、背に何かが巻き付いていた。蔦のように絡みつくそれが、件の腕だと知れた途端に、物凄い力で引き寄せられた。
 この局面であえて超近接戦へ引き込もうというのか? だが、芽依の両足は依然として地に楔を打ったままだ。無数の強烈な斬撃を凌いだ石の根である、この程度では一顧だにしない。
 ところが両者の距離は零となっていた。
 芽依はその場を動いていない。つまり、特異体が手繰り寄せたのは他でもない、特異体自身だった。
 目と鼻の先に水晶の体/鏡面に映し出された黒衣/僅かに遅れる反応。
 突如、足下がかんぼつ! 芽依と地面を縫い止めた楔が砕けた。
 決闘装束デュエルドレスで護られているはずの両足が、骨まで砕けた。
 「がッ・・・・・・!」苦悶の声。
 特異体を浮遊させている力の応用――極点に絞り込まれた下向きの精霊力レイズによって、芽依の機動力はごっそりと奪われた。
 立つこともままならず、膝を折る芽依。しかし平伏すことは許されない。芽依の気骨ではなく、特異体が許さない。
 何の前触れもなく、水晶の胴部中央が開かれた。観音開きの扉の奥には相似形の扉。奥にある別の水晶扉が開くと再び扉がのぞく。
 バタバタバタと連続音を立て、扉が無限小へと開き続けた。
 最奥に深淵。芽依の全身を覆ってなお有り余る大きさの闇が、大口を開けて迫った。
 「――ッ!!」
 抗う術もなく、芽依は扉の向こう側へ飲み込まれた。
 ――――
 ――
 其処には何もなかった。
 僅かな光も届かず、闇が広がるばかり。
 触れられるものはなく、泳いだこともない無重力の宇宙そらを思わせる。
 ひたすら無音――なのに煩い。度重なる殴打で耳が鳴りっぱなし。脈動は未だ最速のまま、酸素を求め、暴れ回っていた。
 芽依は大きく息を吸い込もうとして、そこで呼吸ができないと初めて知った。
 幾ら吸い込んでも何も入ってこなかった。
 ――苦、しい。
 苦悶も、声にならなかった。
 口に指を突っ込むが、何もつかえてはいない。咽を押さえる。肺を叩く。すべて無駄だった。
 一瞬で錯乱状態パニツク
 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
 自分はあと一分かそこいらで窒息死する。ぐちゃぐちゃにかき混ざった頭でも、それだけは何故かはっきりと理解できてしまう。
 これまでに覚えてきた”痛み”とは違う”苦しみ”による死が迫った。
 走馬灯なんて見えない。美しい思い出もなければ、燃え上がるようなえんもない。
 唯唯、苦しい。それ以外に吐き出される感情モノはない。
 意識なかみが溶け出していく。無の中に。身体からを残したまま。
 これで黒岩芽依が終わる。無の中で。何も成し得ないまま。
 (死、に・・・・・・た――)
 瞳が閉ざされる。瞼を伏せても、何も映さぬことに変わりない。
 いつまでも在り続ける苦痛。生きていても、死ぬ間際でも変わらない。
 痛みだらけの命が、静かに花弁を散らす花のように朽ちていく。
 ――――――
 ――――ぃ
 それは遠く、静かに。
 ―――め・・・・・・ぃ・・・・・・
 微かに、無音だからこそ届く囁き。
 ――芽・・・・・・依、
 誰かの呼ぶ声。
 芽依/黒岩―――芽依/メイ/めい/黒・・・・・・岩/黒、岩さん/クロゥイワ/ムウェイ――
 沢山の声が届く。耳朶ではなく、胸でもなく、まして脳でもない。
 身体の奥底の、柔らかな部分に触れる。
 優しく、力強く、たおやかな声。
 そして、何よりも暖かな声。
 ――芽依ちゃん。
 かっ、と目を見開き、手にした短杖を両手で握り直した。
 (応えて・・・・・・私の、眠れる才能――!!)
 必死の呼びかけに、刻印装具シールズは応える。
 エーデルワイスの先端にある花弁の中に、虹色の光が灯された。
 だが永遠の闇の中では余りにも小さく、頼りない。少し離れでもしたら、飲み込まれてしまいそうだ。一体、こんな小さな灯火で何ができるというのか?
 「いいえ、これで充分よ」
 僅かに残された疑念を、自らの言葉で切り払う。
 その一瞬だけは心を空っぽにした。
 苦痛を忘れ、不安を消し、念じることを止め、生を手放し、死を退けた。
 ちっぽけな世界じぶんを空っぽにして、無限の広さを与える神の如き所作。
 芽依が『唯一の特技』と自負する技能スキル、“記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ“が、瞬く間に世界を書き換えた。
 涼やかな風が吹く。闇が払われ、姿を現す果てなき青空と真っ白な大地。
 その中心には透き通る記憶の泉。そして岸辺には白いワンピースの少女。
 まったく同じ顔をしているのに、別人としか思えないくらい愛らしい表情をする彼女わたしが、何故か怒っていた。
 遠目からでも分かるくらいはっきりと。腰に両手を当て、これでもかという程に胸を反って仁王立ち。
 芽依の姿を見た瞬間、ほっそりした顎をフン! としゃくり、薄い唇を尖らせた。
 「芽依、私は怒ってるわ」開口一番の文句。
 「私が此処に来なかったから?」当てずっぽうの解答。
 うぅ~、と獣みたく咽を鳴らして悔しがる少女。なにやら大正解の模様。
 「そうよ、分かってるじゃない。見てご覧なさい、この世界の様を!」
 見慣れた青空をよくよく眺め、色が普段より濁っていることに気付く。
 振り返れば、遠くの空にこれまで見たこともない分厚い雷雲。白い大地には大きなひび割れがあって、今にも崩落しそうだった。
 「この世界が――、私の家が壊されかけてるのよ。芽依、こんな仕打ち酷すぎるわ!」早くも涙目の少女。
 「家を失いかけて悲しいのは分かるけど、こちらは命を失い掛けているの。敵の罠から抜け出す手段がなくて困ってる」
 きょとんとする少女。それで気付いた。彼女はいつでも”黒岩芽依”の記憶をのぞけるが、どうやら常に監視しているという訳でもないようだ。
 だが当然といえば当然だ。彼女はこの世界の居候であって、この世界くろいわめいそのものではないのだから。
 「少し待って」
 そう言って瞳を閉じる少女。ほんの数秒、それだけで深い溜息が漏れた。
 「中央制御核セントラルコア――、飲み込まれちゃったんだ。ならこれは侵食を受けてるせいだね。芽依がこの世界を否定こわしたんじゃなくて、敵がこの世界を侵略おかしてきたんだ」
 芽依の理解の及ばぬその苦笑には、安堵と疑問が混在していた。
 「何でもっと助力アタシを求めなかったの? アタシは何でも知ってるって、芽依は知ってるでしょ?」
 何でも知ってるのでは? と揚げ足を取ることもできたが、どこかのかえるもどきじゃあるまいし、尽き掛けた命をチップに変えてまで言葉遊びをする気にはなれなかった。
 「そうね。今後は改めるわ」
 その朴訥な返事が気にくわなかったのか、少女は語気を強めて言う。
 「芽依は誰にも負けない。だっていない。何故って? 芽依にはアタシがいるから。だから芽依には勝利しかあり得ない」
 少女が引き合いに出したフレーズが、真新しい記憶を引っ掻く。
 正体不明の男の言葉が放った言葉と、感情を載せた天秤が揺れた。
 反対の皿に載った小さな感情あきらめ。その重さは底無しだった。
 果たして、続く言葉はどちらの皿に載り、針はどちらに傾くのだろうか?
 そんな心の揺らぎを見透かしたように、悪戯げにのぞき込む小悪魔の笑顔ディアボロスマイル
 「アタシ達の世界いえをこんなにしたやつには、きつ~いお仕置きね」
 芽依は少女に同意するようにそっと瞳を閉ざし――、闇の中でひっそりと瞳を開いた。
 ――さ、やってみようか。
 胸の内から響く少女の想い(こえ)。
 芽依は言われるまま、左手の曲刀を逆手に持ち直し、右の掌に切っ先を押し付けた。
 ――もっと強く。
 「ぐっ・・・・・・!!」
 力の限り押し込めると、刀身から柄まで一気に平らになった。
 ――もっと、もっと強く。イメージして、精霊力レイズの結晶を。
 明滅して途切れそうな意識。
 力が思うように入らない。それでも有らん限りの力を込める。
 生きるとか死ぬとか、苦しいとか辛いだとか、余計なことを捨て去って、ただ純粋に力を込める。
 果たして、『力』は成った。芽依の手中には銀色の小さな塊。ネオアンガーから回収したものにはない、白銀の輝きを宿した真球だった。
 杖を回転させ、柄にある石嵌器セツターから黒ずんだ球を排出/新たな銀球を装填。殆ど無意識での手捌き。
 エーデルワイスから、これまでとは比べものにならない光の洪水。
 ――さて問題です。闇を照らすものと言えば?
 もう薄れゆく意識の中、遠い声に応えることもできず、ただ思い出していた。
 初めて異世界アナザーに紛れ込んだ日を。
 白ローブの少女が放った、あの眩い光の束を。
 「――――ひか、り・・・・・・」
 真っ黒に塗りつぶされて窒息寸前の心が、何よりも欲した名を呼んでいた。

 <幾ら何でもこりゃ無理だわな・・・・・・>水生生物の、酷く乾いた呟き。
 芽依が中央制御核セントラルコアに飲み込まれてはや数分。まったく動きのない状況は、ギリアムに諦念を抱かせるのに充分な長さだった。
 出会ったばかりの、いけ好かない相棒との記憶を振り返っていたところで、良い思い出なんて一つも見つからない。
 忠告を聞かず、やたら鋭くて暴力的な少女――残った印象はそんなものだった。
 <運がなかったな・・・・・・まぁ、安心しろ。俺もすぐにそっちに行く>
 手向けの言葉にだけは皮肉を交えなかった。短い付き合いだったが、それが元相棒への最低限の礼儀だと思ったからだ。
 力の宝珠を手にするのも時間の問題だった――そう考えずには居られなかった。
 すべては終わったことなのに、何故か後悔ばかりが浮かんでは消える。
 <正規の『使者』でない、ただの聖霊セイント候補に過ぎない俺に、秘伝は開示されなかった。だからアイツに与えてやれる情報は殆どない。ましてこの呪われた身体じゃ得意の武術も教えられない――まぁ、霊子融合ユニオンも、か。
 ・・・・・・はン? 相棒に相応しくなかったのはどっちだったか>
 沸き立つ感情の出口が見つからず、たまらず叫んでいた。
 <勝手に死んでんじゃねーぞ馬鹿野郎ッ! 性悪陰険娘ッ! このへっぽこジュエリストーッ!>
 ビルの屋上から喚き散らされる濁声に、一筋の光線が応えた。
 鮮烈な白色が夕闇を切り裂き、視界まで一色に染めた。
 それも一瞬だった。光は微かな余韻を残して消え、辺りは暗がりを取り戻す。
 ただ、ギリアムのいた建物に隣接するビルは、一瞬で様変わりしていた。
 <なンッ――?>
 ギリアムは驚きをかみ殺せない。
 その光は問答無用だった。白尾の通り道を完膚なきまでに焼き払い、蒸発させていた。
 縁で剥き出しとなった鉄筋は未だ赤く、どれほどの熱量が通り過ぎたのかを如実に物語っていた。
 ギリアムは慌てて光の射出された方角を眺めた。
 <まさか中央制御核セントラルコアが・・・・・・?>
 あれは自分の領域のみを守護するものだと思っていたが、まさか自発的に攻撃を仕掛けて来るとは。自分が――呪われ、ネオアンガーとなり果てた精霊が――標的になるとは、想定外の事態だった。
 あり得ない! と、叫ぶ心を腹這いになって押さえつけ、恐る恐るビルの縁にすり寄り、非対称に歪んだ顔をそっと持ち上げる。
 そして驚くべき光景に打たれ、痺れた。
 中央制御核セントラルコアの背に真っ黒な大穴/一目で勘違いを正す空洞。
 程なく、水晶で出来たその身体が一斉に砕けた。
 無数の水晶片は崩落の側から虹色の粒に置き換わった。
 暗がりを煌びやかに彩るイルミネーションの中心には、闇よりなお濃い黒衣。
 膝立ちで、真っ直ぐ伸ばされた短杖の先端は、ギリアムの方へ向けられていた。
 <馬鹿野郎・・・・・・当たるところだったじゃねーか>
 それが唯の偶然だと理解しつつ、ギリアムはあえて文句を言う。
 一歩間違えればあの世行きの場面だったが、それも悪罵に対するいつものお礼参り、という事で手打ちにした。
 他にもぶつけ損ねていた文句が山ほどあった。だからだろうか? ギリアムは自分でも意外なほど胸をなで下ろしていたのだった。
 中央制御核セントラルコアの消滅と時を同じくして、他のネオアンガーも幻であったかのように霧散した。
 カランと、軽い音を響かせ、エーデルワイスが地面に転がった。黒ずみ、ひび割れた銀球。震える指先。霞む視界。杖も持ち手も力尽き、残されたのは酷い痛みだけ。
 身体を支える糸が切れたように、芽依はストンと、腰を落とした。
 漠然と、空を見上げていた。
 遠く、遙か彼方では、空に掛かる天蓋に亀裂が走る。この異世界アナザーの崩壊が始まろうとしていた。
 そうして、ひらひらと舞い降りてくる虹の欠片。
 辺り一面を覆い尽くす煌めきは、まるで世界中が祝福するようだった。
 ――キレイだね、芽依。
 「ええ、そうね」
 自らの相槌に、胸の奥がちくりと痛んだ。形の無い感情がどっと押し寄せたが、芽依は奥歯を噛みしめて堪えた。
 無数の輝きが、傷ついた世界を癒していく。これでこのキャンパスは元通りになるだろう。
 自分に出来る限りのことはやった。だから間に合って欲しいと願った。
 自分と同じ境遇にならないで欲しかった。
 唯唯、祈った。“みんな悪い夢から醒めるように”と。
 ずっと待ち望んでいた景色が目の前に広がっていた。しかし、その表情には一層深い影が差していた。
 鼻先を掠めるひとひらに、芽依は掌を差し出す。
 触れる傍から消える輝き。代わりに、ほんの少しだけ指先に力が戻る。
 ゆっくり折り曲げ、そして、力の限り握り締めた。
 「裕樹、母さん、見てる? 次は犯人捕まえて、二人の前に跪かせるから・・・・・・もう少し、もう少しだけ待ってて」
 白く、血の気がなくなるほど強く。強く。


 「ダイヤ、異世界アナザーの一角が消滅した。南の方角だ」
 渋みのある声が、白ローブをまとった少女の手元から響く。
 少女が手にしているのは一冊の気品ある辞典。表紙に大きな宝石――精霊ベルケム――が収まる、世界でただ一つの本だった。
 ベルケムは遠くで起きた変化を誰より早く察知し、相棒である少女に知らせたのだった。
 「え、嘘! もう!?」
 『ダイヤ』と呼ばれた少女は驚き、ローブの裾を翻して振り返った。
 目を凝らしても、辺りはいつもより濃い闇に染まったままだった。人気はなく、まばらに点在する民家にはか細い灯り。すすけた月明かりが、ここが異世界アナザーであると教えている。
 「あのアンバーって子かな? ファルケルはどう思う?」
 ダイヤの隣に並んだ背の高い少女は、自らの右足――細い流線を重ねて独特の造形を作る足具――に向けて疑問を投げ掛ける。
 「どうだかな。単独戦闘ならもっと時間が掛かっていいように思えるが。まさか、中央制御核セントラルコアに不良品でもあれば話は別だが・・・・・おおっと、俺とエメラルド(おまえ)は例外だぞ」
 足具の中心にはめられた大きな宝石――精霊ファルケル――が冗談めかして答え、『エメラルド』の苦笑を誘った。

 「じゃあ何だ? 誰かあたし達の知らないジュエリストがいるってか?」
 他方、ダイヤ、エメラルドがぎりぎり視認可能な別の場所でも、まったく同じ議論が繰り広げられていた。
 薔薇色の髪の少女が、左手にはめた巨大な籠手に問うた。
 質問ついでに籠手に取り付けられた大きな宝石――精霊カタリナ――を指先で丹念にさすっていた。
 「それはあり得ないわね。ジュエリストの人数は精霊の数を上回ることがないから、上限で五人よ。この場にいない例のアンバーって子を含めれば既に全員揃っている――って、ルビー! 撫でるの禁止だって言ったでしょ!?」カタリナが吠える。
 『ルビー』と呼ばれた少女は器用に片眉を上げ、猫のように大きな瞳を細めた。
 「にひひひ。良いじゃん。コレ、気持ち良いんだろ?」
 「それはそう、だけど。あ、・・・・・・んぁッ! この、いい加減に・・・・・・!」
 そんな二人のじゃれ合いを、蔑んだ目で眺める背の低い少女。視界に掛かる前髪を優美に払い、視界を異変の起きた方角へ。
 「それで、そこの盛ったお猿さんは放っておくとして――可能性としては自然消滅したか、アンバーの枠を掠めとった誰かの仕業、ということですわね?」
 その優しげな顔立ちに反し、毅然とした口調で自らの相棒を問いただした。
 「前者はちょっと考えにくいかも~。でもでも~、後者も可能性は低いような~? 精霊って契約を重んじるからぁ、これと決めて選んだ相手を滅多なことで変えようと思わないだろうしぃ」
 まったり弛みきった口調に、柳眉をひそめる少女。
 「・・・・・・ココロア。貴女、相変わらずはっきりしませんのね。なら何だと言うのです?」
 「・・・・・・サ、サファイア。傍観、していないで、私を助けなさ――ぁ、ふぁあ・・・・・・」
 声に艶の出始めたカタリナ。その救援依頼を無視して、『サファイア』は耳朶に付けたイアリングを指先で軽く弾いた。
 イアリングに付けられた大きな宝石――精霊ココロア――が揺られた。
 「んん~。知りたい? 知りた~い? それはね~~~」
 ――――
 ――
 語尾の伸びなのか、言い方をまとめているかイマイチ分からない間。
 「それは?」サファイアの催促。
 「――分っかりませ~ん!」
 頭の快晴すぎる返答。サファイアのこめかみに青筋が立とうが何のその。今夜も絶好調のココロアだった。
 「は、ぁ・・・・・・あ。あ、ああ、ああ、あぁぁ・・・・・・」高まるカタリナの喘ぎ。
 「ほらほら、精霊って、こう見えて結っ~構、義理堅いのね。あ、でも今は宝石化リジェム中だから、身も堅いかも! 身持ちの堅いサファイアと、お・ん・な・じ」
 うふふふ~と、天女のような掴み所の無さを発揮/白旗を上げたくなる武勇。
 「あ、でもサファイアは頭もコチコチ~」悪意率五%未満の濃縮還元毒舌。壮絶。
 「うひょひょひょ。ここか? ここが良いのか?」禁断の悪代官攻め。超絶。
 「ああぁ~、いい・・・・・・!! そこいい!」理性崩壊の嬌声。悶絶。
 「みなさん――」夜叉が能面を被ろうとして被り損ねた笑顔。隔絶。
 半径三メートルに、緊張感が走った。
 「――ぶち殺しますわよ?」

 「分析は後だ。今はあの中央制御核セントラルコアを破壊する方が優先度は高い」
 こと戦場において、ベルケムの戦略眼と合理的判断に太刀打ちできる者はいない。
 唯の一言で全員の意識は、遠く離れた中央制御核セントラルコアに定まっていた。
 標的は一軒家のように巨大な海亀だった。その馴染み深い風貌のせいで、特撮映画に出てくる巨大怪獣のようにも見えるが、実物は映画よりよほど質が悪いことを『ダイヤ』と『エメラルド』は経験から学んでいる。
 「まぁ、そうだわな。んじゃ、エメラルド。俺達で一気に片付けるとするか」
 「・・・・・・え、うん。でも、みんなで協力して――え? あっちの子達、もう突っ込んじゃってるよ?」
 思わぬ事態に、背の高い少女は我が目を疑った。
 「何ぃ! 出遅れただと!?」先手を取られて猛るファルケル。
 「しかも二人でケンカしながら――って、ええ?」目をしばたたかせるダイヤ。
 「共同戦線――、あれ? 早食い競争だっけ?」小首を傾げるエメラルド。
 三者三様の驚きを見せる最中、ベルケムだけが動じずに告げた。
 「ダイヤ、君が主導すればいい。君なら彼女達を正しく導ける」
 もう何度目になるか分からない助言に、ダイヤは肩をすくめた。
 「・・・・・・だからさ、ベルケム。あたし、そういうの苦手なんだってば。そこのところ、あっちの、『サファイア』だったら、きっと上手くやってくれると思うんだけどな~」
 気のない返答に反応したのはベルケムではなく、ファルケルの方だった。
 「はぁ? 正気かダイヤ。俺は嫌だね。あんな性根の歪んでたり、トロくさい女の指揮下に入るなんて。想像しただけで身の毛がよだつ――」
 はっ、として息を飲むファルケル。だが時既に遅し。
 「・・・・・・ファルケル、トロくさい女の子は嫌い?」
 泣き出しそうな声で、エメラルドが囁く。
 「違うぞ夢乃! 断じてお前のことを指していった訳じゃ・・・・・・」
 「・・・・・・嫌い?」
 「だから違うって――」
 口をへの字にして涙を堪える相棒に、たじたじとなる精霊。
 そんな二人のやり取りを眺め、楽しげに微笑むダイヤ。
 「サファイアが指令塔で、前衛がルビーとエメラルドの二人。中盤があの金色の子で、あたしが後衛。結構いいと思うんだけどなぁ」
 なんとなく想い描いていたチーム像を、自分の相棒にそれとなく持ち掛けてみる。
 「おい、ベルケム。早く戦術を決めやがれ! そして指示を出せ。むしろ何とかしろ。戦う前に負けちまうぞ!」
 「とりあえず二人あちらの援護に回る。この人数なら、連携が無くとも力業でなんとかなるだろう」
 「よし決まりだ。こちらが先行するからな。おい、聞いたかエメラルド(ゆめの)! 行くぞ。お前が最速だ。最速な奴がトロい訳ないだろっ! 元気出せ!」
 萎れた花がゆっくり顔を上げたかと思えば、次の瞬間には二人の姿は遙か遠く、空を描く軌跡となっていた。
 ファルケルが言った通り、エメラルドは史上最速のジュエリスト。本気を出した彼女なら、どれだけ出遅れたところで、あちらより先に着いてしまう。
 「あはは、やっぱ仲間がいるって楽しいよね。ねぇ、ベルケム。そう思うでしょ?」
 「楽しいかどうかは別として、この街を護るのには戦力なかまは必要だ。
 そして共同戦線を維持するのであれば、我々が戦力なかまとして有益だと印象付ける必要がある。後々のことを考えるなら、指揮系統と役割分担もある程度明確にしておくべきだろう。
 先の構想でいい。君とエメラルドで彼女達を誘導して欲しい。あの二人が”力強い前衛”と”優秀な指令塔”になれるよう、適度に弱り、適度に暴走してくれて構わない」
 「? 何か分かったような、分からないような・・・・・・要するに、“その気にさせろ”ってことでいいのかな?」
 「そうだ。できそうか?」
 うーん、と唸り、「できる――」しばし思案「――かな?」
 自信なさげな言葉とは裏腹に、少女の澄んだ瞳には何の迷いも見られない。
 ベルケムは清流のような精霊力レイズの流れを少女から感じ取り、この戦いの勝利を確信する。
 「よし。では我々も行こう。アレを倒しても消滅するのは全体の一、二割程度だろう。力の配分に注意を払わせ、戦力が分散しないよう示唆を与える」
 ベルケムの指示に、ダイヤは手にした辞典を広げた。
 すると、風もないのに頁がひとりでにめくられていった。
 さらさらさら、さらさらさら――だが流れど流れどインクは欠片も見当たらない。
 ともすれば、そのまま表紙まで折り畳まれてしまうかと思ったが、はらりと緩やかに止まった。
 それから見開きで、金色に輝く文字が後から後から浮かび上がり、紙面を踊り出す。
 まるで喜びの声を上げているような文字の乱舞は、刻印装具シールズ――《魔法設計書マジカルデザイナー》――が持ち主の思考を読みとって書き写したものだった。
 「我々が動かすぞ、ひかり」
 「了解!」
 ふわりと舞い上がり、白く輝くローブ。はためく裾が羽のように広がると、次の瞬間には、人影すら残さず消えていた。


 不意に、一際強く強く吹き付ける風。
 凍った空気に乗って鼻孔をくすぐる微かな潮の香りが、これから向かおうとしている場所を思い起こさせた。
 特段これといった思い出もない場所だが、何故かいつも懐かしさがよぎる。
 小桜市と、隣接する幾つかの市の南側は湾を形成しており、海岸線をなぞるようにして国道が続いていた。
 中でもこの一帯は、長く広がる砂浜と、陸地続きの離島が全国でも名の知れた景勝地だった。
 歴史上、国政の中心とされた地域でもあって、教科書に登場する古い寺院や奥ゆかしい街並みが残されていて、昔から観光が盛んだ。
 ただ小桜市自体はその中心の大外にあって、観光地よりもベッドタウンとしての性格が強い。おかげで観光客の記憶に残るのはもっぱら海であり、しかも夏場限定というのが実際だ。
 涼秋が足早に過ぎ、冬の到来を感じさせるこの時期、しかもこんな平日の昼下がりに足を運ぶなど、近隣住民でも稀だ。
 片側二車線の国道をまたぐ歩道橋を上った。
 霞がかった水平線と、平行して左右に真っ直ぐに伸びた弾丸直線ストレートが、景観を横長パノラマに引き延ばしていた。
 遠くに件の離島を見つける。てっぺんに伸びた角は展望塔だ。久方ぶりに眺めたそれは、記憶の中にあるものと違っていて、数年前に大改修が入ったことを今更のように思い出していた。
 辺り一面、どこを見渡しても背景は曇天。合間から覗く程度の陽気では、冷えた体を温め直すこともできず、上着コートのポケットに突っ込んだホットコーヒーを握り込む。
 ここを訪れる途中で買ったものだが、早くもぬるくなっていて、ありがたみが薄れつつあった。
 歩みを止めずに歩道橋を渡りきり、そのまま海岸へ。
 防砂用の松林を抜ける頃には、潮の香りがいっそう鮮明に。
 黒灰色がかった砂を踏み締める。履き潰し掛けのスニーカーに砂が入り込みそうで、静かに足を運んでいた。
 数十歩先で一気に開ける眺め――なだらかに下る乾いた砂浜。引き潮で広くなった砂地、小さく打ち付ける白波。生まれ育った街の海は穏やかで、深い紺碧の冬色に煌めいていた。
 どこまで遠く眺めても人影はなく、ただ波の音だけが響いていた。
 そこに海がある。なのに何もない。なんとなしに自分の内なる世界を連想していた。
 「久しぶり・・・・・・いつ以来だろ」
 呟き、懐かしさにレンズの奥の瞳を細める。
 砂浜を下り、波打ち際の、海水を吸って硬くなっているところを歩いた。
 しばらくすると、サイクリングロードに併設された長いウッドデッキが見えて来た。
 そこを目標地点ゴールと定め、歩調を僅かに早めた。
 空腹がそろそろ限界だった。早朝からずっと歩き通しているので、少しでも早く休息/休足したくもなる。
 ウッドデッキには、同じ素材で作られたベンチが一定の間隔で並んでいた。
 その一つに腰掛け、肩に掛けたポーチを隣に置いてジッパーを開く。
 取り出したのはクリームパン、携帯用シリアルバー、ミネラルウォーター、そして小型ラジオ。
 まずラジオのアンテナを延ばし、いつものFMに感度調整チューン。ノイズ混じりのニュースが流れ出すと、ここにいない相棒パートナーのキュビズム的顔面が思い出され、少しばかり不快になった。
 遅めの昼食を取っていると、時折、海風が悪戯のように吹き荒ぶ。
 特に重ね着をしている訳でもなかったが、少しも寒く感じない。先日、新調したばかりの上着コートは、断熱効果が抜群だった。
 季節を少し先取りした黒のロングコートは、少し不思議に思えるくらい軽く、特注品オーダーメイドと見紛うかのような着心地。それでいて立ち姿を美しく魅せるシルエットも併せ持つのだから、非の打ち所がない。ファッションに疎い人間にすら一目で分かる逸品――少なくとも、一介の女子中学生には手が出せない値段であることは間違いあるまい。
 (本当に良かったのかしら・・・・・・?)
 ぱさついたシリアルバーをひとかじりして思い出す、消えない違和感あじ――
 たまたま通りかかった一件のビル/一階のアパレルショップ/真新しい外観。
 閉じたシャッター/並ぶ店員らしき数名の女性/目が合う/反射的に逃げる/捕まる。
 泣きつかれ/懇願され/事情を説明され――シークレットオープンの情報開示がシークレットになりっぱなし――怒られる/泣かされる/クビになる/かなり本気の目。
 過酷な労働環境に僅かばかり同情/ちょっとした隙。
 きらりと瞳を輝かせる女性たち/嫌な予感。
 両側から腕を絡める/刑事のごとき俊敏さ→店内へ連行/拉致されるが如く。
 やや納得の伽藍堂ぶり/客の不在でも明るい雰囲気。
 光源はポップな内装+店員の笑顔/謎の期待値。
 慣れない雰囲気/気後れを隠して広い店内を一周。
 十代から二十代を意識した意匠/分かり易く好感の持てる展示。
 商品の品質は良好/値段は少し強気設定/費用対効果を試算。
 “お気に召した商品はございましたか?“と、四十がらみの女性/やたら上品。
 観察/他の店員の緊張ぶりを察知/かなりの上役であると洞察。
 観察返し/深みのある視線/自分が商品になった気分/やたら落ち着かず。
 “どれも素晴らしいが手が届かない”と、素直に/現実的に告白。
 すかさず戦略的撤退/失敗/さっと行く手を阻む女性。
 この女性にしてあの店員ありと納得の一瞬/真実の瞬間。
 代替案/新提案。自信ありげに/朗らかに。
 一着@試着=“新ブランドの”/“新作に”/“試作で”。
 甘言@勧誘=“特別に”/“初めての”/“今だけは”。
 承諾@不承=“仕方ない”/“これだけ”/“一つだけ”。
 そう心弛めたが最後。気が付けば店の外。小脇には大きな紙バッグ。
 空になった財布を眺めて改めて唖然/呆然。
 縁のなかったはずのコートが今、手の中に。
 代金は相手の言いオープンプライス/有り金数千円ポケットマネー
 どう考えても不釣り合い(アンバランス)。なのに大手を振って見送る店員が沢山/もう沢山。
 ――ミネラルウォーターで不可解な記憶を嚥下する。
 今更小さな不可解の一つや二つ、気にしてどうなるものでもない。あちらが良いというのだから問題あるまい。嫌なら返品すればいい。する気など一ミリも無かったがうそぶいた。
 「『AVALON(アヴァロン)』――死に逝く者の島、ね」
 あの女性に教えて貰った、立ち上げ中のブランド名を思い出すと、苦笑いが浮かんでしまう。
 皮肉なものだが、ずっと無茶をしている自覚がある分だけ、きっと似つかわしい。今の生き方そのものだ。
 唯、悪運があっただけ。ともすれば、件の島に漂着していたことだろう。
 縁がなくて幸い――そうやって祈るように、瞳を閉じた。
 心地よく響く波の音。嗅ぎなれぬ潮の香り。
 そして、ラジオから流れるノイズ混じりのニュース。
 今日もどこかで、ありきたりの、どこにでもある悲劇がひっそりと上演している。
 この世界から悲しみは消えない、とか。
 自分は誰にも知られず消えていくのだろうか、とか。
 幸運は悲しみの何千分の一で、日常はその何万倍だろうか、とか。
 着地点もなく巡り巡る思考。流れていく時に、記憶が溶けだしていく。
 思い出される中央制御核セントラルコアとの決闘/死闘。
 “少女あのこ“の助言によって、辛くも掴んだ勝利。代償は全身の裂傷と、両足の複雑骨折。存外に安いものだった。
 苦痛だったのは怪我よりも、寝っ転がっている時間。
 無力の証しであり、無為の証明。それは許されざる怠慢。
 何もできないことが、何よりも辛かった。
 やがて決闘装束デュエルドレスと、虹の欠片の相乗効果とで嘘になる痛み。
 完全な復元を待たず、次の異世界アナザーへ飛び込んでいた。
 目に映る敵を無視した。目に映らない少女達ジュエリストの気配を追いかけた。何処にいるかも知れない迷子捜しに奔走した。
 本当に長い夜だった。最後の異世界アナザーが消滅したのは、日付を跨いだ真夜中過ぎ。
 けれど、その日から今日までの一週間は、別の意味で気が遠くなりそうだった。
 市役所、警察、病院、葬儀屋、学校、遠縁の親戚、アパートの大家、ショッピングモールの支配人との面談と交渉、そして山のような書類。自分と、母と、弟の分まできっちり書き終えた後は、サインが億劫になるスターの気分を少しだけ理解もした。
 ただ書面の内容や段取りは、どれも思ったように頭に収まりきっていない。
 手続きの煩雑さに加えて、慢性化した睡眠不足、そして無言で帰宅した母と弟の亡骸が現実の理解を遠ざけた。
 それでも時は止まらない。通夜と葬儀が省かれても、ついの火はやってくる。
 火葬場の焼却炉を前に立って、“最後の別れを”と言われて、その瞬間が訪れたのだと知れた。
 ところが、いつも付きまとってくるはずの現実感が何処かに行ってしまっていた。
 最後の最後まで涙の出番は訪れなかった。数時間の後、僅か数十グラムの姿でトレイに乗せられていても、それを長箸で神妙に拾い上げようとも。
 斜陽に色付く共同墓地で、碑銘のない墓石に手を合わせた。
 やけに静かで、静かすぎて、よくよく自分がまともな人間でないことだけが浮き彫りになって、それが悲しかった。
 唯一、時の流れと共に固まっていく決意だけが、自分を僅かに人間たらしめているのだと思えた。
 やるべきことは二つ。成すべきことは一つ。それがすべて。
 開いた手中には、それ以外、何も入っていなかった。

 何かが迫る気配に瞳を開く。振り向けば、息を荒げたゴールデンレトリバー。
 やたら人懐っこく、くすぐるようにせわしなく臭いを嗅ぎ回った。
 ひとしきり嗅いで満足したのか、今度は頭をすり寄せ、思いっきり撫でて欲しそうな目で懇願する。甘え上手にも程がある。
 見れば手綱リードを付けていなかった。辺りには、飼い主の影もない。
 マナー違反だが、海という土地柄か、手綱リードを外して散歩させる飼い主はままいた。
 大抵は無用なトラブルを避けるために外しはしないのだが、この子なら飼い主を油断させて出し抜いたのかも知れない。
 「お前、ご主人様は?」
 優しく頭を撫でながら迷子に問いかけてみる。
 首を傾げる様が、“ぼくわるいことしてないよ?“と語りかけてくるようだった。
 「置いてきぼりしちゃったの?」
 優しい声に、黒の瞳が、何か思い出したように見上げた。
 「お帰り。きっと心配してるから」
 言葉が通じたのか、ダッと力強いフォームでもと来た道を駆け戻った。
 飼いかぞくと無事出会えるよう、祈るような目で後ろ姿を眺めていた。
 ラジオから流れるニュースが一区切りとなって、道路交通情報、そして今日の天気予報へと移っていく。
 “――本日は夕方から広い地域で雨となるでしょう。降水確率は五十パーセント。また一部地域では突風を伴う可能性があり、注意が必要です”
 空を見上げた。僅かに差し込んでいた陽光が、流れの早い雲に遮られる――かと思えば、顔を覗かせたり。
 「天気が崩れる前に再開した方が良さそうね」誰に向けたものでもない呟き。
 三分の一ほど残ったパンを一気に口へ放り、ミネラルウォーターで流し込んで簡単過ぎる昼食を終わらせる。
 立ち上がり、自分の通って来た道を振り返った。
 誰もいない景色を記憶に焼き付けてから前を向いた。
 それから二度と振り返ることはなかった。

 この一週間の間で、芽依と芽依を取り巻く環境は大きく変わっていた。
 最も大きな変化は、学校には登校しなくなったことだ。
 日中を”力の宝珠”探索に割り当て、夕暮れと共にギリアムと合流して情報共有。探索済みの地域を地図で確認し、ボールペンで黒く塗りつぶしては、次の場所を定めていく。
 歩ける場所は日中に。歩けない場所は変身してから。ルールはシンプルだった。
 待ち合わせ場所は、いつもの公園のいつものベンチ。芽依は日通し歩いてずっしり重くなった足を休めつつ、異形の相棒パートナーが現れるのを待っていた。
 日没から急に冷え込んでいた。吐く息は僅かに白い。
 ぽつり、ぽつりと、空がぐずり出した。
 天気予報通りだったが、思いの外、雨粒が大きかった。素直に雨傘を差すべきところだったが、生憎と徒歩の邪魔になるものは持ち歩いていない。
 芽依は早々に割り切って、髪を濡らすことにした。
 じっとその場を動かず、瞳を閉じ、ひたすら感覚を研ぎ澄ませた。
 ふと五感と直感の間に位置する違和感/真綿で背骨の芯を撫でるような。
 刺激の少なさが、命に関わる代物ではないと教えてくれた。
 (・・・・・・来たわね)
 それは足音も立てず迫り、突如として止まる。ちょうど背後の植え込み辺りだ。
 すぐに強烈な視線。こちらは先の感覚より遙かに分かり易い。直感通り、変態蛙あいぼうのご到着だった。
 「覗きとは悪趣味ね」
 芽依は振り向きもせず、茂みに揶揄を刺し込んだ。
 ぎょうぇ――と、悲鳴代わりの奇声。
 <なンで分かった? 俺の《隠蔽ハイド》は完璧だったはずだ。生身で気付けるはず――、いや待てよ。こいつは異世界アナザーの出現すら感知したんだ。そういう特別な触覚でも隠し持ってやがんのか?>
 生け垣をかき分け、姿を現す覗きギリアム
 ぶつぶつと某か漏らす様から、先の一言は驚きの声だと知れたので、芽依は頭の中で編纂へんさん中である『ギリアム語彙手帖』に書き留めておくことにした。
 記憶と紐付ける索引インデックスは『精霊』『奇声』『気持ち悪い』だ。
 これで次は何のことかコンマ一秒以内に思い出せるだろう。実に無為ではあるのだが。
 「ただの当てずっぽう。実は、暇だったからさっきから定期的に辺りに話しかけていたの。貴方、時間はちゃんと守るから、いつか当たると思ってた」しれっと嘘。
 フォローの裏には相棒パートナーへの配慮――があるはずもない。単に時間の節約だった。ギリアムは無駄にプライドが高いので拗らせないよう注意を払ったに過ぎなかった。
 <それがこんなクソ寒いところで雨に濡れながらやる人間のすることか? どんだけ暇なんだ、俺の相棒パートナー様は>
 「そうね。私に比べたら、日中を他人の家で寝て過ごす精霊さんの方が、遙かに忙しいかも知れないわ」
 <呵々。体力温存は戦略だぞ。がつがつやるのも結構だがな、お前もちっとは俺を見習った方がいい>
 「そう、なら人様の食料を無断で喰い漁ることも、精霊流の『戦略』ということ?」
 <いいや、拝借する前はちゃんと断りを入れているね。“お恵みに感謝いたします、我らが神よ”ってな。グフフフ>悪い笑み/完全に悪役の顔。
 「なら、その神様に一つ懺悔しなくちゃいけないことがあるのだけど、今ここでいいかしら?」
 返事を待たずして、ベンチに腰掛けた芽依が向き直った。
 ギリアムを正面に、懇願の両手組み。切実な表情で、視線は上方に投げる。雨雲を突き抜け、そらを捉えるように。
 <・・・・・・何だ? 懺悔なんて最もお前から遠い言――>「神様。最近、やたら保存食がなくなってしまい、困り果てていました。ですので対策としてネズミ取り用のホウ酸団子を仕掛けさせて頂いた次第でございます」<――あン? ネズミ取り? ホウサン? 何のことだ?>
 芽依の唐突な変調に置いてけぼりとなったギリアムだが、キーワードは命に関わるので逃さなかった。
 高まる緊張を表すように、ぬらぬらと光る鮫肌が、ピクピク震えていた。
 この辺りは経験値というやつで、あながち見当違いでもない。
 というか、外れてくれた試しがない。“冷酷少女被害者の会”会長を自認するギリアムならではの直観であった。
 「ああ、神様。それは呼んで字の如く、ホウ酸入りの団子のことでございます。ホウ酸とは私たちの世界の薬品でございまして、摂取すれば体内でほぼ全量が吸収され、神経系に作用して、嘔吐、下痢などの諸症状を引き起こすのです。最寄りのドラッグストアで手軽に入手可能であるにも関わらず、致死量は成人でも僅か数十グラムという実に優れた劇薬にございますれば、悪行を行うネズミなど一網打尽間違いないと思われたのですが、不可抗力にて悪食な精霊が一匹、貴方様の身許へ送り届けられてしまうのを、何卒、何卒お許しください」
 芽依の語りを最後まで聞かず、ギリアムは口の奥に指を突っ込んでいた。
 思いっ切り突き刺し、せき込んでも突き刺し続けた。
 うぐぅおぇー、うぐぃおぇーと奇声を上げて胃の中で溶け出している物体を戻そうと、とにかく必死だった。
 その取り乱し様を存分に眺めた後で、芽依は言い放ったものだ。
 「ギリアム、嘘よ――」微笑、「――と、優しい嘘が欲しい?」苦笑。
 <お前の性格は歪みきっている!>
 滂沱ぼうだの涙の源泉が、苦しいからか悔しいからなのか。その歪んだ風貌からはイマイチ峻別しゅんべつ付かない。
 ならば後一押しくれてやろうか、と嗜虐心が脳裏を掠め、ぐるりと一周した後に思考の中核に堂々と座したが、これ以上、雨に濡れているのはそれこそ体に毒なので、退座させることにした。
 「冗談よ。そんな罠なんて仕掛けてない」
 <嘘だ! お前は嘘を付いている!>
 ギリアムは心底冗談であって欲しいと望む心を投げ捨ててまで糾弾した。
 「本当に本当。だって、これから仕掛けようと画策したのだもの」
 <に、人間かお前・・・・・・!>
 「ええ。唯の、何処にでもいる人間。だからこそ残虐なの。ああ、それともう一つ。食事が必要なら勝手に手をださず、まず私に相談なさい。経験はないのだけど、簡単なものだったら作ってあげられると思うわ。遠慮しないで、これでも私達は協力者よ」
 そのときギリアムの頬を、ほろりと流れ落ちる一筋の水滴。それは滴る雨水か、滂沱の残り物か。
 あるいは別の感情だったろうか? その死んだ魚を思わせる濁った瞳から、心の在りようを計れなかった。
 <メイ、お前――>
 「ぁ・・・・・・、でも困ったわね。確か蛙って生きた昆虫しか食べないのでしょ? こんな時期だし、新鮮な食材が捕まえられる場所はあるかしら?」
 <――お前の血は何色だぁぁぁ!>
 止めどなく溢れる怒りの涙が、ギリアムの頬を濡らした。

 公園で決闘装束デュエルドレスを纏った後、芽依は気配を殺して夜空をかける。
 目的地はホームグラウンド――小桜市北部にある山の中腹まで、自動車なら三十分は掛かるの道のりだが、今の芽依ならものの数分だった。
 あれほど煩わしかった降雨も妨げにならない。決闘装束デュエルドレスは、外部からの干渉を徹底的に排除する。雨風は言うまでもなく、熱も完全に遮断するので、暑さ寒さに煩わされることはない。
 肌を露出させた部位は衣服として顕現していないだけで、精霊力レイズは依然として全身を隈無く覆っていた。
 「始めるわ」
 いつもの修練所に到着して早々、芽依の時間が始まった。
 準備運動はギリアムから教わった初級演舞だ。
 直立――踏み込み、正拳。下段蹴り。摺り足。肘打ち。掌底打。裏拳。裏拳。
 旋回――首の捻り。手首の返し。絡め手。いなし。打ち下ろし。踏みつけ。
 停止――後ろ回し蹴り。前蹴り。前蹴り。踏み込み。左右の打拳。抜き手。
 跳躍――左旋回。右旋回。手刀。膝上げ。押し蹴り。跳び退り。
 転調――跳躍。胴回し回転蹴り。突き上げ。回し蹴り。正拳。飛び後回し蹴り。
 加速――水平足払い。鳩尾打。打ち下ろし。跳び蹴り。打ち上げ。
 加速――踏み込み。肘打。旋回。回し蹴り。縦拳。縦拳。後ろ回し蹴り。
 加速――左手受け。右手受け。膝受け。屈伸。右拳左拳右拳左拳。左拳――
 演舞は徐々に激しく、鋭さを増していく。百種以上もある組み手が、流れるように繰り返されていった。
 一方のギリアムはと言えば、石塊に胡座あぐらをかいてその様子を眺めていた。
 ギリアムから見た芽依は、実に教え甲斐のない生徒だった。どんな指示であれ黙々とこなし、茶々を入れる隙を見せない。一度指摘された点は確実に修正する。当然、一度で完璧になるものもあれば、そうでないものもあったが、矯正しようという意思を常に感じさせた。
 ぎこちなくとも理想へ近付けているうちは口出しない――ギリアムは自分のポリシーに従い、外れる瞬間を待ったが、どれも完成される方が早かった。
 そうなると今度は絶対に外れたりしない。印象としては、自分の中にぶれないイメージがあって、そこに体を合わせているような、そんな雰囲気だ。
 不可解なのは、それは長い修行を経て習得するものであって、昨日今日に武術を学び始めた者の在り方ではなかった。
 何度目かになるか分からない所感だが、漏らさずにはいられなかった。
 <なあ、お前さんよ。本っ――当に、何か武技の経験はないのか?>
 「・・・・・・ええ。こちらの世界では、習っている人間の方が珍しいわね」
 芽依は体を動かしながら答える。
 <俺たち精霊はな、大方が合理的な思想を持っている。だから武術にも実際的なものが多くてな、型を学ぶ演舞にすら敵の動きが組み込まれているのが、まぁ普通だ>
 「それで・・・・・・?」
 <だから高位武芸者ともなれば、独りで敵をも表現して見せる。それを《実影シャドウ》というんだが――>
 まるで理解不能であるといったギリアム。
 <――何故、素人の動きに《実影シャドウ》が見えるんだろうな?>
 「それはある意味で当然ね。私は今、敵と戦っている」
 例えば他の誰にも視認できない、自分にだけ見える像があるとする。
 それは単なる幻想イメージに過ぎないが、もし自分の動きに合わせて動かすことができるなら、自然と動きに現実感リアリティが生まれるだろう。
 ただ、どれだけ現実感リアリティがあっても、決して現実リアルにはならない。
 現実とは、実感の多寡によって支えられているものだからだ。
 逆をいえば、触感まで再現された幻想は、それはもう現実と同義だ。
 ギリアムが訝しがるのも無理もない。記憶と精霊力レイズの応用で擬似戦闘シミュレーションが実現可能だとは、思いもしないだろう。
 精霊力レイズの特性は、人のイメージを形にすることだが、もう一つ重要な概念を包含している。イメージを添加された精霊力レイズは、実際の動きが伴わなくとも現実を侵すのだ。
 例えば、針で手を突き刺す経験イメージがあったとする。そのときのイメージを針を手にしていない状態で適用したなら、実際に針で突き刺したのと同じ効果が得られる。プラシーボ効果で得られる幻痛ではなく、実体としての被害ダメージが生じる。
 つまり、目の前にもう一人の自分がいて、突き出される拳の速さと重さが真だと思えるなら、それは本物で、現実の痛みとなり得る。
 ただし、口にするのは簡単だが、実際は文字通り現実的ではない。
 人間のイメージというやつは、とかく曖昧だ。殴る/殴られる感触を思い出せと言われて、実際に想像できる人間がいるだろうか?
 傷口は塞がる。記憶は痛みを劣化させていく。人間誰しも、血を流したままでは生きていけないのだ。
 そもそも、過去の経験が、今必要とされる像に都合良く当てはまるとも限らない。
 確実に再現しようと思うなら、実際に拳を繰り返し交わすしかない。それこそ感触が体に染み着くまで。
 シミュレーションの本質はあくまで『経験の後追い』に過ぎない。過去を元にした未来の予測図である以上、精霊力レイズで表現しようとする試みは本末転倒である。
 ところが何事にも例外はある。例えば、芽依の《記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ》だ。
 《記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ》は記憶の探索を可能にした。視覚を含めて、経験時の感覚を復元することが、それほど難しい作業ではなかった。
 通常、肉体を伴わないイメージの影響は微々たるものだ。
 運動競技をする者なら誰でも苦い思い出があるだろうが、幾ら強く思い描いたところで、結果には殆ど影響しない。想像するだけ現実に勝てるなら誰も苦労しないだろう。
 技術とは、体が正解を覚えることで初めて形成される肉体表現のことだ。
 要するに経験と肉体とは不可分の関係にあるわけだが、精霊力レイズは違う。
 精霊力レイズによって発生する事象には、必ずしも肉体の追従は必要ない。極論、想像できるなら肉体すら不要である。
 《記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ》は、曖昧な人間のイメージを補完する強力な実現環境プラットフォームなのだ。
 ただし、幾ら優れた機能であっても、体験内容コンテンツが揃わなくては本領発揮とはいかない。ギリアム相手では簡単な組み手すら実践できないし、他の人間に決闘装束デュエルドレスを見せるわけにもいかない。個人では簡単に解決できない問題のはずだった。
 だが芽依はそれすら克服した。芽依は『一人』であっても『独り』ではなかった。
 ――芽~依~。やられ役そろそろ飽きたよ~。
 胸の奥の、どこか遠いところから届く不満の声。
 「お願い、もう少しだけ付き合って」
 なだめすかすように、芽依は呟く。
 <ぶえぁ!? ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃんと見てるぞ!? 別にクソ寒いとか、腹減ったとか、ぜんぜんそんなこと考えてないんだからなッ!>
 釣られたのは巨大蛙だった。気色の悪い動揺に、芽依の手足がはたと止まる。
 「・・・・・・安心して。その点では、まったく、ちっとも期待してないから」
 汗で張り付く前髪をさっと掻き上げ、冷然と一太刀浴びせる。
 <ははン? 素直に言えばいいものを。一人の戦士として見てる、とな>
 ぷくぅと頬を膨らませ照れてみせるギリアム。
 「“独りの戦死”? まぁ、何処か私の目の届かないところで勝手にやってくれる分には一向に構わないけど・・・・・・」ほっそりとした顎に指を添えて思案顔。
 ギリアムはすかしたポーズで指さした。
 <照れるなよ、相棒パートナー
 ポカンと馬鹿みたいに開いた口――フェイスヴェールが無ければ、うっかり間抜け面を晒していたところだ。
 次いで、ぷちぷちぷちと、音を立てて途切れる集中力。
 にわかに、体が自分のモノでない異物へと変貌した。
 悲鳴を上げ、全身へ狂ったように血液を送り続ける心臓。
 乳酸が限界まで蓄積した手足は鉛よりなお重く、汗腺が壊れたかと思うほどに大玉の汗が噴き出した。
 自分の、そして人間の限界を越えた力の対価は、負債となって重くのし掛かる。
 全身を、凶熱が焦がした。あれだけ煩わしかった雨に恋い焦がれた。
 掌を返してみるが、雨粒は決闘装束デュエルドレスに弾かれる。
 何事もままならないものだと諦め、思考を切り替えて息を整える。
 「そういえば新しく技術再現モノマネできるようになったの、見て貰えるかしら」
 <何だと?>
 芽依はギリアムに戦力を期待していない。仮に期待するものがあるとしたら、それはもっぱら観衆/監修としての役割だ。
 エーデルワイスが可能にする《超高速錬成クイックドロウ》をどう活かすか。自分の強みと弱み。基本武術と精霊力レイズの補完。新たな方向性の模索。研究すべき課題は山ほどある。
 理論上は無限に考えられる選択の中で最善を取るには、ふるいにかける必要がある。
 良きにしろ悪しきにしろ、異論と批評に晒されても色褪せないなら、それなりの妥当性が保証されるのだ。例えギリアムの見識が理屈の肉付けでしかないとしても、使えるものは余さず使う、それが黒岩芽依の主義だった。
 芽依は腰に付けたポシェットに指を突っ込み、銀色の球を一つ取り出す。ネオアンガーから取り出し、中央制御核セントラルコアから生成したものと同じ、精霊力レイズの結晶だ。
 芽依は奇跡のトリガーとなる銀色の球に《霊子球ランプ》と名付けていた。
 精霊力レイズlumpであり、エーデルワイスに光を灯す(lamp)もの。だから霊子球ランプという訳だ。これは御伽噺にある『願いを叶える魔法のランプ』という意味でも語感と合う。
 芽依は霊子球ランプの生成技術を収得している。ただし、奇跡のタネというだけあって、効率はよろしくない。何せ、霊子球ランプを作るのにはエーデルワイスが必要で、エーデルワイスを発動させるに霊子球ランプが必要なのだ。
 現状、プラスマイナス0に近しいため、純度の高い素材がない限りは備蓄ストックできずにいた。
 一応、自力のみでも可能なのだが、時間が掛かり過ぎるので一晩に一つが限度。おまけに品質もまばら。ネオアンガーから回収した方がよほど効率的だった。
 何もない空間からエーデルワイスを呼び出すと、くすんだ色の霊子球ランプ石嵌器セッターに押し込め、願いを込めた。
 (さぁ、みんな集まりなさい。悪戯の時間よ、うんと驚かせてあげて)
 霊子球ランプが深緑の輝きを放った。芽依の右腕に産毛をくすぐるような感触。肌の表面に滞留する静電気が、一斉に踊り出していた。
 腕の中では、生まれたての電子が早速暴れ回っていた。
 意識を指先に集中すると、同調した電子が指先に押し込まれる。その中心を目掛け、手玉イメージを突く。
 中核となる電子が盛大に弾けた(ブレイクショット)。
 次々と素粒子同士が弾き飛ば(キスショット)し、芽依の指先から次々と零れ出す(ポケット)。
 きん――と、乾いた残響。
 ギリアムの眼前で、二股に分かれた大電流が、燦然さんぜんと背後の木々を焼き払っていた。
 雨の染みたはずの枝葉に炎が灯り、闇を揺らす。後から思い出したように白煙が上がり、炭化した組織が雨に打たれて崩れ落ちた。
 悪戯を通り越して暴虐とも呼ぶべき一撃だった。しかし、ギリアムは芽依の放った雷撃そのものに驚きを禁じ得ない。
 <おいおい、まさかあの赤のジュエリストに続いて、あの緑の娘っ子の技も盗んだのか?>
 「ええ。仮に《電子制御エレクトロン》とでも呼ぶけど、これは精霊力レイズで電子を生成・制御する技術。もっとも、今のは一番原始的な利用法で、あの子の使い方はもっと高度よ。生成した電子を放出するのではなく、手足に滞留させて、攻撃力の増強や効果範囲を拡大させてる。
 それと、再現してみて分かったのだけど、この間彼女が見せた超高速連撃は、自分の神経系に微弱な電流を流し込んでいるようね。電気的な刺激を脊髄反射運動に組み込むことで、通常より遙かに速く拳を繰り出せた。電気に耐性があるにせよ、その発想には恐れ入るわ。欠点を挙げるなら、想像力イマジネーションを削ぎ落としている分、攻撃パターンが単調になる点と、多用すると人間が壊れるリスクを抱えることかしら?
 いずれにせよ、彼女の能力はルビーの《分子運動制御モルモーション》と並んで応用範囲がとんでもなく広いわ。例えば電子が制御できるなら、理論上、磁力も制御できるはずよ。そうなると、表皮効果を中和することも夢じゃない。電力供給はクリアされているようなものだから、もしかすると彼女、タングステンの塊を超音速で飛ばせるかもしれない。はは、笑うしかないわね。SFも驚きの、人体ミニレールガンって」
 <はン? れぇーるがん? 何だそりゃ、食えるのか?>
 知的好奇心から説明に力が入るも、肝心の受け手は心底興味なさそうだった。仕方がないので、芽依は少し興味が湧きそうな話題を滲ますことにした。
 「ええ、そう。アナタの口内に撃ち込めば、ざっと一万回は殺せる破壊力がある。でも初速を追求すると他にも課題の多い技術だから、使い手により繊細な制御が求め――あ、そういえば成功して良かった。初めてまともに制――っと、これは私だけの秘密だったわね。忘れて頂戴」
 <・・・・・・待て待て何の冗談だ? そんな不完全ものを俺に向けて撃ちやがったのか、このトンチキ娘>
 「ええ。当然、冗談」真顔で応答。
 <どう都合よく考えても冗談で笑い飛ばせないのがお前の凄い所だよッ!>
 口角泡を飛ばすギリアムから、芽依はスッと視線をずらした。
 「――良かった。何とか誤魔化せたみたい。うっかり百回は『焼き蛙』にしちゃうところだなんて、言えるはずがないわ。ダメダメ。間違ってもそんなこと口にしたら嫌われちゃう。気を付けないと」
 「おい、戯れ言はせめて心の中で呟きやがれ。そして心にも無いことを言うんじゃねぇ。“嫌われちゃう”だぁ? お前がそんな可愛げのあるタマか!」
 「ごめんなさい。またまた口が滑ったわ。おくちチャック、ギギギノギ」
 <・・・・・・お前さん、実は疲れてるだろ? そろそろ休憩にしとけ>
 やれやれと両手を広げ、くびれのない首を振る蛙。
 「・・・・・・そうかも知れないわね」
 ――疲れている。
 当然だ。あれだけ激しく動いておいて疲れなかったら、それこそ人間ではない。
 それに一時の体力を消耗しただけでもない。こうして早朝から深夜まで動きっぱなしで、止まっている時間の方が短いくらいだ。疲労は常に溜まり続けている。
 そのせいか、体調が変化していた。元々、体力がある方ではなく、不足分はいつも精神力で補ってきた芽依だったが、最近は明らかに疲れやすくなっていた。
 だが立ち止まることはできない。失われたものに報いるためには、力が必要なのだ。立ち塞がる理不尽をねじ伏せるだけの力が。それをこの一週間で思い知らされた。
 だからこそ止まれない。その時になって慌てぬよう、ああしとけば良かったと悔やまぬよう、今できる最大限のことをするのだ。
 芽依はギリアムから十分離れた位置で、無造作に腰を下ろした。
 精霊力レイズで編み込まれた衣服には泥が付着しないので、どこに座ろうと大差ない。抵抗感さえ取り払えば、水溜まりの中で寝っ転がっても何ら問題ない。
 雨は変わらず降り続いていた。
 雨粒は傘を差していても鬱々としそうな重さだったが、これも決闘装束デュエルドレスに阻まれ、髪の毛一本たりとも濡らすことはない。
 目を伏せ、上がりっぱなしの心拍が落ち着くよう深呼吸を繰り返した。
 本能的に忌避するはずの暗闇が、今はとても心地よく感じられた。
 安心感の源泉は、決闘装束デュエルドレスという絶対的な障壁と、副産物として強化された五感の拡大にあった。しかし、今はそれだけではない。これまでと決定的に異なる変化があった。
 芽依は視覚的に捉える闇に、恐怖を感じにくくなっていた。より身近に潜む、より大きな恐怖が、感覚を狂わせるのだ。
 『疲れやすさ』と並んで芽依を苛むもの、それは《現実追体験シミュレーション》によって、幻想を現実に作り替えた副作用だった。
 人間の想像力は、縁の不確かな絵のようなもので、簡単に膨らんだり凹んだり、鮮やかに色づいたと思えば灰色に早変わりする。
 意識の裏には、常に不確かな感情がある。どれだけ純粋に願ったところで完全にはなりえない。それが近似値や極限で表現される形而上の値であったとしても。
 ズズズズズ――と這いだす不浄な気配/“黒い衝動”
 これまで感覚的に捉えていたそれは、肉を得ていた。幻覚でも錯覚でもない。ネオアンガーとよく似た、黒く、無形の半固体ゾルの腐肉。
 芽依の薄い体を抱き抱えるように取り巻き、細い顎を撫でた。
 途端に背筋を駆け上る悪寒。心臓が、見えざる手で鷲掴みにされたかのように収縮し、激しい動悸に襲われる。
 叫び声をあげまいと、必死に耐えた。責め苦に独り身悶える芽依を、『黒い衝動』は嘲笑うかの如く蠢く。
 無数の蛞蝓ナメクジが一斉に肌を伝うかのような感覚に、全身の皮膚が粟立った。
 このまま蹂躙され続けたなら、間違いなく発狂していたことだろう。
 「調子に、乗るな・・・・・・!」
 そうなる前に芽依は自らの腕に爪を深く突き立てた。皮膚はおろか、筋肉までむしり取るような強さだった。
 痛みが、不快な感触を遠ざけたが、まだ足りない。もっと強い痛みが、一つの衝動をねじ伏せるだけの強い感情が必要だった。
 芽依はエーデルワイスを逆さに握り込み、自らの額を打ち付けた。
 ゴン! と、前頭骨が鳴らした鈍い音/鋭い痛み。
 それでも足りない。これでも消えない。
 ゴンゴンゴンゴン! 芽依は狂ったように何度も打ち付けた。
 ついには額が割れて血が飛沫を上げた。それでようやく『黒い衝動』も諦めたのか、名残惜しそうに頬を一撫でして消えた。
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・・・!」
 切れ切れとなった息を繋げる間にも、芽依は恐る恐る振り返り、ギリアムの様子を確かめる。
 こんなキチガイじみた場面を見られたらお終いだった。終わって困るような”何か”が両者の間にあるとは思えなかったが、とにかく隠しておくべきだと判断していた。
 果たして、芽依の心配は杞憂に終わる。少し離れた位置で、ギリアムは阿波踊りを踊っていた。少なくとも、芽依にはそうとしか見えなかった。
 演舞の手本が盆踊りに見えたのだから、あるいは修練の一環やも知れないが。
 恐らく雨に打たれてテンションが上がってしまったのだろう。両生類だけに。
 そう結論づけると、雨天の下で乾いた笑みが漏れた。おかしな話だが、沈みきって地べたを這いずるような気分に、少しだけ晴れ間が覗いていた。
 湧いて出た不浄な気配が完全に収まるのを待って、芽依は腰のポーチから霊子球ランプを取り出した。
 掌には銀の球が二つ、そして灰色がかった白球が一つ。
 どれも芽依が生成したものだが、白い球だけは元となる素材があった。
 素材=報酬=眼球――カーウェイン=ストレイマンの伝える真実。
 白球をエーデルワイスの柄にはめ込み、瞳を閉じた。
 瞼の裏側に、もう何度目になるか分からない映像が映された。
 映し出された動画は、まるで消音ミュートしたテレビだった。
 カーウェインの立っている場所は、ショッピングモールに隣接するビルの屋上。
 見下ろした街は色彩を失っていた。それで異世界アナザーの中だと知れる。それでなくとも、遠くの空に激しく瞬く輝きが知らしめた。
 赤、青、緑、白。異世界アナザーでも鮮やかな光。あのとき待ち望んだ希望の光。
 ところどころ途切れる映像。
 瞬き、あるいは瞑目。見る価値を感じないのか。見なくとも分かることなのか。
 唐突に映像が回転する。カーウェインが首を回したのだ。
 視線の先にある小さな光は徐々に大きくなり、金色の輝きを纏った少女になった。
 カーウェインのすぐ近くを高速で飛び抜ける。視線が追いかける。
 ショッピングモール上空で止まる。その動きを見逃すまいと強く焦点が絞られる。
 映像は大きく、細かく揺れ、吐き気を誘った。人間は無意識のうちに頭部を揺らし、視線を彷徨わせている。他人に付いて行けるはずもない。
 金色の少女は、次々と金色の剣を生成しては放った。その都度ネオアンガーは消え、周囲を取り巻くグールが巻き添えになって倒れ伏した。
 あのとき見た光景の再現に、拍数が上がった。
 そして、その瞬間が訪れる。少女がモールの屋上を目掛け、金色の剣を放った。
 立ち上る白煙。そこに意識を失った自分がいる。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
 “立ち上がれ、立ち上がれ”と、既に確定された過去じぶんに訴えた。
 映像は続く。空に浮かんだ金色の少女は何を思ったのか、周囲に展開させていた剣を集めた。そして、弾倉マガジンを装填するように、新たな剣を放出する。
 一度の生成で合計十二本。生成と展開を繰り返し、総数が百八本となった。
 ビルの屋上から見たそれは、少女を中心とした時計板だ。剣の一本一本が放つ輝きが増すと、まるで空に浮かぶ巨大なシャンデリアを思わせる。
 この時点で、彼女が一体何を意図しているかは定かではない。辺りには敵らしい敵も見当たらない。これから起こることだけが明白だった。
 破壊される。それも徹底的に。網膜に焼き付きそうな光量は、それだけが目的としか思えなかった。
 ふと、少女が後ろを振り返る。
 何故か、遠く離れた少女と視線が噛み合った気がした。
 如何にジュエリストの視力でも、表情まで捉えるような距離ではない。それにカーウェインの死人のごとき存在感に気付くはずがなかった。
 一体、何に気を留めたのか? そんな些細な疑問を置き去りにして、状況は動く。
 芽依は心動かされぬよう、気構えた。
 少女がすっと手を挙げ、振り下ろす。号令に追従し、金色の剣が、驟雨のごとく降り注いだ。
 芽依もその場で意識があれば、きっと”本当の破壊”というものが、一体どんな音をしているか耳にしたことだろう。
 だが、一ミリもブレることのない映像からは、爆撃もかくやという衝撃でさえ正しく伝わらない。耳朶を打つことのない、肌や喉を焼くことのない空気感が、こんなにも現実感リアリティに欠けたものなのだとは知らなかった。
 それでも、その映像は不足する恐怖を補ってなお有り余る。あんなものを受けて生きているなんて奇跡だ。
 (・・・・・・やはり目覚めた場所がテラスだったのは、崩落に巻き込まれせい?)
 虫の息でも、生きてさえいれば、あの異世界アナザーから生還する目算は立つ。
 屋上にいた芽依が運良く生き残り、屋内にいた家族は運悪く死んだ。
 冷静になって考えれば考えるほど驚異的な悪運。だが芽依にその実感は乏しい。
 肝心な部分を覚えていないというのも大きいが、この映像/現実に違和感があった。
 決闘装束デュエルドレスを纏い、決闘装束デュエルドレスを纏う者たちの戦いを目にして来たからこその直感が囁くのだ。
 もっと人が死んでる、と。
 ショッピングモールは立ちこめる白煙に包まれ、すぐに見えなくなった。
 映像はそこでぶつりと途切れ、それ以上再生されることはなかった。
 ただ続きを見るまでもなく状況は知れた。瓦礫以外、恐らく何も残っていなかったことだろう。
 だからこそ、もっと人死にが出ているべきだった。例え剣が直撃しなかったとしても、崩落に巻き込まれれば即死は免れない。
 (私の家族が即死で、その他大勢は重体となるも、この直後に異世界アナザーが破壊され一命を取り留める?)
 あの事件で、原因不明の突然死を迎えた人間の数は公表されていない。だが、前提が変わらない限り、考えられるシナリオはこうなるだろう。だが芽依は自分の幸運を疑うし、他人の不幸を疑わない。
 果たして、そんなことがあり得るのか?
 懐疑シナリオの支点は、事件に際し、警察が情報規制している可能性だ。
 被害者の数を公表していないということは、穿った見方をすれば”公表できない”とも読み取れる。何十人、下手したら三桁に昇る市民が、市内の人気スポットで原因不明の急逝きゅうせいを遂げたとなれば、市内外を問わずパニックは必至。原因が究明されるまで情報を遮断するのは妥当な措置だ。
 実は預かり知らぬところで、もっと大勢の人間が死んでいた。これだと一応の筋が通ってしまう。別に見知らぬ誰かに死んでいて欲しかった訳ではない。ただ、運の良し悪しで生者と死者の立ち位置が百八十度変わってしまう運命に、立っていた位置で生者と死者が決まる命というものに、芽依は言葉にならないわだかまりを覚えていただけだった。
 幾ら考えても答えは出なかった。もう一度だけ映像を見ようとしたが、霊子球ランプがどうしようもなく黒ずんでいることに気付き、芽依は溜め息を漏らす。
 <・・・・・・おい、いつまで休憩を――ん? 何してんだお前>
 横から投げかけられる酷い濁声に、芽依は溜め息をもう一つ重ねる。
 「見て分かるでしょ。霊子球ランプの習作よ」
 もう当たり前のように偽ると、黒ずんだ白球/カーウェインの元眼球をエーデルワイスから排出/握り潰して証拠隠滅。
 (・・・・・・あとはもう、本人に聞くしかない)
 こぼれ落ちそうになる感情を無理矢理割り切って、芽依は立ち上がった。長く休み過ぎたせいか、軽くふらついた。
 <なぁ、メイ。お前、俺に何か隠していないか?>
 ギリアムが不思議な表情をして問いかけて来た。歪みきった顔を引き締め――たところで、やはり締まりのない顔だったが、真剣であることは気配で伝わった。
 「・・・・・・何か、とは?」
 <何かは何かだ。お前さんときたら、自分のことをまったく話さないからな。正直よく分からン。だが、誰かに話すことで解消することも・・・・・・まぁ、あるかもな。だから、その、何だ。俺で良かったら――>
 言い掛けて口を固まらせるギリアム。
 <――おい。精霊の善意を無碍にするなンぞ、失礼にも程があるぞ>
 芽依が笑っていた。クスクスと、小さく。
 「失礼。ごめんなさい。謝るわ」
 芽依は笑い声と同じくらい小さな謝意を伝え、また笑った。
 <クソ、心配して損した。お前の心は宝石より頑丈だって忘れてたぜ>
 「ギリアム、気にしないで。私たち初めからお互いの心配をするような間柄じゃない。私はアナタの目的が遂げられるよう努力をする。アナタは私の目的が遂げられるよう必要な情報を提供する。お互い目的がすべて。そうでしょ?」
 <はン。そういやそうだな>
 今まで一番自然な笑みを見せる芽依に、ギリアムは呆れ、大きく息を吐く。
 <メイ、そろそろお前に伝えておくことがある。主に俺自身のことだが、お前も無関係じゃない>
 芽依が返事を返すまで間があった。
 芽依は二つの気配の変化を捉えていた。一つは相棒パートナーの真摯な気配。
 そして、もう一つは――、
 「・・・・・・そうね、戻ってきたら聞かせて貰えるかしら」
 <戻ってきたら?>
 「来るわ」
 言うやいなや、異世界アナザーの圧倒的な存在感が、颶風ぐふうとなって一人と一匹を打ち付けた。

 <・・・・・・またか。このところ毎晩だな>
 「ええ、それに小さく限定的なのも同じ。これまでの実績から鑑みるに、あと十分程度で彼女たちが集合、三十分以内に叩き潰すでしょうね」
 芽依は経験則を述べつつ、記憶から探索済み領域を引っ張り出す。異世界アナザーの出現ポイントと照合すると、小さく舌打ちしていた。
 <大した時間は無いな。どうだ、巧いこと回れそうか?>
 異世界アナザーの出現位置が分かっても、ギリアムには土地勘が無い。よって芽依に判断が委ねられていた。
 「微妙ね。未探索領域と被ってる。他の場所に向かうにも位置が離れすぎてるから、ここに戻って来づらい」
 日中の探索は芽依の好きな場所を選択できるが、変身した状態で探し回るとなるとそうもいかなかった。
 まず大前提として他のジュエリストと接触する訳にはいかない。
 その背景には、“力の宝珠”を秘密裏に持ち帰りたいというギリアムの意向もあるが、芽依としても、無闇に存在を知られるのは避けたかった。敵として戦う可能性がある以上、正体を知られたり、手の内を晒すのは愚の骨頂というものだろう。
 効率と安全を求めるなら、彼女たちが異世界アナザーに突入後、いつ異世界アナザーが崩壊しても問題ない程度に離れた位置で探索するのが最適だ。
 ただ、そうそう都合の良い位置にあちらが出現してくれるわけがない。発生が完全にランダムである以上、マッピングの進捗と共にこうして攻めあぐねる機会が増えるのは自明だった。
 「この雨も邪魔ね。細やかな気配の変化は掴み難くなる。思い切って方針を変えた方が無難かも知れない。今夜は彼女たちを観察しつつ状況を探り、中央制御核セントラルコアの討滅が見えたら即時撤退。どうかしら?」
 研ぎたての刃物を思わせる芽依の双眸が、いつになく危険な色をしていることにギリアムは気付く。
 <いいだろう。ただし俺も連れて行け。それが条件だ>
 芽依は首肯して同意を示し、静かにその時を待った。
 三分五秒後、異世界アナザーの発生地点へ一直線に接近する気配。
 (この感じ――あのエメラルドに輝く子ね)
 遅れること約一分半、別の気配。それから大きく開きがあって二つの気配がゆっくりと動き出す。最後は決まってあの金色に輝く少女のものだった。
 異世界アナザーの発生から八分五十八秒、五つの気配が揃う。
 それは芽依にとっては長すぎる時間だった。
 彼女たちにも、それぞれで生活、それぞれのタイミングというものがあるだろう。安心かつ安全に変身できる場所の確保も必要だし、精霊との連携が万全でない可能性もある。それでも芽依の納得できるレベルではない。諸所の事情がどうあれ、発生地は小桜市内に限定されているのだ。決闘装束デュエルドレスの性能があれば三分で十分なはずだ。
 だが、仲間が増えればそれだけ行動に余計な時間が掛かる。危険を減らし、確実性を高める意味でも戦力が整うのを待つのは正しい判断――そう頭では判っているのに、芽依は憤りを覚える。
 ――彼女たちが数分早く行動していたら、家族を失わずに済んだだろうか?
 可能性が頭をよぎる。
 運命は変わらなかったかも知れない。最速・最善を尽くしたところでついえる定めだったのかも分からない。そんなことは誰にも分かるはずが無い。それなのに、有り得ない”もし”を考えてしまう。
 やがて五つの気配が異世界アナザーの中に消えた。同時に芽依は立ち上がる。
 「出るわ」
 吐き出す言葉に苛立ちめいた色。
 ギリアムがえっちらおっちらトートバッグに収まると、それを小脇に抱え、雨空に立ち向かうようにして飛び立つ。静かに燃え立つ感情に背中を押され、いつもより高く飛び上がっていた。

 「酷いものね」
 芽依の苦々しい口調。思わず口に出してしまうほどの、直視するのが苦痛になる、想像を絶する戦いが繰り広げられていた。
 <・・・・・・まぁ、そうだな>
 芽依の傍らにはギリアム。モデルのようなキザったらしいポーズで立ち、腫れぼったい瞼を閉じて、眼下から視線を逸らした。
 住宅街に散発的立つ高層マンション、その一つの屋上から地上を俯瞰する一人と一匹は口調を揃えた。それほどに見るに耐えないものがそこにあった。
 これが血と傷の、死闘に次ぐ死闘が繰り広げる、凄惨な戦場だったら、恐らく両者は声も無く直視していたに違いない。それを一言で切って捨てるということは、それなりだということだ。
 芽依が見ていた戦場はこの一週間で、最も酷い戦いっぷりだった。
 そう広くもない領域を、彼女たちは一団となって動いていた。間欠的に湧いて出るネオアンガーを排除し、次の場所へ移動という一連の作業を繰り返していた。
 散開して個別に対処すれば一瞬で終わるような戦いを、あえてゆっくりと、全員で対応しているように思えた。
 すぐに印象が真実であると判明する。
 微動だにせず闇に溶けて気配を殺す芽依のすぐ直下で、攻防が始まった。
 彼女達が遊んでいるのは確実だった。動きにキレがない。気迫もない。明らかに手を抜いており、真剣さの欠片も見られない。
 いつか戦場で出会ったあの二人が、ゲームであることをほのめかしたことを思い出さずにはいられなかった。
 結論、朱に交われば赤くなる。ルビーとサファイアの二人だけでなく、他の三人も同類・同族に過ぎないということだ。
 <このところ、連日連夜の対応だ。彼女達も調子が悪いのかもな>
 ギリアムは暗に少女たちを庇うが、芽依の落とした視線は冷ややかだ。
 「関係ないわね。調子が悪いなら、悪いなりのやり方がある」腕組みしながら指さす「作戦があるようには見えない。誰かの指揮が執られている風でもない。相変わらず、個々が集まって気ままに暴れ回っているだけ。あれでは集まっている意味がない」
 あらかたネオアンガーの掃討が完了し、少女らは新たな敵を求めて移動を開始した。
 芽依は黙然と立ったまま、追いかける素振りを見せない。ギリアムが訝しげに見上げた。
 <追わンのか?>
 「ええ、もう十分。中央制御核セントラルコアと遭遇するまではここで待機する」
 芽依は給水棟に寄りかかり、体を預けた。戦いの後でもないのに、倦怠感が全身に重くのし掛かっていた。ギリアムに感づかれないよう、滑らかに口を動かす。
 「異世界アナザーに出現するネオアンガーの強さは、発生規模に比例すると考えられるけど、この程度では、彼女達が新しい能力を披露する必要性がない。あるいは連携が見られるかと思ったけど、期待外れだった」
 <俺なら雑魚相手だからこそ、新しいことを試そうと思うがな>
 「同感ね。覚えた技は、実践での熟練度を上げておかないと、いざというときに使い物にならない」
 <なら、これから見せる可能性だってあるだろうが>
 「その前提条件は”新しい何かがあるなら”、よ。この余裕がある状況で使わないなら、それは上達する必要がないのでしょう。練習すら不要な小技ならどうでもいいし、完璧に習得した大技ならいざという場面でしか見せないはず」
 <そりゃ、お前はそうかも分からンが・・・・・・>
 芽依の大胆な予測に、ギリアムはどうも納得いかない様子だ。唸る巨大蛙に、芽依は鋭い視線を突き立てた。
 「ギリアム。一つ、確認しておくことがあるわ」
 <あン?>
 「例の”迷子探し”の件だけど、この頻度で異世界アナザーが出現すると、あと数日で小桜市全域が一通り探索し終える。その後は”犯人探し”に切り替える。それで良いはずよね?」
 <・・・・・・ああ。延々と探し回ってばかりも能がない。あちらが保持している可能性もあるが、そこは一度接触してみるしかないだろうさ>
 「場合によって、あの子達と戦うことになるけど、構わないかしら?」
 <それはこちらの台詞だ。以前にも忠告したがな、戦えば負けるぞ。良くて痛み分けだ>
 反論しかけた芽依に、ギリアムが畳みかける。
 <まず戦力比が違う。お前が彼女らと同等か、それ以上だったとしても五対一では勝ち目がない。お前が言うように、奇襲からの一対一を作れたとしても同じことだ。ジュエリスト同士が戦うとな、一瞬では決着が付かないンだよ。決闘装束デュエルドレスの性能はお前は良く知っているな? 攻撃はただでさえ通りにくい。その上に、対ジュエリストの場合、《同質抵抗現象リペリング》に邪魔される。
 これは精霊界の一般常識だが、純粋な精霊力レイズは互いに反発し合う原則的な性質がある。お前の考えでは、精霊力レイズがこの世界の法則を書き換えているらしいが、その説が正しいなら相手の攻撃はお前に届かない。その代わり、お前の攻撃も相手には届かない。ならば精霊力レイズそのものの排除を――といきたいが、それも不可能だ。決闘装束デュエルドレスは、聖刻を通じて体の全方位に放出される精霊力レイズの洪水みたいなもんだ。洪水に洪水をぶつけたところで剥ぎ取れやしないだろ。一瞬で勝負がつかないなら、最後には数がものを言う。お前は善戦をするだろうが、一人に手間取っている内に他のジュエリストたちに囲まれ、やられる。これが現実だ>
 久方ぶりとなるギリアムの長講を聞いた後は、黒板で爪を研いでしまったかのような気分になる。だが、そこに動揺や気落ちは含まれていない。同質抵抗現象リペリングなる効果は初耳であったが、一対一でも実力が及ばない可能性は折り込み済みだった。
 「ギリアム。少し訂正しておくわ。アナタがいうように、攻撃が通りにくいというのは事実だけど、痛いわよ、敵に斬られると。もの凄く」
 芽依は自分の愚直な物言いに自嘲せずにはいられない。
 「私たちの性能は人間の域を超越する。けど、それでも人間なのよ。弱いままの人間でしかない。そう――」
 一呼吸。
 「――私はか弱き少女なの」<それはない>
 自らの超反射的突っ込みに、はっとした直後、ギリアムは苦虫を噛んでおまけに舌の上で転がしたような表情。世界でも稀に見る、巨大蛙の渋面という珍景だった。
 「同質抵抗現象リペリングね。確かに厄介そうだけど、決闘装束デュエルドレスは絶対無敵というわけでもないのは、お互いしっかりと認識しておくべきね。ちなみに、私は結構あっさりと足の骨を折られたし、取り込まれて窒息しかけた。おまけに私の世界も侵食されてしまったから、案外――」
 そのとき芽依は何かの可能性に気付き、唇を閉ざす。
 「――何か、抜け道があるかも知れない。少し、考えさせて」
 言うなり、芽依はすっと目を伏せた。
 暗く、狭くなる視界。焦点を失ったように、意識が離れていく。
 世界が引き延ばされ、比例して遠くなる雨音。
 二つの瞳を閉じて、心のひだを一つ一つ丁寧に折り畳む。
 そして、世界からあらゆる雑音が消えた。
 無――闇すらない、空っぽの世界に想像/創造する無垢な白。突き抜けるような蒼。ただ在るように在る理想。純然たる心の形を表すもの。
 《記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ》の発現と共に、外界が入れ替わる。
 芽依は変容した世界に、またも異物を発見してしまう。
 記憶の象徴たる『泉』を取り巻くように広がった薄い緑の上に、何故かトリコロールカラーのリゾートパラソルが立てられていた。そして庇護を受けるようにアンティークの机と椅子が二脚。その一つに、芽依と同じ顔をした少女が座っていた。机に両肘を突いて、ほっそりとした両手で白い頬を包んでいた。
 少女は目線だけで着席を促す。芽依は勝手な改装に不快感を抱きながらも無言で着席。
 「また会いに来てくれて嬉しい。ふふ、こうしてしょっちゅう顔を合わせていると、なんだか恋人同士みたいだね」少女の可憐な微笑。
 「コンビニの店員、の間違いでしょ?」
 芽依は呆れ顔で突き放す。
 本来なら双子の姉妹の方と言った方がより正確な表現なのだろうが、芽依はそこまでの親近感を持ち合わせてはいない。幾ら似通っていたところで、彼女はどこまでも他人でしかない。そんな芽依の心中を察したように少女は言う。
 「家族は顔を合わせるのが普通で、他人のような感覚が無いのが当然。だったら、会えなくて胸が焦がれ、会えて胸が高鳴るなって恋人同士のことじゃない?」
 熱っぽい視線を交え、指先をくるくる回す少女のなんと可愛らしいことか。
 皮肉なことに、自分だったら絶対にできない仕草が、鏡写しの自分が自分でないと強く意識させる。あるいは、これが芽依とは”別人”であると主張した彼女ならではの演出なのだろう。アイデンティティが必要なのは、何も”黒岩芽依”だけではないのだから。
 「どちらかと言えば、片想いの類ね。しかも相手は気持ちにちっとも気付いてくれなくて最後まで報われずに恋破れるという筋書きが最初からぷんぷん漂う恋愛小説に出てきそうな」
 「がーん。せめて”親友”にしておけば良かった・・・・・・かな?」
 少女は大きく肩を落とし、おどけてみせる。
 芽依の冷ややかな語調が、本気の冗談だと理解しているからこそ、少女も屈託のない笑みを崩さない。削りだした黒曜石のように塗れて輝く瞳が、じっと芽依を見つめていた。
 「その表情かお、面白くない話が聞けそうだね」
 「ええ。悪い話しと、ちょっとした相談事。どちらも貴女にとっては面白くも何ともないでしょうね。まず約束した”力の宝珠”だけど、見つからない可能性が高くなってきた。約束を破ることになるかも知れないわ」
 芽依は端的に事実だけを告げた。その一切取り繕うことのない様は実に潔い。しかし、
 「なんてこと・・・・・・あたしを裏切るなんて! いい度胸だわ!」
 出し抜けに少女は立ち上がり、激高した。押し黙る芽依を見下ろし、
 「あなた、血を見たいのね? 覚悟はいいかしら?」冷然と。
 「こうなったら体で払って貰うしかないわね!」憤然と。
 「死より恐ろしき目に合わせてあげようぞ?」婉然と。
 態度と口調をころころ変えながら、連発される脅し文句。
 そよ風が通り過ぎたように、芽依は乱れた前髪をさっと梳いて整えた。
 「もういいかしら?」
 「え? ・・・・・・ぁ、えーと、えーと。あああ、『アンタ、バカぁ!?』」
 最後のは本気で良く分からなかった――が、遊びであることだけが良く分かる。最初から最後まで、本気で口にしている言葉は何一つない。
 さらりと流されたことで、少女も感づく。
 「何で分かっちゃったの?」
 「定型句の選択がイマイチね。それと、本気で怒った人間はもっと醜悪な顔をする。でも多分、貴女にそんな顔は似合わない。貴女は笑顔の方がずっと素敵」
 「・・・・・・あ、今ちょっと胸がキュンときた。略してちょいキュン」
 少女はときめきを閉じこめるように、胸の前で両手を組む。まるで夢見る乙女像そのものだ。現実でこんなことをやって許されるのは、宝生ひかりくらいだろう。
 「貴女、本当に私の記憶を共有しているの? こう言っては何だけど、もう少し似た性格をしていても良いような気がするのだけど・・・・・・」
 「こんな人格の自分は有り得ないって、そう思う?」
 「少なくとも、それは”黒岩芽依”ではないわね」
 少女は、ストンと椅子に腰を下ろし、ほっそりした顎に指を乗せて思考を巡らせる。その仕草は、芽依が時折見せるそれと瓜二つだった。
 「ふむ。では、ここで問題です。じゃじゃじゃんっ! もし肉体と精神に主従関係があるとするなら、どちらが”主”で、どちらが”従”でしょうか? シンキングタイムは三秒。三、二、一、――はい、タイムアップ。芽依の答えは『肉体が”主”である』でした」
 一呼吸空け、少女が語らい出す。
 「理由は、生まれてから成長の過程を考察すれば分かるわ」
 口調を真似されると、鏡の中の自分が勝手にしゃべり出しているような違和感。
 「普通、人間には心があって、自らの意思によって行動しているものと考えがちだけど、その根底には、誰しも自分があり、自分の意思で体を動かしているのだから、精神が主体となっているという直観が根付いている。“我思う、故に我あり”といった具合にね。
 ただ考えなくてはならないのは、生まれた瞬間。この世界で息をし始めたとき、彼に意思と呼べるものが宿されていたかどうか。あるいは私たちの記憶に残されていないだけで、持ち得たのかも知れない。さもなければ、精神の根源となる一粒を握っているという可能性もある。精神が主であると物理的に証明するのは実質的に不可能な話しだ。
 ならば切り口を変えて演繹的なアプローチを試みるしかない。大前提は『肉体と精神には従属関係がある』で、小前提が『精神は肉体に対して優性に働く』。結論が『故に精神が主である』という議論の構造になっている。大前提はどちらの立場からも支持されるので、議論の根幹を支えている論理は『精神は肉体に対して優性に働く』となるけど、果たして、事実足り得るか。精神という実体を持たない存在は、本当に肉体を支配しているか。
 私の手は私という存在の思い通りに動く。よって私という肉体を従えているのは私という精神である。その言は一応の筋が通っているが、疑いの余地は残されている。何故なら、従属関係というのは一方的な命令ではないから。ここで言う従属関係というのは、人間でいうなら奴隷とその主人が近い。奴隷は主人の言うまま働かされるが、当人らの意思がない訳ではない。むしろ社会的地位を取り払えば主人と同質、等価ですらある。奴隷は命令されればその通り動くが、主人の目の届かない場所ではさぼるし、主人がいなくなれば勝手に生きる。つまり、従属関係といっても、絶対的かつ一方通行な支配ではないということ。翻って、私たちの主たる営みは生活であって、手を動かすというのはその一環でしかないということ、選択と判断の連続に伴う感情が人間を人間たらしめているということを忘れてはならない。
 私たちの感情の源泉は肉体的な刺激。五感は言うまでもなく、喜怒哀楽すら、訪れた出来事を五感という感覚器を通して得た刺激に対する反応でしかない。思考はどうか。思考は精神的活動だ。肉体という媒介を必要としないのではないか。いや、そうではない。思考とは連想活動だ。一つの思考が波紋を生み、次の思考を呼び込む。もちろん、呼び込む元となるのは記憶野という肉体の一部だ。
 精神的成長は、経験の後を付いて回る。肉体から持たされる経験によって、精神はいかようにだって変化する。また人格は体型に大きく左右される。強健な人間は虚弱な人間より外向的になる。容姿の美醜も同じ。社会の中で肉体は個々を識別する唯一の方法なのだから、肉体から精神へ間接的な影響を与え続けるは当然。言い方を変えると、精神は肉体による影響なくしては成立できない存在だということだ。
 例えば水槽に脳髄を浮かべた人間がいたとして、その人物は主体となり得るか? 否。自己と他者を識別できない存在に精神=自意識は生まれない。かつて肉体を持っていた人間から脳髄を取り出したとしても同様だ。思考だけの存在になった瞬間から、人間が保てなくなる。無の中では思考し得ない。何故なら人間をその場に留めているのが肉体だから。そこにある状況から実感を得ることで初めてその場に立っていられる。実感で縛られない精神は空転するしかない。もし脳髄人間が外部から問いかけられたとき、脳髄人間は過去の知識から関係あるものとないものを出力し、その刺激から連想した別の思考をはきだしていく。まるで夢を見るように。思考は止まらない。刺激を受ければ受けただけ反応を返していく。肉体がないことで歯止めが利かなくなってしまう。
 肉体は唯の器ではなく、内外の状況を伝え、判断を下す基準となる情報伝達器官として機能している。脳髄人間は、総体として荒唐無稽な出力を繰り返す、おおよそ人間の精神と呼べない、唯の装置でしかなくなる。
 結論。精神とは、肉体に繋がれて揺られる風船のような代物でしかない。よって肉体が主であり、精神が従という関係が妥当な位置づけと言える」
 過去の思考実験をなぞられ、驚きと気恥ずかしさが芽依の胸中で沸騰した。本人でしか知り得ない秘密を知られている怒りでもあった。
 「前置きが長くなったけど、ここで問題其の二。実体としての肉体を持たない借り物の精神が、同じく借り物の体を持ったとき、その子は元の人間と同一人物たりえるか?」
 当人が借り物であるという認識を持っている以上、同一人物にはなりえない。その人物は恐らく、理性のように主たる人格をすぐ隣で眺めている、共感はできても実感が持てない別人となるはずだ。
 だが芽依はあえて答えを保留した。まだ考える余地があった。肉体と精神の関係性にしてもそうだが、完全に結論付けるには早急過ぎる問題だった。
 「ふふ。答え合わせはまた今度だね」
 芽依は優しく微笑む少女を訝しがりながら、相手の出方を観察する。
 「もう一度聞くけど、“力の宝珠”が見つからない場合、貴女はどうする?」
 「どうもしないよ。芽依も、ギリアムだってまだ諦めた訳ではないでしょ?」
 「貴女の目的は何? 私が力の宝珠を手に入れることでどんなメリットがあるというの?」
 「ねぇ、芽依は奇跡を信じる?」
 信じない――と、芽依は胸の内で切りつけるように即答。後にコミュニケーションに必要な柔らかさに調整して口に出す。
 「奇跡はひとつの結果でしかない。自分にとって都合の良いだけの過去を信じる気には到底なれやしない」
 「力の宝珠は精霊界の七大秘石の一つだよ。あちらでも奇跡を起こすような代物が、であるこの人間界に現れたら、あの異世界アナザーなんて比較にならない、ありとあらゆる物理法則を超える莫大な干渉力を発揮するかも知れない。信じられない奇跡だって起こせると思わない? 例えば、これまでの不幸が全部無かったことになる、とか」
 不幸、という言葉に反応して、芽依の脳内を様々な出来事が駆けめぐる。
 家族の死。不遇な家庭環境。煩わしい人間関係。多くの惨めな思いをした幼年時代。
 真に不幸だったどうかは分からないのに、嫌な思いをした経験が、悲しいくらい次から次に浮かんでは消えていく。
 ――ちがう。
 芽依は反射的に否定していた。否定せずにはいられなかった。
 そうじゃない。それは不幸なんかじゃない。それがなかったら、“力”を手にすることはできなかった。
 ――そうだ。
 引き替えにしたのだ。悲しさと”力”を。自分の意思で、選択で、行動で。
 芽依は刹那の葛藤を躱し、眼前の少女を注視する。
 その寂しげな微笑に隠れた意図を推し量るように、全神経を傾けた。
 からかってはいない。欺こうとしてはいない。何か強い信念が見え隠れする訳でもなく、希望を叶えてやろうという傲慢さも見当たらない。ただ、純粋な問いをする少女じぶんの顔がそこにあった。
 読めない/読ませない。ならば引き出すしかない。
 「貴女が私の記憶を共有しているなら分かっているはず。不幸は無くならなりはしない。自分にとっての不幸――何らかの不都合なんてものは、生きている限りなくならない。幾ら過去を改竄したとしても、いずれ必ず突き当たる。その都度リセットしたって意味なんてない。だったらもし不都合を不都合と感じなくなるよう感性をねじ曲げた方がよほど手っ取り早いわ。でもそれじゃ、私は『黒岩芽依』の主体では無くなってしまう――」
 最後まで言い終え、芽依は自分で吐き出した言葉の意味を理解した。
 一つ深い場所に隠れた可能性。最悪だが、最も合理的な方法があるではないか。莫大な精霊力レイズなど必要とせず、過去の改竄など不要で、誰にも悪影響を与えない素敵な手段が。
 「――ああ、確かにそういう方法もあるのか。感性を曲げなくたっていいわけだ。私を『黒岩芽依』の主体から外してしまえば。私は貴女のように『黒岩芽依』を後ろから眺める観察者になり下がって、別の誰かが主体として『黒岩芽依』を動かせば――いや、この場合は貴女自身がその座に収まった方がより手間が少ないかも知れないわね。主体となった貴女は明るく素敵な笑顔を周囲に振りまきながら、私という過去が誤りであったと謝罪して回ることで不幸を清算する。完全に消せなくても貴女はちっとも構わないし、なにより時間がある。過去これまでよりずっと長い未来が。貴女という素敵な個性が、私がこれまで育んできた力を盗用すれば、きっと不幸なんていう代物は起き得ないのでしょうね。因果や社会を変えるより、自分自身を変える方が手っ取り早い。なるほど、道理だわ」
 過去わたしの否定。新たな自分あなたへの生まれ変わり。不幸を消し去るのが容易ではないのは、刑罰や怨恨が余所にあり、胸の内に心的外傷トラウマが癒されぬままだから。
 だが自分の過去に客観性しか持たない感性だったら、あらゆる出来事を冷静に受け止められる。そして、広い視野を持って他人と調和を形作れるはずだ。
 「もう知っているかしら? 私が貴女という存在をどう思っていたか。我ながらひねていると思ったけど、今はそうでもない気がしてる」
 「・・・・・・なんの、話し?」
 眉をひそめる少女に、明確な動揺の色が映し出された。
 「まだ見ていないなら遠慮しないで覗いてみるといいわ。『私という存在は貴女の一時的な代理人格でしかない』という可能性を、“考えすぎ”だと軽視していた話しよ」
 少女はきつく目を閉じた。必死に記憶の検索を掛けているのだ。
 数秒の後、すべてを悟ったかように、少女は血相を変えて椅子から立ち上がった。
 「芽依、違う・・・・・・それは違うよ。私は――」
 弁明は唐突に途切れた。
 一枚の写真を眺めるように、世界が切り取られていた。少女は腰を浮かしたまま、流れる雲も、風も、すべてが静止していた。
 暗転。次いで胸から喉へ駆け上がる、焼けた綿のような感触。
 息が詰まって咳き込んだ。瞳を見開けば雨と闇。《記憶の抽象像化ビジュアライズドメモリ》は、強制解除されていた。
 気道に異物が入り込んだように激しく咽せた。胸のつかえが取れない。どれだけ咳を繰り返しても、大きく息を吸ってから勢いよくしても無駄だった。
 咳をしすぎて嘔吐えずきがこみ上げる。必死に堪えた。堪えきったが、代わりに涙が薄く滲んだ。
 たまらず口元を覆うフェースヴェールをはぎ取っていた。飛沫ひまつを手で押さえると、痰のような塊が付着していた。
 掌を眺め、息を飲む。喉が切れたにしては多すぎる血が、手袋に纏わりついていた。これまで見たこともない、どす黒い色の血だった。
 突然の吐血に血の気が引いて、意識が遠くなり掛けた。
 <・・・・・・おい、大丈夫か?>
 ギリアムの酷い濁声が、離れていきそうになった自分を引き寄せた。
 「問題ないわ」
 芽依は不愉快な気分を、不吉な予兆ごと握り潰して、吐いた言葉を真実に変える。
 少女との対話が中途半端なものになって気持ち悪かったが、今はそれどころではない。
 <なぁ、お前さんこのところ調子が悪いんじゃないか?>
 「そうね、でもあなたの風貌ほどじゃないわ」
 事実を暗に認めながらも、誤魔化すための予防線は抜かりない。
 <違いねぇ――って、おい。そういうこと言ってんじゃねぇよ>
 「心配しなくて良いわ。あなた、なかなか男前よ。そのうち、きっと素敵な雌蛙に出会える。ゴホゴホゴホ!」
 <なぁ、この雨粒一滴ぶんくらいは心を込めようぜ! 最後にわざとらしく体調不良を強調し、さりげなく俺をおとしめるって、お前はアレか? アレなのか?>
 もう一言、二言はおちょくってやろうと思った芽依だが、肺からがらがら音を鳴らす熱い空気が押し寄せ、断念せざるを得なかった。
 そのまま押し黙ると、ギリアムが肩をすくめて見せた。何とも言えず腹立たしかった。
 <まぁいい。そのまま黙って聞け。戻ったら伝えようと思ったが、あまり時間がなさそうだから今話しておくぞ。お前のその体調不良は、恐らく俺との契約が原因だ。俺に刻まれたクソッタレな呪いが、聖刻の”門”に悪影響を及ぼしてる>
 「門――確か精霊界とこちらの境界を意味する概念だったわね。その門自体が穢れているから、精霊力レイズを引き出せば引き出すほど、その呪いとやらの影響を強く受けることになる。ギリアムを通じて決闘装束デュエルドレスを解放する以上は避けて通れない。そういうこと?」
 <そうだ。このまま続けると、どうなっちまうのか分からン。最悪、破滅するかもな>
 言われて、思い至る。このところの妙な体調不良は、確かに変身する以前にはなかった症状だから、一因である可能性は大きい。落とし穴はいつも意外なところにあるものだ。
 ならば変身することなく、家で休んでいれば改善するのだろうか? だが、芽依に”立ち止まる”という選択肢はない。残されているのは、毅然として立ち向かう意思だけだ。
 「なら、自力で聖刻を解放できるようになれば問題なくなるわね」
 <簡単に言ってくれるな。聖刻の解放法術は、聖霊セイントにだけ継承される秘伝だぞ>
 「でも聖霊セイント候補筆頭であるギリアムが使えている」
 <忌々しいくらい記憶力が良いな、お前は・・・・・・。聖霊セイントでない俺が《界門穿ザイン》を使えるのは――――あー、なんだ。そう、ただの偶然だ>
 瞬間、ギリアムの足下のタイルが爆砕した。弾け飛んだのは、タイルの破片ではない。原型など一欠片もない砂粒だった。
 ギリアムは不意打ちに目を剥き、凶漢を探す。犯人は意外でもなんでもなく、とても身近なところにいた。
 芽依の手中には短杖。いつの間にか手にしていたエーデルワイスの先端は、真紅ルビーの輝きに満ちていた。
 タイルの破壊は、ルビーの能力を模倣したものだ。芽依が『分子運動制御モルモーション』と呼ぶその力は、物質の運動をコントロールする。先の一撃は、対象を振動させ、粒子レベルでの結合を破壊したのだった。無論、対象がギリアムであったら、皮と肉と骨とをミキサーにかけて散布したような惨状となっていただろう。
 「ギリアム。ここまで来たら駆け引きはあまり意味がない。《界門穿ザイン》とやらを修得しても私はアナタに協力する。余計な心配しなくていいわ」
 芽依がギリアムに協力しているのは、言ってしまえば、決闘装束デュエルドレスの力が必要だからだ。ギリアムもそれをよく分かっている。
 決闘装束デュエルドレスの解放をギリアムが請け負っている内はギリアムには価値があり、解放すること自体が芽依との交渉材料となる。それを無条件で明け渡すともなれば、協力関係の破綻に繋がりかねないのだから、慎重にならざるを得ない。
 芽依は過去に契約破棄を臭わせた前科があるだけに、ギリアムの心理を察しての発言だった。
 <はン。別にンなこと心配しちゃいないさ。法術の素養がないやつが覚えたての術式をとちって自爆しないか気になっただけだ。言っとくがな、《界門穿ザイン》は法術の中でも最高難度だぞ。俺ですらものになるまで相当苦労した。お前がくたばっちまう方が先かも知れんぞ?>
 「勝算ならある」
 芽依はいつものように言い切った。自信の有無に関わらず、堂々と言い切ってしまうのが芽依だが、今回は虚言ブラフではない。法術など一つも知らないが、《探索サーチ》や《隠蔽ハイド》も実現した。何より、芽依は既に門を自力で開いたことがある。
 そう《部分兵装開放パーティシャルアクト》だ。自己流のせいで酷い始末になってしまった技術だが、正規の方法論を学ぶ一助になるはずだ。
 「やり切るか、それとも無為のまま死ぬか。どんな結果でも受け入れる覚悟が私にはある。だから協力して」
 <・・・・・・お前さん、人間の中ではまだ子供、なんだよな?>
 「だから何?」
 <人間の基準はよく分からんが、お前はそこいらの者より賢く、十分過ぎるほどに我慢強いように思える。ならば、これから他の道があるはずだ。何故そこまでする? そんなに家族の復讐がしたいのか?>
 「私はね、感情に従って生きるって、そう決めているの」
 芽依は痛みを堪えるようにして、胸に手を当てる。
 「無限の可能性なんてない。明るい未来なんて見えない。希望はいつだって踏みにじられる。救世主は来ない。奇跡は起きない。神様は死んでる。
 だから自分の力で切り開くしかない。いつだって最善と信じる道をいくしかない。ギリアム、知っている? 最も良いと思えることを選ぶということは、実は選択をしないということなの。だって何を選ぶかは最初から決まっている一本道なのよ。指を彷徨わせる必要すらない。
 私は――、“黒岩芽依”は、自分が思うまま、感情のままに生きる。それが正しい人間の在り方だと信じて進む。そんな生き方しかできない。 ・・・・・・あなただって今の選択しかなかったのでは? 例え命を失うことになろうとも、力の宝珠を手に入れたい。だからここにいる。そうでしょ?」
 静かに語られる意思。ギリアムはその奥に秘められた炎のような激しさを垣間見た。
 力を与える代わりに、芽依はたった独りで戦いに臨むことを半ば強要された。だが、強要しようがしまいが、きっと独力で挑んだのだろう。危ういやり方を貫くのは、決闘装束デュエルドレスの力を過信して判断力か危機感が鈍くなっているのだと、どこか見下していたが、しかし、そうではなかった。この少女は、これまでそうやって生きて来たのだ。誰の力も頼らず、たった独りで。それは戦場で命をすことで一層鮮明になった。強く、激しく。近くで見ているのが辛くなるくらい命を輝かせる。その手の中に宝石の輝きがなくとも、彼女自身の魂が煌めかせる。
 ギリアムは相棒パートナーの内に幻視した光から目を背ける。直視していたら、腐りきったこの瞳は潰れてしまう。
 <呵々。俺にはそんなご大層なもんはないさ。選択のしようがなかった、ってのは事実だがな>
 そして罪を告白するように両手を広げる。芽依を含めた、この世界の住人すべてに伝えるようにして。
 <俺は、大咎人だ>
 ギリアムは冷笑する。その歪んだ笑みは、酷く醜悪だった。
 <安心しろ、ここで俺の罪は冤罪だとか安い主張するつもりはない。極悪人ってほど性根は腐っちゃいないが、だが弁解の余地もなく、本当にやらかした正真正銘の大馬鹿野郎なのさ。いつだったか、お前は言ったな。“ネオアンガーの気配に似ている”と。そりゃそうだ。俺は犯した罪の罰として呪いを受け、ネオアンガーに成り下がった精霊だからな>
 空は雨雲の輪郭を掴ませないくらい黒い。
 降り止まない雨が、ギリアムのざらついた肌を打ち付けていた。

 <・・・・・・おい、俺の話を聞いてたか?>
 唯でさえフェイスヴェールに覆われた芽依の表情は掴みにくい。おまけに身動ぎ一つもなければ、耳を澄ましているのかどうかも疑わしくなってしまう。
 「聞いているわ。あちらの世界で咎人になって、罰としてネオアンガーになったのでしょ?」
 <いや、そういうことではなくてだな・・・・・・何か、こう、あるだろ。驚きとか、軽蔑とかよ>
 「嫌悪と憎悪と憐憫も併せて、もう随分と前から十二分に抱いているから、そろそろ上乗せが辛いところね。アナタへの想いが溢れ出んばかりだわ。主に足蹴にする方向で」
 <思うに、お前の舌はもっと慎みの味の奥深さを知った方がいいぞ。すでに毒味で腐ってるだろうから難しいかも分からんが、何事も挑戦だ>
 「私は食事にあまり価値を見出さない質なの。それにギリアムにとって、毒も呪いも似たようなものでしょ?」
 <苦々しいという意味では同じだが・・・・・・いやいや、本質的に別物だ。まったくもって同じであるはずがない>
 「そうね。私の言葉はギリアムにとっては時に妙薬、時に福音、時に天啓だもの。同じであるはずがないわ」
 <お前の妄言には驚かされてばかりだな。あれだけ劇薬をばらまきまくっておいて何を言うかと思えば。俺の胃に穴が開きそうになった回数を教えてやろうか?>
 そう言ってでっぷりした腹をさするギリアム。そこで怪訝そうな顔をしたのは芽依だ。
 「・・・・・・おかしいわね。その程度で済むなんて。ごめんなさい。私としたことが、味付けを間違えていたみたい。これから丹念に口調を研ぎ直して、悪意三割増しでご馳走するわ。血反吐を吐いて、“ごめんなさいもうたべれません”って泣いて謝られても、ちゃんと咀嚼できる形にして流し込んであげる。アナタ、私の甲斐甲斐しい介護ぶりに、きっと泣いて喜ぶと思うわ。こう見えても、他人の笑顔の為なら献身的になれる性格だから。大丈夫、知略の限りを尽くすわ」
 <人間と精霊では『献身』の概念が違いすぎる・・・・・・!>
 驚愕の事実に目を剥くギリアムだが、芽依は異文化交流に驚きと違和感はつきものだと言わんばかりの平常心だった。
 「さて、所信表明はこのくらいにしておいて、話しの続きを聞きましょうか」
 <ちょっと待て。今のは”戯れ言は~“と締めるべきだろうが>
 「何故そんな戯れ言を?」
 <俺の方が戯れにされた!?>本気の困惑<分からん。お前という人間が、まったく>
 「誰も他人を理解できない。つまらない括りで知った顔をされるより、分からないでいて貰いたいと切に願うわ」
 芽依はこめかみに人差し指をぐりぐり押しつけて、ギリアムの因果に考えを巡らせる。
 「そんなことより、本題。アナタは何の罪でネオアンガーになり、どういった経緯で人間界へやって来たのか。簡潔に述べよ。簡潔に」
 <何故、二度繰り返した。そして何故、上からの物言いだ>
 「ギリアム、お願い。アナタのこと知りたいの。教えて、一晩中でも構わないから聞かせて――」
 切なさの混じった、妙に甘ったるい声色にギリアムの心臓の鼓動が跳ね上がり、
 「――と頭が悪い女のように、言って欲しかったの?」
 切りつけるような、哀れむような声色が、胸中に吹雪を呼び込む。だが、ここで死に絶えることはできなかった。今後のことを考えても。一人のオスとしても。
 <例えそれが見下げた男の幻想でも構わない! 俺はその方向性を求む! 如何に!? さぁ如何に!>
 「却下。気持ち悪いわ。心底」
 <なン・・・・・・、だと?>
 願望は瞬殺された。寂寥が押し寄せる前の静けさに、ギリアムは悄然と佇む。
 さぁ早く話しなさい、と幼魔女めい強要めいれいされた後、ギリアムは何をどう語ったのか良く覚えていなかった。轟々と止むことのない嵐、そして高低差十メートルを超える高波に、ギリアムの魂とか心とかそんな感じのを乗せた小舟は弄ばれていた。
 いっそ海の底に沈んでしまった方が楽だな――と思えた瞬間から、記憶が飛んでいた。
 ただ一層激しさを増す尋問あらしに、概要これまでを掻い摘まんで話したような、そんな気がしていた。
 <――はっ、俺は今まで何を? お前、一体俺に何をしやがった?>
 「別に何もしてない。ただ質問をしただけよ」
 <俺は一体何をしゃべりやがった!>
 「・・・・・・アナタ、頭は大丈夫?」
 魂まで凍えるような紫の瞳が、ギリアムを睥睨する。
 「アナタは精霊の王国に使える騎士の一人で、高位の精霊である『聖霊セイント』となるべく仲間と切磋琢磨していた。あるとき王女の依頼を受け、秘宝――『力の宝珠』――を保管していた寺院の封印を破り、持ち帰った。ところがその直後、王宮で逮捕・投獄され、極刑として呪いを受けてその姿に変えられた。
 後は牢獄で死を待つだけのアナタの前に神官の一人が現れ、恩赦を持ちかけた。条件は、どさくさに紛れて失われてしまった力の宝珠の回収。引き受けるより無かったアナタは、幾つかの秘術とジュエリスト関連の情報を与えられ、この世界に送られて来た。違う?」
 <お、おぅ。そういうことだ。理解して貰えたか。ややこしく、訳ありの事情だったからな、最初から口にするのが憚られたってわけだ。それと、分かってるかと思うが、他言は無用だぞ>
 「そう。では、アナタが王女様に淡い想いを抱いていたことは、私の中の秘密にしておくわ」
 <ぶおっほぉッ!>
 突如として吹き出し、ギリアムの取り繕った顔が崩壊した。
 <ばばば馬鹿な! 意識が薄れていたとは言え、そんな恐れ多いことを口にするはずが・・・・・・>
 「ええ、唯の推論。命令したのが王女で、持ち帰ったら捕まったとのことだけど、人間の世界ではそういう状況を”はめられた”とか、“騙された”と言うのよ。なのに、アナタは自分の罪として受け入れている。精霊という存在が被虐愛好主義である可能性は私の中でかなり高い確度を有しているけど、もしそうでないのだとしたら、忠義か、情愛の類がそうさせているのだと予想できる。アナタの言動から感じられるのは後者。むしろ後者以外は有り得ない。友誼や契約や主義なんてものは微塵もなく、権力や名声、地位なんてものは存在しない。すべては愛ゆえ――いいえ、恋ゆえ――でもなく、単なる下心ゆえね。それだけで次元すら超越するなんて、最高に低俗な動機ね」
 <突っ込みどころしかないお前の暴論に断固抗議する! 人間の小娘には分からんだろうがな、俺には騎士としての誇りと責務、何より精霊として高潔さがある!>
 「本当にそうかしら?」
 <・・・・・・何だと?>
 芽依の疑問に、ギリアムの蛙面が剣呑な空気を露わにする。だが芽依は物怖じしない。あくまで堂々と批評してみせる。
 「もしアナタの中に王女への想いに勝るものがあるなら、そもそも此処にはいないのはず。彼女の願いを叶えんとしたから咎人となることも良しとした。つまり、一度は地位も名誉も、尊厳すらまとめて泥の中に捨てたのよ。力の宝珠を手に入れたいのは、本当に捨て去ったものを拾い上げるため? 違う。私には、彼女の裏切りの復讐か、彼女との約束を守ろうとしているようにしか見えない。どちらにしても、重大に思っているのは自分のことより王女様。そうではないの?」
 ギリアムはしばし唖然とする。ここで否定するのは簡単だったが、それでは過去の栄光にすがりつこうとする俗物とこき下ろされる。真に高潔さを旨とするなら、否定できるはずのない指摘なのだ。
 芽依の問いの意味を理解すると、湧いて出た怒りは霧散していた。代わりに満ちる充足感が癪に障るのだ。まるでずっと誰かに理解して欲しかったみたいではないか、と。
 ギリアムは明後日の方角を向き、水掻きの付いた手をヒラヒラさせた。
 <はン。知ったような口をきく。そういうのは、お前の毛嫌いする輩なんじゃなかったのか?>
 「されるのは嫌いよ。でも、するのは好きみたいね。割と」平然とのたまう芽依。
 <滅茶苦茶な奴だな、お前は――いや、最初からまともであった試しがなかったか>
 ぬぅっと首だけ振り向ける巨大蛙が皮肉げに嗤えば、芽依は肩をすくめて見せる。
 それから芽依は再び目を瞑って考えを整理し出す――
 王国。騎士。王女。精霊界の使者。背後にはやはり何らかの陰謀の臭い。
 何らかの経緯で紛失した力の宝珠。何らかの理由で選定された咎人。疑惑がべったりまとわり付き過ぎている。
 単独での探索。見知らぬ別世界での回収作業にたった一人。仮にも、秘宝とまで呼ばれる代物を? おかしな話しだ。人材難に過ぎる。こちらへ渡れる精霊の数に制限でもあるのか。資質や資格といった切り口もある。だがギリアムは何なのか? もともとそうなのか、あるいはそうなったのか。
 何らかの制約ルール。例えば、ネオアンガーになった精霊しか別世界を渡れない。これならギリアムがネオアンガーにされたのが偶然ではなくなる。他の五体の聖霊セイントは? また聖霊セイントの秘伝とやらがあるのか。
 そういう意味では、ネオアンガーはどこからやって来る? 中央制御核セントラルコアは? 邪神官は? 可能性は大きく二つ。元々この世界にいたか、精霊界からやってきたか。そして恐らくは後者だ。
 ネオアンガーが現れるのは異世界アナザーに限定されている。異世界アナザー。ここではない別の空間。こちらの世界を侵食する精霊力レイズの塊。莫大な精霊力レイズ決闘装束デュエルドレスと同じ。その力はどこからやって来るのか? 精霊界に決まっている。
 精霊界からある種の力が流れて来る。件の異世界アナザー精霊力レイズで作られている。つまり、異世界アナザーは精霊界が源泉となっている。異世界アナザーの発生は恣意的だ。だったら、正しい表現は『異世界アナザーは精霊界から湧いて来ている』となるのか。
 やはりネオアンガーが精霊界から来る、というのは妥当だ。中央制御核セントラルコアも同じだろうか? まったく同じようにも思えるが、違和感もある。形状、能力、在り方。ネオアンガーと中央制御核セントラルコアは色々な意味で違いすぎる。同列に扱えるか疑問の余地がある。
 そもそも、中央制御核セントラルコアの役割は何か? 異世界アナザーの維持と拡大だ。それにネオアンガーの修復も。対峙した印象は、ネオアンガーの親玉というより、修繕用自動機械メンテナンスロボットの方がしっくりきた。ロボット。機械。人工的なもの。ネオアンガーの小核コアが作り物のようであったのは何か関係があるのか。
 中央制御核セントラルコアと邪神官の関係は何か。邪神官は中央制御核セントラルコアの上位的な存在? まったく別の何か、という線はないだろう。力関係でいえば邪神官の方が圧倒的に上だろうから、やはり支配者級と見なすべきか。
 邪神官。ジュエリストの少女たちが倒すべき存在。異端ギリアムと契約した異分子たるイレギュラーには関係ないとされる敵性。その目的は、中央制御核セントラルコアを使って異世界アナザーを発生させ、人間界をネオアンガーの住処に作り替えることにあるように映る。だが、何故そんな必要がある? 住処を作ろうというのだから、そこに住処がないと考えるのが妥当か。
 精霊界に住処がない。つまり、ネオアンガーと精霊とは共存できないものなのか。そういえばギリアムはネオアンガーを”汚物”呼ばわりしていた。
 ネオアンガーが汚物? それ以前に、ネオアンガーにとって住まうとは何なのだ。衣食住が必要そうにはとても――いや、食はあるのか。人間を食らっていた。
 間接的な意味で住めないということか。つまり、精霊界には食事がない、と。だから人間界に来た。邪神官はネオアンガーを飼っていて、精霊界で折り合いが付かなくなって人間界に侵略を始めた――たまたまそう見えるだけ?
 逆は? 食はあるが住がない。食料はあっても住処がない。居場所がない。そこに居られない。汚物だから。こちらの解釈の方がギリアムの文脈に沿っている。
 汚らわしいと嫌われるネオアンガー。衛生的観念から人間界に送られ――違う、汚いものを遠ざけるのだから”捨てる”のか。そうなると、邪神官は人間界にネオアンガーを廃棄する掃除屋というわけか。
 だったら聖霊セイントとは何なのだ。人間界にやって来た聖霊セイントは、ジュエリストと共にネオアンガーを駆逐する。中央制御核セントラルコアを破壊し、邪神官と戦い、これを討滅する。それは正義の――待った。ネオアンガーはそもそも精霊界の産物ではないか。こちらの世界が迷惑を被っているのだから、正義の味方と称するのはおかしい。人間と精霊、二極で捉えれば、ただのマッチポンプだ。おまけに十代の少女がその使いパシリとなってリスクを背負わされている。なんて馬鹿げた話しだ。
 ――気にくわない。
 その一言が巡る思考の節目となった。
 芽依がさらなる推敲を重ねようとしたそのとき、辺りを漂う濃縮された悪意のような気配――中央制御核セントラルコアの出現だった。
 芽依は一瞬で優先度を書き換える。
 <くれぐれも首を突っ込むンじゃねーぞ>
 ギリアムが胡乱げな目を向けると、芽依は素直に首肯し、ビルの縁を蹴った。

 「ルビー。そら、そちらに行きましたわよ」
 淡々とした蒼髪少女サファイアの警告。
 「わあーってるつーのッ! ――ぅおらぁぁッ!!」
 轟々と鳴る左手/厳めしい小手/真紅の輝き。薔薇色の髪を振り乱して殴りつけるルビー。振り抜かれた先には宙に浮いた鏡。
 超振動によって鏡を粉微塵に変えた直後、同じサイズの別の鏡が二枚になって、ルビーの眼前に現れる。
 「おい、いい加減にしろ。この野郎!」ルビーの苛立ちめいた咆哮。
 猛りを無視して鏡が発光。ルビーが咄嗟に身をひねると、雨音に混じり、ジュッ! と水蒸気の生じた音。足下のアスファルトに穿たれる小さな穴が、光の正体がレーザーか熱線の類だと知らしめる。もし生身に直撃したら、体に同じ形が空いて、後ろの景色まで見えそうな高出力だった。
 ルビーは果敢に前進し、跳び蹴りを繰り出す。鏡を真っ二つに叩き割るや、破片を掴み、宙でもう一枚の鏡へ投擲。衝撃で亀裂が走った直後、鏡は黒く変色/墜落。
 ところが、ブーツのつま先が接地する頃には、眼前に浮く鏡は倍の四枚に。
 ルビーはその供給元を見上げ、思わず唸った。
 さもあらん。そこには数え切れない、恐らく、何百枚という数の鏡が集まり、円錐を成していたのだから。
 小桜市の緑化公園の一つである海浜運動公園。広大な敷地の一画、背後に夏期限定で開くプールを望む区画に出現した中央制御核セントラルコアに、個という概念はなかった。
 ただの集合体。サンゴやクラゲといった群体を成すものに似ているが、決定的に違うのは、呼吸をするかの如く鏡同士の距離を遠ざけたり近づけたり、中央を空洞にして左右に旋回したり、噴水のように上から下へ移動させたりと、自在に形状を変えている点であろう。
 そのパターン、実に二十余り。見事なデモンストレーションを観察している途中、痺れを切らして突っ込んだ結果がこれだった。
 「ルビー。そんなちまちまやっていていいのかしら? 約束の時間まで後――三分十四秒ですわ」
 「るせー! 黙って見てろサファイア! こいつは絶っ対ぇーアタシが仕留める!」
 ルール――持ち時間は一チーム十分。ルビー・サファイア対ダイヤ・エメラルド/アンバーは不参加を表明。
 更にルビー・サファイア連合は独自のルールを追加。すなわち、中央制御核セントラルコアに対し、単独での挑戦。
 持ち時間が五分に短縮され、何の前情報のない、最も不利な条件であるにも関わらず、ルビーは一番手を選択。もちろん、敵との相性が良くないとか、そんなのはお構いなしである。
 ルビーは近接戦での重打撃を主力としているため、細々した敵を同時に相手にするのは不向きだ。おまけに当人の性格も実に大雑把なので、端っから分が悪い。
 サファイアはそれらを見越した上でルビーに先行を譲った。先にぶつかって貰えれば敵戦力の分析も可能になるので一石二鳥。勿論、ルビーはそんなサファイアの意図も重々承知していた。
 勝負事は手持ちの札がどれだけ惨めであっても毅然と立ち向かう、それが勇敢にして無謀な猪突系少女ルビーのポリシーである。
 降り止まない雨と夜闇の中で、煌々と輝く少女の紅瞳。女豹の如く鋭くした視線が、きらりと一枚の鏡が光輝くのを捉えた。
 張り巡らせた神経が、考えるより早く体を動かし不可視の攻撃を回避。地面に空いた穴を眺めることなく、ジグザグに疾走。隣り合わせた鏡の輝きが拍子遅れで三連続。いずれも通り道を焼くに留まる。
 ルビーは必殺の左手を間合いの外から豪快に振り抜き、発生させた超振動が八つの鏡をミリ単位に粉砕。
 真っ白い歯を出して悪戯げに笑い、ちろりと赤い舌を出して唇をなめ回す。
 「楽しいなぁ。やっぱこうじゃなきゃ、ジュエリストになった意味がない」
 近頃、溜まりっぱなしのフラストレーション(=弱すぎる敵)が溶けていく感覚に身を任せ、拳を振り続けた。
 それは八つ当たり以外の何物でもなかったが、事実、近頃発生する異世界アナザーは規模が小さく、比例するように出現する中央制御核ボスも小物だった。ジュエリスト五人がかりで袋叩きにしたら呆気なく討滅してしまえるほどに。
 不甲斐ない敵――退屈凌ぎでジュエリストとなったルビーにとって、それはとても、とてもつまらない状況だった。
 もともと猫のように飽きっぽい性格もあいまって、戦いは学校と変わらぬ流れ作業ルーチンワークになり下がり、モチベーションはだだ下がり、“異世界アナザー潰し”に対してボヤきまくりである。
 その自堕落ぶりを見かねたサファイアが、ゲーミフィケーション(ゲームで勝負しませんこと?)を提案しなければ、今頃きっとどこか余所でひとり管を巻いているに違いなかった。
 ルビーはたった一人で立ち向かう危険性を知っている。命が削り取られるような思いを味わったこともある。だからこそサファイアと協力関係コンビを組んだのだし、あちら(ダイヤ)の提案である共闘戦線も受け入れた。
 結果として、危険ドキドキは遠ざかり、緊張ワクワクしなくなった。安全それが目的なのだから当然。矛盾していると気付きながらも、やはり退屈なものは退屈だった。
 眼前に立ちふさがる十六枚の鏡。ルビーは攻撃一辺倒から一転、大きく飛びすさって間を取った。
 「一気にケリを付けるぜ――カタリナ!」
 鬼神の如き物々しい小手――≪神の左手レフトハンドオブゴッド≫――その中央に収まる紅玉ルビーが、これまでにない鮮烈の輝きを放つ。
 大きく体を捻る/背を向ける/“溜め”を作る。
 抱え込んだ輝きが爆縮。拳の中に収まると同時に、あらゆる方向ベクトルから掛かるエネルギーが零に。
 ルビーの周囲を流れる空気が時を止める。無数の雨粒が、写真のフレームに収まったかのように並んでいた。
 「うるるるらぁぁぁぁッ!」
 溜めを解放。足首から膝、腰、肩、肘、手首――加速に次ぐ加速で音速に達するルビーの左手が、止まった空間に叩きつけられる。
 ズズンッ!! 重々しい響きは空間の悲鳴だ。
 ルビーの固有技能である《分子運動制御モルモーション》によって、瞬間的に周囲のあらゆる運動エネルギーが分子レベルにおいて吸収/集約され、空間座標に対して均等化した後に解放。結果、分子間の結合に、本来はあり得ない特定の固有振動が発生。ルビーの前方十メートル四方の空間内で、目には映らないブレが一斉に生じた。
 結合力の弱い物質はその時点で塵と化し、堪え得るものも振動によって生じた摩擦熱に焼かれて融解。雨水は気化していた。
 限定空間に満ちた水分の殆どが水蒸気へ変化したとこで気圧が急上昇。水蒸気爆発を起こす。
 爆音、そして衝撃――鏡の集合体である中央制御核セントラルコアは、一枚残らず破壊の顎に飲み込まれた。
 白煙が天を突きそうな勢いで上っていた。
 分子振動と気化爆発の二段構えの攻撃――《空間振動撃ショックキューブ》――は、天候や地形によって人間の想像を越える破壊力が生じる。賭事が大好きなルビーが好んで使う大技だった。
 気圧の急激な変化によって突風が巻き起こり、白煙をぬぐい去る。
 そこは、まさしく爆心地と称すべき有様だった。地面は深く抉れ、破壊を逃れた地点の外灯も余波でなぎ倒されている。無数にあった鏡は、今は一枚として宙に浮いてはいなかった。
 「よっしゃ! アタシの勝ちだ!」満面の笑みでガッツポーズ。
 勝ち誇るルビーとは対照的に、サファイアは顔をしかめた。その表情には、勝負に負けた悔しさとは別の色合い。
 「四分四十四秒。確かに時間内ですが――、喜ぶのは少し早いと思いますわ」濃紺の長い髪を一房弄いらう「この程度で討滅可能な中央制御核セントラルコアなど、これまでいたかしら?」
 その言葉通り、難を逃れた数枚の鏡が、再び宙に浮いてきた。だが、片手の指にも満たない数だ。残りの時間で十分片づけられる――そう判断したルビーは突進する。
 手近な一枚に肉薄。反撃を繰り出させることなく、これを破壊。残り十秒余り。
 残る鏡が一斉に光輝く。また不可視の攻撃が来ると予測したルビーは素早くサイドステップで躱す。
 攻撃は当たらなかった。いや、そもそも熱線だかレーザーだかも判らない攻撃は放たれていなかった。注意深く観察していれば気付いただろう。鏡面の輝き方に微妙な違いがあったことに。
 中央制御核セントラルコアは攻撃したのではなく、修復したのだ。自身と、仲間達を。
 一体の無傷であった鏡から出でた光を受けた鏡は、割れた鏡面を修復し、その鏡が放った光を受けた別の鏡も同じように、元の形状へ戻る。今し方生み出されたような、一片の曇りもない新品として。
 「なろめ・・・・・・」ちょっとした奇術に鼻を鳴らすルビー。
 ところが、奇術はこれからが本番だった。
 鏡達が横一列に並び、対を二組作る。殆ど零距離まで近づき、合わせ鏡状態となった。鏡面には鏡。写された鏡の中にも鏡。虚像は遠く、小さくなりながら、数十組写される。
 そして、二組の鏡が、同時に離れる。ゆっくりと距離を空けると、合わせ鏡の中間に、新たな鏡が二つ/一組できあがっていた。
 「な――」猫のように大きな瞳をまん丸にするルビー「――にぃぃぃぃ!?」
 鏡の複製は止まらない。距離が離れれば離れるほどみるみる増産されていく。
 横一列にびっしりと、まるでドミノ倒しのように並んだ鏡が、今度は一斉に面をルビーの方面へ向く。間を開けずに発光。一発二発くらいなら決闘装束デュエルドレスが防ぎきると確信していたが、流石にこの数を一斉に喰らったらどうなるか、誰にも分かるまい。
 ルビーは咄嗟に距離を取り、《神の左手レフトハンドオブゴッド》を前に。身を亀のように縮めて防御の構え。
 更に《分子運動制御モルモーション》を発動。前方の空間から局所的に運動エネルギーを強制転移させた。
 雨粒が、氷の礫となってパラパラと芝生の上に転がった。地表近くまでは流体なのに、その空間領域に入った瞬間、固体となって落下するという奇妙な光景だった。
 ルビー自身、ここまで徹底した防御を崩された経験はなかったが、双眸を細く絞って、恐怖と苦痛に備える。
 衝撃は、予想よりやや遅れてやって来た。
 「嘘だろ・・・・・・」
 列を成していた鏡の一群が、同時に前面へパタリと倒れた――と思いきや、元の場所に鏡は残されていた。一瞬、目の錯覚であるように思えたが、そうでないのは明らかだった。
 鏡は倍になった。元の位置にあるものと、下方へ倒れたものと。一列に何十枚あったか知れないが、これで確実に三桁に達している。
 上下二列になった鏡の軍勢は、更に発光。下段は下方にパタリ、上段は上方へパタリ。たったそれだけの動作で更に二倍に。ほんの十秒で復元を完了させると、また最初の一糸乱れぬ群体/軍隊運動を繰り返す。
 「五十八、五十九・・・・・・はい、制限時間タイムリミット。成果は・・・・・・特に無さそうですわね。敵に傷一つなし、点数に換算して――零点。さぁ、お次は、あたくしの番ですわ」
 冷然と、一方的な判定ジャッジを言い渡すサファイア/したり顔。
 「いいや、違うね。これはチーム戦だから、公平に次はあっちの番だろ」
 毅然と、曖昧なルールの隙を突いた反撃を繰り出すルビー/すまし顔。
 「なっ・・・・・・! そんなルール――」「そうだな、決めた覚えがないな。どうやってフェアなチーム対抗戦をやるかなんて決めなかった。まぁ、でも考えて見ろよ。これはゲームだ。所詮はお遊びさ。誰も深く考えやしないのが当たり前だ。考えてみたら穴があったってだけさ、アンフェアだって気にする必要はない。お前がどうしても言うなら止めやしないぜ。アタシのパートナーは、遊びだっていうのに、正々堂々と勝負するだけの度量がない奴だったってだけからな」うんうんと鷹揚に頷く。
 負け犬の遠吠えに、何故かカチーンという音が聞こえてきそうな表情のサファイア/無類の勝負好き/あらゆる手段を惜しまず、敵を完膚無きまでに叩き潰そうとする完璧主義者。
 「ふぅ・・・・・・足を引っ張るだけのパートナーというのは如何なものかと思いませんの?」
 「やっぱ助け合いの精神は大切にしないとな」軽いウインク。
 不快げにしかめるへ相手へ、ルビーの追撃は軽く顎をしゃくったストレートな挑発。
 ――できないんだ? へぇ?
 ――まぁ仕方ないよな。え? いいって。いいって。
 ――せっかく勝てたんだぜ? もったいないことすんなよ。
 ルビーは口よりも雄弁に顔で語り、相手の神経の端っこの繊細な部分を突きまくった。
 「いいでしょう。その挑発、乗って差し上げますわ。次はあちらの番ということでよろしくてよ」
 二つの不敵な微笑が、不吉にも重なった瞬間だった。

 赤と青の少女が威勢よく振り返った。視線の先に、対照的な二人――ダイヤ/ニコニコ、エメラルド/ハラハラ――が見守る。両名からやや離れた位置で、アンバーが退屈そうに欠伸をかみ殺す。
 これが彼女たちの日常。ここが異世界アナザーの中であることを忘れてしまいそうになる、彼女たちの当たり前。
 命を削って必死に戦った自分がバカらしくなりそうな暢気のんきな光景に、芽依は強く歯噛みする。
 一瞬、目の前が真っ白になっていた。自分の幻想は紛れもなく唯の幻想なのだと、心が打ち砕かれそうになるのを堪えた。
 何の責務もない自分が生真面目に戦う術を考え、街を護る義務を負った彼女らが気楽に遊ぶ。この現実は一体なんなのか。見下ろした先には矛盾と欺瞞が満ちていた。
 偶然? いいや、一事が万事だ。真実の瞬間だ。これがジュエリストだ。この街の守護者だ。彼女たちが家族を護れなかったの
 ――いい加減、認めろ。
 にわかに顔を覗かせる”黒い衝動”が耳元で囁く。
 「黙ってて」
 首筋を手を当て、僅かに不浄な精霊力レイズを漏らす黒い肉塊を握り潰した。グチュリと音を立てて消える”黒い衝動”。
 芽依は《隠蔽ハイド》が見破られた様子がないか、目を鷹のように鋭くして五人を観察した。雑木林と闇に覆われてはいるが、園内の視界は概ね開けている。高低差もないから、気配を悟られれば位置が割れるのも早い。あらゆる機微を逃すわけにはいかなかった。
 ジュエリストの面々とは対極的な緊張感。その合間にも、ダイヤが動き、サファイア、エメラルドと続いたが、結局、中央制御核セントラルコアを討滅するには至らない。
 まるでゲームでもするかのような無意味な一対一。おっかなびっくりの攻防。徒に浪費される時間。すべてが無為だった。
 一巡し、埒が明かないことを悟ったのか、今度はルビーとサファイアの二人掛かりだった。しかし、それでは決定力にならないと芽依は値踏んだ。
 あの二人は本当に火と水のようで、互いに全く合わせる気がない。連携の悪さは他の組み合わせから群を抜いていた。
 せめて後一人、三人のうちの誰かが間に入れば倒せる――そう思ったのは芽依だけではなかった。アンバーが、大きく手を振ったかと思えば、金色の輝きを纏って飛翔。急速に戦場を離れていった。
 とんでもないマイペースぶりに面くらいながらも、芽依の判断に淀みはない。あらかじめ設定していた優先度に従い、追走を開始。雨空に描かれる金色の軌跡を全力疾走。園内を抜け、人気の途絶えた住宅街を突っ切り、車の走らない国道を駆けた。
 (絶対、逃がすものか・・・・・・!)
 異世界アナザーの境界の直前、アンバーは着地。精霊力レイズを閉ざすことで発光を抑制。建物の上を遊ぶように跳ねながら、二つの世界を隔てる薄膜を通過する。
 僅かに遅れて芽依も外側へ脱出。同時に色調を変える世界。止まっていた時間が動き出したように、街が息を吹き返した。
 一瞬、アンバーの姿を見失うも、遙か上空にその気配を捉える。
 高度が高すぎたので異世界アナザーの外側で精霊力レイズを解放しのかと勘違いしたが、大きく跳ねたに過ぎなかった。地上をちまちま移動するのではなく、大ジャンプで一気に距離を稼ごうという腹だ。
 いくら深夜とは言え、地表に近ければ一般人に発見されるリスクは高くなる。変身しながらの移動方法としてはかなり合理的だ。
 芽依も同じ手段を用いることは可能だ。しかし、相手が空中で振り向いた瞬間、追跡が発覚してしまうリスクを考えれば、秤にかけるまでもない。
 芽依は全力で駆けた。だが、建物の屋根を細かく伝うので、どうあっても効率面で劣る。
 「くそ! アイツ、どこまで行く気!?」
 焦燥も口から出れば悪罵。二人の距離は徐々に開き、あと二、三回の大ジャンプで追跡不能になりそうなときだった。
 アンバーが動きを止め、辺りの様子を窺うような仕草を見せた。
 (気付かれたッ!?)
 芽依は咄嗟に物陰に隠れ、背中越しに気配を探った。
 (相手に動き――なし。警戒中? 目的地?)
 金色の少女が、殆ど膝を曲げず、ふわり飛び降りる。
 降りたった先は、周囲を松林に囲まれた、外灯の一つもない小さな公園だった。植生が濃すぎて普段から薄暗いであろうその場所は、この時間ともなると完全に真っ暗。変身前なら数メートル先も見通せない。
 闇の中に飛び込む、という表現がぴったりの場所から、キィと微かな鳴き声。
 キィ、キィと続けて不気味な音が鼓膜を微かに振るわせていた。その正体を辿ると、古びたブランコが揺れていた。雨に濡れて軋む金属の音。ブランコには人が乗っていた。揺らすでも揺られるでもなく、唯、黙然と腰掛けた少女が一人、雨に濡れていた。
 ジーンズに厚手のパーカーと、ラフな格好の少女。その瞳は、別の宇宙でも見ているかの如く宙に投げられたまま、どこにも定められていない。
 ややあって、体がビクンと震えた。途端に周囲をぶんぶん見渡し、今度は人形のように固まる。意味不明の動きの後は、おもむろに立ち上がり、一目散に公園を立ち去った。
 芽依も変身を解いて、少女の後をつけた。現時点で、芽依の目的は戦うことではないし、まして尋問することでもない。
 彼女の自宅を押さえること、それが芽依の目的だった。尋問は可能だったが、相手が素直に応じるとは限らない。むしろ、知らぬ存ぜぬの押し問答となる可能性が高い。どさくさに紛れて取り逃がしでもしたら、元の木阿弥となるだけでなく、無用な警戒心を抱かせることになってしまう。
 反対に、生身であれば、いざというときは同じ態度を相手に返すことも出来る。幸いにして、真顔で嘘をつくのは慣れていた。
 (あの歩き方、意識も目的地もしっかりしてるようね)
 芽依は十メートルほど前を歩く少女を観察し、幾つかの分析を済ませている。
 彼女アンバーの足取りは確かだ。発見したときの印象とは裏腹に、迷いが感じられない。自分と同じように、変身の影響で不調なのかとも考えたが、どうも違うらしい。むしろ、やや早足であることから、一刻も早く家へ戻りたがっているように思えた。
 あるいは雨に打たれるのを嫌がってのことか。芽依のような眼鏡ユーザーなら不快指数を跳ね上げる要因だ。だが、この雨こそが拙い追跡行動ストーキングの助けなのだから、そう贅沢を言ってられない。
 そうやって五分ほど後をつけていると、前を行く少女が改装中のビルの前に差し掛かった。歩道の外側にはガードレール、内側には赤い三角コーンが作るバリケードが長く並んで道幅を狭め、石畳にできた大きな水溜まりが殆ど一本道に。
 芽依が違和感を感じ取ったのは、少女が水溜まりを避けるようにしてバリケード側に身を寄せたときだった。
 (精霊力レイズ?)
 気配の出所を追って、空を見上げていた。
 空――、ないしビルの中だと思われたが委細不明。この際はどうでもよい。今、この瞬間にも落下し続けているガラス片の方が余程問題だった。
 音もなく割れた窓ガラス。いつ巨大地震が発生したというのか。
 事故などでは絶対にあり得ない物量の凶器/少女目掛けてまっしぐら。
 死刑執行に気付かぬ当人/破砕音なし。
 後をつける芽依だからこそ察知可能な変化だった。
 芽依は”死”に向かい飛び出していた。その行為の意味を考える前に。
 それでもガラスの落下速度の方が早かった。よしんば少女の手を取ったところで、その場から一メートルも動かせずに串刺しが必至。それだけ絶望的な高さと大きさだった。
 少女が何気なく上を眺めた/一歩も動けず/双眸だけが見開かれていく。
 水滴が付着したレンズ越しに映る絶望。命運は、途絶えていた。
 もう当人が屈もうが駆けようが間に合わない。まして他人が助けることも叶わない。奇跡が起きてもまだ足りない状況。
 ――ならば、実力で超える。
 「《部分兵装開放パーティシヤルアクト》」厳かに。
 瞬間、芽依の足でロケットエンジンが点火したかのような加速。
 左足から繰り出される一歩で少女との相対距離を零に――両手で抱き抱える――右足から繰り出される一歩で死から遠く離れ――ふくはぎの筋肉が断裂する音――激痛に耐えられず転倒。二人まとめ歩道に投げ出される。
 芽依は背後の聞いたこともない轟音に振り返らず叫んだ。
 「何、ぼーっとしてるの! 逃げるわよ!」
 過ぎ去った景色を呆然と眺める少女を叱咤。率先して立ち上がったところに刺すような痛み、そして猛烈な目眩/吐き気。一瞬とはいえ、精霊力レイズを解放した代償の清算を早くも要求された。
 だが、ここで立ち止まったり腰を付いたらしたら、絶対に立ち上がれない。それは予感ではなく確信だから、立ち止まることは出来なかった。
 よろよろと起き上がる少女の手を取り、引きずるようにして現場を後にする。
 途中、手を引かれた少女が、件のビルの上にじっと視線を投げた。芽依もどこか遠くから誰かに見られているような気がしたが、今は念じるより他にない。
 ひたすら”動け、動け、動け”と自らの心臓に火をくべた。一歩ごとに襲いかかってくる拷問苦に負けぬよう。

 結局、芽依に残された体力では、遠く離れることができなかった。事故現場から数百メートル先の角を曲がった所にあった、閉店後のドラッグストアまで引っ張って来ると、併設された赤いベンチへ倒れ込むようにして腰掛け、うずくまった。ここなら、少なくとも雨に濡れることはない。
 想定外のトラブルで、早くも黄色信号が点灯。早々に駆けつけるであろう警察に見咎められる前に当初の目的を達せられるのか、洒落ではなく雲行きが怪しくなった。
 芽依は少女を横目にする。その気になれば彼女は芽依を放って逃げ去れる。にも関わらず、同じベンチの端でどうするべきか分からないまま、壊れたロボットのようにおたついていた。
 「あの・・・・・・大丈夫、ですか?」少女の消え入りそうな声。
 芽依の頭の中では耳鳴り(キンキン)が暴力的ガンガンな演奏の真っ直中ジヤンジヤンなのに、自然と、消されることなく入って来る、丸く透明感のある響き。例えるなら、森林を流れる清流のような心地よさ。不思議と、耳鳴りまで音色トーンを変えた気がした。
 「・・・・・・ええ、大丈夫。問題ないわ。アナタは?」
 本当は問題だらけで、いっそのこと倒れてしまった方が楽なんじゃないかとさえ思ったし、そう思われていただろうが、辛さを醸さぬよう努めた。
 「わたしも、大丈夫、です」無理矢理笑みを作る少女「あの・・・・・・お礼、言って、ませんでした。あ、あの・・・・・・ありがとうございます。助けて貰って」深々と頭を下げる。
 「名前――そういえば名乗ってなかったわね。私は黒岩芽依。アナタは?」
 「お、折笠、花音かのん、です」
 返答は吃音でもあるのかと思うくらい堅い。せっかくの美声が台無しだった。
 もっと自然に聞けないものか――芽依は考える。
 ふと、どうでもいい質問が湧いた。
 「“かのん”――良い響きね。どういう字を書くの? 平仮名?」
 「“花”の、“音”です――――あのっ!」
 花音は前に身を乗り出し、芽依に迫った。
 「黒岩さんの、“めい”っていう字はっ! どう、書くんですか・・・・・・!?」
 それは、懸命に相手を理解しようとしている目だった。まじめで、気が小さく、自分に自信がなくて、不器用な、そんな人柄が透けて見えた。
 印象で他人を判断するのは危険だとは分かっているつもりだったが、とても好戦的な性格をしているようには見えなかった。家族を殺した張本人である可能性が濃厚なのに、どうしてもイメージが結びつかない。
 「“草冠”に”牙”、“にんべん”に”ころも”だけど・・・・・・」
 手の平でなぞるようにして、花音は文字を確かめる。それで文字がイメージできたらしく、“おぉ”とちょっとした歓声を上げる。
 「とても、可愛らしいと、思います。ご両親に感謝、ですね」
 そのキーワードを耳にした瞬間、芽依に閃き――追跡者ストーカー紛いの行動をせず、情報を引き出せるかも知れない算段が一気に立った。
 顔を上げ、相手の顔を視界の中心に据える。
 しっかると間を開け、相手の反応を観察する準備を整えた。
 「二人とも他界したわ」
 父親は生きているのかさえ分からないのだから、死んだことにしても強ち間違っていない――芽依は心の中で、“嘘はない”と強弁。
 花音は絶句。挨拶の直後に地雷を踏んでしまった。初対面で、しかも命の恩人である。唇を振るわせるも、言葉が出せない様子だった。
 「母親はつい最近。駅前のショッピングモールであった大きな事故があったのは知ってるでしょ。それに巻き込まれたの」
 「ご、ごめんなさい、わたし・・・・・・全然、知らなくて」頭を振って懸命に謝罪。
 ――知らなかったのは親なしであること? それともアナタが事故に巻き込んだこと?
 気がはやって口から飛び出しそうになる/口を強く結ぶ。
 「謝らないで。知らなくて当然なんだから。それより、あんなところで何をしていたの? 未成年が出歩くような時間じゃないわ。きっとご家族が心配してる」
 芽依のイメージした展開はこうだ。まずは家族の死という状況をトリガーに相手の素性に入り込み、街の噂話で引きつける。そして話の中で異世界アナザーに紛れ込んだことがあると匂わせ、話を広げながらジュエリストの秘密を掠める。
 そう難しくはない。何せ、芽依は命の恩人で、花音はこうも気弱な性格だ。相手に同情なり共感なり与えられさえすれば、“押し”で真実の一端は開かれる。
 ――そう、芽依にとって難しくはなかったはずだった。花音のその台詞さえなければ。
 「両親は死んじゃいました。双子の弟も。わたし以外、みんな仲良く空の上です」
 これまでのつっかえが嘘のように滑らかな独白。凍れる微笑が深く沈んだ。
 今度は芽依が絶句。用意していた言葉が、脚本が、一発で破綻した。
 「わたしの、場合、交通事故、でした。パパ――ち、父の運転で、久しぶりに、旅行に、行ったんです。家族みんなで。こ、高速道路でわたしは、後ろの座席で、多分、寝てて。気付いたら、車が、ひっくり返ってて、それでみんな、みんな――」
 徐々に透明な声が濁りだした。一言ごとに興奮が高まり、矢継ぎ早に喋った。
 そして異常事態。花音の眼球が細かく動く。体を抱くように両手を交錯。一体、何かから自身を護ろうとしているのだろうか。
 「――で、でも。変、なんです。だって、旅行の予定なんて、言ってなかったし。二人とも、ずっと前から、口、きいて、くれなくなってたけど――着替え、持って、なかったのに。何時間も、ずっと、運転してて。どこ行くの? って聞いても、やっぱり、答えてくれなかったし、母も、全然、喋らなくて」
 花音は、何か大切なことを思い出したように、俯き顔を上げた。顔を両手で覆った。
 「でも、一番、おかしい、って思ったのは、やっと出口で、降りる、はずなのに・・・・・・全然スピードが、ブレーキも踏んでなくて、パパ、何も言わな――ママも! 詩音しおんが叫んだんです、“殺す気か!“って! そしたら、ハンドルを、ちょっとだけ、動かしてくれたんですけど、足りなくて。それじゃ、全然、出口にも、本線にも、中途半端な位置・・・・・・でも、警察のひとが、“これは交通事故だ”って。病院の先生も、みんな、そう言うんですけど、何か、おかしくて・・・・・・何がおかしいのか、全然、分かんないですけど、何か、おかしくて。一生懸命、思い出そうとするんですけど、思い出そうとすると、う、うまく言、こ、ここ言葉、出なくって」
 とうとう、がたがた震え出す花音。顔色は怪我人である芽依よりも悪くなっていた。
 言葉の端々で矛盾と欺瞞が見え隠れした。芽依はそれに気付きながら、触れようとはしなかった。きっと意味はないだろうから。代わりに、その壊れてしまいそうな華奢な腕に、そっと、指先を添えた。
 「思い出さなくていい。無理に思い出す必要はない。思い出せないなら、そのまま忘れたって構わない。アナタを苦しめるだけの記憶なんて、捨てたって構わない」
 「ありがとう、ございます。先生も、そう言ってくれるんです。“必要があれば、いずれきっと思い出す”って。でも、わたし――薬、貰ってるせいか、物忘れが酷くて。怖いんです。忘れることが」
 壊れそうな、あるいは既に壊れてしまった笑顔。
 「さっき、“何していたのか”って、聞いたじゃないですか? わたし、それ、答えられないんです」
 頭に片手を添えて。
 「覚えてないんです。家にいたはずなんですけど、いつの間にか公園にいて。ブランコ、漕いでました。雨が降ってるのに、傘も持ってません。変なんです、わたし。だから忘れないように、忘れないようにって頑張ってみるんですけど、やっぱり忘れてるし、絶対思い出せない!」
 もう片方の手も添えて頭を抱えた。
 「ごめんな、さい。やっぱり変、ですよね。流石にキモい、というか。自分でもそう思っちゃうくらいだから、ドン引き、みたいな? はは・・・・・・」
 「私も独りよ」
 「え・・・・・・?」
 芽依の即応に、花音は戸惑う。
 「さっき、“親なし”だって、言ったでしょ? もう少し正確に言うと、“家族なし”なの。本当は小学生の弟がいたんだけど、死んだわ。母と一緒に。私は同じ場所に居たけど、二人は死んで、私だけが助かったの」
 これで芽依が異世界アナザーに飲み込まれた可能性があること、そのせいで家族を失ったことに気付いただろう。二人に刻まれた深い傷跡を見せ合ったことで、共感や同情を覚えることになるだろう――すべて当初の構想通りだ。
 なのに、何ら意味がないように思えた。
 「同じ、場所? ・・・・・・そう、だったんですか」
 「それと、記憶が曖昧だから、そんな他人と違う自分は受け入れられない、と考えてるみたいだけど、私は自分のことを『人間じゃない』って思うことがあるわ。家族が死んでから今日まで、一度も泣かなかった。いえ、泣けなかった。悲しいとは思っているはずなんだけどね。あと、私の頭の中には、別人が住み着いているの」
 頭上に?が付いたような花音の表情。
 「たまに話しかけてくるし、訳の分からないことを喋ったりする。ついさっきは、口論――みたいなことにもなったわ。ああ、でも、やっぱり、極めつけは”化け物の相棒がいる”ってことかしら? これだけは別次元――いえ、異世界アナザーの出来事ね」
 改めて話すと、本当に突拍子もなかった。掻い摘まんだに過ぎないというのに、荒唐無稽にも程がある。冗談なら場違いだし、真剣ならそれこそ正気の沙汰ではない。
 「どう? 私のことも頭がおかしいって思うでしょ? 私も確かに、自分のことを普通じゃない、まともじゃないって、そう思う。でも、それで自分を貶めたりはしない。“それはそれ、これはこれ”よ。折笠さんも、焦ることはないわ。きっと、時間が解決してくれる」
 慰めの言葉を口にしておきながら、相手の反応に激しく苛ついた。そこにあるのは感銘であり、希望への戸惑いだった。
 眼を、口元を、手足を、じっと観察し続けていた。なのに、どこにも言葉の裏に隠された意味に気付いた兆候がない。花音がジュエリストであることは間違いない。賞賛すべきはそれを隠し続けられる神経の太さか。さもなければ、本当に何も知らないか。
 否定し切れないその可能性を、本当は途中から察してはいた。
 もし、変身の影響が身体ではなく、脳機能に障害を起こす可能性があるなら。
 例えば、決闘装束デュエルドレス解放の代償が”記憶の損傷”だったなら。
 現実は花音にとって真実ではなくなる。責任追求なんて、夢のまた夢だ。
 「黒岩さんは、強いんだ。とっても。とっても」明るめの微笑
 「“芽依”、でいいわ」薄暗い微笑。
 「なら! わ、わたしも、“花音”って。その、よかったら、だけど・・・・・・」
 悪意のない、はにかんだ顔。無視も殺せそうにない、その表情に、芽依は打ちのめされる。
 これまでの行いが、すべて否定されたかのような徒労感。
 これまでを、なかったことになど絶対にできない使命感。
 「花音」
 芽依は痛めた足を引きずり、ベンチの端からすり寄った。花音の腕を掴む。
 強く、藁をも掴む思いで。痛みに顔をしかめるのも気付かないほど懸命に。
 「教えて。私の家族を――私の母と弟を殺したのは花音? あのショッピングモールで、建物に金色の剣を打ち込んで、それで殺したの? 教えて・・・・・・お願い!」
 それも花音の反応は変わらない。言葉の意味が分からず、ポカンと口を開けて――、
 「くっ」
 ――小さく、細い喉を鳴らした。
 「くくっ」
 それが笑い声だと気付く間に、花音の頭がぐらぐら揺れ、目玉がぐるりと反転。首が直角に折れた。
 「違う違う。殺したのは花音じゃない」
 自らに降りかかる疑惑を払うよう、胸元で手を振った。
 「俺だよ、俺。お前の家族を殺したってゆーの、全部俺の仕業。花音コイツは何一つ覚えちゃいないさ」
 唐突に、口調が変わった。
 態度が変わった。
 気配が変わった。
 存在が変わった。
 「アナタ、誰?」
 芽依は異常事態をすんなり受け入れる。それを演技だとは思いもせず、花音ではない別人だと指摘した。
 「俺か? 聞いてどうすんだよ、んなこと。誰も信じちゃくれないぜ? ってゆーか、案外驚かないんだな、お前」
 同じ顔で別の人格に免疫があるだけだなんて教えてやらない。芽依はただ次の言葉を待った。
 「折笠詩音しおんだよ。折笠花音は、俺の双子の姉貴さ」
 そんな馬鹿な、と叫びたくなる心を押さえ付けて話の流れに乗った。
 「改めて聞くわ。アナタがやったの?」
 「改めて言うな。俺がやったんだぜ?」
 「何故」
 「俺が知るかよ、んなこと――――ッとぉ。・・・・・・まぁ、ネオアンガーぶっ殺すのにパンピーなんざいちいち気にしてらんねーから、じゃね?」
 (・・・・・・誤魔化した? 何か理由が)
 芽依の追求前に、詩音の質問が被さった。
 「つーか、お前。何でそのこと知ってんだ? あっちじゃ、意識保ってらんねーだろ普通――」くひっ、と不快な笑い声「――ああ、お前、どこかで聞いたことある名前だと思ったら、あー、そういうことか。へぇ~、お前がねぇ?」
 ニヤニヤと意味ありげに、上から下まで舐め回すように眺めると、おもむろに芽依の胸を鷲掴みにした。
 「ガリガリかと思ったら結構あんじゃん。芽依って着やせ――」
 芽依が問答無用で殴りつける/躱される。
 「――って、いきなりかよ。すっげー凶暴な女」くすり。
 「眼には眼を、歯には歯を、痴漢には死を」ぼそり。
 芽依の黒瞳には本物の殺意。家族の事とは無関係に抹殺が確定する。
 「でもいいじゃん、そういうの。マジでそそるね。顔も割と好みだし」
 死刑執行――詩音は無言で振り抜かれる拳をすり抜け、ベンチからさっと飛び退く。
 妄動と見せかけて、芽依の性格と怪我の具合は計算済みだった。
 「お前には一応借りがあるみたいだからな。命の恩人ってやつ? だから、今日のところは見逃してやるよ。こう見えて俺は忙しいんでね」
 くひっ、と件の不快な笑い方を耳にする度、花音の宝物が汚される気分になる。やはり殺すしかないと再度決意。
 芽依が腰を浮かしかけた瞬間だった。
 「“眼には眼を”ってやつ? だよな。やっぱ、殺されかけたら、ちゃんと殺し返さないと不公平だもんな」
 言うや否や、詩音は金色の輝きに包まれる。目映い、決闘装束デュエルドレスの輝き。
 「精霊なしで変身・・・・・・!?」
 問いは届かず、眼前から光が消えた。どうやって、どちらにいったかのか。強化前の感覚神経ではとても追えるものではなかった。
 計画は失敗した。そのケースも考えてはいたが、今は新たな情報を纏める必要があった。だがその間は与えられなかった。
 雨の中を、傘を差したスーツ姿の男が歩いて来る。
 長身痩躯。飴色の長髪。整った顔立ち。切れ長の瞳は、夜の闇より深く暗い。生も、死すら飲み込んだ、まるで生ける死人。
 「カーウェイン=ストレイマン・・・・・・!」
 「黒岩芽依。真実は君にとって希望になっただろうか。それとも絶望だろうか」
 このタイミング。間違いなく偶然ではない。芽依か、詩音のどちらかを付けていたとしか考えられない。
 「花音と詩音のこと、知っていたの? 知っていて、私にあんなモノを見せたの!?」
 男は黙したまま答えず、芽依の眼前に立つ。芽依は咄嗟に立てず、男を見上げた。
 「答えなさい・・・・・・!」
 「その質問は無意味だ。私の答えを、どうして君は信じられる? 何をもって真とする。君は私ではなく、ただ君の感情に問えばいい」
 沈黙――やはり、信じるに足る理由はない。
 沈黙――ならば、自分の論理/理屈を通すしかない。
 沈黙――だから、自分の直観/感情を信じるしかない。
 「逆に問おう。復讐は正義足り得るだろうか?」
 沈黙――正しいと思えれば、それは正義だ。
 沈黙――正義だから復讐したいんじゃない。
 沈黙――復讐したいから復讐するのだ。
 「君にとって正義とは何か?」
 沈黙――知ったことか。
 沈黙――私は、
 沈黙――感情のまま、
 沈黙――生きる、
 感情のまま――だったら何で感情を剥き出しにしない? 誰彼構わず牙を向けない? と限定する? 余計な誰かを助けようとする? 誰かを助けられない者達に憤る?
 本当に/心の底から、私は/黒岩芽依は、復讐したい/やり返したいのだろうか?
 当惑する心を映し見るようにカーウェインは言葉を紡ぐ。
 「君の時間は永遠ではないし、二度目があるとも限らない。感情のまま歩み、その拳を振るえばいい。ジュエリストたる君には選択肢がある。他の誰にも選べない選択肢が」
 一間。
 「やりたいようにやればいい? なら、もし――」
 一呼吸。
 「その人を殺したいと思ったら?」芽依が問う「殺せばいい」カーウェインが答える。
 「その人を救いたいと思ったら?」芽依が問う「救えばいい」カーウェインが答える。
 「その人を愛したいと思ったら?」芽依が問う「愛せばいい」カーウェインが答える。
 「もし――」
 一言。
 「――私が暴発やらかしたら?」
 ぽつりと。
 「誰も、君を止めることはできない。そして、その結果はすべて君のものだ」
 カーウェインは権利ちから責任けつかは表裏一体であると示唆する。
 善いことも、悪しきことも、その顛末を受け止めるべきは、力を振るった者自身だ。そこから逃れることはできないし、逃れてはいけない。
 高潔でなくていい。崇高でなくても構わない。ただ他人に押しつけず、清濁を併せて飲み干せばいい。その覚悟があればいい。難しくともなんともない。
 そう、難しくはない。とてもシンプルなこと。それが、選択するということだ。
 「私が――私だけが、私を止めることができる。私以外の誰も、私を止めることなどできない。でも、すべての行いに絶対はない。だから復讐しないという選択肢だって――、そうね、私の中にはきっとあるんだわ」
 カーウェインは芽依の独白を否定も肯定もしない。
 ただ、そこに在る。親兄弟でもなく、教師でもなく、友人でもなく、知人でもなく、善人でもなく、悪人でもなく、義人でもなく、ただの他人。ただの隣人。ただの人間。
 こんなにも人間離れした人間が二人。年齢が離れた、性別の違う、思考が理解できず、思想が理解できる、とても奇妙な関係。
 考えれば考えるほど掴み所がない、考えるだけ無駄だと思わせる相手なら、匙を投げたって構わない。構わないことにする――芽依は胸の内で両手を上げた。
 「結局、アナタは何が言いたいの? 何をさせたいの?」
 溜め息が漏れそうになるくらい純粋な疑問。
 カーウェインはやはり答えず。代わりに傘を捨て、スーツが汚れるのを気にせずに片膝を付いた。典雅に。慇懃に。恭しく。まるで、少女めいの足に口づけをして懇願するかのように。
 「何、を・・・・・・?」
 その淫靡な構図に、芽依は顔から火が噴きそうになった。
 カーウェインは怪我をした足にそっと触れる。
 ジーンズ越しに伝わる熱――いや、熱を発しているのは芽依の足か。
 足だけではなかった。一瞬にして高熱が全身を侵し、思考まで溶けそうになった。
 熱の正体は体の異常活性だった。尋常ではない新陳代謝――通常の何十倍、何百倍の速度で進行する細胞の生まれ変わりを、小さな疼きと、薄らいでいく痛みの中に知った。
 芽依の白い頬が上気する。瞳が潤む。唇が、微かに震えた。
 ふいに、深淵のように暗い瞳と、削り出した黒曜を思わせる瞳とが交錯した。
 芽依は口をへの字にして、恥じらいを隠した。鉄拳は、振り下ろされなかった。
 「君は――」
 ほんの一瞬だけ、芽依に過去を映し見たような男の仕草。
 「――いや、いい」
 いつも老木然として不動の男にしては珍しく、言い淀んだ。すると、用は済んだとばかりに、すかさず立ち上がり、踵を返す。
 芽依は咄嗟に立ち上がっていた。足の痛みが殆ど無いことに、後から気付いたくらいだった。
 「今更かも知れないが――“体は大切にした方がいい”」背中越しに。
 「そうね。アナタと違って、私の体は生え替わらないのだし」背中に向けて。
 皮肉×皮肉=奇妙な間。互いに悪意はない。
 ただ、互いに気の利いた別れの言葉を使う気がないだけ。
 ただ、それだけのことだった。
 「一応、礼を言っておいた方が良さそうね――ありがとう」
 果たして芽依の言葉おもいは届かない。届かないと知っていて、忽然と消したその後ろ姿へ、言の葉をそっと放る。

 <くっ、何故こんなことに・・・・・・! 一刻も早く、あの者達にこの事実を伝えなくては!>
 一匹の獣が、ビルの屋上から屋上へと移り行く。
 その獣は、人間で言うところの”膝周り”が逆間接になった二本足と、バランスを取るための長い尻尾を持っていた。動物で例えるならワラビー様の姿だが、ワラビーはこんなドロドロと腐敗して、今にも崩れそうな体をしていない。
 その獣には体毛がない。そもそも皮膚も筋肉もなく、内側から絶えず透明な泥を垂れ流すことで辛うじて形状を維持しているような怪物だった。
 怪物は焦っていた。一刻も早く、あの場から離れなくてはならなかった。見つかれば、挽回のチャンスは二度とやって来ないだろう。何せ、既に千載一遇の好機を潰しているのだ。
 優先度を間違えた――その後悔だけが、怪物の胸に激しく渦巻いていた。
 自らの過ちをもみ消そうとなど考えず、真っ直ぐ合流すれば良かったのだ。恥を忍べば良かったのだ。例え、この呪われた体を蔑まれ、哀れまれようとも。きっと、彼らならば、この問題を解決する為の合理的判断ができるだろう。特にあの”蒼炎の鷹”は揺らぎもしないはずだ。卑小な尊厳を捨て、一人の騎士として、その責務をまっとうすべきだった。
 だというのに、たった一人の人間を殺すことに拘ってしまった。罠を張り、精霊力レイズを使って建物を破壊するという禁忌を犯した挙げ句、失敗してしまった。
 まさか、あんな形で邪魔が入るとは、考えもしなかったのだ。こちらの世界では、想定外の出来事が多すぎた。今にして思えば、王国神官の提示した”ジュエリストの候補たる人物を、各国の代表が個別に探し出す”という最初の方針からして、過ちだったとしか思えない。
 他の四人に遅れを取るばかりか、こんな事態になるだなんて!
 「ょう、相棒。そんなに急いでどこに行くんだ?」
 そのとき突然、空から降って来た可憐な声に反応し、怪物は立ち止まった。
 そこへ、金色の輝きが空から降り立った。
 <詩音・・・・・・、貴様――貴様達は一体何者だ!?>
 怪物が詩音アンバーに問う。問わずにはいられなかった。
 鼓膜を振るわせずに脳へ伝わるその濁声の酷さに、少女は耳をほじって嫌悪感を示した。
 「どいつもこいつも何者何者って・・・・・・。自分が不審者になったみたいで、何かちょっと傷つくよな。って、言うかさ。アンタ、俺のことは良く知ってんだろ? 何たって、俺をジュエリストに選んだのは他ならぬアンタだからな、なぁ聖霊セイントアラリスさんよ」
 「っく・・・・・・!」
 アラリスと呼ばれた化け物は咄嗟に反転――、し損ねた。
 振り向いた瞬間、目の前に金色の剣が突き立っていた。更に方向転換する間もなく、剣が降り注いだ。乱立する剣と剣とに、四方八方を塞がれ身動ぎすら困難になる。
 唯一残された空から、アンバーが覗き込んで来た。
 「やってくれたよな、アレ。マジで一瞬、死ぬかと思ったぜ? 別に助けなんざ必要なかったけどな。いらねー借りを作っちまったじゃねーか」
 <それは誠に残念だった。小官としても貴様という我が騎士道におけるシミをぬぐい去っておきたかったのだが・・・・・・何事も上手くいかないものだ>
 「騎士道ねぇ? それはそうと、俺の『檻』をどうやって抜け出した? 幾ら死霊化してるからって、おいそれと破れるもんじゃないんだけどな」
 アンバーの手に輝き。一瞬にして生成した短剣を宙に放り投げる。
 更に問いただすか、脅しでもかけるかと思いきや、アンバーは指先を下に向けた。
 すると、宙を舞っていた短剣が急速回頭。指先の指し示す先――アラリスに突き刺さった。
 <ぐわぁあぁ!>
 怪物が、実に怪物らしく咆哮した。その声が聞こえているのかいないのか、晴れやかな笑顔でアンバーは問うた。
 「どうやって抜け出した? ん?」
 今度は二本、宙に投げ出された。アラリスは答えない。二つの刃が、突き刺さった。
 <ああぁあぁ!>
 「で、俺はあと何本ぶち込めばいいんだ? 幾ら死んでても痛いだろ、純粋な精霊力レイズの攻撃は」小首を傾げる「あー、死んでるから余計痛いのか。はは」
 言いながら更に三本を突き刺す。
 「聞いてますかー?」四本。「もしもーし、聞こえてますかー?」五本。
 泥で出来た体のいたるところに剣が刺さっていた。刺さっていないところを探す方が難しかった。もう、叫び声もなかった。
 「本当に強情だね。腐っても――いやいや、死んじゃっても『聖霊セイント』ってとこ? 大変だね、アラリスも。どうせアイツらの誰か何だろ、お前にとっちゃ敵じゃん。庇って何になるっての?」すぐに閃き「あーあー、分かった分かった。『きせら』のやつだな」
 <・・・・・・!>
 アラリスの体が僅かに震えた。答えはなかったが、アンバーにとってはそれで十分だったらしい。
 「他の奴らだったら口を割っても、せいぜい”全殺し”で済むもんな。でもきせらならあの人の言いつけ無視して、本当に消滅させちまうだろ。そうなるとアラリスは仲間だった聖霊セイントのところへ戻れなくなってしまう。それは王国のためにならない。だから黙ってる。何だかんだ言って、お前ら精霊って義理堅いのな」
 消えゆく意識の中で、アラリスが問うた。
 <貴様、達は、一体・・・・・・>
 せせら笑う詩音。
 「知ってんだろ? 俺は折笠死音。お前ら精霊に死の音色を教えてやる死人、《死せる者のアヴァロン》の二重合成石ダブレツトだよ」