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第一章 始動

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「うっとおしい」
 黒岩芽依は、他の誰にも聞こえない音量で呟く。
 背筋を伸ばして椅子に腰掛け、視線は手元で広げた詩集に定めたまま微動だにしない。
 ともすれば、詩の一節を読み上げたかの様だった。
 しかし、作品に没入した人間が漏らすにしては不自然な、明白な嫌悪を滲ませていた。
 芽依は肩口まで伸ばした黒髪を後ろで一つに束ね、同色のセルフレームの眼鏡が優等生然とした――事実、学年で一、二を争う成績を修める優等生である――印象を堅固なものとしていたが、どのクラスにでも必ず一人はいる生真面目で責任感の強い、俗に言う『委員長タイプ』かと言えばそうではない。むしろ対極と評すべき人種であることは、自他共に認めるところだった。
 レンズの奥の黒瞳は研ぎたての刃物のごとき光を映し、中学生という年頃にしては些か鋭すぎる気配を醸していた。
 目は口以上に語るというが、芽依には嫌悪して止まない類いの輩がいた。
 嫌悪対象其の一、ばか騒ぎする人間。
 朝っぱらから、この狭い教室でやんややんやと、全くもって度しがたい。
 安全弁の壊れた機械みたいに動き続けるその口を得意の針で祭り縫いにしてやろうか思案していると、また甲高い声が鼓膜を突いてきた。
 「だーかーらーさ! またなんだって。また見た子がいるんだって。そんなのこの街だけじゃん? マジやばくない!?」
 金木祐佳の特徴的な高音ハイトーンが捲し立てた。
 恐らく、これでも当人は声を忍ばせているつもりなのだろう。
 「・・・・・・にしてもさぁ? そんなのホントにいるのかなぁ? その『謎の化け物』って、超ぉー胡散臭いんですけどぉ? 何かしょーこあんの? しょーこ」
 金木祐佳の一つ後ろの席に座った桜井美樹が、やたら語尾上げの激しい口調で返す。
 その態度は半信半疑どころか、まるっきり与太話だと信じて疑っていない。今も相手の話を聞き流しながら、教師に咎めらぬよう明るさを抑えて染めた髪を弄っていることだろう。
 嫌悪対象其の二、知性を感じさせない人間。
 自分の愚かさを公言して回るような振る舞いに、閉口させられるのは何も今に始まったことではなかったが、いい加減その緩んだ頭のネジは締め直した方がいいだろう。
 話題の大半は大手メディアが報じるゴシップのくせに、この手の怪談には懐疑的だと言う。
 どちらも眉唾物であることに変わりないはずだが、どの辺りに判断基準があるのか、今もって芽依には判らなかった。
 「絶ぇっ対いるって。これマジだから。あたし見たもん、駅前のあの本屋の隣なんてさ、すっごいんだよ? 何んつーか、こう、ぶぅわぁーって壊れてんの、マジやばいってあれ!」
 金木祐佳が陳腐な感性を全開にして反論を繰り返すが、桜井美樹の態度は変わらなかった。
 芽依は嫌悪する二人を黙せる脚本シナリオを一通りシミュレーションし終えると、開いた頁に栞を挟み、パタンと、ややわざとらしく本を閉じた。
 そして、背後を振り向いた折りだ。
 教室の後ろの扉から二人の少女が入って来た。
 それだけのことで教室中の視線が注がれ、にわかに空気が華やいだ。
 金木祐佳が教室の雰囲気に気付くと、後ろの席に付こうとする二人に向け、耳を塞ぎたくなるほどの大声で挨拶を飛ばした。
 「あ、ヨッシー! ひかりも! おっはよぉ~!」
 二人が教室に入ると、
 「お、おはよう。裕香ちゃん」
 やや引き気味に返したのは吉岡夢乃、通称『ヨッシー』。
 そのあだ名の由来は、姓を海外のとある湖に住まうとされる首長竜の子孫をもじっただけの不躾なものだったが、定着した理由は夢乃の体型にあった。
 中学二年生という成長期真っ盛りのクラス男子を楽に超える長身と、それに反比例するように小さな頭部。7.5等身という数値が、夢乃を常人扱いさせなかった。
 夢乃は全体的に肉付きが薄い。手足は細く、そして長い。特に足の方など股下が長過ぎて、他の女子と同じ比率でスカートを履いているにも関わらず、生活指導の教師に丈の注意を受けるという逸話がついて回るほどだった。
 夢乃にはもう一つ有名な逸話がある。入学直後に行われた身体測定後、全運動系の部活から熱烈に勧誘された唯一人の人物で、そのすべて断っているにも関わらず、中学二年の夏を超えた現在であっても幾つかの部はアプローチを継続中という驚くべき記録を打ち立てていた。
 もはや伝説と謳われても過言ではない。勧誘が途切れない理由は、先の優れたアドバンテージだ。見た目だけでなく、実用性も極めて高く、特に陸上競技では、夢乃の前を走る人間を誰も見たことがなかった。
 それが、学年が上だとか陸上部だとかいった類の肩書きが付随していようがいまいが無関係であるから驚きだが、さらに驚きなのが、彼女が料理部の一員であることだった。
 類い希なる才能が一切活かされない部活動に所属しているせいで、少なくない数の生徒が体育教師の嘆き節を聞かされる羽目になっていた。
 吉岡夢乃は誰がどう見ても特別だ。しかし、もう一人と比較すれば、まだ普通の延長線上にいるのかも知れない。
 「おっはよぉ~、結香ちゃんってば今日も元気元気!」
 特別な賞でもさらってきたのかと思わせるような調子で、教室中の生徒が一人の少女へ次々と挨拶する。
 すると、少女も一人一人に対し――律儀に名前付きで『アナタのために』とばかりに――きっちり挨拶を返した。
 最早、二年C組にとって日常と化した光景の中心には”宝生ひかり”がいた。
 宝生ひかりは特別――というより異質だ。物語で例えるなら、最初から『醜いアヒルの子の正体は美しい白鳥でした』と判っているようなものだった。
 ひかりはこの小桜市立白月中学校で最も有名な人物だ。教師、生徒を足し合わせても知らない者はいない。教頭の名前は言えない人間でも、“宝生ひかり”の名は言えた。
 轟くような悪名の看板をぶら下げた生徒だったとしても、こうはならない。
 “宝生ひかりは誰からも愛されている”
 究極的には、この一言に集約される。だが、それだけで片付けると、発言者の恣意か偏見を疑われてしまう。
 彼女には他者から愛されるだけの明確な理由があった。
 その要素一つ一つが猜疑心さいぎしんの塊のような人間まで納得させるだけの、完全無欠な裏付とはなりえないだろうが、他人に語る場合は、やはり多くの人間が重ねて思う点を列挙する必要があった。
 第一に、宝生ひかりは、誰からも愛される容姿をしている。
 最も目がいくのは、その大きなライトブラウンの瞳。周囲を花弁のように取り巻く長い睫毛と、綺麗なアーチを描いた二重瞼がよく映える。
 髪はセミロングで、癖がなく、明るい亜麻色をしている。真っ直ぐに下ろした前髪が、優しげな眉を密やかに隠し、筋の通った鼻梁は凛とした印象を強めていたが、ほんのり桜色に色付く唇が可憐な少女の風情を決定付けている。
 ほっそりとした顎の曲線を辿り首筋に至る頃、ひかりの滑らかな乳白色の肌が、化粧で塗り固められたものでないことに気付くだろうが、そもそも肌といい髪といい、日本人にしては色素が薄すぎることにも注意を払う必要があった。
 ひかりはクォーターだ。一等親だけでも四つの国の混血児であるため、顔立ちは日本人的でありながら、生まれながらにして虹彩や髪に一切の黒色がなかった。
 背丈は平均よりやや高め。発育は良好。吉岡夢乃ほど極端ではなく、誰もが憧れる均整の取れた理想的プロポーションをしている。
 ともすれば、吉岡夢乃とは違った次元で周囲の目を惹き付けた。
 ひかりが歩けば、皆その後ろ姿を横目で追い掛けた。
 何も着飾ることなく、群衆の中に在っても決して紛れる事がない、文字通り異色の少女。それが”宝生ひかり”という少女だった。
 容姿だけでも何かと話題の尽きないひかりの特異性だが、果たして、外見だけが美麗であれば誰からも愛されるだろうか? 答えは分かり切っている。ノーだ。
 見た目は世間体を決めるが、人間性は計りきれない。
 むしろ優れた容姿は、人間性を歪めることさえ往々にしてある。
 他者より優れているという事実が、『自信』を通り越して『傲慢』に変貌することもあれば、他者の羨望がもたらす『反感』と『憎悪』によって人格がねじ曲げられてしまうことさえ珍しくはない。
 ところが、“宝生ひかり”は誰からも愛される。何故か?
 二つ目の理由は至って単純な理由だった。それは、ひかりが万人を愛するからだ。
 接するときは分け隔てなく笑顔で。挨拶は陽気に。とるに足らない話題でも真剣に聞き、何気ない変化を見逃さない。
 良きことは讃え、悪しきことは諭す。押し付けがましい理想や正義は脇にやって、照れ笑いをしながら道義に準じる。
 人の善意には好意で応える。悪意には返報せず、ただ過ぎ去るのを待つ。
 驕らない。妬まない。蔑まない。でしゃばらない。かと言って人の陰に隠れもしない。
 誰もが思い描く、器量の大きく中庸ちゅうよう的な振る舞いを日々やってのける。だからこそ愛される。
 繰り返しになるが、宝生ひかりは誰からも愛される。
 その最後の理由は、彼女に極々近しい人間にしか気付いていないことだった。
 宝生ひかりが愛される最後の理由、それは彼女のやることなすこと、すべて及第点ぎりぎりである事だった。
 一例は学業の成績だ。黒岩芽依が入学当初から学年トップであるのと同じく、宝生ひかりの成績は、全体の真ん中から下目を水平飛行している。
 ゆとり教育からの脱却が叫ばれて久しく、学習要領は増加と高度化の傾向にあるとはいえ、ひかりの至って真面目な授業態度を知る学友には、それが不可思議に映ったことだろう。
 ひかりの成績に偏りはなかった。数学、社会、国語、理科、家庭環境を鑑みれば高得点が狙えるはずの英語ですら中の下だ。
 運動神経は得手不得手があるとしても、生活一般に対する教養や、音や物に対する表現力まで並み以下というのは、どこかに問題を抱えているに違いない――白月中学の教師陣も生徒たちと同様に下世話な想像を巡らせたが、宝生ひかりの生活態度は至って健全だった。
 そもそも半数の生徒は同水準以下なので、テストの答案用紙を返す都度『もっと頑張れ』やら『お前はやればできる子だ』と言った類の益体無い助言をするに留まっていた。
 そもそも、学業の成果が及第点である事と、愛される事に何の因果があるのだろうか?
 勿論、普通の人間には相関性などない。しかし、留意するべきは『宝生ひかり』という特異で異質な女子中学生のケースだ。
 優れた容姿に気立ての良い性格が乗っかっていて、これで学業まで優秀だったなら、彼女をやっかむ声は大きくなっただろう。
 端的に言って、本人はどうあれ、そこに存在するだけで嫌みだ。
 それだけ成績という社会的ステータスは大きな重みを持っている。
 ひかりの成績が人並み以下であるということは、言い換えると、半数以上の生徒はひかりより上だということになる。
 あの『宝生ひかり』より優れているという現実が、どれほど蠱惑的なものか、特別な存在が身近にいない人間には想像が及ばないことだろう。
 ひかりと接した人間は”仕方ないから自分が助けてあげよう”と思わずにはいられない。
 両者のパーソナルスペースが保護者意識を掻き立てられるほどに近付いているのだと、気付くこともない。ひかりはそれだけ自然と相手の懐に入り込んでいた。
 人間は相手との距離感によって、対象の評価をコロコロと変える。
 近くにいると思えば好意を、離れていると思えば嫌悪を抱くし、遠くにいればいるほど無関心になる。
 そして、対象とある比較の軸を持ったとき、相手が自分より遙か高みにいると思えば嫉妬し、足下にも及ばないと思えば侮蔑する。
 では自分より少しだけ離れている場合はどうだろうか?
 少しだけ高い場合は憧れる。
 そして、少しだけ低い場合は慈しむ。その感情はペットに向けるものに近しい。
 宝生ひかりの弱さは大いに目立つ。
 宝生ひかりは何でもできすぎない。
 故に、誰からも愛される。


 ハイタッチでも始まりそうなノリで繰り返される下りに、芽依はあからさまな嫌悪を浮かべる。
 「・・・・・・うっとおしい」
 正面を向き直った芽依が呟く。
 先のより大きく、掠れた囁きは、次々と交わされる挨拶に呑まれ、やはり誰の元にも届きはしない。
 芽依はあえてその波に触れようとせず、高い位置にある時計を眺めた。
 三分遅れのルーズな針は、朝礼の五分前を指していた。
 芽依は無駄のない動きで本を机の中にさっとしまうと、雑踏から逃れるように視線を窓の外へ向けた。
 二年C組の教室から眺める景色に面白味はない。
 三階建て校舎の二階に位置しているだけでなく、校舎が住宅街に建てられているせいだが、最大の要因は、過去に頭の悪い生徒が窓から身を乗り出して滑り落ちるという事故を起こし、その対策として窓の下半分に鉄柵が設けてあるせいだ。
 問題の本質を取り違えたトンチンカンな対応のせいで、つまらない景観を壊滅的に損ねており、生徒達にはすこぶる不評であったが、芽依自身はこの窓が気に入っていた。
 景観などもとより期待していなかったのと、この教室に初めて入った瞬間に象徴化された世界を映し見たからだ。
 窓硝子は自由な世界と狭い箱に捕らわれた自分を隔てる壁で、堅牢な鉄柵は足掻いても壊せない枠組み。
 皮肉めいたものを感じずにはいられなかった。しかも、この馬鹿げた措置が施されたのは全校でもこの教室だけだ。
 二年生はAからEまでの五つで、アルファベットに優劣はない。よって、単純な確率論で割り当てられる可能性は二十五%。
 年度末のクラス割りは、まず成績順で割り振り、生徒間の相性でもって調整した結果だ。
 当時の芽依の成績は学年一位なので、AないしEが順当であるはずだった。それがど真ん中のCである。
 それにもう一つ、このクラス割りには芽依の願いを嘲笑う決定が仕組まれていた。
 教師らが生徒の組み合わせに頭を絞っている頃、芽依は日々祈っていた。
 『~ちゃんと同じクラスでありますように』などという可愛げのあるものではない。
 芽依は誰それと一緒になりたいなど、強がりでも考えたことがなかった。
 まったく逆だ。『宝生ひかり』とだけは同じ空間に閉じ込められたくなかった。それが何の因果か、二年連続で同じクラスだった。
 掲示板に張り出された紙切れを目にした直後、芽依は職員室へ駆け込んでいた。
 廊下を早歩きしながら組み立てた論述と暴言まがいの難癖まで、思いつく限りの猛烈な批判を試みたが、時すでに遅し。決定は覆らなかった。
 芽依は過ぎ去った春雷の日を思い出し、怒りの炎がくすぶった。
 あおられれば燃え上がりそうなところに、なんとも間の悪いかぜが吹く。
 「お、おはよう・・・・・・黒岩さん」
 軽く頬を強ばらせた宝生ひかりが、芽依のすぐ隣りまで近寄っていた。
 (・・・・・・毎度毎度、学習しない子)
 芽依には嫌いな類の――いや、嫌いな人間がいる。
 黒岩芽依は、宝生ひかりが大嫌いだった。


 「・・・・・・お、おはよう黒岩さん。き、今日も・・・・・・いい天気、だね」
 何か悪いものでも食べたかのような、不自然すぎる挨拶だった。
 今までの陽気に笑っていた太陽が、いきなり分厚い雨雲に意地悪をされたかのような事態にクラス中が目を覆った。
 『黒岩芽依』と正面きって仕合うなら致し方なし、と同情票を投じる者。
 ――多数。
 何か弱みでも握られているのか、と穿った視座を持つ者。
 ――若干名。
 そんな周囲の視線を知ってか知らずか、ひかりの目線は自分の上履きと芽依の顎下辺りを行ったり来たりと忙しなかった。
 ほんの一瞬が、十倍にも二十倍にも感じられた事だろう。
 ところが、どれだけ待っても返事はなかった。
 耳栓をしているか、難聴でもない限り聞き逃したりはしない。それくらい、ひかりの声には人を振り向かせる暖かさが込められていた。
 ところが芽依はこれを完全に無視した。
 これも二年C組の生徒にとって風物とでも呼ぶべき見慣れた光景であった。
 芽依がひかりを無視するのは今に始まった事ではなく、少なくとも二年生に進級してからは一貫したものだったと、誰もが証言する。
 相手の存在を無視する。端から見れば、さぞ陰湿な苛めに映ったことだろう。
 新学期当初はそのことを注意したり、理由を尋ねる者もいるにはいたのだが――
 「聞いてくれる? 私からアナタに最初で最後のお願いがあるの。私は誰にでも平等に無関心だから放っておいて。私はアナタに干渉しない。だからアナタも私に干渉しないで頂戴」
 ――そう、言って退けた。
 その一言は聞く者を唖然とさせたが、それがただの強がりでないことは後に証明される。
 真実、芽依は常に独りだった。休み時間、授業中を問わず無駄口を発したことがなく、何度か隣に座る生徒が話しかけてみはしたのだが、『今は授業中だから』、『その質問は先生にするべき』と取り付く島もない。誰かと談笑している姿など、絶滅危惧種との遭遇に等しい幻景だった。
 茹だるような夏の熱気を乗り越え、落ち着いた秋の気配を感じられるようになった昨今、隣人と適切な距離感が築かれたクラス内で、絶対的孤高を極める黒岩芽依に構おうという奇特な人間は、宝生ひかり唯一人となっていた。
 よって、『宝生ひかりを嫌う黒岩芽依』というよりは、『嫌われることを承知で黒岩芽依に絡みに行く宝生ひかり』という構図として周知されているのである。
 ただ分からないのは、宝生ひかりが袖にされてまで黒岩芽依に拘る理由だろう。
 それはきっと登山家に『あなたは何故、山に登るのか』と尋ねるようなもので、『黒岩芽依きょうてきがいるから』としか答えようのない、宿命的な何かに突き動かされている『理由無き理由』説。
 はたまた、レアキャラクター(黒岩芽依)をゲットして手持ち図鑑のフルコンプリートを企む『友人蒐集家』説あたりが支持を集めたが、本当の動機は誰も知らず、ひかり自身も語ることはなかった。
 そんな孤立を深める芽依の態度を偶然目にした教師陣から、ほんの一時期ではあるが、問題視されたことがあった。
 クラスに馴染めない問題児としてマークされ、事ある毎に授業や課外活動でクラスメイト同士の共同作業を組み込まれた時期があった。
 ところが、芽依はこれをいとも簡単に躱した。別にどうということはなく、ただ平素通り淡々とこなしてみせただけだ。誰が相手であっても、どんなくだらない作業であっても、嫌な顔を見せなかった。
 あからさまに反抗すれば、どんな教師でも諭しようがあったのだろうが、これには物の言い様がなかった。
 そもそも、成績面だけなら芽依は超優良生徒である。安っぽい説法を吹き込まれる所以もないのだから、検討違いも甚だしいというものだろう。
 多くのクラスメイトが芽依の態度を生まれついたものだと信じて疑わず諦め加減であったが、例外はどこにでもあるもので、例えば金木祐佳がそうだった。
 「何こいつ、めちゃ態度悪いんですけど」
 眉間に皺を寄せ、高めの声色を二段ほど下げる。
 幼い顔立ちに似合わず、険のある態度を躊躇なくぶつけてきた。
 「まぁまぁ、カナキン。黒岩の態度が悪いなんて今に始まったことじゃないっしょぉ? 気にしてたらハゲちゃうぞぉ?」ニヤニヤと。
 桜井美樹が、芽依を横目にして、見下したような視線を向けてくる。
 「全然気にしてねーし! それにハゲねーよ! てか何? ひかりも! いい加減、こいつに何かビシッと言ってやんなよ!」
 宥めようとしてるのか小馬鹿にしてるのか分からない桜井美樹の一言に焚きつけられ、高音が喚き散らされた。
 ところが、急に風向きが変わって戸惑ったのはひかりの方だった。
 「・・・・・・え? 何を?」
 色素の薄い瞳に理解の光は灯らない。
 本当に分かっていない様子で小首を傾げるのだった。
 「だ~か~ら~。こいつの、あんたに対する態度が――」「予鈴鳴るから早く席に着いたら?」
 芽依は誰と言わず、背を向けたまま示唆する。
 直後、録音された鐘のチャイムが、生徒達の背中を押して回った。
 金木祐佳の忌々しげな視線と、桜井美樹の何某かの呟きを背中で受け流し、芽依は教壇に視線を向け――僅かに眉根を寄せた。
 (・・・・・・本当に、どうしようもない子)
 ひかりが棒立ちになっていた。不意に視線が重なると、ひかりはハッとした表情を浮かべては、“何でもない”と両手をわたわたさせ、最後尾の自席へ小走りに駆けていった。
 その去り際、可憐かれんな薄桃色の唇がうっすらと引かれていたのを、芽依は見逃さなかった。
 恐らく、本人にしか分かり得ない『楽しいこと』があったのだ。矢面に立たされたはずなのに、どうしたらそんな気分になれるのだろうか?
 芽依にとって、“宝生ひかり”は理解の外にあった。
 金木祐佳や桜井美樹、その他のクラスメイトを分析するのは芽依にとってそう難しくない。 理解し難いのは彼女達の振る舞いであって、その人となりではないからだ。
 ところが宝生ひかりは違った。読み切れないのだ。もちろん人間だから、大概は理解可能なのだが、いつも肝心な点が分からなかった。
 冷たくあしらわれ、それでも自分に拘泥する理由が説明できない。
 ああやって平気で、自分の分析の外側へ飛び出せるのか判らない。
 とにかく、宝生ひかりの特殊な思考に追いつけないのだ。
 それは今も昔も――一年半前、この中学校に入学し、出会った頃から何も変わっていなかった。
 (・・・・・・気にするのは止めなさい)
 自身にそう言い聞かせ、思考を寸断。ブリッジの位置が下がり気味になった眼鏡を押し上げる。
 安っぽい黒色セルフレームの奥では、黒瞳が変わることなく鋭利な輝きを放っていた。


 「おーっす、ホームルーム始めるぞ。今日の日直は――黒岩か。朝一だから湿っぽいのはなしだ。景気良く頼むぞ。腹から声出せよ、腹から!」
 予鈴から遅れること二分後。教室に入るなり芽依を名指ししたのは、二年生C組の『不良担任』こと、浅海杏である。
 なお、不良と称したのは芽依の所感であって、他の生徒の間では『浅海のアニキ』で通っている。
 しゃがれた声と荒っぽい口調が一瞬男性かと思わせるが、グレーのスーツと糊の利いた真っ白なシャツ、耳が出るほどの短髪ともなれば、第一印象はまさしく男性――というのは言い過ぎかも知れない。だが、芽依は進級してから今日まで、担任の女性らしさなど垣間見たことすらなかった。
 浅海の身だしなみは女性としては最低限だ。化粧は全体的に薄めで、ルージュやマニキュアの類はしない。ヒールのない機能性重視のパンプスで教室中を闊歩し、居眠りをしている生徒の後頭部を教本の角で殴打する悪癖あり。
 今日とて女性らしさからはかけ離れている。目は血走り、顔面蒼白。教壇に両手を押し当てていなければ倒れそうな気配がした。
 その理由は病弱だから――などという深窓の令嬢的要因ではない。唯の二日酔いだ。
 近寄れば、いつもより多く吹き付けた有名ブランドのオードトワレでも隠しきれないアルコール臭が漂うはずだ。
 中年サラリーマンのような醜態であっても、中学生という身分には無縁であるため、担任の不肖に気付く者は、近親で見慣れている芽依を含め僅かであった。
 (・・・・・・パワハラ不良教師)
 芽依は辟易を覆い隠し、胸の内で一滴の毒を垂らす。
 「起立――」
 ――礼、着席、とお決まりの文句で締めくくるまで、いつもと変わらぬ、さらりとした調子だった。
 景気が良いとは言えないが、湿っぽくはないのでとりあえず良しとしたのだろう。浅海はそのことに触れず、気怠そうに出欠を取り始める。
 「――んで最後は涌井、と。オーケー、全員いるな。季節の変わり目だ、風邪引かんように注意しろよ」
 言った側から、ずずず、と盛大に鼻を啜る女教師。昨日までは何ともなかったのだから、これも二日酔いと無関係ではなかろう。
 「・・・・・・と、そうそう。注意しろと言えば、あれだ。お前らも一度くらいは耳にしたことがあるかと思うが、この小桜市で怪奇現象が増えてる。建造物が壊されたり、集団でぶっ倒れたり、後はなんだ? ・・・・・・あー、化け物の幻覚を見た奴もいるらしいな。
 正確な情報は降りて来てないし、流言も混ざってるだろうから何とも言えんが、大なり小なり被害が出ているのは事実だ。そこでだが、今日から最終下校時間の切り上げが決定した。よって、部活動の時間も短縮となる」
 瞬間、悲哀の『え』と、驚喜の『お』が、クラス中から湧き上がった。
 この市立白月中学では、原則的に、生徒はどこかの部活動に所属しなくてはならない。
 先の時間短縮令は、熱心な生徒にとっては迷惑な話であり、そうでない生徒にとっては喜ばしい命令だった。
 芽依はと言うと、喜びもしなければ悲しんでもなかった。
 時間の多寡は自分の取り組みスタンスに関係ない――と、達観している訳ではなく、本当に無関係だからだ。
 芽依は部活動をしていない。健常である生徒の中では、唯一人の例外だった。
 部活動をされている理由は、ひとえに家庭の事情にある。
 芽依は所謂、『苦学生』だった。

 覚めやらぬ興奮を残し、ホームルームが終わった。
 担任教師の不景気極まりない顔を見送ることもなく、芽依はさっと筆記用具を取り出し、教科書とノートを広げる。一限目は国語だった。
 始業のチャイムが鳴ると同時に教師が入って来るが、芽依のペンは教師が話し出す前から走り出していた。教壇から世間話が流れだそうと、教科書の朗読が始まろうと、その手は止まらない。
 芽依は基本的に教師の話を半分も聞いていなかった。
 予習と復習は事前に済ませてあるためその必要がなく、せいぜい教師が強調する要点が自分の理解と齟齬がないか確かめる程度であり、脈絡もなく指名された場合でも間抜け面を晒すことがないよう注意を払うことしかしていない。
 では今は何をしているかと言えば、漢字の書き取りだった。
 何だそんなことか、と小馬鹿にするクラスメイトもいたが、『暗記をテストの直前にすることほど非効率的なことはない』というのが芽依の持論だった。
 テストでは『思い出せない』状況ほどタイムロスとなる。
 厳密に言うと、思い出せない時間そのものではなく、思い出せない状況に『焦る』からだ。
 焦りは思考を空回りさせる。思考が空転していると時間感覚を失うだけでなく、間違った答えが正しく思えてしまう。
 芽依が注意を払うのは、ケアレスミスではなく、こんがらがった状態に気付かないがために陥る誤認の方だった。
 芽依は効率的に記憶するため、同じ内容を定期的に学習する。
 一見すると冗長的だが、前回よりも短い時間でこなせるから苦にならないし、神経生理学の観点からは合理的だ。
 何故なら、授業は定期的にやって来てくるから。しかも強制力がある。こんなにも便利なものを活用しない手はない――これが芽依の発想である。
 こうなると授業をまともに受けているとは言い難いのだが、芽依は勉強が嫌いなわけではない。むしろ、芽依ほど勉学の信奉者はいないだろう。
 知識は知恵の源泉だった。知識を付ける過程でモノの見方、考え方が身につく。
 考え方を組み合わせれば思考の枠組み(フレームワーク)が築かれ、枠組みを調整しながら冷静に現象を分解できるようになれば、例外に対するちょっとした工夫――知恵が働くようになる。
 解決不能に思えた最低最悪な状況でも、知恵さえあれば折り合いが付くと悟った時のあの感動が、胸のずっと深いところで息づいていた。
 学びに集中している最中は嫌なことを忘れさせてくれるし、知り得たことを掘り下げて調べるのは、地道ではあるが宝探しをしているような気分にしてくれる。
 だというのに、この教室では形式化されて形骸の体を成した授業ばかりが繰り返される。延々と。延々と。
 それは芽依にとって窮屈で、非効率で、退屈だった。
 授業中は自分の作業に没頭する。休み時間は本の世界に入り浸り、昼休みになるとお手製の弁当を引っさげ、そそくさと教室の外へ。
 芽依のお気に入りの場所は校舎裏の片隅だった。だが天候や季節によっては厳しいこともあるため、屋上に繋がる階段の踊場が第二候補。ちなみに、屋上は安全面を配慮し施錠されている。
 美術室や音楽室、空き部屋なんかも時折は利用するが、やはりセキュリティの問題で施錠されていたり、別の生徒とのバッティングするので、本当に”たまに”だ。
 芽依はひとり黙々と昼食を済ませると、大抵は図書室へ足を運ぶ。
 そして棚に並んだタイトルをざっと眺めながら、興味を引かれたものを手に取ってみる。
 芽依の指定席は、入り口から最も離れた隅の席だった。
 「・・・・・・失敗した」
 読み始めてから十分後のことだ。不意に後悔が口から漏れるほど、芽依は暗澹とした気分に陥っていた。
 『世界経済の七不思議』と題したハードカバーの表紙を眺め、読みかけたページの先をパラパラと捲って、再び表紙のタイトルに帰ってくる。
 酷い話だった。酷いといっても、近代資本主義経済がもたらした貧富にまつわる悲劇が書かれている訳ではない。単純に本の構成が酷すぎた。
 七不思議というのはデタラメで、ひたすら世界各国の経済活動の統計チャートで埋め尽くされ、主体となる文章も金額と百分率のパレード。筆者が経済という深淵から見いだした不可思議など何処にも記述されていない。
 創造性の欠片もない、まるで公共機関が発行する経済白書の様相だった。
 まさしく『キャッチフレーズ』と化したタイトルに釣られた自分を愚かしく思うが、それより頭にくるのは、誤植なのか予測図なのか知らないが、今後十年の数値まで記載されている点だ。
 全く持って面白味に欠ける内容だが、ここまで感性を排除するのであれば、情報の正しさのみを追求したら良いではないか。あえて曖昧さを残す必要がどこにあるというのか。
 「カーウェイン、――ストレイマン? ・・・・・・ふざけた名前ね」
 察するに、海外の書籍を邦訳したのだろう。ならばタイトルは出版社が売り出すため、原題を勝手に意訳している可能性はあるが、とりあえず本名かペンネームかも分からない彷徨えるストレイマンに八つ当たりしておく。そうでもしなければ耐えられない、酷い眠気に襲われていた。
 うなじの辺りに妙な熱っぽさがあり、難解な文章にぶち当たったときのそれとは異なる、強制力を持ったような何かを感じた。
 時間の無駄遣いは芽依の最も嫌う行為だ。唯でさえ少ない昼休みを寝て過ごす訳にはいかなかった。
 だが、視線を上げても眠気は一向に治らなかった。
 いっそ立って読もうかと考えたが、意思に反して立ち上がれない。
 (疲れてる? ・・・・・・ああ、そういえばこの所は課題が立て続けで・・・・・・)
 重くなった瞼が徐々に閉じていく。
 長い睫毛が静かに重なり、僅かに首を垂れた。
 意識が途切れる寸前、机には突っ伏すまいと、残された矜持きょうじが両肘を机の上に運んだ。

 ――起きて。
 ――――起きて。芽依!
 誰かに呼ばれた気がして、弾けるように芽依は両目を開く。
 対面の席には、頬杖を突いて、ぼうっとした瞳を浮かべる吉岡夢乃がいた。
 芽依に遅れること一間、夢乃は慌てて姿勢を正した。
 「あなたいつの間に・・・・・・?」
 「ご、ゴメンね。そんなつもりじゃ、なかったんだけど、黒岩さんの、寝顔が、綺麗だったから、その、つい・・・・・・」
 その意表を突く一言で、芽依の心臓は今し方目覚めたかの如く、強く鼓動を開始。余熱の残る首筋に電流が走る。
 (誰が、何?)
 芽依は二重の意味で、言葉の意味を反芻していた。
 ――黒岩さんの寝顔が綺麗だったから。
 皮肉?/賛辞? 言葉、声色、表情、仕草。表現と名の付く要素の解剖+再構、そして真実ほんねを抽出――されない。いつもなら無意識に働く技能スキルが機能しない。
 それだけ衝撃的だった夢乃の瞬間移動――いや、逆だ。
 止まっていたのは芽依の方だった。
 一瞬のうたた寝だと思い込んだせいで、相手が瞬間移動でもしてやって来たのかと感じたのだった。
 「ねぇ、私はどれくらい居眠りしてた?」
 「・・・・・・え? えと、どれくらい、かな? 十分くらい、かも」
 おどろおどろしく答える夢乃。
 真っ直ぐ伸ばしたはずの背筋が、徐々に丸まっていった。
 直後、自分の腕時計を見れば済む話だと気付き、芽依は右手に目をやる。
 現在、十二時五十五分。
 図書室に来たのが十二時半前。十分は本を読んでいたはずだから、なんと十五分も寝ていた計算だった。
 「それで、あなたは何をしてるの?」
 どうにか平静を装ったつもりの芽依だが、口を突いた問いは間抜けにも程があった。
 ここは図書館で、今は昼休み中。読書か本の貸し借り以外の目的があろうはずがない。
 寝起きに不意打ちを食らったせいだ、と芽依は自分に言い訳しつつ、ポーカーフェイスの維持に全神経を注いだ。
 「本を返しに。そしたら、黒岩さんが見えたから・・・・・・」
 「見えてたから、何?」/(『何?』じゃない!)/疑問+自省。
 無防備な姿を晒した気恥ずかしさが、無意味に言葉を尖らせていた。
 ところが、芽依の突き放すような言い方は聞き慣れているのか、夢乃はおっかなびっくりとしながらも、律儀に言葉を重ねた。
 「遠くからみたらね――上手く言葉に、できないけど・・・・・・座禅、かな。目は閉じてるんだけど、背筋が、真っ直ぐで、全然動かなくて。
 ・・・・・・光がね、黒岩さんを照らしてて、綺麗だったの。髪とか輪郭とか、全部」
 同性からの率直な意見に、芽依は軽く目を見開く。
 賛辞は止まらなかった。
 「それでね、もっと見てたいって、思ったんだ。気付いたら、ココに座ってた。そしたらもっと驚いた。“黒岩さん寝てるし!“って。
 それが、少しだけ可笑しくて。でも、“黒岩さん寝てるときでも凄すぎるッ!“って関心、しちゃった。やっぱ、私とは違うんだなーって考えてたら、何か、ほわほわーんって・・・・・・」
 夢乃の率直で曖昧な賞賛には、少なからず自己嫌悪が混ざってて、丸まった背中が、それを裏付けるようだった。
 校内で最も注目を集める人物の一人とは思えない、それでいて想像していた通りの『吉岡夢乃』に、芽依は掛けるべき言葉の持ち合わせがなかった。
 初対面に等しいクラスメイトに、“あなたは誰より有名人だから自信を持って”などと言われたところで、何の益体もないだろう。少なくとも、自分なら響くものはない――芽依はそう確信する。
 出し抜けに芽依が席を立つと、夢乃を見下ろして、突き放すように言った。
 「あなたも私を見習うべきだと思うわ――」夢乃の表情に陰り「――高度な居眠りの仕方なんかは特に」
 そして、“そうだね”と、首肯しかけた夢乃が固まる。
 「授業中なんかは結構役に立つから。先生方には、周りの雑音なんて聞こえないくらい真剣に耳を傾けているように見えるんじゃないかしら。自分の話が一番雑音だと思われている事も知らずに」
 ぷっ、と夢乃は我慢していたものを噴き出してしまう。
 芽依の授業態度は、誰が見てもまともに人の話を聞いているようには見えない。
 夢乃はあの愚直すぎる無言の本音を思い出してしまうのだった。
 「あはは。黒岩さんは、いつも利用してるの?」
 「社会の山下教諭なら耳栓もマストね」
 夢乃は腹を抱えて笑い出す。どうやらツボにはまったようだ。
 引き合いに出した山下教諭は、無駄話の長さと滑舌の悪さが有名で、語尾の『~ですね』が『~でつね』に聞こえて、生徒達の間でよくからかいの的になっていた。
 「吉岡さん、そんなに笑ったら先生方に失礼よ」「失礼なのは黒岩さんの方だよ」
 芽依の反論に、夢乃がツッコミを入れる。
 まるで示し合わせたかの如く一致する呼吸に、夢乃は再び腹を抱えて笑った。笑いすぎた。腹がねじれそうなって、涙が溢れた。
 夢乃が落ち着いたところで、芽依は再度時計を確認してから切り出した。
 「吉岡さん、そろそろ行きましょう。もう午後の授業が始まるわ」
 芽依は返事を待たずに席を立ち、夢乃も置き去りにして歩き出していた。
 「待って!」
 夢乃の必死な呼び声に、芽依は図らずも足を止めていた。
 「・・・・・・何?」
 「あたしのことは、『吉岡さん』じゃなくて、『夢乃』って呼んで。その代わりといったら何、だけど・・・・・・わたしも、黒岩さんのこと『芽依ちゃん』って。そう、呼んでもいい?」
 ――芽依ちゃん。
 明るく響く声/不意にぎる思い出。
 少しだけ胸が痛むが、芽依はおくびにも出さず答える。
 「ご自由に。呼び名を決めるのは他人の特権でしょ?」
 こちらは合わせない、という意思表示が伝わったのか、夢乃は少し寂しそうに微笑む。
 要件が済むと、芽依はそそくさと先に行ってしまった。
 芽依との距離をほんの少し縮めたように思えた夢乃だが、遠く離れていく背中を見送ることしかできなかった。
 そして図書室の出入り口に差し掛かると、芽依は出し抜けに振り向いた。
 「早くしないと遅れるわよ、!」
 芽依に遅れること一間、夢乃は慌てて立ち上がる。
 「芽依ちゃん・・・・・・!? 待って!」
 芽依は夢乃を待たなかった。
 その代わりに、隣に並んで歩いても、何も言うつもりはなかった。
 そうして図書室を後にしてから、芽依はふと重大なことを思い出した。
 習慣になっていたからこそ感じ取れた小さな小さな違和感。
 ――果たして、自分は一体何を読んでいたのだろうか?
 図書館に来たのだから、間違いなく本を手に取ったはずだった。
 しかし、それが何だか思い出せなかった。小説か、図鑑か、参考書か、専門書だったろうか?
 そもそも、何か読んだのなら、それは自分の手元になければならない。
 だが席を立ったとき、机の上に本の一冊も見当たらなかった。
 (夢乃が勝手に片付けた? ・・・・・・いいや、彼女の性格からしてありえない。なら、居眠りの最中に誰かが?)
 日の当たらないリノリウムの廊下を歩いていると、慌てて夢乃が隣りに並んだ。
 「一つ質問していいかしら?」
 平均的な身長である芽依は、頭一つ分高い夢乃を見上げる格好になる。
 「うん?」
 「私が居眠りしていたとき、周りに誰かいた?」
 「あたしが、芽依ちゃんに気付いたときは、誰も――あ、そう言えば、図書委員の子も、いなかったような・・・・・・あれ? どうしてだろ。なんか、上手く思い出せないな・・・・・・あ、ごめん。それがどうかした?」
 「別に。一子相伝の技術を、どこかの馬の骨に盗まれていないか心配しただけ」
 芽依が適当なことを言って誤魔化すと、夢乃はタイマーがセットされていたように笑い出す。
 芽依としては特段、面白い話をしているつもりはなかった。
 吉岡夢乃という子はかなりの笑い上戸なのかも知れない――等と、的外れな感想を抱いているうちに、芽依の違和感は薄れ、そして消えてなくなった。
 きっかけとなった本の存在さえ、記憶に空白を作るようにして抹消されてしまっていた。


 放課後の鐘が鳴る。教室に差し込む物悲しい橙の光。
 日がな傾きが早くなる斜陽に照らされた生徒達が三々五々散っていく。
 その多くは、今日も部活動に勤しむのだろう。芽依はスカートのポケットから手帳を取り出し、しおりひもを手繰たぐって今週の予定が書かれたページを開く。
 毎日四時から二時間、月曜から日曜まで真横に直線が引かれている。見出しは決まりきっているので、あえて付けていなかった。
 メモ欄には極小文字で買い物の一覧、学校の課題、興味を持ったキーワードで埋まっていた。習い事や交遊など、プライベートな予定は一つもなかった。
 芽依は手帳を眺めながら、自分のやるべき事を順に思い浮かべていく。
 目を瞑り、頭の中で時間を動かしてみる。
 人が、街が、移り変わっていった。景色だけではない。深くなる夜の色や通りの匂い、肌に触れる空気の変わり様まで生々しく感じ取っていた。
 まるで、実際に街を巡っているのと同じ時を、この短い時間に押し込めたかのように。
 問題ない――そう結論づけた芽依が、瞳を開こうとした。
 だが、瞳は開かず、時間の流れは止まらない。それどころか加速していった。
 周りは目まぐるしく変わるのに、自分だけが取り残されてしまっていた。
 日が変わり、月日が流れ、年月が巡る。
 なのに自分だけが、変わらず其処に在った。
 次第に意識が離れ、息苦しくなる。
 (これって・・・・・・?)
 にわかに体が重くなり、関節も曲がらなくなる。
 手が手でなくなる。足が足でなくなる。まるで人形に生まれ変わろうとでもしているかのようだった。
 (引きずられる・・・・・・!)
 そして、息を止めた。生きることを止めた。
 人の形をしたモノは、本当に人形になった。
 何も感じない。何も考えない。此処に在るだけ。唯それだけ。
 なのに、ふと熱を感じた。たぶん、下の方だ。
 ふと、痛みを感じた。たぶん、下腹部の辺りだ。
 そうして人形は感覚を取り戻した。人形は人に生まれ変わった。
 意思を取り戻し、呼吸を始め、自由になった手で下腹部に触れた。
 肌の上から感じる熱っぽさ。重くて、疼くような痛み――生きている証拠。
 自分がどうしようもなく『女』であると意識させられる瞬間。
 (アレは、まだ先なのに・・・・・・)
 似ているが何か違う。何がどう違うのか、上手く言葉にできなかったが、もっと別の意味があるような気がした。
 熱源の正体が知りたくて、指先で軽く押してみる。
 (――ッ!)
 瞬間、一カ所に留まっていた痛みが、逆巻く炎のように全身へ広がった。
 下腹部から体幹を伝い四肢へ。指先、頭頂と、寸分も余さず燃え広がった。
 それは心まで焼き尽くさんとする地獄――否、炎獄。
 目の前がすべて真っ赤に染まる。途方もない痛みに堪えかね、きつく眉根を寄せた瞬間だった。
 「黒岩さん、どうしたの? お腹、痛いの?」
 芽依は春の日差しのような声に呼び起こされる。
 ここは教室で、自分は黒岩芽依で、何も変わっていないし、どこも燃えてなどいない。
 しかし、唯の幻覚と決めつけてしまうには鮮明すぎた。まだ所々に残された余熱に、芽依は身震いをする。
 「保健室、行く? ・・・・・・よかったら一緒に行こうか?」
 少し離れたところから、宝生ひかりが不安げに瞳を揺らしていた。触れようとも触れられず、近寄ろうとも近寄れない、そんな瞳だ。
 自分が今どんな顔をしているか、芽依は想像できなかった。
 助けられた安堵か、それとも泣き出しそうな、情けない顔でもしているだろうか?
 「何でもない。私に構わないで」
 そう言って芽依は自問の答えを出すより早く優しさを拒絶する。
 「でも――」「ひーかーりー、部活行くぞー。早くしろぉー!」金木祐佳の甲高い大声。
 宝生ひかりと金木祐佳、そして桜井美樹は吹奏楽部の一員だった。
 これから活動の場である音楽室へ向かうところだったのだろう。
 「が呼んでるわ」
 まるで”自分は友達なんかじゃない”とばかりの言い回しに、ひかりはまた戸惑いを伺わせる。
 「・・・・・・わたし、今でも芽依ちゃんのこと友――」「構わないでって言ってるでしょッ!!」
 芽依は図らずも怒鳴っていた。
 ハッと我に返るが、投げつけた言葉は戻りはしない。
 ――最低。
 教室に残った誰かが静かに非難する。
 芽依はたじろがず、反論せず、取り繕わない。
 ただ、拳を深く握りしめていた。強く、強く、心をくびるように。
 芽依が黙っているうちに、金木祐佳がひかりを引きずるように教室を出て行った。
 芽依は机の横に掛けたデイバッグを手にすると、周囲の視線に臆することなく教室を後にした。


 芽依は階段を駆け足で下った。頭の中は、無駄にした時間を取り戻そうとする意思だけが詰まっていた。
 さながら競歩のごとく下駄箱に到着すると、鍵の付いていない小さな扉を開き、靴を取り出す。それを逆さにして上下に振った。
 砂粒が僅かに零れ落ちるばかりだが油断せず中をのぞき込み、異変がないかチェックし終えると、靴が収まっていた狭い空間、および扉の裏側まで確認する。
 いかにも不自然で不審な動きが、流れるようで自然だった。
 スパイ映画のエージェントばりに調査してから靴を履く中学生というのも珍しかろうが、こればっかりは恐らく卒業まで消えない習慣だと、芽依は割り切っている。
 一度ならず靴を隠されるとか、中にゴミ屑やら画鋲を入れられでもすれば、どれだけ鈍感な人間でも、警戒心はそうそう解けるものではない。
 幸い、最近の世情を受ける格好だが、学校側もセキュリティ意識が高まっていた。
 この春先から、トラブルが起きそうな場所――例えば、校門や下駄箱は監視カメラが設置されている。
 元々、嫌がらせをするような輩に筋金入りはいなかったのか、悪意はぷっつりとその姿を消したが、芽依の心的外傷トラウマまで消えてくれはしなかった。

 帰路の餞は、いつも校庭から届く。
 贈呈されるのは、サッカー部や野球部が準備運動の最中に轟かせる掛け声だ。
 遠くからだと『うえぃっほー』とか『ふぁいおっす』とか聞こえて意味不明だった。
 それと、今日みたいな晴れた時分には、開け放たれた音楽室の窓からファンファーレが鳴ったりもする。
 ただし、『送迎用の』と形容するには少々――いや、かなり酷い。
 酔っ払ったニワトリとフクロウの鳴き声みたいなよれ具合だった。
 ヘタレ合奏の中心は、トランペットとクラリネット――桜井美樹と宝生ひかりの担当パートだ。
 吹奏楽部は大所帯なので、実際にひかり達が鳴らしているかどうかは知らない。
 単に音合わせの最中というだけかも判らないが、まともな音であった例しがないのもまた事実だった。
 ほんの数秒、そんなどうでもいいことにとらわれる芽依だが、学校の敷地を超えてしまえば、頭からすっかり抜け落ちてしまう。
 意識は自然と周囲に移り変わっていた。
 空には深まる秋の気配を感じさせる鱗雲が広がり、道路脇には、朱や黄に色付いた落ち葉が綺麗に寝そべっていた。
 白月中学校の周辺は昔ながらの邸宅が多く、広い敷地の植え込みが目を楽しませてくれる。
 住宅街を抜け、大通りに差し掛かった。横断歩道で信号待ちをしていると、ここ数日で鮮明になった金木犀の香りが漂ってくる。
 角にある一軒家の生け垣を見やると、橙色の花弁が無数に咲き誇っていた。
 芽依は小さく息を吸い込んで、呼吸を止める。金木犀の香りが苦手というより、強すぎる芳香には何であれそうするのが癖だった。
 香りは思い出と結び付いているというが、芽依の場合は思い出というより、現在進行形でまとわりつくものがある。
 決して離れない記憶/母の匂い――香水のスパイシーな香りに、煙草のメンソールを混ぜ合わせた凶悪な異臭。
 香水の方は有名ブランドのオードトワレで、偶然にも不良担任の愛用品でもある。
 芽依が担任を嫌悪するのは、粗野な言動もさることながら、その匂いだ。
 母と同じ匂い。ただそれだけのことで、同類おなじにしか見えなかくなっていた。
 信号が青になると、芽依は逃げるようにその場から駆け出していた。
 一路目指したのは、駅に程近い商店街だ。
 近年、線路を挟んだ向かい側の再開発が急ピッチで進むのと対照的に廃れつつある印象だったが、昨年に県内有数の巨大ショッピングモールがオープンしてからは決定的だった。
 アジを通り越して出し殻然とした昔ながらの商店街より、最新のファッションが網羅された複合施設に目が向くのは自然な流れだ。
 周囲の変化に敏感な女子中学生なら選択の余地もないが、芽依の関心はもっぱら普通とは言い難い。
 「お、芽依ちゃん、っらっしゃい! 今日は梨がいいよ。梨!」
 威勢の良い声で芽依を出迎えたのは、白い手拭いを頭に巻いた中年男――八百屋『かとまさ』の主人だった。
 「こんにちは、おじさま。でも今日は魚料理にするから――えっと・・・・・・ほうれん草ください」
 学校で見せる鉄仮面とは打って変わった、穏やかな笑顔で挨拶を交わすと、中年男の日焼けした顔はすっかり緩みきっていた。
 「う~ん、やっぱいいねぇ。『オジサマ』! 芽依ちゃんみたいな可愛い娘に言われるとたまんねぇな! 羽が生えてどっか飛んで行っちゃいそうだぜ!」
 「・・・・・・ちゃんと仕事してくれないと、私、飢えて死んじゃいますよ?」
 寂しげな困り顔に浮かべる微笑は、まるで飼い主に置いてきぼりをくらった子犬の面持ちだ。
 クラスメイトが見たら間違いなく目を剥く驚きの表情だが、店の主人もたまらなかったらしく、おおぅと、感嘆の声を上げて、隣で接客をしていた若者に寄りかかる。
 「聞いたかボンクラ息子! 芽依ちゃん、俺がいないと死んじゃうってよぉ・・・・・・? どうするよ、おいッ!?」
 「別にどうもしねーよ、クソ中年。仕事しろ、仕事」
 金色に近い茶髪を直上に逆立て、眉を細く尖らせた青年がぞんざいに応えた。
 なんとも時代錯誤の激しいルックスだったが、ねじり鉢巻きと『かとまさ』のロゴがプリントされた紺のエプロン姿が板に付いていた。
 「おおぅ・・・・・・! 息子の分際で親父様に向かってなんて口の利き方だ」
 「親の分際で息子の仕事、邪魔すんじゃねぇよ」
 見れば二人の顔立ちは良く似通っている。遠慮のないところも親子ならではだ。
 青年はその厳つい外見とはギャップのある丁寧な接客を済ませると、さっさと奥へ引っ込んでいってしまった。
 「まったく、いまだに反抗期かね。それに引き替え、芽依ちゃんはしっかりご家族を助けて偉いもんだ」
 (・・・・・・私も反抗期真っ盛りですよ)
 芽依は胸の内で本音を語り、苦笑いを浮かべた。
 その後も息子に対する小言が二、三と続いたが、当人の登場で打ち切りとなった。
 「いつまでくっちゃべってんだクソ中年。芽依ちゃんが困ってんだろ」
 青年は満杯に膨らんだビニル袋を片手に、もう片方の手にはほうれん草を持ってやって来た。
 「こんにちわ、雅史さん」
 青年は”おぅ”と短い挨拶を返し、芽依に手荷物を引渡す。
 ぶっきらぼうで硬派、振る舞いだけなら父親と対照的だった。
 「他に必要なもんあるか?」
 「今日の所は特に。いつも済みません」
 芽依は深々と頭を下げる。
 ビニル袋には歪な形の野菜が詰まっていた。味は店頭に並ぶ物と全く変わらないのに売り物にならないそれらは、本来なら『かとまさ』の――加藤家の食卓に並ぶはずの野菜達だ。
 手に掛かるその重さが、どこまでも深く芽依の頭を沈めさせた。
 「気にすんな。どうせ売りモンにはならないやつだ。・・・・・・・それよか、ちゃんと食ってんのか? また痩せたんじゃねぇか?」
 「野菜だけは毎日欠かさず。それと体重は――」微苦笑「女の秘密です」
 年頃の少女がダイエットに挑戦中であるかのような切り返しに、青年は押し黙る。
 そんなことが聞きたいんじゃない、とでも言いたげな顔付きだった。
 「はい、これ」
 芽依はすかさず小銭を差し出すと、青年もそれ以上踏み込まなかった。
 「粗末にすんじゃねぇぞ」
 釣り銭とぶっきらぼうな配慮を添えて手渡す。
 「はい。それじゃあ、さよなら」
 親子に笑顔を残し、芽依は『かとまさ』を後にした。
 その後ろ姿を見送る青年は、もどかしさを掻き出すように、後頭部にがしがし爪を立てた。
 「お母さんに似てますます美人になってくな、芽依ちゃん」
 店の主人が茶化すように口を挟んだ。
 青年は鋭い視線を向けるが、父親の顔が腑抜けた中年面ちゅうねんづらでないと察し、悪口をしまい込む。
 「それもこれも、その母親のせいだろうが」
 それでも収まりが付かないのが若さだった。芽依の抱えた事情を多少なりとも知っている者としては、矛先を定めずにはいられないのだ。
 「ま、他所様よそさまのことだ。こればっかりは他人が口出しすることじゃない。芽依ちゃんは良いだ。よくやってるよ。俺らにできるのはこんなもんさね」
 「んなこたぁ分ってんよ、このクソ中年」
 達観と諦念の一言を残して仕事に戻る父親の背中を、青年は後ろから追いかけた。

 こんな調子で芽依は夕暮れの商店街を練り歩く。
 『かとまさ』では格別な待遇だったが、他の店でも大なり小なり芽依に好意的だった。
 数店舗をはしごすれば、両手が一杯に塞がってしまう。下手したら買ったものより、おまけの方が多いくらいだった。
 芽依が近代的ショッピングモールではなく、廃れかけた商店街を選ぶ動機の大半は、この費用対効果にあった。
 モールの目玉でもある大型スーパーのタイムセールにも心くすぐられるが、その大半は総菜だ。自分で作った方が安上がり、しかも人情の入る余地が皆無ともなれば、よくよく熟考するまでもない。
 買い物全体を通じ、一円分でも多く価値のある方を使う。それが芽依の判断基準だ。
 その合理性は当人の志向に寄り添っているようで遠い。現状に至るまでの道のりは、けっして平坦なものではなかった。
 そもそも、家庭の事情を売り物にするようなやり口は、芽依にとって苦痛以外の何物でもない。
 学校ではクラスメイトは当然、教師と対面しても決して口にすることはなかった。
 敵意を向けられるのは構わない。だが、憐憫だけはえ難い。
 芽依にとって、施しを受けるということは、哀れな自分を認めることだった。
 可哀想な人間だと他人が決めつけ、可哀想な人間だと自身が貶める。
 “助け合い”とか、“他がため”だとか、自分を逃がしてくれそうな言葉は幾らでも思い付いたが、どれも受け入れるに値するだけの理由にはならなかった。
 今日も今日とて、芽依は両手に持った荷より重い、答えのない葛藤を抱えて家路に着くよりなかった。

 斜陽に紅く染まった古いアパートの前で、芽依は足を止めた。
 恐らく、とっくの昔に耐用年数を超えているのだろう。補修されず放置された屋根や壁面の至る所に錆が浮き、欠損が散見された。
 実際に芽依の年齢に倍する築年数を誇る建物ではあるが、外見はそれ以上の時を経た有り様だった。
 巨大地震が来たら真っ先に倒壊するのではないかと、見る者の不安を煽ってやまないアパート、それが芽依の自宅だった。
 ややあって、芽依は一階の隅の部屋――<103号室>――の鍵を開け、ノブを回した。
 狭い玄関には靴が二足、母と弟のものだ。ちなみに、父親の靴はない。会社に出勤しているからではなく、初めから存在しない。
 芽依は父親の顔というものを、生まれてこの方、写真ですら見たことがなかった。
 もちろん名前も知らない。母親ですら知らないのだから、子たる芽依が知るはずもなかった。
 「ただいま」
 返事はなかった。玄関とダイニングを仕切る扉の奥から、テレビの音だけが聞こえる。
 ダイニングは食卓と四つの椅子で空間の大半を占めており、北側にあって光の入らないせいで外よりも薄暗い。
 芽依が部屋のスイッチを入れると、蛍光灯の白い光に照らされ、芽依の敵が浮かび上がった。
 敵――すなわち、中身のない瓶と缶。汚れ物となった大皿。ゴミの詰まったコンビニの袋。そして、食卓を占拠する情報誌たち。
 奥から真新しい煙草の香りが漂って来る。どうやら母親は一服中のようだ。
 すると、キィと音を立てて奥の扉が開く。吸いかけの煙草メンソールを手にした女――芽依の母親が顔をのぞかせた。
 「・・・・・・帰ってたの?」
 母は娘の顔を見てから、たっぷり間を開けて尋ねた。
 「・・・・・・今さっき」
 同じだけ間を開けて返事を返すと、母親は部屋に引っ込んでいった。
 芽依は食卓の上の邪魔者をテキパキと片付け、床に置きっ放しだった買い物袋を乗せる。
 それから、もう一つの部屋の扉をノックした。
 すぐに”どうぞ”と、小さな返事。ちゃんと相手の許可を得てから、芽依はの部屋に入る。
 「おかえり、お姉ちゃん」
 「ただいま。裕樹」
 部屋には、芽依と同じ艶やかな黒髪・黒瞳の少年――弟の黒岩裕樹が、ベッドに横たわっていた。
 二人の相部屋は大きなベッドと無骨な医療機器が半分を占めており、後はタンスが二つ並び、反対側に小さな本棚が一つ。学習机はなかった。
 「調子はどう?」
 「まぁまぁ、かな」
 そう、と相槌を打ち、芽依は制服の上着を脱いでハンガーにかける。
 芽依の手元が軽くなった頃を見計らい、裕樹はいつもの質問をする。
 「今日は学校、どうだった?」
 「退屈だったわ」
 これもいつも通りの返事。お決まりの、おまじないのような、手続きと化したやり取りだった。
 「勉強は順調?」
 今度は芽依の質問おまじない
 「うん、これのお陰でだいぶ取り戻せてると思う」
 裕樹は手にした銀色のフルタブレットを持ち上げ、朗らかに笑った。
 その表情を見て、以前とは比べようもなく明るくなったと芽依は思う。
 裕樹は小学四年生になるが、殆ど学校に通っていなかった。調子が良ければたまに通学することもあるが、ごてごてした機器が物語る通り、殆ど自宅療養中であった。
 先天的心臓疾患――大別すれば、新生児の約一パーセントに見られる症状。手術で治ると言われたのは何年も前の話だが、未だ健康にはほど遠かった。
 現状、寝たきりではなかったが、長時間の外出をするとたちまち体調不良を起こした。
 薬を毎日服用するので、副作用のむくみや気だるさと戦わなくてはならず、学校に通えないせいで親しい友人もできない。芽依の影響もあって、本を沢山読んだが、知識や物語をため込むばかりの日々が続いていた。
 潮目が変わったのは、そんな状況を見かねた芽依が、“暇つぶしに”とタブレット端末を買い与えてからだ。それから彼の性格は徐々に変わっていった。
 裕樹は自発的に、芽依たちの住む小桜市と国内最大手の持株会社である『おおとり』の傘下企業とが試験的に始めた学習補完プログラムに参画した。今では日夜更新されるウェブサイトの使用感をフィードバックすることが彼の日課だった。
 芽依もサービスのβ版を見せて貰ったことがあったが、本格稼働したら、学校や学習塾という枠組みがいらなくなる日もそう遠い未来ではないと思えるほどの出来映えだった。
 だが、何より芽依が驚いたのは、裕樹の想像を超える行動力だった。
 そういったツールを活用することで学習面での遅れを取り戻しただけでなく、同じ境遇にいる少年・少女達の”親”と積極的にコミュニケーションを取り、その子供達を同プログラムに引き込んだ点だった。
 メールやSNSで定期的に連絡していると教えられてはいたが、実際に顔を見ながら会話する友人――裕樹曰く、『戦友』――までいると知ったのは割と最近だった。
 裕樹は現実で自由にならない分、能動的に人と関わり合うことで心に空いた穴を埋めようとしていた。
 芽依は、病に打ち負かされぬその強さに唯々敬服するばかりだった。
 「ごはん、どうする?」
 応えずとも裕樹の答えは知れていたが、芽依は必ず尋ねるようにしていた。
 気遣いというよりは習慣に近いものだったが、可能な限り弟の願いを聞いてやりたいという小さな想いが、その根底にはあった。
 「いつでも良いよ。作っておいてくれれば、後で温めるから」
 ただ、裕樹は裕樹で滅多に自己主張したりしない。芽依は頷き、部屋を後にした。
 芽依の担当家事しゅびはんいは幅広だ。裕樹の身の回りの世話は主に母親がしていたが、その他は全部といって良い。
 朝食と夕食は毎日。二人とも放っておくと平気で一食や二食取らないこともあるので、必ず作り置きをしておく。買い物と洗濯は二日に一度。部屋の掃除は週末に。その他、ゴミ出し、裁縫、不定期に送られてくる書類の仕分けに代筆――なんでもござれ。
 黒岩家は三人家族だから、一つ一つの作業量はそれほどない。効率良くこなせば、大した労力は必要としない。要するに『慣れ』であって、少なくとも、他人から”偉い”だの”苦労してる”だの言われるほどのことではない――芽依はそう自負していた。
 買い出しの食材がまな板の上で刻まれ、鍋の中で踊っている間、母は黙って退屈そうにテレビを眺めているだけだった。
 小一時間もしないうちに夕食は仕上がった。後は米が炊きあがれば立派な夕餉ゆうげのできあがりだった。
 だが完成を待たず、芽依は一張羅のジャケットを着て、デイバッグを肩に担いだ。
 「いつもぐらいに戻ってくるから」
 芽依は一言だけ告げ、母は無言で芽依を送り出していた。

 煙草と香水の毒香どくがで窒息しそうになる家を出て、芽依は自転車のペダルを強く踏み込んだ。
 ギア無し、鍵無し(代わりにチェーンロックを付けた)、洒落っ気皆無の銀色ママチャリ、それが芽依の愛機である。
 すっかり夜の帳に覆われた街中を、駅の方へ疾走した。
 よもや商店街へ何某なにがしか用事を残していたか。それとも、やはりショッピングモールの誘惑には打ち勝てなかったのだろうか? 芽依が目指したのはそのどちらでもなかった。
 方角は同じだったが、辿り着いた先は、見るも立派な大理石に『おおとり図書館』と銘打たれた施設だ。
 ここは一般的に想像する図書館とは少々趣が異なる。おおとり図書館は、会社帰りの社会人をメインターゲットに据えた私設図書館である。
 利用層に合わせ、十七時から二十三時まで開かれており、社会人は有償の会員制で、学生証さえあれば年齢を問わず無償で利用可能だ。未成年は二十一時までの時間制限付きだが、自習をしたい学生と会社帰りの社会人とで連日連夜大入りだった。
 その光景を見れば一目瞭然なのだが、この図書館を作った企業――おおとり――の戦略は大したものだ。炯眼けいがんと言っても過言ではない。
 近年、電子書籍の普及に伴って紙媒体が廃れて久しいが、紙だろうが電子だろうが、愛読家にとって普遍的かつ重大な問題がある。
 古今東西、書籍の壁は購入費だ。公的な図書館であっても予算は限られている訳だから、読みたいと思う本がそこにあるとは限らない(むしろ無い方が多い)
 おおとり図書館はそこを逆手に取っている。基本的な発想は、会員による『ブックシェアリング』だ。端的に言えば、『図書館が集めた会員費で書籍を共同購入し、皆で回し読みする』のである。
 しかも、この図書館にはユーザーが見たいと思った本が必ず存在する。
 何故か? 馬鹿みたいに高額な会費を徴収しているか、あるいは出資者が赤字覚悟で資本投入しているかと言えば、そうではない。
 答えは、この図書館は会員からリクエストがあったものだけを置いているから。だから必ず見たい本があるという訳だ。
 更に興味深いのは、図書館はユーザから本の購入依頼があった場合、最初に在庫確認するのは『ユーザー』である点だ。まず『誰かこの本を売って下さい』と投げ掛けるのである。
 販売する者がいなければ、次に探すのは中古市場。新品はまず購入しない。そして買い取った本を蔵書として貸し出すことで、ワンサイクルの完成である。
 『一般利用者は話題の本を読みたいと考えているが、必ずしも最新を手に取りたい訳ではない』、『愛読家は自分に必要な本だけがあれば満足する』という二軸の仮説が見事に成立しており、経費の抑制に成功しているのだ。
 要するに、この施設は本を共有する巨大なハブになっていて、会員は得意先であるが、ときに仕入先兼在庫棚となることで補完関係を築いている。まさに出版業界泣かせの存在だが、人と本の共存関係としては最適と言えるだろう。
 当然、芽依にとってもかけがえのない存在となっていた。ある意味、学校より重宝している。
 夜遅くまで開いているだけでなく、学校の参考書まで置いてあるのだから、役立たない訳がない。
 何よりこの図書館を愛して止まないのは、学生向け参考書の近くに、学習内容に即した専門書や題材になった本が必ずと言って良いほど置かれているからだ。
 社会なら史書、理科なら図鑑や専門書といった具合に、興味を持った内容に対して効率よく理解を深める準備がなされていた。
 これには芽依も脱帽だった。司書の発想の豊かさと見識の深さに敬意を表さずにはいられなかった。
 芽依には自分だけの部屋が、学習机すらない。悲しくも綺麗な空気すら。
 ないないだらけだが、ここなら筆記用具があれば十分だ。後は時間とやる気さえあればなんだってできた。
 自動扉をくぐり、マイナスイオンたっぷりの澄んだ空気を思いっきり吸い込んだ。
 自宅の臭気で穢れた肺が蘇る気分だった。
 セキュリティゲートのセンサーに会員証を当てて、知識の楽園へ足を踏み入れる。
 通路を挟んで両側に並んだ本のタイトルに目を奪われつつ、芽依は施設のかなり奥まったところにある定位置――秘密の小部屋――に座った。
 誘惑に負けそうになる自分を宥め、教科書とノートをバッグから引っ張り出す。
 復習をさっと済ませると、今度は予習に取り掛かった。
 半年以上先の、学年も超えてひたすら突き進む芽依の実状を知る者は誰一人いなかった。

 物悲しいメロディーと共に館内放送が流れた。
 学生の追い出し時間十分前を知らせるアナウンスを聞くと、芽依は過ぎた時間の早さを実感する。
 潔く読みかけの本を閉じ、凝り固まった体をほぐそうと両手を組んで前に突き出す。
 気が抜け、空腹であることを意識すると、なんだか盛大に腹の虫が鳴きそうだった。
 「帰りますか」
 芽依が独り言を零しつつ立ち上がる、その瞬間だった。
 ズキン、と下腹部が痛んだ。
 「・・・・・・何、で?」
 昼間の痛みがそっくりそのまま襲って来るようで、咄嗟に言い訳をした。
 これはただの過労だ。一時的な体調不良だ。決して致命的な病気の前兆ではない。そうやって自分に言い聞かせる。
 ――果たしてそうだろうか?
 すぐさま上がる異論/反論は、何も近頃、頻繁するこの感覚のせいだけではなかった。
 難病を抱える弟を持った芽依は、普段は表に出ないが、決してぬぐわれることのない、暗い感情を抱いていた。
 安堵――“ああ、自分でなくて良かった”
 諦念――“ああ、自分もいつかこうなる日が来る”
 のし掛かる自己嫌悪を振り払うように、芽依は大股の歩調で歩き出す。
 (嫌だ。そんなの。まだ私は何も成してない。私はこれから――)ふとよぎる疑問(――これから、なに?)
 これから一体なんだというのだろうか?
 家事をこなし、学業に励み、バイトに勤しみ、息苦しい家で寝起きする。それ以外のことが何も思い付かなかった。
 他人に左右されまいと決意し、自分のしたいように振る舞ったところで、自由にはなれない。どう足掻いたところで、自分はずっと病んだ家族と共に生きなくてはならない。
 いつもの結論に至り、はっとして立ち止まった。
 泥沼だ。不毛だ。無為だ。悩んだところで意味はないのだから、考えるだけ時間の無駄だ――悪い予感を切り捨て、栓の無い話に蓋をした。
 (今できることは――)大きく息を吸い、
 (――可能な限り患部を刺激しないよう努めること)長々と息を吐く。
 少し落ち着いたところで、芽依は一歩踏み出す。
 ズキンズキンズキン――!!
 より強くなるうずきが、何か訴えるようだった。
 言い表せぬ不安に恐怖し、恐怖する自分に怒りを覚えた。
 「こ、の・・・・・・ぉ!」
 激情で痛みに抗った。大人しくなどしていられない。
 勢い図書館から飛び出し、自転車置き場まで脇目もふらず一直線。
 病気だろうと何だろうと知ったことか! と、半ば自棄でペダルを踏み込む。
 そのとき、芽依は異変に気付いた。
 辺りに、人の気配が無かった。幾ら時間が遅くなっても、駅にほど近いこの場所はそれなりに人通りがある。
 加えて音も無かった。まるで廃墟の静謐だった。
 芽依がふと視線を上げると、夜闇に透明な膜のようなものが張られていた。
 違和感を覚えて左右を見渡すと、膜が壁のように視界一杯に広がっていた。
 芽依は自転車を道路の脇に留め、膜の外縁を辿って夜空を見上げた。
 にわかに信じ難い。この透明な膜は、シャボン玉が地面に接したような半球状に広がっているのだが、何分余りに巨大過ぎて、全体像が掴みきれなかった。
 だが、芽依の目算が正しいなら、駅とその周辺地域を丸ごと飲み込んでいる規模だ。
 芽依は何かに吸い寄せられるように、膜を目指して足を進めていた。
 気付けば、手を伸ばせば触れられる距離まで近付いていた。
 膜は微かに震え、僅かに奥の景色を歪めていた。
 「・・・・・・広がってるの?」
 遅々としていたが、膜は確かに外側に向かって進み、その体積を膨張させていた。
 「これって、まさか・・・・・・?」
 芽依が境界面に手を差し入れると、表面が水面のように揺れた。
 手に返る感触はひんやりと冷たく、まとわりつくような厚み。
 ただその一点のみでも、内側が尋常でないと知れる。
 文字通り、手を引くのが正解だというのに、芽依は恐れず膜の中に飛び込んでいた。
 一歩前に踏み出す。それだけで世界は一変する。
 溌剌と輝いていた飲食店のネオン看板が、今は冴えないパステルカラーに。
 天頂で瞬く月は物静かな灰色で、闇はいっそう暗く、深く。
 何から何まで色調が狂っていた。
 見渡す限り、家屋はどこも真っ暗。騒ぎ立てている様子すら見受けられない。
 ここは芽依の勝手知ったる場所ではなく、完全に異世界アナザーだった。
 「規模は全然違うけど、これはあのときと同じ・・・・・・」
 目の前で広がる光景が、夏休み最終日の夜に起こった事件に重なって映った。
 鮮烈に焼き付けられた記憶を辿り、時を遡って世界を逆再生する。
 巡り巡る記憶は、やがて佇む白いローブ姿の女の子に行き当たった。
 「あの子に、もう一度会える・・・・・・?」
 芽依は何かに引き寄せられるように歩き出す。
 より深く、激しい混沌の中心を目指して。

 駅前は見るに堪えない、無惨な有り様だった。
 断線して火花を散らす電線。
 穴だらけになったバスターミナルのアスファルト。
 隣り合って延びた石畳はめくれ、停車した乗用車が篝火となって夜を飾る。
 駅ビルのショーウィンドは割られ、無辜のマネキン達は四肢が散り散りに。
 奇跡的に無傷であったLEDの照明機器が、律義にも惨状を浮き彫りにしていた。
 辺りはさながら戦火になぶられた後のようだったが、線路を挟んだ向かい側と比べればまだマシだと思えた。
 竣工して間もないショッピングモールが見えるのだが、全体の三割ほどが吹き飛んでいる。この状態を半壊と呼ぶべきだろうか? それとも本来の意味を完全に失っているのだから、全壊と呼ぶべきだろうか? どちらにしても、修繕するくらいなら更地から建て直した方がまだ安上がりだと、素人目にも判る状態だ。
 どこもかしこも蹂躙されていた。間違いなく、ここは戦地であり、死地だった。
 人気というものがないせいで実感が乏しかったが、人死に何時出くわすのも時間の問題のように思えた。
 自分がその最初の一人になる可能性に気付かないまま、芽依は歩き続けた。
 やおら視線を泳がせると、駅の改札方面から人群が視界に飛び込んできた。
 色彩の狂ったこの空間では暗闇が格別に濃い。それと、かなり距離もあるせいで、中に見知った顔があるかどうか定かではなかったが、芽依は能動的に動いた。
 助けを求めるのかと思いきや、そそくさと物陰へ身を潜めてしまった。
 やはり知人とは顔を突き合わせたくない――と、このタイミングで考える人間は、きっと脳髄に空気が詰まっているに違いない。
 眼鏡なしでは生活もままならない弱視である芽依だが、彼らが手に何か持っているくらいは見て取れた。
 全員が、大なり小なり棒状の物体を握っている。
 「ここは戦場。だから、手に取ったあらゆるものが武器・・・・・・」
 それが意志あってのことかは判らない。だが、この場所が異常であることくらいすぐに察したことだろう。
 ともすれば、普段は眠っている生存本能が目覚めたとしても不思議ではない。
 (ああやって人を集めて、武器を手に自警団を気取る馬鹿――でなければ、お仲間に煽動せんどうされるまま暴徒化した大馬鹿だ。関わって良いことなど何一つない)
 決めつけとも言い切れない判断の他に、もう一点、芽依には気掛かりがあった。
 今一つ判然としなかったが、どうにも挙動が不自然に感じられた。
 皆、一様に上半身を揺らし、足取りはやや不安定。ただ酩酊めいてい状態とも違っていて、自分の意思で歩いているというより、何かに引き寄せられるようだった。
 芽依はこんな光景をどこかで見た気がしていた。
 さっと思いだそうとするが、高まる緊張感のせいか、何も浮かばなかった。
 「絶対どこかで見た。それだけは間違いないのに・・・・・・!」
 自分の無能が悔やまれるが、今は適切な対応が最優先だ。
 考えることは後でもできる――そう割り切って、あちら側から死角となる壁際を伝って、息を潜める。
 ところが、芽依にとって思わぬ誤算があった。
 隠れたはいいが、体が動かせない分、頭が働きたがるのだ。
 「・・・・・・あぁ、もう気になるッ!」
 まるで歯に挟まった食べカスがいつまでも取れない気持ち悪さだった。
 気になったことは納得せずにはいられない。これは芽依の性分だ。
 例えば、推理小説を読んだらトリックはきちんと自分で理解しないと気が済まず、複雑な人間関係や状況考察は、紙に書き出して睨めっこする。
 例え相手が理解の追いつかない描写や論述であっても、自分なりの整理を付けずに本を手放したことなど一度たりともない。
 颯爽と頭のスイッチを切り替え、絶対に思い出してやる! と奮起。
 「三十秒――三十秒で思い出す」
 決意を露わに、芽依は壁に背を預けて瞑目した。
 芽依が全霊を賭けて神経を尖らせるとき、脳裏に描かれる情景がある。
 地平まで続く真っ白な乾いた大地と、突き抜けるような蒼穹。そして、大きくはないが無限の深さを秘めた湖沼。それが”黒岩芽依”の心の象形/憧憬だった。
 すべての感覚を――自意識すら現実から切り離し、記憶という不確かなモノに像をあてがうことで内なる世界を構築する素晴らしき空想力。それこそ、芽依が”唯一”と自負する特技『記憶の抽象化ビジュアライズドメモリ』である。
 芽依は記憶の水辺に立ち、湖沼をのぞき込む。
 エメラルドブルーの浅瀬には最近の出来事イベントが形となって漂っている。その殆どは視覚情報を現す物体オブジェクトだった。
 形が異なれば現す意味も違う。例えば視覚情報は多面体で、聴覚は波形。味覚は漏斗状に近く、臭覚に至っては捻子のような形をしている。
 それらの物体オブジェクトは言語を現す捻れた紐状の線と文字通り紐付いており、複雑怪奇な構造体ディレクトリを作り上げている。
 この構造体の連なりが、芽依の心の模様――つまりは感情だ。
 表層の構造体は刻一刻と形状を遷移させるが、水底に近付くほど動かなかった。
 芽依は両手を握り、先刻見た視覚/四角の物体を想像/創造する。
 泉へ放り投げると、音もなく湖面に波紋を広げ、そして沈んだ。
 すると、水面下で構造体を結び付けた紐が激しく動き出した。
 構造体はみるみる形を変えた。その速度は徐々に上がり、ついに臨界へ。
 ――轟ッ!!
 水面が突沸を起こし、構造体が飛び出した。
 「これは・・・・・・酷い」
 芽依はその形に溜め息をこぼす。
 構造体はとても大きく、歪な形をしていた。
 僅かなイメージを軸に意味的な紐付けたせいで、関連性の薄い情報まで拾い上げてしまったようだ。
 探索情報が多くなると、当然、そこから探し出す手間が増える。
 作業の多さは時間の無駄になり、ひいては検索の精度にも関わる。
 宙に浮かんだ構造体が、みるみる瓦解していった。折角、記憶を掘り起こしても、そこから探し出せなければ徒労だ。
 これだけ大きく複雑な情報が相手では、困難を越えて至難の業だった。
 崩落する構造体をじっと見つめる芽依が、ふと静かに輝く物体を見つけた。
 その八角柱の物体に、紐付く情報は見当たらなかった。
 つまり”見た”だけ。なのに輝いているということは、よほど感性に深く響く何かがあったのだろう。
 探していたイメージと似通っている気がして、芽依はなんとなしに掴む。
 すると、“大当たり(ジャックポッド)!“とばかりに鳴り響くファンファーレ。
 手にした物体を掲げ、じっと覗き込む。
 それは静止画だった。
 場所は商店街の中古ゲーム屋。対象は店頭に置かれた小さなテレビ。
 映されたゲーム/プロモーション用のビデオ。
 薄暗い画面/グロテスクな人間。
 それで芽依は完全に思い出した。
 あれは、銃で無慈悲に打ち殺される不死者ゾンビだ。
 ハッと、芽依は瞳を見開いた。
 背筋に悪寒が走り、身震いをする。こめかみ辺りの血管が激しく脈動していた。
 目を離したのはほんの十数秒にも満たなかったが、無性に人群の動向が気になった。
 芽依は深呼吸を二度と繰り返し、壁際から顔をのぞかせた。
 ゆっくりと、慎重に、できるだけ姿が隠れるようにして。
 果たして、彼等との距離は離れたままだった。
 そこでほっと一息をつき、回した首を戻そうとした――が、視界の端から何かが飛び込み、反射的に身を屈めていた。
 頭頂を掠める空気/金属の甲高い悲鳴。コンクリート壁から背を伝う衝撃は、やたら化粧の濃い五十絡みの女のフルスウィングによるものだ。
 女の手首がダラリと下がり、ステンレス鍍金のガードポールが転げ落ちた。
 ただでさえ女性の手に余る重量の得物だが、余程力を込めたのだろう。壁から受けた反作用で、手首を壊したようだった。
 「ぁ・・・・・・ぶ、ぇだ・・・・・・ぐ、ぐ・・・・・・」
 女は意味不明な呟きを漏らす。その口元は弛緩しきっており、唾液を垂れ流していた。
 双眸は泥のように濁っていて、視点が定まっていない。
 テレビゲームも真っ青な、現実の不死者リアルゾンビだ。
 女が本当に死んでいるか定かではない。しかし、そんなことは芽依にとって些末なことだ。
 事実はたった一つ。もし反応か回避、どちらか一方でも遅れていれば、芽依は生まれて初めて、自分の頭蓋骨が砕ける音を聞いていたことだろう。
 すくむ芽依をよそに、女は落としたポールを拾おうとした。しかし、掴んだ傍から取りこぼしてしまう。手にしては落とし、手にしては落としと、執拗に繰り返した。
 手首を痛めているのだから当然といえば当然だが、女の表情に激痛も焦燥も見当たらない。まるで昆虫だ。
 芽依はギリッと奥歯を噛みしめ、一気に駆け出す。女には目もくれなかった。
 “問い壱、ゾンビ化した中年女を倒すのに必要な力を求めよ”
  相手の耐久力 * 痛覚補正 - 自分の腕力 * 格闘技術 〈= 0
  ∴下手な反撃は逆効果 → 隙だらけの相手を無視
 (・・・・・・!)
 心臓をバクバク鳴らしながら判断の妥当性を検証――完了。
 百メートル走のパーソナルレコードで疾走――開始。
 次なる一手に思考をスイッチ――失敗。
 芽依のよく回る頭が、手足と共に急停止した。
 行く手を、黒い物体が遮っていた。
 数は四つ。体表には静脈血のような黒赤色の眼球が二つ。口が一つ。以上。後はもう形容不能で、後は抽象的かつ感覚的に言い表すよりない。
 ソレに四肢はない。耳や鼻のような感覚器官も恐らくはついていない。
 溶解と再生を絶え間なく繰り返しているせいで、人間基準では器官の定義は不可能だった。
 (こいつら、あのときの・・・・・・!)
 芽依がこの異世界アナザー住人ばけものに出くわすのは、これで二度目だ。
 けれど一度目は、こんな手の届きそうな距離ではなかった。
 だから、こんなにもおぞましいだなんて思ってもいなかった。
 不透明度の低い怪物の胎内は、外側からでも透けて見える。
 消化器官が蠕動するようにうねる体内に、胎児のように背を丸めた人の影が映し出されていた。
 それが怪物に喰われた人間なのだと、芽依は誰に教わるでもなく理解した。
 芽依は慌てて振り返る。いつの間にか、怪物が道を塞いでいた。
 後背では、件の人群が方向転換を始めていた。
 逃げ場が、なかった。
 「ふざけるな・・・・・・」
 芽依は憤る。ゾンビに殴殺されるのも真っ平だが、怪物の餌となってモシャモシャと頭から咀嚼されるのは、更に度し難かった。
 芽依が逡巡している間に、包囲は狭まる。一歩も動けないまま、いよいよ怪物の大口が開かれた。
 冷静クール狂乱パニックの狭間で、絶対回避不能なその瞬間だけが、やたら正確に認識できた。
 「それだけは――――嫌だッ!!」
 芽依は最後の瞬間まで諦めなかった。
 瞳を凝らし、逸らさない。だが、そこに魂の輝きはなかった。
 困難に立ち向かう不屈の精神でもなければ、生に対する覚悟でもない。その根底にあったのは、漠然とした将来へ希望だけだ。
 いつもとかわらない今日があり、いつもと少しだけ違う明日がある。
 繰り返される日常の中にあって、自分が死ぬ様が想像できなかっただけだ。
 芽依はこのとき、未来を――自分自身を諦めるという選択肢を持っていなかった。
 そして、紅玉ルビーの赤い輝きが、視界いっぱいに広がった。
 ごうごう、と雷鳴に匹敵する爆音。そして竜巻の如き暴風。
 芽依は両手でどうにか視界を確保――指の隙間から、四体の化け物が一斉に弾け飛ぶ様を見た。
 入れ替わりで、空から一条の光が舞い降りた。
 異世界アナザーの中でも暗闇でも色褪せぬ輝き。一瞬、またあの子が――白ローブの女の子が助けてくれたのだと思ったが、全くの別人だ。それだけは、後ろ姿からでも判った。
 吉岡夢乃ほどでないにしろ、背丈が高い。腰に右手を添えた挑発的な立ち姿が、腰まで届く美事な薔薇色の髪と相まって豪奢だった。
 赤を基調にしたアバンギャルドなジャケット。フリル付きのシャツ。赤いライン入りの白ミニスカート×黒ニーハイソックス。靴紐をほどいて履き崩したロングブーツ。
 フェミニン全開な装いとは対照的に、左手に填めた小手は物々しい。大きく、重量感があり、巨人の腕のようだった。
 「あの、アナタは・・・・・・」
 初めて見る少女へ芽依が声を掛けると、件の籠手が力強い光を放出する。夕焼け空よりもなお赤い、紅玉ルビーの輝きだ。
 (この子――!?)
 そのとき、芽依は僅かに動くブーツの爪先を見逃さなかった。
 何か仕掛けて来るのだと察した。なのに少女の左手が振り抜かれるまで、芽依は指先すら動かせなかった。
 問答無用の一撃が腹部を突き抜け、背中から倒れ込んだ。
 芽依は無意識に腹部へ手を当てていた。
 (・・・・・・生きて、る?)
 大穴は空いてなかった。それどころか傷一つない。弾けたのは、背後の化け物の方だった。
 芽依は捕食されかけた事実を忘れ、呆然と少女を仰ぎ見た。ところが、
 「よっしゃっ! これでアタシのポイントリードだ!」
 まるでゲームプレイ中であるかのような科白に、芽依は眉根を寄せる。
 「いいえ、同点イーブンですわ」
 別の声が、耳元で響いた。
 (何っ!?)
 芽依は驚き左右を見渡す。目に映ったのは件の中年女性と、その背後に群がる不死者グール逹。危機はまだ去っていない。
 芽依がにわかに緊張感を取り戻すと、青く輝く粒子が粉雪のように空から降り注ぎ、まるで幾万ものイルミネーションに包まれるように辺りを漂った。
 すると、何の前触れもなく中年女性が前のめりに倒れた。
 それを契機に、大挙してきた一団が一斉に崩れ落ちる。
 「なッ――? ずっけぇ! やっぱどう考えてもネオアンガーよか不死者グールの方がちょろいじゃねーか!! 比率レートがおかしいぞ、サファイア!!」
 薔薇色の髪の少女が、何の脈絡もなくいきり立った。
 一方的な非難に抗議するかのように吹き付ける烈風――僅かに顔を逸らす芽依――後には、青玉サファイアの輝きをまとった小柄な少女。
 「ルビー、悔しかったら不死者グールを狙ったら如何? その無粋な拳で殴れるものなら、ですが。それと、比率を持ち出したのは貴女の方でなくて?」
 サファイアと呼ばれた少女が一歩前に踏み出すと、高下駄が”カッ”と、独特な足音を鳴らした。
 ルビーのガーリースタイルとは打って変わり、今度は薄青色の着物に濃紺の袴と、まるで大正浪漫風を思わせる和装だった。
 ところが、ただ古めかしいのとは違っていて、大きなリボンの髪留めや、切り出した肩口やそれとバランスを取るように長大化した袖、華美な紋様の腰帯とそこから尻尾のように伸びる流麗な紐束など、過度に挑戦的だ。
 膝裏まで届きそうな美事な紺碧の髪に、両耳の煌びやかなイヤリング――ティアドロップ状の飾りには深い色味の青玉サファイアが取り付けられ、瀟洒しょうしゃな彩りを添えている。
 「その比率設定がおかしいっつってんだよ。どう考えてもお前に有利だ」
 「負けそうになるからルール変更だなんて、あぁ何て浅ましいんでしょう。粗忽かつ横柄なルビー、貴女はジャイアニズムの権化ですわ!」
 「アホか! ネオアンガー狩りだけじゃ勝負にならないから考えてやったんだろうが! それをいいことに比率設定をごり押ししたのは何処のドイツ人だ! そもそもジャイアニズムは『お前の物は俺の物、俺の物は俺の物』ッつー理不尽かつ一方的な要求原理の思想だ! どう考えてもアタシよか、お前の方が近ぇーよ!!」
 「あら嫌だ。『どこのドイツ人だ!』だなんて。いまどきドサ回りのお猿さんでも言いませんわ」嘆息気味にサファイア。
 「もともと猿はんなこと言わねぇよ! つか、都合の悪いこと誤魔化すな!! それとさり気なくアタシのこと馬鹿にしたな!?」握った拳を震わせるルビー。
 「これは失敬。ドサ回りだなんて。わたくしとしたことが些か言い方に品性を欠きましたわ。『地方巡業』と言い直させて頂きます」
 「訂正すべきはそこじゃねぇ・・・・・・ああ、判った。もう判りましたよ。コイツだな。コイツが欲しくて欲しくてたまんねぇんだな。我慢できなくて、早くぶち込んで欲しいんだよな。いいぜ、やってやるよ。泣いても絶っ対ぇ許してやんねーからな!」
 ルビーは立てた右の握り拳を震わせ、めらめらと闘志を燃やす。
 サファイアはアジュールブルーの瞳を細めると、懐から取り出した扇子をバッと広げて口元を覆い隠した。
 「ヒ・ワ・イ」
 殺す、と物騒な呟きをその場に残し、ルビーが突貫。
 サファイアは助走無しでアスファルト上を後ろ向きに
 ルビーの猛追/火の玉の如き苛烈さ。
 サファイアの逃走/舞踊の如き華麗さ。
 激しい火花――赤と青の輝き――を散らしながら、あっという間に二人の少女は芽依の視界から消えた。
 一人取り残された芽依は唯々、唖然とするばかりだった。
 彼女たちが消えた後を眺めながら、その一言一句を思い出してみる。
 《不死者グール》――怪物に取り込まれた元人間。
 《ネオアンガー》――正体不明の怪物。
 《ルビー》、《サファイア》――この世界の魔法使い。
 《ゲーム》、《ルール》――責務ではなく遊戯としての殲滅。
 《ジャイアニズム》――は、関係ない。
 《何処のドイツ人》――も、全く関係ない。
 「・・・・・・何処の何奴どいつ? 小学生じゃあるまいし」
 芽依は二人の掛け合いを思い出し、くすりと笑った。
 「何か・・・・・・良かったな。きちんとお互いを見て、ぶつかり合って――殴り合うのはどうかと思うけど、すれ違うよりはいい。すれ違うよりは」
 胸の奥深くに沈めた感情が、言葉となってこぼれ落ちた。
 ――羨ましい。
 その最後の一片だけは形にならなかった。
 芽依は立ち上がり、ズボンの埃を払う。それから颯爽と歩き出した。
 その足が向かう先は、二人の少女が飛び去った方角だった。
 あれだけ恐ろしい、死ぬかも知れない経験をしたというのに、芽依の頭の中に”家に帰る”という選択肢はなかった。
 ただ、もう一度会いたかった。あの白いローブ姿の少女に。
 会って、一言礼を伝えたかった。
 それから、話をしてみたかった。
 できるなら、横に並んで戦いたかった。
 それが叶わぬ願いだと知りながら、芽依は胸に抱いた憧憬を捨てられずにいた。
 それから芽依が街をさ迷うこと半時。
 異世界アナザーは突然、消えてなくなった。


 その瞬間は唐突で、本当に何の前触れもなかった。
 駅の周辺全域を包んでいた薄膜、その天頂に亀裂が入ると、一拍子遅れて膜全体が音もなく弾け、油膜を明るくしたような虹色の破片が、時雨となって荒廃の街へ降り注いだ。
 チラチラ。チラチラ。チラチラ。
 芽依は掌を空へ向け、一片を受け止める。
 触れたそばから欠片は消えてなくなった。
 それはまるで体温に融ける粉雪だ。視界一面、見渡す限りに続く、儚くも美しい幻想。
 しかし、芽依に感慨はなく、ただ深い眠りから醒めるかの様な心地だった。
 この街も悪夢から目覚めようとした。
 狂った色調が正され、件の欠片に触れた物が復元する。原型を無くしたものでさえ、切り絵を差し替えるように、元の姿を取り戻していった。
 その光景は、見る者を安堵させた。これで日常が返ってくるのだと。
 不安が薄れていくと、芽依の中で残された想いが――消えゆく世界への哀愁あいしゅう思慕しぼが、浮き彫りになった。
 結局、あのルビー・サファイアらと遭遇した後は、何一つ得るものがなかった。
 ネオアンガーや不死者グールと鉢合わせしないよう、警戒を厳に動いたのも一因だが、自分の運の無さが悔やまれてならなかった。
 自分は魔法使いにはなれない――芽依にはその自覚があった。
 何故なら、自分は特別ではないから。特別と呼べるのは吉岡夢乃や宝生ひかりの如き人物のことであって、自分こと黒岩芽依の如き普通の、凡庸の域を脱しない、この街に吐いて捨てるほどいる人間は、何処までいっても部外者であり、選ばれた者たちが演じる物語を、遠く、客席から眺めることしか許されない。
 魔法使いでなければ、この舞台に立つ資格はない。
 慮外者の行き着く先は一つだ。
 死の懲罰デスペナルティ――前回は白いローブの女の子に、そして今回は二人の少女に、たまたま助けられた。だが、それは次回も悪運が続く保証にはならない。
 諦念と羨望が天秤の両皿に掛けられ、芽依の心を大きく揺らした。
 長いか短いか判らない人生だが、これほど希有な経験は今より後にない――芽依にはその確信があった。
 問題は、それが命を賭してまで挑む価値があるかどうかだろう。
 「傍観者に、意義なんてあるわけがない」
 芽依は声に出して確かめる。
 芽依はこの異世界アナザーにおいて余りにも無力で、そして彼女達に対し余りにも無知だった。
 しかし、無為であり続けることと、何もせず諦めることは同じ様で違う。
 “せめてもの慰めに”と、芽依はこの崩れゆく世界を使って実験を試みた。
 「あの膜は内側の世界を書き換えた。その破片は世界を元の姿に戻した。なら、触れなかったものはどうなる?」
 世界初の難題に挑む科学者の如き心境で、芽依は足下に転がっていた二つの硝子片――明らかにこの異世界アナザーで破壊されたであろう遺物――を手に取った。
 一方は掌に乗せ、もう一方は軽く握り込む。
 「この破片に接触することで修復されるなら、妨げられたものは残されるはず」
 果たして、芽依の予想通りだった。虹色の欠片に触れた方は幻であったかのように霧散し、手の内にあった硝子片は残されていた。
 この時点で、芽依は一つの推論を得た。昨今この街で起きる怪現象は、十中八九この空間に起因するものだ。
 怪現象に関する話には大きく必ずと言っていいほど語られる内容がある。
 一つ、壊れた建造物。
 一つ、正体不明の化け物。
 一つ、神隠しに遭う人々。
 尾鰭はついているにせよ、突き詰めればどれもこの世界の出来事に行き着く。
 その結論は芽依を妙に納得させ、同時に落胆させた。
 「つまり、この世界に足を踏み入れた者は、私の他にも大勢いるってことね。不死者グールと化した人間がどこまで記憶してられるか判らないけど、少なくとも私はすべて覚えている。同じようにここへ迷い込み、難を逃れた人間がいる。だから噂が広まった」
 それと、壊れたままの建物も噂に拍車を掛けた。
 元に戻るには『虹の欠片』に触れる必要があるが、欠片は降雪と同じで均等に地上へ落ちて来ていない。
 確かに視界を覆うほどの量だが、それでも、まばらであることには変わりない。破壊された箇所が深く、偶然にも修復されない可能性は十分に考えられる。
 問題は、その総量と制限時間の有無だ。噂程度で済んでいるのだから、殆どは復元されるものと考えて良いはずだった。
 街で見られる異変は、言うなれば異世界アナザーの傷痕といったところだろう。
 大筋は見えて来た。だが、芽依には最後にもう一つだけ検証すべき要点があった。
 あまり――というか、かなり気乗りしないが、絶対に確かめておかなければならなかった。
 手の内に残されたガラス片を握り直し、逆の腕に押しつける――<一呼吸>――一気に引いた。
 「あ、痛ッ――――」
 勿論、加減はしていた。肌が浅く切れて血が滴る程度だったが、それでも痛いものは痛い。
 芽依は早々に後悔しかけたが、嘆く前に鮮血の滲む右手で、虹の欠片に触れる。
 すぐには効果を実感できなかった。だが触れさせているうちに痛みが引き、出血も緩やかになっていった。
 「効果は確かにある。でも人工物ほどの即効性はないみたい」
 この結果は、唯の人間である芽依にとって喜ばしいことだった。
 怪我をして、こんな短時間で治るだなんて、夢のような効果だ。
 ところが、芽依はそれと対照的な面持ちでポツリと零す。
 「もしこの世界で死んだら、生き返る? それとも、物体として復元するだけ?」
 まさか自殺を図る訳にもいかず、こればっかりはその時が来なければ分からない。
 「・・・・・・死ぬのは、イヤだな」
 芽依は、自分が殺される様を想像できなかった。
 日に二度も殺されそうになっているにも関わらず、やはり受け入れ難いものがある。
 別に”自分だけは死ぬはずがない”と高をくくっていた訳ではない。むしろ家族の事もあり、若くして死ぬのではないかとさえ思っていた時期さえあった。
 ただし、それは事故や病気の類であって、誰かに害されてのことではなかった。
 そんなごく当たり前の、ごくごく日常的な感覚が、冷酷なまでの現実に実感を与えることを拒んだ。
 “そのときが訪れんことを”
 願いを天へ届けるように見上げた黒瞳に、希望の光が映った。
 紅玉ルビーの赤と青玉サファイアの青、そして緑石エメラルドの緑と金剛石ダイヤモンドの白――四つの光が、線路を挟んで山側と海側へ二つに分かれていった。
 夜空に頼りなくたゆたう星々のよりも気高く、本当に宝石の瞬きのような透明な輝きに、芽依の薄い唇が大きな弧を描いた。
 確かに”黒岩芽依じぶん“は特別ではない。だから役者にはなれないだろう。
 だが、劇は役者だけで回すものではない。
 目映い舞台の裏には、多くの裏方がいる。脚本、演出、照明、音声、効果、設備――もしかすると監督だって――空席があるかも分からない。
 それを見つけないままこの機会を捨てるなんて、芽依には無理な相談だった。
 「私にやれること、絶対探してみせる・・・・・・!!」
 次こそは彼女達と対話をする。そして何らかのサポートを約束し、仲間に入れて貰うのだ――芽依はそう決意を新たにする。
 その根底にあったのは無垢な憧れだった。
 それは単に命を救われたからだけではない。
 鬱蒼とする日常を営む芽依にとって、別世界の戦場を颯爽と駆け抜ける華やかな後ろ姿は、現実から解き放たれた自由そのものだった。
 だから、この頃の芽依は、その純粋な憧憬が壊滅的なまでに破綻しているなどと、露ほども信じてはいなかった。


 芽依が異世界アナザーからの生還を本当の意味で実感したのは、自室で裕樹の寝顔を見つけた瞬間だった。
 アパートの玄関を跨ぎ、ダイニングに漂う真新しい煙草の残り香を嗅いでも現実感は満たされなかった。
 あるいは、その息苦しさこそが現実感だというのであれば、四六時中、溢れだして止まないのだが、そんなものを基準にはしたくなかった。
 芽依は特段、母親の寝室をのぞこうとは思わなかった。
 もし奇跡的に起床していて、月並みに『どこに行っていた』と問われても話が噛み合わないし、そのことで自分から相談しようなど、それこそ、月と並ぶよりありえない。
 今は少しでも休んでおくべきだった。明日――正確には既に今日だが――起きてからの方が切実なのだから。
 結局のところ、芽依が床に着いてから目を覚ますまで二時間もなかった。
 寝たのだか寝てないのだかよく分からなかったが、ともあれ、今日も目覚まし時計には勝利した。疲労困憊だったので遅れを取るのではないかと戦々恐々だったが、習慣と精神力が勝った。
 芽依は枕元で折り畳まれたセルフレームの黒眼鏡を掛け、一分の無駄の無い動作でいつも通りの準備手続き(アルゴリズム)を開始する。
 [1]布団を畳む。
 [2]制服に着替える。
 [3]顔を洗う。
 [4]髪を結ぶ。
 <中断>
 ふと鏡に映る自分――逆位置の虚像――と視線が合ってしまった。
 息が掛かりそうな位置まで顔を近付けて焦点を結び、笑いかけてみる。
 返される微笑――シニカルな冷貌――視線を逸らす。
 つくづく笑顔の似合わない女だと、芽依は他人事のように思う。
 いつからだろうか、こんな風に笑うようになったのは?
 父親がいない人間は差別と哀れみの対象だと気付いたときか。
 母親の愛情が自分に向けられる日は永遠に来ないと悟ったときか。
 本当に自律した人間には他人が必要ないと結論づけたときか。
 それとも、宝生ひかりが――――
 <再開>
 [5]朝食を取る。
 無意識に投げ掛けた問いを、シリアルフードと一緒に陶器の皿へ流し込んだ。
 たっぷりと注がれる牛乳。白濁した疑問は、すぐに見えなくなった。
 芽依はこのシリアルフードという代物をなかなか合理的な食事だと感心しながら、乾燥させた大麦やドライフルーツなんかを眺めていると、小学校で飼育していた鶏の餌を連想した。あれも確かこんな色合いだったと思う。
 芽依にはささやかな、そして、本当にどうでもいい疑問があった。
 『パッケージに描かれたカラフルなゴリラが謳う多量の食物繊維を、果たして鶏はありがたいと思うだろうか?』
 思うに違いない――芽依はかなり本気でそう考えていた。
 驚くなかれ。毎日同じものを食べたおかげで、鶏の気持ちが分かって来るのだ。
 彼らがたまに与えられる生キャベツをご馳走のようにつつくのは、きっと食物繊維が大好きで、摂取したくてしたくてたまらないのだ。
 鶏ならざる――いやしくもこの農業国に生まれ落ちた人間としては、時折、無性に米が食べたくなったが、余った分を冷凍しなくてはならないのがネックだった。
 黒岩家は人数が少ない。そのせいなのか、単なる貧乏性なのか判らないが、冷蔵庫が非常に小さい。とにかく狭い。どれだけきちんと立てて保存したところで、どうにも誤魔化しきれない容量だった。
 幸い、小食な人間ばかりなので慰労ないのだが、冷凍庫はセールで買い込む冷凍食品によって占拠されているため、米の冷凍保存は物理的困難と精神的抵抗感がつきまとう問題だった。
 芽依は鶏より幾分か上品にシリアルフードを平らげ、食器を素早く洗う。
 一瞬で侘しい朝食を済ませると、昨晩の献立と同じ具材を詰め込んだ弁当をバッグに入れて玄関へ。
 [6]行って来ます、の一言。
 真っ暗な自宅に別れを告げ、独り外出した。


 ゆっくりと吐いた息が、僅かに白くなった。
 日に日に夜明けが遠くなって、冬の気配が近付いていた。
 家から芽依の競歩じみた早足できっちり十分。常人なら二十分弱といった距離に、夜明け前から煌々と明かりの灯る軒先があった。
 ガラス戸に内側から張られたチラシには白地に赤文字で『大衆新聞』のロゴ。
 この地方新聞の集配所こそ、芽依が中学校の入学と前後して通い始め、未だ皆勤賞を継続中のアルバイト先だった。
 「おはようございます」
 慣れた感じで簡単な挨拶を済ませ、タイムカードに打刻する。
 入り口付近に並んで吊り下がるジャンパー(店先と同じロゴ入り)とナイロンのパンツを制服の上に着込むと、山のように積まれた朝刊を小分けにして自分の三輪車に載せ替えていった。
 三輪車といっても、当然、大人用である。某大手飲料メーカーの配送サービスで使われていたのを、カラーリングだけショッキングピンクに変えた代物が芽依の商売道具だ。
 それというのも、紙は積み重なると相当な重さになるもので、中学生になりたての芽依には、集配所の自転車が乗りこなせなかったからだ。
 実は当初、“重い自転車が危険だから”と、就業の申し出を門前払いされた。
 唯でさえ若者は雇用上のリスクが高く、しかも少女となれば、体力以外にも問題になりかねない。断るのには体のよく、それでいて実際的な理由だったのだろう。
 この個人商店のオーナーに誤算があったとすれば、『黒岩芽依』という少女がその程度のことで引き下がるような性根の持ち主ではなかったことだ。
 翌日、どこぞより持ち出した三輪車を眼前に突き付けられた際は、流石に驚いた事だろう。
 しかも、払い下げの段取りまで勝手に付けられている事を知った頃には、開いた口が塞がらなかったはずだ。
 最後は芽依の気迫が勝った。“一度でも遅刻したらクビでいい!“と、啖呵を切ったのが決め手になった。
 渋る相手を押し切り、芽依は晴れてとなった。
 そして、そんな力業に対する返礼がこのカラーリングだった。
 芽依の希望は目立たない銀色ないし黒だったが、目立たなくては事故に繋がると、オーナーの鶴の一言でこのド派手な、頭がおかしいとしか思えない色に塗装されてしまった。
 果たして『女子中学生』に対する配慮か、それとも唯の意趣返しか――芽依は後者だと信じて疑わなかった。
 そんなこんなで、今日も見た目は恥ずかしすぎるが芽依に最適な三輪車に跨がる。
 芽依の担当地区は、集配所の近場を優先的にあてがわれており、ゆっくり回っても制限時間内をギリギリで配りきれる件数だ。
 だが芽依はいつも全力でペダルを踏み込む。
 理由は二つ――だったが、最近になって三つに増えていた。
 一つ目は性格的な理由。ダラダラやるよりタイムアタックに挑む方が性に合っているのは言わずもがな。
 二つ目は体力的な理由。芽依は勉強の比重が高いので、運動の機会は極力活かすように心掛けている。
 三つ目は――そのうち嫌でも訪れる。
 大概、満載にした新聞が三割を切った辺りが山場だ。息が切れ、溜まった乳酸が抜け切らず足が震え出す。
 これが夏場だったら、途端に汗が吹き出て気分が悪くなる。
 体調が優れない日に無理をして、危うく倒れそうになったこともあった。
 ようやく涼しさを実感するようになったかと思えば、すぐに指先や顔がかじかむ時期がやってくる。これから春先まで、厳しくなることはあっても和らぐことはない。
 風が吹けば辛さは倍、雨が降ったら三倍。もし雪でも降った日には? ――想像するだけで悲しくなるので、芽依は深く考えない。
 新聞配達は決して楽な仕事ではない。だが、芽依は自分の仕事に概ね満足していた。
 早起きは向き不向きがあるとしても、結局は習慣の問題。体力的な問題はやり方次第。辛いのは気候に左右される点くらいだ。
 何より、芽依には続けるだけのメリットがあった。
 まず、地元に詳しくなる。単に配送ルートを辿るだけでも土地勘が得られるが、地図を見ながら効率的な回り方を研究すればより効果的だろう。芽依など、地元を越えて小桜市の全域を頭に叩き込むまでに至っていた。
 何より、時給が良い。これに勝る動機はなかった。中学生という立場を鑑みれば破格だ。
 そもそも、他では時給云々以前に雇ってもらえるかどうかすら怪しいのだから、芽依としては、石にかじり付いてでも続ける所存だった。
 荷台が軽くなって終わりが見えると、ようやく辺りも白んで来る。
 背中に汗が滲み、喉が渇く。踏みつけたペダルが急に重くなった――いや、重くなっているのは気分の方か。
 負けじと歯を食いしばり、立ち漕ぎまでして車輪を回す。
 芽依が全力疾走する三つ目の理由、それは一件の家屋にある。
 『宝生』――木板に刻まれた可愛らしい書体=家主お手製の表札。
 手入れの届いた広い庭は、この辺りで唯一のイングリッシュガーデン。
 不思議の国の入り口みたいなアーチと石畳、その奥にのぞかせるウッドテーブルとスモールチェア。クラシックなエクステリアが演出する本物の空気感。
 春の陽気に包まれながらお茶会でもしたら最高に幸せな気分にさせてくれそうな、優しさの滲む場所。
 背後の大きな邸宅がまるで壁紙のように溶け込んだ空間意匠は、一つの作品と呼ぶに相応しい出来映えだった。
 余りにも――そう、自分の居場所とは余りにも違う/違いすぎる、異場所/異世界アナザーへ新聞を届けなくてはならなかった。
 この一時の苦痛から逃れるためには、全力疾走する以外にない。
 これは何の罰ゲームか、芽依自身、未だに理解できていない。
 他人にはもっと理解されないだろう。配達経路の変更が言い渡されたときの衝撃がどれほどだったか。
 “この一帯の契約が急増したから担当を変える”
 ある日、オーナーは芽依にそう告げた。
 配る数が増えたから経路が再編成される。担当が別の場所に移り変わる。それはいい、自然なことだ。
 異常なのは契約件数だった。通年の平均値を遙かに上回る、ひと月で半期の目標に届きそうな本数が舞い込んで来たのだという。
 その言葉は本当だろうか?
 いつしか、芽依の中にぬぐい去れない疑念が生じていた。
 表札の隣で大口を開ける蛙の像/DIYの香り漂うポストに新聞を投函し、(気分的には亜光速で)その場を後にする――が、
 「おはよう、芽依ちゃん」
 アーチの影から名前を呼ばれ、ドクンッと一つ心臓が打ち鳴らされた。
 かじかむ冷たさを打ち消す、春の陽気のような響き。なのに、何度聞いても一向に慣れないのは、その声色と口調とが、遠い過去に埋もれた声と重なるから。
 まさか名前を呼ばれて無視する訳にもいかず、振り返えり、丁寧なお辞儀をした。
 「おはございます」
 頭を上げると、庭園の端で一人の女性が、大きな伸びをしていた。
 金髪碧眼のブロンド美人と言えば誰もが想像するような女性で、ノーメイク+小豆色ジャージという日本的早朝スタイルが驚くほど似合わない。TPO無視のバッチリメイク+イブニングドレスの方がよほど相応しかろう人だ。
 そんな芽依の所感を察したかのように、女性は口元に上品な微笑を湛えていた。
 記憶が正しければ四十路に近いはずだが、三十過ぎにしか見えない――中学二年生になる娘がいるとはまず思われない――宝生ひかりの母親であった。
 「今日も良い天気ね」
 「・・・・・・・・・・・・」
 相手に釣られ、芽依は空を見上げる。
 確かに雲は少なかった。だが、夜明けを迎えようとするこの時分に適切な表現だろうか? あるいはこの女性ひとなりのジョークか。
 母娘揃って掴みにくいことこの上ないが、真のやりにくさはこんなものではなかった。
 「毎朝大変ね」――まずはジャブ/簡単で答えやすい問い。
 「仕事ですから」――とりあえずスウェー/感情ではなく義務で返す。
 ひかりの母は、にぃと不敵に笑う。子供っぽさを残す可愛らしい表情/あるいは大人の余裕。少し腹立たしい。
 「学校はどう?」――ジャブ/探りの一手。
 「いつも通りです」――パリィ/見事な能面。
 「勉強はどう?」――ジャブ/素早く切り込み。
 「いつも通りです」――パリィ/仮面は揺るがず。
 「お友達とはどう?」――ジャブ/角度を調整。
 「いつも通りです」――パリィ/凛として崩れない。
 「お通じはどう?」――フック/突然の変化!
 「放っておいてください。余計なお世話です」――ブロック/無抵抗の抗議。
 ここで芽依が同じように”いつも通り”と答えでもしたら、“へぇ~、いつも通りXXXなんだ~?“と、下劣な言葉責めが展開されていたことだろう。この人との会話はまったく油断ならない。
 間髪を容れず繰り返される攻防に、ひかりの母はますます笑みを大きくする。
 「芽依ちゃん、ゆぅぁそぉぅくぅぅうる。相変わらずイカしてるわね。うちはおっとりさんばっかだから――ふふっ、面白くなくて」
 「・・・・・・・・・・・・」
 心の針――その名も『苛立ちバロメーター』――が、大きく振れた。
 顔立ちはネイティブなヨーロピアンに流暢な日本語英語を披露されると、何故か小馬鹿にされている気分になる。世間話なのか、探りなのか、単におちょくられているだけか、こうも掴ませないと腹立たしい。
 「ねぇ芽依ちゃん、おばさんのことは聞いてくれないの? 何でこんな時間にお外にいるんだ――とか」
 やはり相手の先手。仕方ないので、芽依はおざなりに問うてみた。
 「・・・・・・こんな時間に外で何してるんですか?」
 マシンボイスより抑揚を殺した声が頭の頂点辺りから出力されたが、相手は気にした風でもなく、むしろ『よくぞ聞いてくれました』と、ばかりに瞳を輝かせる。
 「んふふ、知りたい? 教えてあげようかな~、どうしよっかな~?」
 ガンッ! とバロメーターが問答無用で限界を振り切った。
 さようなら+お元気で→機敏なターン。
 もう会うこともないでしょう≒二度と会いたくありません。
 百光年以上遠くから、自分ではない誰かが暇を告げた。
 「冗談よ、冗談。芽依ちゃん駄目よ、短気は損気☆」
 芽依の足が止まる。だが振り返るつもりはない。
 猫のように全身を毛を逆立て、相手を警戒/横目でちらりと偵察――人差し指をピンと立てたアラフォーの、いたずらっ子を諭すようなファニーフェイス。
 (本気で疲れる・・・・・・!)
 げんなりする芽依。やはり見なければ良かったと、激しく後悔した。
 「今朝はね。目が覚めた瞬間、素敵な出会いがありそうな予感がしたから、お庭でそのときを待ってたのよ。そしたら芽依ちゃんが来た。これは凄い偶然――いいえ、運命ね」
 止めの、とびきりウインク/キラリ☆と効果音が飛び出しそう。
 やや酸欠気味だったせいか、頭がクラクラした。もう色々とどうでも良くなりかける。
 芽依はつくづく痛感させられる。人を苛立たせるのがとびきり上手な、本当に良く似た親子だと。
 だが違う点もあった。芽依が気付けなかった、決定的な相違点。
 「ひかりとは最近どう?」――ストレート/目の覚めるような衝撃。
 疲れて下がり気味になったガードの隙を、狙いすましたような一撃。
 この精神力タフネスこそ、娘にはない『母』の強さだった。
 「別に。それこそ、いつも通りですよ」
 動揺を隠し、精一杯突っ張ってみる。相手の言いたいことはもう判っているが、ここで愚直に『悩める十代』を演じる義務はない。芽依は反撃に打って出た。
 「そう言えば――既にご存知かと思いますが、最近、私の担当地区がこの辺りに変わったんです」
 へぇそうなんだ初耳~、と言いたいのを我慢するかの如く、小作りな頭部を縦に大きく揺らすひかりの母。
 「何故、うちの新聞を取ったんですか?」
 「特に理由はないけど・・・・・・まぁ、そうね。強いて言うなら、可愛らしい配達員さんが決め手かしら?」
 (――ああ、そういうこと)
 一体どんな方法まほうを使ったのか想像もつかないのに、根拠もない確信が、この人物こそ原因であると告げた。
 宝生ひかりが何をどこまで話しているのか知らない/知りたいとも思わない。だが、この人はすべて察しているのだ。こうして直接出向いたということは、釘を刺す気でいるに違いない。
 そうと判れば、芽依の決断は早い。
 「あの子のことで、私に何かご相談が?」クロスカウンター/白々しい口調。
 口に出した芽依にこそダメージがあった。
 だが、その分だけ効果的なはずだ。これで警告なり何なり、相手に言わせてしまえばいい。
 『あなたって本当に優秀。素晴らしいわ』
 芽依には、その呟きがフランス語だということしか判らなかったが、言葉の裏に隠された感情は読みとれた。
 ほんの一瞬だけ、妙なる笑顔が強ばり、瞳が僅かに見開いた。
 その意味するところは『意外性の現れ』だ。
 つまり、こちらの逆襲が予想外だったということ。
 「相談、か。う~ん、あの子の場合、問題は生き方だからね~。何が悪いってわけじゃないんだけど」
 それは何かを諦めたような、何かに祈るような――
 「あ、でもね。おばさん、芽依ちゃんには期待してるんだ。芽依ちゃんなら、あの子を変えられるんじゃないかって、そう思ってるの。だからもっと、ビシバシ言って頂戴。あの子、あれで結構頑固なのよね」
 ――そんな、美しい笑顔だった。
 『あのひかりは悪くない』その顔で擁護してくれたら良かった。
 『あなた(めいちゃん)が悪い』その顔で非難してくれたら良かった。
 そうすれば少し好きになれたはずだ。“ああ、何と愚かで愛すべき母親だ”と。
 (私が・・・・・・あの子を・・・・・・変える?)
 芽依の黒瞳に宿る光が、刃物のように冷たく研がれていった。
 間違っている――判っていて”何もしない親”なんて。
 間違っている――“他人を変える”なんて。
 勝手に”自分の在りよう”を押し付けるなんて、そんなおこがましい事だけはしてはいけない。
 さもなくば、その身勝手な理想に裏切られるだけだ。
 「違います。それ、間違ってます。だって私は――」
 かつての愚かな自分が思い出され、小さくわらう芽依。
 「――あの子が嫌いなだけですから」


 ぴぴぴぴ――小鳥のさえずりのような可愛らしいアラーム音が、朝七時を告げた。
 ふかふかの羽毛布団から白い手が伸び、手探りを始める。子犬が懸命に嗅ぎ回るようにして、ようやく銀色の鳥の飾りが付いた目覚まし時計をキャッチ。そのままぬくぬくの布団の中へ連れ去ってしまう。
 ぴ――、と最後の一絞りを残し、鳴き声は止んだ。
 ややあって、重厚な、渋みと張りのある声が、部屋の中に響く。
 「ひかり、そろそろ起床時間だ。あまり余裕をみせすぎると、遅刻を余儀なくするぞ」
 「ベルケム・・・・・・お願い、あと五分・・・・・・五分だけ待って?」
 カーテンの隙間から差し込む朝日から逃れるように、宝生ひかりは布団を頭から被る――<縮こまった亀のポーズ>――現実と徹底抗戦の構え。
 睡魔との格闘戦闘ドッグファイトは、既に敗北済みだった。
 「では五分間待つとしよう」
 「ありがと・・・・・・・・・・・・」
 それからきっかり五分後、
 「ひかり、五分が経過した。さあ起きるのだ」
 再び同じ声が呼ぶ。目覚まし時計もびっくりの正確さだった。
 「ベルケム・・・・・・あと三分、三分だけ・・・・・・ね?」
 「分かった」
 「ありが――」「では、私がひかりに代わって御家族に朝の挨拶をするとしよう。上手く混乱を創出できれば三分程度は稼げるだろう。君はその間に起床するのだ」
 「・・・・・・・・・・・・!? だ、だめ~!!」
 転瞬――布団が勢いよく捲られ、亜麻色の髪がぶぅわさぁっ! と舞う。
 「どうした、ひかり。君には後二分二十二秒ほど残されているのだから、ゆっくりしたらいい」
 「いくないよッ!」
 ひかりは細い首をきゅっと回し、声の主にきっちり抗議。
 くっきりとしたアーチを描く二重瞼を、寝ぼけ眼+じと目が更に深くする。
 ライトブラウンの瞳の先には、一羽の鷹がいた。見間違いではない。本当に鷹だ。ただ『本当だけど本物じゃない』というだけ。
 確かに見た目は鷹そっくりだが、羽毛の代わりに青白い炎が体中から吹き出していた。
 前にひかりが『暑くない?』か本人に尋ねてみたところ、『』とのことだった。
 実際に触ってみても、確かに熱くなかった。それどころか熱そのものがない。まるで空気の塊を触っているようで、眼を瞑ればそこに居ることすら実感できなかった。
 当人が言うには、『精霊の組織構成はこの物質界において極めて不安定であり、聖刻保持者の精神還元現象リ・バースによって代理構成体が強制設定されることになるが、精霊は独自の精霊力レイズによって拮抗状態を生み出している関係上、相剋の波で発生する不純化した精霊力レイズが、観測者には青い炎のように映っているだけ』とのことだった。
 要は、燃えているように見えるだけで、実際に燃えているのではない――らしい。
 ひかりはこうして一言一句まで思いだせるのが、今でも全く判らないということだけは良く判っていた。
 ひかりは軽く寝癖の付いたセミロングの髪を手櫛でさっととかす。
 「ベルケムってほんとに色んな方法を思い付くよね・・・・・・」
 「お褒めにあずかり恐縮する」
 「誉めてないですよーだ」
 そして薄桜色の唇を尖らせた。
 怒ってはいない――呆れてるのだ。何せこの蒼炎のベルケムは『やる』と言ったら絶対にやる――というか、しでかす。
 こっちの都合なんてお構いなしなのだ。その頑固じいさんのような性格のお陰で、ひかりが何度人知れず冷や汗をかいたことか。
 さっきだって、適当に流したら絶対に動いていた。社会常識なんかどこ吹く風。あくまで威風堂々。訳の分からない理屈を追い風に羽ばたく勇姿が目に浮かぶ。
 勢いで起こした上半身が、ぺたんと前に倒れる。疲れの抜けない体が重かった。
 だめ押しで気疲れが背中にのし掛かって来る。
 はぁ~、と溜め息混じりのロングブレス。ひかりは小さな花柄を散りばめたシーツに顔を埋めた。
 ここがお花畑だったら幸せだなー、なんて妄想してみても、やっぱり現実は変わらない。
 (これはストレッチ、これはストレッチ・・・・・・)
 仕方ないので懸命に暗示を掛ける。『あら、あたしってば、もしかしてもしかすると疲れてないかも?』と思えた一瞬たぶん0.01秒位を狙って「よしっ!」と掛け声=気合いの注入。
 ばっ、と勢いでベッドから抜け出す。
 「三分四十秒。これで夢乃との待ち合わせ時刻にも間に合うだろう」
 炎をまとった外見は揺らめいても、心構えは山のよう。ベルケムは実に淡々としていた。
 「そんな気にしなくたって大丈夫だって。ほんと、ベルケムって心配性だね」
 「個々の決め事は精霊にとって何より重んじられる。口約束とはいえ、他者との良好な関係性を維持するためには相応の努力を費やす。それは君達人類にとっても同様だと思っていたのだが――訂正の余地があるのだろうか?」
 「それはそうかも、だけどさ・・・・・・」苦笑するひかり。
 ひかりの知る『精霊』は二人とも合理的、かつ論理な考え方をするが、このベルケムは特に曖昧さを持たない。
 とにかく真面目で一本気。何事もマイペースなひかりにとって、手厳しい教師のポディションとなっていた。
 こうやってぐうの音も出ない指摘をされると、幼い頃に他界した祖父を思い出す。
 大好きだったお祖父ちゃんも似た性格をしていた。厳しくて、優しい人だった。
 ひかりは打ち明けていないが、ベルケムがこの家で一緒に暮らすようになって以来、何となく、お祖父ちゃんが天国から帰って来たように思っていた。
 「・・・・・・どうした。私の顔に何か付いているか?」
 ひかりの過去を懐かしむ視線にベルケムは気付いていた。
 精霊は精霊力レイズの察知に長けている。人の感情は精霊力レイズに溶け込むため、こうした、ほんのちょっとした考え事にもフォローを入れてくる。
 ただ鷹の顔に『何か付いてる』というのは――比喩にしたって変だ。
 ひかりはそれがちょっとだけ可笑しかった。真顔で冗談を言われているみたいだった。
 ひかりの友達にも、一人だけそんな言い回しを好む女の子がいた。
 もう随分と長いこと、その子とは会話らしい会話をしていない。
 それが遙か遠く、ずっと昔からそうだったような、それでいて昨日のことのような気がしてならなかった。
 「何でもない。着替えるから部屋から出ていってちょーだい」
 胸の内に残された苦みがこみ上げるが、相手の生真面目さを突いて誤魔化した。
 「了解した。私はいつも通り上空から監視を行う。ひかりの方でも――」「異変に気付いたら連絡しろ、身の危険を感じたら変身しろ、でしょ? 毎日言わなくても分かってるよ」
 「確認は何度でも行うべきものだ。気の知れた仲間であっても、いつの間にか認識がずれている可能性は否定出来ない。別の理由を付け加えるなら、このところ『侵食』の発生頻度が高まっている。日中においても、例外的事態が発生する可能性が高まっていると捉えておくべきだろう」
 「・・・・・・そだね」
 水玉柄のパジャマのボタンに掛けた指先が止まる。小さな相槌の奥には大きな痛みがあった。
 一体どこで、どのようにボタンの掛け違いがあったのだろう。
 気付けば失っていた大切なもの――<残された痛み>――誰にも見られたくないから、ボタンを一つずつ外していく。
 肌着をのぞかせると、蒼炎をまとった鷹は大きく羽ばたきを一つ。閉ざされた窓を通り抜け、澄んだ秋の空へと舞い上がる。
 そうやって不都合ベルケムを追い出し、ひかりは次第に落ち着きを取り戻す。
 一つ一つ確かめるように、ゆっくりゆっくり制服に着替えた。姿見で全身を念入り過ぎるくらい念入りにチェックして、ようやく部屋の扉に手をかけた。
 階段を下りると、直接繋がったリビングからテレビの音がする。
 「おはよう!」
 ひかりはニュース番組のコメンテーターの笑い声に負けない明るい声で朝の挨拶をした。
 そうやって、それまでの下がり調子を嘘にするのだ。
 迎える方は少し驚いたような顔をして、すぐにいつもの笑顔を返してくれた。
 「お、今日もちゃんと起きれたじゃないか。最近はドタバタしないで済んでるみたいだね、エラいぞ! やっぱりひかりはやればできる子だな」
 マグカップを片手にニュース番組を眺めていたのはひかりの父だ。日本人とロシア人のハーフで、ひかりとは鼻筋と髪色がそっくりだった。
 父の評価は、中学二年になる娘にとって全く誉められてる気がしないのだが、父は天然なので諦めている。何より、ひかり自身も――たまにではあるが――同じ評価を友人達から頂いてしまう。自分に返ってくることは、悪いようには言えないのだった。
 「ちゃんと起きるのは当たり前。朝ご飯のお手伝いを毎日できるようになったら誉めてあげるわ」
 苦笑いを浮かべて新聞に目を戻したのがひかりの母だ。
 二人は既に食事を終えているようだった。宝生家は三人家族だが、朝食だけは家族全員が揃わなくとも食べ始める。最も早起きな父が朝食を作り、母とひかりはタイミングが合えば準備を手伝うといった具合だ。
 ベルケムと暮らす以前のひかりの朝は常に時間ぎりぎりだったので、こうしてちゃんと起きていてもダメな子扱いはなかなか変わらなかった。
 「ママ、何か気になる記事でもあった?」
 ふと熱心に新聞を読みふける母が気になり声を掛ける。
 あくまで娘の勘だったが、無言なのに何か話し掛けて欲しそうに見えた。
 最近、購読紙を変えたようなので、その感想でも言いたいのだろうか?
 「気になる? ・・・・・・ひかり、覚えておいて。この世界には二種類の記事しかないの。面白い記事か、不愉快な記事か。私にとって事件はすべて興味の対象だけど、私が気にとめないのは後者が大半だからよ。この世の中には不愉快なもの絶対的に多すぎる」
 「あれ? 今朝は何かママがカッコいい・・・・・・」
 言いながら、ひかりはパントリーに置かれた食パンをトースターに入れ、ツマミを感覚で回したところで気付く。新聞から目を離し、何やら意味ありげに窓の外を眺める母の横顔はやたらシリアスだった。
 「ちなみに今の台詞、昨日見たドラマのパクりだから」
 母の真顔は十秒も保たなかった。
 くわっ! と目を剥いて父に恐ろしい顔を向ける。
 「昨日からずっと言いたそうにしててね。今朝も早起きして新聞を取りにいったくらいさ。そうやってひかりが降りて来るのをずっと待ってたんだよ」
 「パパ! 駄目よ、ばらしちゃ! これにはまだ続きがあったのに!! それとパクりじゃなくて引用と言って頂戴。そのまま使ったところなんて殆どないんだから!」
 「あははは、ママってほんとそういうの好きだよね」
 父と母の掛け合いに、ひかりの笑い声が弾む。
 みんなで冗談を言って、みんなで笑い合って。これが宝生家の至って普通な、よくある光景。とても平和で、優しい時間だ。
 昨晩、この街の命運を賭けた戦いがあっただなんて、誰も思ってもいない。
 当事者のひかりでさえ、今流れているテレビ中の出来事のように遠く感じられていたのだからしようがない。
 鼻歌を歌いながら、食パンに焦げ目が付くのを待った。目をつぶって軽く頭でリズムを取る。
 「ん~ふんふふ~ん~ふふ♪」
 朝のニュースでこの街の異変が取り上げられている様子はなかった。いつも耳の早い母から何の知らせもない。
 やはり、昨晩はいつもより上手くできたのだ。
 なにせ昨日までは、この小桜市をたった二人でフォローしていたのだ。
 飛び回るだけでてんやわんやの騒ぎだったが、それが一気に倍。しかもあれほど強い子達が二人も協力してくれたのだ。上手くいくに決まっていた。
 (ファルケルは『主義主張』とか『指揮系統』とか小難しいこと言うけど、みんなの目的は同じなんだから絶対仲間に――ううん、友達になれるよ。ああ、今日の待ち合わせが楽しみになってきた! どんな子達なんだろうな~?)
 いつにない達成感と、新たな出会いを交互に思い浮かべ、やたらとテンションが上がる。まだ少しだけ残っていた眠気もどこかに飛んでいった。
 合間にパンの焦げ目をチェック――キツネ色のいい感じ――タイマーを0にする。
 チン! とトースターが鳴る。熱々の食パンを摘まんで、ひかり専用のモーニングプレートへ載せる。空いた手で食器棚からマグカップを取り出し、ダイニングテーブルに運――ハプニング発生!
 プレートに相乗りしているミニトマトちゃんが、レタス山から転がり落ちる。危うくフローリングにダイブしそうになるが、プレートの縁でどうにかブロック。
 「セ~フ」
 自分の席に着いて牛乳をマグカップへ注ぎ、スクランブルエッグにケチャップを付ける。今の気分に合わせて◎に。なかなかキレイに書けて満足だった。
 「いただきま~す!」
 両手を合わせて神様に感謝――食事前の欠かさぬ習慣/母の教え。
 日系の父は無宗教だが、母はカトリックだった。聖書や日曜のミサを強制されたことはなかったが、祈ることだけは昔から言われ続けた。祈りは”救い”なのだと。
 昔、『何に祈るかは自由で、祈ることも適当でいい』という母の教えを一人の友人に話したことがあった。
 そのとき彼女はこう言った。
 『祈る暇があるなら悩みに対する解消法を考えるべきだ』と。
 しょっちゅう人から質問される習慣で、そのたびに同じ理由を話したものだが、そんな風に返されたのは初めてで――多分、最後になるんじゃないかと思っていた。
 未だに真に祈る理由を持たないひかりにとって、そんな自分だけの答えを持った少女はとてもカッコ良く映ったものだ。
 「や~ね、思い出し笑いだなんて」母の指摘。
 「えぇ? 笑ってなんかないよ~」娘の反論。
 ひかりは自分の頬に手を当てて、確かめてみる――確かにちょっとだけ緩んでいたかも知れない。
 でも仕方ない。素敵な思い出は、のぞき込むだけでウキウキが止まらないのだ。
 何でも上手くいく予感がした。そうだ、『彼女』に話し掛けてみよう。
 今日は――今日こそは、きっと昔みたいに楽しく話せるはずだ。
 トーストに大好きな苺ジャムと明るい未来をたっぷり塗ってひとかじりする。幸せが染み込んで来るみたいだった。
 「~♪」
 ご機嫌で朝食を食べる娘の様子を眺める母が言った。
 「学校は楽しい?」
 「ふん、とっへぇも!」
 「・・・・・・口の中を空っぽにしてから話しなさい」
 ハッとして、ひかりは急いで口を動かし、ゴクンと音が鳴りそうな勢いで飲み込む。
 「うん、とっても!」
 「ふむ。じゃ、あの子とはどう? 仲良くやってる?」
 「・・・・・・? あの子ってだーれだい?」
 ひかりの思い当たる節がなさそうな顔を浮かべる。
 こういうときは惚けているのではなく本当に分かっていないので、周囲の者は具体的に指摘しなくてはならなかった。
 「芽依ちゃんよ。黒岩芽依ちゃん」
 「・・・・・・芽依ちゃん? うん。いつも通りだよ」
 「今朝ね、芽依ちゃんに偶然会ったの。それで同じ質問したわ。あの子、何て言ったと思う?」
 母は指組みした両手を顎に乗せていた。そのシリアスな表情からして、またドラマに影響されているのだろう。
 題して『上司と部下の緊迫』。それならばと、ひかりは直感的に答える。
 「――芽依ちゃんなら、多分そう言うんじゃないかな」
 呆気に取られた母の顔。相手に合わせて冗談で返した方が良かっただろうか? とひかりが思い直したその時、ふと時計の針が目に留まる。
 「あ、ヤバい。待ち合わせの時間だ!」
 ひかりは食べかけのトーストと残りのサラダを一気に口の中へ詰め込む。リスのほっぺたみたいに膨らませて席を立った。
 「ひってひまふ!」
 モーニングプレートをシンクへ置いて、急いで外へ飛び出していった。
 父は唖然と、母は憮然として嵐の過ぎ去った席を眺める。
 「・・・・・・逃げたわね、あの子」
 「大丈夫。ひかりならなんとかするさ」
 お気楽な父を横目にする母の横顔は、獲物を取り逃した狩人のそれだ。
 「あなたのそういうところって、本っ当にひかりとそっくりね」
 「なんとかなるなる♪」
 「・・・・・・芽依ちゃんの苦労が何となく判るわ」
 打たれ強すぎる父娘に、母は溜め息を零した。

 ひかりはなだらかな石畳を駆け足で下る。
 緑豊かな庭と、不思議の国の入り口みたいなアーチを潜って正面の道路にたどり着く直前で急停止。
 ぷはー、と止めていた息を吐き出し深呼吸。右見て、左見て、もう一度右を見る。
 車が通りかかることもあまりないのだが、大昔、飛び出して轢かれそうになった教訓は今でも忘れていない。
 通りを真っ直ぐ歩くこと五分。待ち合わせの場所――国道と県道の交差点――に到着。待ち人はいなかった。約束の時刻に十五分も早いのだから仕方ない。
 (思わず飛び出して来ちゃったけど、怪しまれなかったかな・・・・・・うぅ、駄目だ。きっとバレバレだ。何であたしって誤魔化すのが下手っぴなんだー! うがー!)
 自己嫌悪に負けて、カクンと細い首が曲がる。そのまま頭をぶんぶん振ってみた。
 大変気持ち悪くなった頃、ふと人の近付く気配に気付く――といっても、変身している時と違って、スカートの裾と足先を見つけただけだが。
 「おはようございます宝生先輩!」
 「おや、あなた達は――」
 呼ばれて顔を上げる。知人ではないが顔を知っている少女達だった。
 「おはよう! 多分、川上真由さんに、藤和――心さんで良かったかな? 読み方合ってる?」
 「うわっ! 凄い、何であたし達の名前知ってるんですか?」
 「何故と言われましても・・・・・・たまたま?」
 「たまたまって・・・・・・そんなんで人の名前と顔が覚えられるんですか?」
 「え? でも川上さん、あたしの名前知ってたでしょ? それと同じじゃないかな。話したことないけど、たまたま知ってた。ただ、そんだけだよ」
 そんな少しも鯱張ったところのないひかりの様に唖然とする少女へ、もう一人の少女が助け船を出した。
 「だから言ったじゃん。宝生先輩って、学校中の生徒と教師の名前覚えてるって。結構有名な話だよ」
 「でもでも、アタシみたいな超パンピーまで覚えてるなんて有り得ないでしょ? しかもあの宝生先輩だよ!? 超嬉しいんですけど!」
 「じゃあなに? あんたそれを確かめたくてわざわざ?」
 二人の少女は話しかけた相手ひかりをほったらかしにして、きゃっきゃと盛り上がりを見せた。
 ちなみに、ひかりが彼女達と話すのは本当にこれが初めてだった。
 にも関わらず名前を当ててみせたのは偶然でもなんでもない。事実、名前を記憶していたからだ。
 言われたように、ひかりは全生徒、全教師――それどころか事務員、PTA役員、生徒の家族まで、顔と姓名を同時に目にした者は一人残らず記憶している。
 この二人の情報にしても、学年とクラスに出席番号、それと所属している部活も言えたが、最初から深く突っ込んでいくと気味悪がられるので、出すのは姓名だけにしておくのがマイルールだったりする。
 「・・・・・・にしても、ちみたち。こんなところで油を売っていていいのかね? あまり油断していると遅刻するぞよ?」
 エア髭を指先で摘み、妙な口調で会話に割り込む。ひかりのダンディな男性のイメージはかなり適当だ。
 はっとしたように、あわてて姿勢を正す少女達。幾ら何でも失礼だと理解したようだ。
 「スミマンセン、はしゃいじゃって・・・・・・」
 「あの、私・・・・・・宝生先輩のファンになりました! いや、今までも隠れファンだったんですけど、本気でファンになりました! サインください!」
 「サイン!? 困ったな、今はペン持ってないし――って、サインしたことあるんかいッ! いや、ありませんからッ!」
 「――」
 「――」
 「――」
 シン――と静まり返る空気。リアクションゼロ。時が止まったように固まる少女達。
 不発となった『一人ノリ突っ込み返し』。とんでもなく恥ずかしくなって、ひかりは白い頬をほんのり赤く染める。
 「ぷっ・・・・・・あははははっ!」
 「おおぅッ・・・・・・笑いが遅れてやってきた」
 「宝生先輩って面白い人なんですね」一人が言う「いやいや、可愛い人でしょ」もう一人が負けじと意見する。
 「それじゃ、握手にしよう」
 ひかりはスカートでごしごし右手を拭いて二人の前に差し出す。
 遠慮がちな少女達だったが、予想以上に強く手を握られると、自然と笑顔になった。
 握手を終え、二人は小走りに駆けて行く。その間も何やら大はしゃぎだ。
 ひかりが”仲良しは良きことかな”と、大きく頷いていると、ふと周囲の視線に気付く。
 通りには好奇の目が溢れていた。
 信号待ちのサラリーマン×四。
 道路を挟んで反対側を散歩している犬×二+飼い主のおばさん。
 慣れたものではあるが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいので、携帯電話スマホをチェックするふりでやり過ごすことにした。
 光彩認証でロック解除。
 「うわ、なんじゃこりゃ・・・・・・」
 ひかりを驚かせた数字の二十。ホーム画面に置いてあるイルカ風のガジェット――最近流行りのコミュニケーションツール――に記録された連絡者のだ。件数に表したら、一体どれだけになることやら。
 これだけ大量だと返信するだけでも一苦労なので、とりあえず見なかったことにする。
 「そろそろコレも卒業かな・・・・・・」
 「人気者は大変、だね」
 背後から穏やかな声。ひかりは頭一つ以上高い位置にある顔を見上げる。
 まず目に付くのはスレンダーな体型/長身/長い手足。それでいて頭は小さいので七頭身オーバーが確実の少女。
 少し癖のある黒髪をチェーン状の変わったゴムで二つ結びにして、右サイドだけクロスさせたヘヤピンでまとめていた。
 髪色に溶け込んで目立たないが、控えめにオシャレを楽しんでいるこの少女が、ひかりの待ち合わせ相手――吉岡夢乃だった。
 二年に進級して同じクラスになってから急に親しくなり、ここ数ヶ月は別の理由で、一緒に登下校をする仲になっていた。
 「人気なんかあっても全然嬉しくないんだなこれが・・・・・・っていうか夢乃ちゃん、もしかして見てた? さっきの」
 「あ・・・・・・うん。ちょっと遠くから、だけど」
 「何で助けてくれなかったのさ~?」
 「え・・・・・・私まで参加すると、なんか、長引きそうだったし・・・・・・私、ひかりと違って、その、口下手・・・・・・だから」
 夢乃はもじもじと申し訳なさそうに。
 声は小さく、背筋は丸まっていく。
 「背中、丸まってるよ」
 てぇぃ、とひかりの不意打ち。夢乃の脇腹を人差し指でツンと突く。
 ひゃぁ、とすっとんきょんな声を上げて夢乃が飛び退く。
 「だから、それは駄目だって・・・・・・」
 「ウシシシ――『気が付いたら指摘して』って言ったのは誰かな誰かな~?」
 「それはそうだけど・・・・・・うぅ」
 「おほほほほ! そうであろう、そうであろう。夢乃、お主が言ったのじゃ。うりゃうりゃ」
 「あ、ヤダ! 馬鹿やってないで早く行こ・・・・・・ぅよ! ――あンッ、だから駄目だって、もう!」

 二人は少し遠回りをして登校する。校内だと、ひかりの周囲は常に誰かしらいるため、二人きりでの話をしようと思うと、こうして意図的に時間を作らなくてはならなかった。
 電話で済ませないこともないのだが、内容が内容だけに、お互いの顔を見て話すようにしていたら、いつの間にか朝の慣習となっていたのだった。
 「それで、昨日の話だけど・・・・・・ひかりは、どう、考えてるの?」
 「あたしはやっぱり会ってみたい。それと、一緒に戦いたい。ベルケムの話だと、あっちの精霊が折れないだろうから、『仲間』っていうより『共同戦線』みたいな感じになるかも知れない、って言ってたけど」
 「それ、ファルケルも言ってた。『あっちは主義が違う』って。仲間になるかもねって言ったら、なんか、凄く嫌そうな顔、してた」
 困ったように笑う夢乃とひかり。
 「同じ精霊なんだから仲良くしたらいいのに。そこら辺はちっとも人と変わらないんだよねぇ・・・・・・あたしさ、精霊のことってまだ良く判らないんだけど、少なくともあの子達はあたし達と同じ人間なわけでしょ? 年も近そうだし、やっぱ友達になれると思うんだ」
 「それじゃ、今晩のオフ会、行こっか。ちょっと怖いけど、ひかりがいてくれるなら、きっと、大丈夫だと思う」
 「うん。あたしも夢乃ちゃんがいてくれると心強いよ。もし何かあっても、こう、ビリビリビリ~!! ってやっつけちゃうだろうしさ」
 「どうかな・・・・・・自信ないけど、もしもの時は、頑張るね」
 早くも緊張した様子の夢乃だったが、ふと思い出したように微笑む。
 「そういえば、あの子達と戦うの、ちょっとだけ、楽しみなんだ」
 「ほぇ、意外。夢乃ちゃんってば、実は戦いに血がたぎるタイプだったの?」
 「違う違う。戦いは、どうしても好きになれないよ。痛いのも、痛めつけるのも、苦手。そうじゃなくて、戦いになればさ、あの子達の決闘装束デュエルドレスが見れる、でしょ? 昨日会ったとき、すっごい可愛いって、思ったんだ。赤い子のひらひらしたガーリーな感じも、青い子の和風レトロっぽい感じも凄く似合ってて、もっとじっくり見たかったな」
 「そういえば確かに可愛かったね。流石、夢乃ちゃん。アパレル大好きなだけあって、よく見てるね」
 うんうんと感心するひかりの態度に、何かしら含むところを感じ取ったのか、夢乃は突っかかっていった。
 「ひかりは、良いよね。ドレス凄く可愛いし・・・・・・大きめの帽子とか、真っ白で細かい宝飾の法衣ローブとか、グローブも、刻印装具シールズだって上品でオシャレだし・・・・・・そ、それに比べて私なんか――」口ごもる夢乃「ナマ足ドーンだよね!」引き取ったひかりのド直球。
 夢乃の顔が一瞬で真っ赤に茹であがる。
 「初めて見たとき、『足長っ!』って思わず言っちゃったもん。夢乃ちゃん元から長いんだけど、あのロングコートとホットパンツも足長効果あるよ、絶対!」
 「お願いだから、あ、あんまり大きな声で、言わない、で・・・・・・」
 夢乃は鞄で顔を隠してイヤイヤと頭を拭って見せる。
 普段、他人からいじられっぱなしのひかりにとって、それはとても新鮮で、非常に女の子で、本当に可愛くて、凄く苛めたく――(訂正)――素直に弄ってあげたくなる仕草だった。
 イケナイと分かっていても食べてしまいたくなる甘い甘いお菓子みたいだ。
 ひかりは自分の意外な一面にどぎまぎしてしまう。変な方向へハマってしまわないか、ちょっぴり心配にすらなった。
 夢乃は鞄から顔を離し、傍らを並んで歩くひかりをちらりと覗き見る。
 満腔の、清く健やかな笑顔が、太陽のように光輝いていた。
 途端に夢乃は逃げ出す。鞄で顔を隠したまま肩を固定、膝下のみを動かす様はまさに伝説の『Ninja』! スタタタターと効果音が聞こえてきそうな快走ぶりだった。
 「ちぇ、逃げられたか――」ひかりは口を尖らせ、「――って、え? あれ? ノンストップ? 確かめたりしないの? ちょっ、待って! 何もしないから! お天道様に誓って!」
 問答無用で逃げる夢乃を、慌てて追いかける羽目になったひかりだった。

 あらぬ――でもない誤解は、中学校の正門をくぐり、幾人かの生徒に変なものを見る眼差しを向けられた後も解けなかった。
 校舎の玄関口を跨ぎ、下駄箱にローファーを放り込んでも、ひかりの釈明フォローは続く。
 「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・だから、本当に、何も、しないってば~」
 口が開きっぱなしのひかりに対し、夢乃は息切れ一つしていない。しかも、あの冗談のような走法スタイルで最後まで走りきったのだから信じがたい。
 「・・・・・・ほんとうにほんと?」狼にロックオンされた子羊の表情。
 「ほんとほんと! ごめん、そんなに嫌がるなんて思ってなかったからさ。もうドレスのことは言わない。絶対。約束する」
 ひかりは真剣だった。透き通るライトブラウンの眼差しが、信頼するひかりのものだと判り、夢乃はようやくガードを解く。
 「・・・・・・別にね、嫌ってわけじゃ、ないんだ」
 口ごもる夢乃は、予想外の一言を零した。
 「ちょっと、恥ずかしいだけ。本当は、分かってる。あれが私自身だってこと。ファルケルが言ってた。『決闘装束デュエルドレスは心象の顕現』だって。その人の望みとか、生き方とかが、目に見える形になるってことだって。
 あれが『今の私』で、『なりたい私』だって言われて、『ああ、そうなんだ』って、ちょっと納得もした。それが少しだけ、恥ずかしいんだ」
 全部言い切ったところで、夢乃は俯き気味になった。
 人間、誰しも自分の望みがはっきりしてる訳じゃない。もしかすると、本当は口にしているのと正反対だったりもする。
 自分の抱えるコンプレックスに負けない強さを夢乃は欲していた。
 そんな夢乃の『弱さ/らしさ』をひかりは知っていた。それでも、言い放つのだ。
 「ユー、なっちゃいなよ――カッコイイ自分!」
 ぴんと立った親指&とびきりのウインク。
 最高の笑顔/華やかに伸びやかに。
 いいかな?<いいよね?<なっちゃうぞ!――だなんて、全然根拠なんてないのに自信エネルギーを与える不思議な力に、夢乃はもう何度救われた事だろう。
 ひかりがいたからこそ、夢乃は自身のコンプレックスに、この街の異変に立ち向かおうと思えたのだ。
 「うん、そうだね。私、頑張る」

 小さく拳を作ったところで、夢乃はちょっとした問題を思い出した。
 「・・・・・・そういえば、あの子達と話すとき、一つだけ質問しても、いい?」
 「一個と言わず、何個でも! だって友達になるんだもん。お互い知りたいことはイッパイあるよね」
 「あ、うん。それもあるけど・・・・・・私が聞きたいのは、あの子達が途中で助けたっていう、女の子のこと、なんだ」
 「ああ、えっと確か――『同い年くらい』で『セミロングの黒髪』、あとは・・・・・・『黒眼鏡』だっけ? よく覚えてないって二人とも言ってたね。うーん。でも、それだけじゃこの街に何百人いるか分かんないよ? あたしや夢乃ちゃんみたく分かり易い特徴があればまだしも・・・・・・」
 「そうだね。ちゃんと特定できれば、それが一番だけど・・・・・・でも、今は私達の知り合いにその子がいないって分かれば、それで十分じゃないかな。見た目や服装は、普段と全然違うし、動きも早いから、家族とか近しい友達でもなければ、気付かれること、ないと思う」
 「なるほど。夢乃ちゃん賢い!」
 うんうん、と大仰に頷くひかりに、苦笑いする夢乃。
 「仮にその子が周りに言いふらしても、多分、誰も信じてくれないだろうし。でも、その子が、ネットとかに画像とか動画を流したりしたら、ちょっと、面倒なことになる、かも」
 「でも、《侵食世界アナザー》の中じゃ物は変質し易いから、精密機器とか複雑な造りのものって、まともに使えないんじゃ・・・・・・」
 ひかりは小首を傾げる。夢乃も頷いて同意する。
 「私も初めはそう思ってたんだけど、ファルケルが、“可能性はゼロじゃない”って」
 「あ、分かった。あたし達だ」
 ひかりの回答は答えになっていないが、正解を知っている夢乃には十分通じた。
 ジュエリストたる自分達だったら、この問題提起自体が無意味になるというのだ。
 「ひかりは凄いね。私なんか、お風呂から出てくるまで気付けなかった」
 えへへ、とはにかむひかり。
 「聖刻を持ってる私たちは例外。あの空間内でも変質しない。だから、私たちか、あの子達が持っているなら、この携帯電話のカメラも使えちゃう。もし、助けたその女の子が『刻まれし者』だったら――」「できちゃうわけだ」
 夢乃の心配事がようやくひかりにも伝わった。
 あの異世界アナザーのことを他人に話したところで映像はCG扱いされるだろうし、証拠写真でも取られない限り取り沙汰されることはない。でも完全に無視してしまうと、いずれ問題に発展する可能性がある。そういうことだった。
 「分かった。もっと詳しい話し、聞いてみよう。それと放課後はベルケムとファルケルにも相談だね」
 「うん」
 二人は廊下を並んで歩いた。壁の掲示板を見やると、開催まで二週間を切った文化祭の告知が張り出されていた。
 文化祭はひかりが所属するブラスバンド部にとって、全校にアピールするチャンスだ。緊張もするが、その分、練習にも気合いが入る。
 気掛かりは、昨今の小桜市の騒動で活動時間が短くなってしまったことだ。仕上げが間に合うかどうか、部内でも微妙な雰囲気なのだ。
 ――土日の活動もあるだろうか?
 教室のドアを目にするまでそんな考えを巡らせていたひかりだが、ふと一つの可能性に行き着く。
 『黒髪』、『セミロング』、『黒縁眼鏡』。
 とても身近で、幾ら何でも近すぎるから、その場で思い浮かばなかった。
 賑やかな声のする二年C組の教室、その入り口をくぐる。
 ――ああ、とってもキレイ。
 目に留まる窓際の席/朝日に煌めく黒曜の髪/真っ直ぐな眼差し。
 いつもと変わらない凛とした横顔。そこでたった独り、ここではない世界に佇んでる。
 「もし芽依ちゃんがジュエリストだったら?」
 小さな呟きは、出迎えの挨拶に掻き消された。クラス中がにわかに沸き立つ。
 「おっ、はっ――よぉぉ~!!」
 教室を跨げばひかりはいつも通りだった。
 いつもの元気の良さで、ひょんな思い付きを振り払う――いや、振り払わなくてはならなかった。それは悪い夢だから。
 きっと自分達は敵対する。理屈抜きで、ぶつかり合うことになる。
 そして、自分は負けるのだ。
 だって、相手は『黒岩芽依』なのだ。
 憧れて、隣に並ぼうと頑張って、とうとう届かなかった唯一人の少女なのだから。