朝の教室が、にわかに華やぐ。
飽きもせずバラエティー番組みたいな出迎えをするクラスの人間。そして、それを承知でホームルーム直前に滑り込んで来る当人ら。同等にくだらないと芽依は思う。
普段なら呟き一つで解消している不快感だが、今朝は貰い事故のせいで、いつもより心に荒波が立った。
握ったペンを指先でクルクルと回す/思考を回転させる。
(アレに毎朝絡まれたらたまったもんじゃない。非効率だけど、配達ルートを複数設定して、ランダムにパターン変更すれば遭遇の確率は下がる。最悪、隠れて様子を見ながら投函すれば済む話だけど――それは私の負け。相手の策に屈服したことになる。問題から逃げずに回避するには、相手の思考を追跡して裏をかくしかない)
ルートを変えたとき、相手がその事実をどう捉えるか。仮説はすぐに思いつく。
(あの人はまずその意味を考える。それから黒岩芽依の性格――引かない/曲げない/拘らない――を把握しているなら、これを『ゲーム』だと理解するはず。
逃げる黒岩芽依を捕まえるゲーム。だから、ずっと突っ立っていれば必ず勝てる。けど、あの人にとって勝つこと自体に特別な意味はない。毎日話しかけたところで進展は見込めないのは承知しているはず。あるいは、こちらを刺激して出方を窺うことが目的なら、当てに来る可能性もある――か)
やりたくはなかったが、頭の中で、今朝のやりとりを始めから再現してみる。
(幸運。あの人が好きそうな言葉だ。今日の運勢を占うつもりで出迎えてみる、当たっていようといまいと構わないから遊びには丁度いい――これは考慮すべき)
すべて杞憂で、これっきり待ち伏せなどされないかも知れない。それでもあらゆる事態に備える。それが芽依にとっての『克服』だった。
ほぼ全ての意識を考え事に回していたせいで、芽依はすぐ隣まで近付いた夢乃に気付いていなかった。
「おはよう、芽依ちゃん」不意を突くように。
緊張が走った――無論、芽依ではなく、芽依の周りに座ったクラスメイトの方だ。
「おはよう」至って普通に。
驚愕が走った――当然、夢乃ではなく、緊張を孕んだクラスメイトの方だ。
誰もが固唾を飲んで見守る中、芽依はそれっきり手元の本に視線を戻す。
これ以上話すことはない――暗にそう告げるようで、夢乃は寂しげな顔を浮かべる。
「夢乃、席に着いたら? すぐにホームルームが始まるわ」
不意に名指しされ、夢乃は目をぱちくり。
「え――? あ、うん! ・・・・・・でも、その前に聞きたいことが――」
そして、顔を綻ばせながらその先を紡ごうとした。ところが。
「夢乃ちゃ~ん! 早く座んないと先生に怒られちゃうぞぉ!?」
教室の反対から叫び声に糸/意図を断ち切られる。
いつの間にか自席に着いたひかりが、大手を振っている。奇しくも同じ助言/忠告だった。
夢乃は芽依とひかりを交互に見比べ、結局、諦めることにした。
「ごめんね。何でも、ない」
そう言って自席へ向かった。席に着いたところを、狙いすましたようにひかりが一言、二言話し掛けていた。それを視界の端に捉えたところで、芽依は完全に意識の外へ追いやった。
二人の不自然なやり取りなど、どうでも良かった。
芽依に取って重要なのは近々に迫る敵の心理であり、ひいては、あの異世界で舞い踊る少女逹に近付く方法だった。
放課後を告げる鐘が鳴る。斜陽に照らされ暖色に色づく教室では、週末を控えた生徒達が活気付いていた。
芽依にとって週末は取り立てて特別な時間ではなかった。休日も早朝のバイトがあり、家事があり、図書館に通う。唯一違うのは、日中にスポーツで汗を流す時間があることくらいで、ここ最近は街中に繰り出し、ストリートバスケに勤しんでいる。
ちなみに、理由はバスケットボールが好きだから――などではなく、次月の体育の授業で必要となるスキルであるからにすぎない。ダンスが課題なら、そのうちストリートダンサーに弟子入りしていることだろう。
すべては学業で躓かないため。芽依が趣味や娯楽で何かを始めることはなく、また、その為の時間もなかった。
手帳を開いて予定を確認する。常に確認しているから全部頭に入っているが、予定を流し見る。そこで昨日の出来事が思い出された。夜の秘事ではなく、異変の発端となった下腹部の鈍痛だ。
思えば、あれから一度も起きてはいない。やはり、あの空間と何か関係があると考えるべきだろうか。
ならばあの炎は何か。心身が焼かれる幻覚に、何か意味はあるのだろうか。仮説を立てるにしろ、分からないことが多すぎた。
芽依はもう何度も頭の中を巡った相関図をなぞる。
(一)異空間が発生し、この街を侵食している。
(二)そこでは化け物が人間を襲い、人間は不死者になる。
(三)数人の魔法使いの少女が、この問題解決に取り組んでいる。
馬鹿でも判る、なんとも単純明快な構図だった。化け物やら魔法など大概だが、それが現実だった。それこそが芽依の憧れた世界だった。
芽依が手帳を閉じると、薄い唇が僅かに引かれる。
それはほんの一瞬で、見間違いでないか確かめる間もないほどだ。
それから、芽依はデイバッグを片手に、教室を後にした。
硝子の砕ける音で、芽依は立ち止まった。
自宅前で、いざ鍵を取り出そうとしたところだった。
学校を出てからも描き続けた計画は霧散し、僅かに緊張感が高まる。耳の奥底では、残響がいつまでも消えなかった。
「・・・・・・くだらない」
芽依は中の様子を見る前から、現場を目の当たりにしたかのように呟く。
ドアを開錠して玄関を潜ると、ダイニングテーブルに突っ伏す母の姿があった。
室内は薄暗く、広がった長い黒髪のせいで幽鬼のように見えた。現実的に例えるなら、殺人現場が近しい。
テーブルの上――ビールの空き缶/プラスチックの薬包殻。
テーブルの下――砕けた酒瓶/濁った血の色を広げる赤ワイン。
向精神剤+アルコール=薬物依存症の有り様。
これが自分の母親かと思うと情けなくなる。直前まで揚々としたひかりの母親のことばかり想像していた分だけ、余計に惨めだった。
ダイニングに充満した酒気と煙草の臭気が、肺から肌から染み込んでは四肢を隅々まで侵し、やがて思考まで麻痺させた。
“何故”と問うのを止める。本質的な理解を諦め、対策を講じようとも思わず、あらゆる考察を捨て去った。
すると、体が勝手に状況に適応し始めた。無言で洗面所から雑巾を持ってきて、フローリングにこぼれた液体を丁寧に拭き取る。散らばった硝子片を拾い集め、新聞紙にくるんで燃えないゴミを集めたビニル袋に放り込む。
一通り片付け終えた頃、芽依は視線を感じて振り返った。
「・・・・・・帰ってたの?」
消え入りそうなしゃがれ声。母が定まらない視線を芽依に向けると、芽依も母の顔を見据えた。
不健康な青白い肌/毛先の痛んだ長い黒髪/痩けた頬/書き足された柳眉/生気の薄くなった黒瞳/希薄な存在感。
実年齢より確実に老けて見えるのに、怪談に謳われる妖女の如き美貌には、実に不幸が似合う。
「・・・・・・今さっきね」
芽依はぼそりと応え――それ以上続かなかった。
これもままあることだった。感情的に話し続ければ不毛な諍いが待っているだけ、冷静に諭すような真似をしたら平手打ちが返ってくるだけだと理解すれば、どんな愚か者であろうと同じ態度に至る。幼き頃より賢明であった芽依は、何も考えないことが最善である事を誰より早く学び取った。
流し台で雑巾を洗い、力の限りに絞る。必要以上に力を入れるせいで手首に痛みが走った。
それでも止めない。そうやって閉じ込めた感情を絞め殺さなければ、いつか母の首をその手に掛けそうな気がした。
あるいは反対に、向こうから殺しに来るかも知れない。
過去には、母親が今と同じ最低な摂取方法で、最悪の方へ入っていると知らずにうっかり口を滑らせ、蹴り殺されそうになったこともある。
それが全身打撲だけで済んだのは、ひとえに芽依の悪運の強さ、そして皮肉にも母の右半身が不自由であったおかげだ。
芽依の母はいわゆる身障者だった。六年前、交通事故に遭い、それから右脚が不随、右手は握力の低下と、関節不全で肩から上に上がらない状態だ。
事故と前後して発症した精神疾患を加算すると、福祉に手厚い小桜市の基準で障害者等級Ⅱ――自身の生活に重度の支障をきたし、就業、および家事・育児が困難――と判断されて以来、生活保護を受けている。
――生活保護。
この四文字ほど芽依にとって重い十字架はなかった。そして、働けない親というのは、ある種の人間にとって恰好の的だった。
子供は残酷だ。その意味を理解していなくとも、遠慮なく悪罵を浴びせてくる。
元々、引っ込み思案で友人と呼べる人間の少なかった幼き芽依が、他者と会話を避けるようになったのも、それが発端だった。
そして弟である裕樹の存在があった。
芽依が中学二年に進級する頃には、緩やかに悪化していた裕樹の病状が自宅療養では済まなくなる瀬戸際まで来ていた。通院、検査、入院、投薬に手術――費用は幾らでも掛かる。
中学生が僅かな時間を切り売りした程度では、焼け石に水であることは百も承知だったが、いざという時の支度金のつもりで芽依はバイト代を殆ど貯蓄に回していた。
幾ら社会的弱者が保護されるとはいえ、唯一の健常者である芽依には家族を背負う義務がある――少なくとも芽依自身はそう思っていた。だから家事をする。バイトもする。勉学に励む。
決して不満は口にするまいと誓っていた。
自分の人生を呪った瞬間、身も心も腐り出すと知っていたから。
自分を守るため、時に自分すら見ないようにする。それも芽依の処世術だった。
部屋を沈黙が支配した。気付けば、ダイニングには夜が入り込んでいた。芽依のタイムテーブルでは、もう夕食の準備に取り掛からなくてはならない頃合いだ。
都合の良いことに、母が席から腰を浮かせた。テーブルの脇に立て掛けた歩行杖に手を伸ばす――が、掴み損ねて床に転がしてしまう。
杖を拾おうと腰を屈めるが、そこで膝が、かくんと力無く曲がった。
芽依が”あっ”と、声を発する前に、母は堅いフローリングへ倒れ込んでいた。
家中に響く、重く、痛々しい音。
予想通り、薬剤と酒精で母はすっかり酩酊状態だった。自分の状態が把握できないほど脳髄が麻痺していても痛みは感じるらしい。遅れてきた感覚に、母は無言で眉根を寄せていた。
芽依はうずくまる母を見下ろしたまま、何もできなかった。手が、足が、頭が動かなかった。ただ呆然と、懸命に手を伸ばす母を眺めていた。
手を貸した方がいい/手を貸すべきだ――それだけははっきりしているのに、見えない何かに捕らわれ動けない。
「・・・・・・何を見てるの」
非難とも依頼とも取れる母の言葉/見上げる黒曜の双眸。
手を差し伸べることは、母のプライドを傷付けるだろうか。
それとも娘の存在に感謝するだろうか。
あるいは無関心を貫くか。
相剋する疑問。
――大丈夫?
喉元で詰まった言葉を吐き出すべきか逡巡しているうちに、姉弟の相部屋の扉が開く。
「・・・・・・大丈夫?」
芽依が投げ掛けるべき言葉を、裕樹が代弁した。母と同じくらい青白い顔が、心配そうな表情を浮かべていた。
「・・・・・・ええ、平気よ。こっちはいいから。休んでなさい」
そう応えたのは母だった。相変わらず視点はさまよいがちだが、表情にはいたわりがあった。
歩行杖を手に取り、テーブルの縁を掴んで立ち上がった。力んで震える腕が危なげだったが、それを面には出さなかった。
その様子を、芽依は冷めた目で見送っていた。弟との態度の違いを気に留める様子はなかった。もしそんなことでいちいち気に病んでいるようなら、とっくの昔に自殺していたであろう。
「夕食、すぐに作るから。・・・・・・リクエストはある?」
芽依が尋ねる。その声色は母に向けたのと正反対/母が向けたのと酷似。
ところが、それは当て付けでもなんでもない、平素の調子だった。
僅かでも温度差が感じられたのだとするなら、それは弟に愛情を込めたのではなく、母に憎悪を含んでいるからだろう。
何が悪いわけではない。ただ生理的に気にくわない。相性が悪いとしか言い表しようのない無理解。ただただ相手の不器用さが呪わしい。まるで鏡に映る自分自身を見ているようで。
「リクエスト? ・・・・・・ワガママ言っていい?」
「いいわよ、何?」
「僕、今晩は外食したい。家族皆で」
――
――――
――――――
大いに間が空いた。予想を越えた裕樹の要望に、芽依は言葉を失った。遙か遠く、天から命題を投げ掛けられたように。
「それは――」「体なら大丈夫、今日は凄く調子良いんだ。ネットでクーポンを取ってあるし、予約だって今からでも余裕だよ。それに、さ・・・・・・お姉ちゃんだって、たまには息抜きして欲しいんだ」
裕樹は畳み掛けるようにして姉の反対意見を封じた。芽依には幾らでも返しようはあったが、必死な願いを無碍にはできず口ごもる。
「お母さんにも聞いてみないと・・・・・・」
そう言い澱んだのは、母が肯定するはずないと判っていたからだ。家の中ですら食卓を囲うことのない家族なのだ。一緒に外食など考えられなかった。家族で最後に外食したのは一体いつだったか、芽依は記憶の隅をつついても思い出せない。
「・・・・・・そうしましょう」
「ほら――――――・・・・・・ぇ?」
一瞬、我が耳を疑った。
『止めておきましょう』と、頭の中で勝手に変換した母の言葉を、丁寧に復元しながら、冷静に、その意味を組み立てた。
大仕事を終えて一安心したのか、裕樹はにこにこと嬉しそうだった。
母の表情を盗み見た。母は――呆然としたその双眸から真意は見えてこない。芽依はただただ、目を丸くするばかりだった。
結局、裕樹の本当の願いが何なのか、母の思惑がどの辺にあるのか想像を巡らせるだけで、芽依はタクシーの乗車時間を丸ごと費やしてしまった。
三者三様の家族は他人の目にどう映るのだろうか? 場違いに見えないだろうか? ちゃんと家族に見えるだろうか? 駅前のショッピングモールに到着した後は、そんなことばかり考えていて、家族と会話を弾ませるとか、ウィンドウショッピングを楽しむ余裕などなかった。
道中、ひたすら知り合いと鉢合わせにならないことを祈っていた。
どう見られるかなんて、独りのときは少しも気にならなかったのに、今はやたら落ち着かないのだ。
だが、大抵の不運など、そうならないで欲しいと願ったことが、何かに引き寄せられるように起こるものだ。
ショッピングモールの四階。チェーン店ではない、小洒落た店舗が並んだレストラン街に着いて早々だった。見たくもない顔を、偶然にも見つけてしまった。
同時に、あちらも芽依を捉えていた。
「あれ、黒岩じゃん? めっずらしぃ~」
やたら語尾上げが激しい口調/呵々と乾いた笑い/小馬鹿にしたような顔。通りの反対から、桜井美樹が現れた。
教室ではあちらから話しかけて来ることなどまずないのに、今日に限って間の悪いことだ。
あるいはここが彼女のテリトリーなのだろう。恰好の獲物を見つけたようなその表情は、芽依が過去に幾度も目にしてきた害悪と同じものだった。
こんなときは無視するに限る。合わせた視線を刹那で断ち切り、見なかった事にする。
「――は? 無視?」
噴出する驚き、そして怒り。ついでとばかりに、それも無視した。
「お姉ちゃん、お友達?」
すれ違いざま、裕樹が心配そうに相手の表情を伺う。
まったく無用な心配だった。友達でもなんでもない、唯のいちクラスメイトにすぎないのだから。相手の顔色など伺う必要など何処にもなかった。
「へぇ、君カワイイね。黒岩の弟? 小学生?」
「どうも。黒岩裕樹、小学四年生です。姉がお世話になっています」
緊張の面持ちに丁寧な会釈、何より繊細かつ端整な顔が、美樹の興味を惹いたらしい。
「裕樹君はちゃんと挨拶できて偉いね~。礼儀のなってない誰かさんとは大違いだ」
「行くわよ、裕樹」
懸命な当て擦りを歯牙にもかけぬその態度に、美樹は業を煮やした。
「ちょっと待てって。せっかく顔合わせたんだからさ。少しくらい世間話でも――」
美樹が手を伸ばそうとしたところで芽依が急に振り返り、
「用があるなら学校でお願いできる? 悪いけど、急いでるから」
冷然と斬り返す。芽依一流の、相手の機先を制した妙手だった。
ところが、それが引き金だった。
息を詰まらせた美樹に、変なスイッチが入る。最初こそちょっとからかってやるつもりだったが、今となっては、徹底的に叩き潰してやるという気になっていた。
「うちさ、家族でショッピングに来てんだけど――ああ目当ては冬の新作ね。あんたんとこは――違うか。その格好、全然ファッションとか関係なさそうだし、ははは。じゃなきゃ食事?
つーかさ、アンタんとこ生活保護受けてんじゃなかった? こんなところで外食なんてしていいわけ?
ああ、バイトしてんだっけ。あたしもマジでお小遣い欲しいーわ。いいよね、家庭の事情ってやつ。何でも融通効いてさ。何だっけ? 新聞配達? 漫画みたいでマジでウケるんですけど。初めて聞いたとき、リアルでんなことやってるやついたんだーってビビったなー。
でもさ、ぶっちゃけ、そんなことしたって金貯まんないっしょ? ネットで援助交際相手探した方がいいって。はは、そのほうがよっぽど効率よくね? あんたそういう計算得意じゃん? 『パパお食事連れてって~』って感じでさ。一石二鳥――」ニヤリと口端を歪める。
「あ、父親いねーから三鳥か」
センシティブな事情を言われたい放題だったが、芽依の心臓はそんなことでどうにかなってしまうような鍛え方をしてきていない。
反対に、いい加減ピーチクパーチク五月蠅いから、眼前の小鳥を黙らせてやろうかと心に決めかけたときだ。
カツ、カツ、カツ――と、ヒールが勇ましく地面を鳴らす音がした。
一間空けて、桜井美樹の頬がパーンと弾かれた。
あまりにも盛大に響いたせいで、通りを歩く人々や、順番待ちをする面々が一斉に振り返った。
「何すんだこ――」
“このババア”、とでも叫ぼうとしたに違いない。だが美樹は、芽依の母の視線と噛み合うなり絶句した。その生気の薄い瞳に、魂を吸い取られてしまったかのようだった。
「ごめんなさい、小蟲が五月蠅かったから」
誰に詫びているのかも知れない、母の冷ややかな独白。
誰一人、何一つ発することができず場が凍り付いていた。
唯一、幽然と佇む母の姿は、まるで時間を支配した魔女の様相だった。
木目調の歩行杖と足首まであるダークグレーのロングスカート、何より気怠そうな表情とが、雰囲気を出し過ぎていた。
「行きましょう・・・・・・」
言うなり、母は杖を突き、先に行ってしまう。そうやって足を引きずっている様ですら、何かの演技に見えた。
裕樹が慌てて追いかけ、そして芽依が続く。去り際に、芽依は桜井美樹を一瞥した。
その目には燃え上がるような怨嗟。それはとても危険な色だったが、芽依は気に留めなかった――というより、別のことに気を取られていた。
こんなときでも、芽依は自分達が他人からどう見られるかが気になっていた。
魔女に引き連れられる少年少女の構図でも、少しは家族らしく見えるだろうか?
あるいは――
もしかすると――
可能性の問題だが――
か細い少年と、貧相な少女だからこそ、似通って見えるかも知れない。紛れもなく同類だと。
(・・・・・・ほんと、くだらない)
自分の屈折具合にほとほと呆れた。何故、そこまで家族という枠組みに拘るのか。
これまでも、そしてこれからも家族であることに変わりない。
どんなに明るく、華やかで、裕福な暮らしが他にあったとしても、それは自分のものにはならない。
人にはそれぞれの身の丈があり、それぞれの幸福がある。他人と比較したところで意味はない――そう、意味はないのだ。
(・・・・・・意味はない、か)
芽依は諦めたような、納得したような微笑みを浮かべる。堂々巡りしていた考えが、此処に来てようやく終着点に着いたのだった。
「裕樹」
「何? お姉ちゃん」
「ありがとう」
「・・・・・・僕は何もしてないよ」
頭を振って否定する裕樹――<優しい弟>――裕樹が弟でいてくれて本当に良かった――芽依は素直にそう思えた。
これからも、ずっと、可能な限り護っていこうと、芽依は無言で誓った。
「行きましょう。遅れると、今度は私たちが『亀』扱いされるわ」
先の余韻は冷めていないようで、芽依のブラックジョークに裕樹は苦笑いだ。
「さっきの人、ちょっとだけ可哀想だったね」
「いい気味よ。母さんがやってなかったら私が――」
――ズキン!
突如、下腹部に鈍痛/今までにない強さ。
痛みが訴える危険性/とんでもない大きさ。
「――裕樹、帰るわよ」
悪寒が腰から背筋の神経を伝い、ぞわりと全身が泡立つ。
「・・・・・・え、いきなりどうしたの?」
「いいからッ! 母さんも連れて、早く!」
瞬間、五感を通して知覚する世界が、何かに飲み込まれた。
まとわりつく、厚みのある空気。色彩が失われ、色褪せた景色。
『まさか、そんな』と叫びたくなる気持ちをかみ殺し、裕樹の手を取った。
「さあ、行くわよ!」
だが裕樹はその場から動かない。体重を掛けて引いても、女の子のような細腕が、びくともしない。
「どうしたの? 裕樹! ――裕・・・・・・樹?」
少年の瞳から、光が失われていた。肩を落とし、呆然と佇む様はまるで、出番を待つ不死者だ。
瞬発的な理解が、掴んだ手を振り払っていた。
驚き――そして自分まで感染するのではないかという恐れ。
差別するつもりなどなかった。しかし本能が可能性を拒否していた。
芽依は周囲を見渡した。最新ショッピングモールの華やかな夕げが、瞬く間に通夜の様相を呈していた。
モノクロームの内装。明かるさの半減した蛍光灯。魂の砕けた人々。
免疫があったおかげで、どうにか芽依の頭は回転した。だが噛み合わない。ニュートラルでアクセルをベタ踏みするような猛烈な空回り状態だ。
(逃げなくては!/どうやって? まず裕樹を外に!/室内の方が安全? 二人を同時に避難を!/母さんはどこ? やるんだ!/もう手遅れ? あの子達が助けに来る!/敵の方が早かったら? 考えろ! 考えろ! 考えろ!)
カツ、カツ、カツ――静まり返った空間に響く音。
視線を上げると、先に行っていたはずの母の姿があった。
いつも通り杖を突き、いつも通り片足を引き摺った歩き方。生気の薄い瞳だって何も変わらない。
だというのに、芽依は腰を落とし、身構えていた。
「・・・・・・母さん?」
カツ、カツ、カツ――母は応えない。
こんなのだって日常茶飯事だ。単なるコミュニケーション不足だ。いつか体と心が回復して、ちゃんと話し合いができれば解消される――芽依は希望にすがった。最悪の可能性を排除した。この異世界で動く人間は、二通りしかないと知りながら。
母は二人と手の届く距離まで近付いて、無造作に杖を振るった。
横薙にされたのは裕樹だった。加減などない。全力で頭部を殴打され、裕樹は地面に転がった。
次いで母は、芽依の眼前で杖を振り上げていた。
――カチリ。
瞬間、芽依の中で何かがはまった。
すべてが噛み合い、一瞬で書き換えられる意識。
善いとか悪いとかそういう常識を超え、あらゆる選択が肯定された。
生き残る――それが最優先だった。
「う――、あぁぁぁぁあぁぁ!!」
芽依は絶叫し、母に突撃! 母は病的に軽く、あっさりと押し倒された。
芽依が上半身を起こしたところで両者の視線が交差――していない。母のモノを見るような目は、芽依のずっと後ろの方を見ていた。
母は床に後頭部を強打している。普通なら動けるはずない。しかし、痛みを覚えたようすもなく掴み掛かってきた。
長く伸びた爪が、喉元を引き千切ろうと迫る。
反撃を見越していた芽依は、両手で相手の手首を捕まえ、後ろに引き倒す。そして、掴んだ腕を背中に回して後ろ手に。更に全体重を背中に乗せて拘束した。
母は手足をばたつかせて暴れた。右手右脚不随の半病人とは思えぬ膂力に、上から押さえ付ける芽依の方がはねのけられそうになる。
僅かでも気を逸らせない。だというのに、視界の端に動く人影が映った。
一瞬の判断が生死を分けるこの状況で、なりふり構ってなどいられなかった。
「おぉっ!」
芽依は気合いと共に覚悟を示した。膝を母の肩甲骨に押し当てながら、一気に後背へ体重を掛ける。
バキリ――と、骨だか関節だかが叫んだ。
芽依は素早く飛び退き、低い姿勢で身構える。
正面にはのたうつ母の姿があった。外れた肩に気付かず、立ち上がろうとする度に手足がもたつき、地面に顔を打ち付けた。床を這い、悔しげに犬歯を剥き出しにして芽依を睨んだ。
唸る不死者を無視して、床に寝そべった裕樹を肩に掛ける。
「・・・・・・重、い!」
抱えてこの場から逃げようと試みるも、想像以上の重さに怯んだ。
華奢な弟一人なら、と値踏みしたが、どうやら目測を誤ったらしい。
そうこうしているうちに、曲がり角から、辿々しい足取りの集団が姿を現した。
いい加減、ひと目で峻別可能だった。
母の変貌を目の当たりにした瞬間から予期していた不死者の群れだった。
――ああ、何と恐ろしい。
周囲を万遍なく見渡す。
ここには不死者か、人事不省の棒人間しかいない。
――ああ、何と残酷なことか。
誰も助けられない。誰も助けてくれやしない。
この場で芽依だけが選択権を持っていた。だが選択などできなかった。
選べるはずがない。守るべき者を見捨てるなど。
けれど死にたくない。殺されたくない。生きていたい。
不死者は迫る/思考は巡る。
――ズキン!
痛みが走る/理性が訴える。
――ズキン! ズキン!
“可能性を捨ててはならない”と。
のし掛かる絶望感に、ぐらりと視界が揺らぐ。
芽依は裕樹をそっと床に置くと、一気に駆けだした。
脇目も振らず、屋外を目指した。
途中、倒れた人の手を勢いよく踏みつけた。それでも前だけを見た。
進路を塞ぐように立ち尽くす人々がいた。すれ違い様に腕がぶつかり、玉突き事故が発生した。
それでも芽依は止まらなかった。
(前に――前に。一秒でも早く!)
テラスに繋がる背の高いドアに、半ば体当たりのようにぶつかった。
外に身を踊らせると、秋口では想像不可能な冷気が吹き荒んだ。全身の皮が一気に縮み、肉からはぎ取られるようだった。
荒げた息を白く染め、夜の帳に覆われた天頂を見上げた。
遙か上空に薄膜。星々を覆い隠した稜線をなぞるが、駅を超えて隣町まで延びたところで建物に邪魔され観測できなくなる。
この時点で昨晩より確実に巨大な異空間であることが知れたが、芽依にその意味を考える余裕などない。
「お願い! 誰か助けて!」
芽依は必死に、決死の想いで叫んだ。
恥も外聞もない。あの少女達以外に思いつかなかった。彼女たちにすがるしか、この状況から抜け出す手段はない。
背後のガラス越しに迫る気配。芽依は頑として振り返らなかった。
「誰か! お願い!」
転落防止用の鉄柵から身を乗り出し叫ぶ。
「誰かいたら返事して! お願いよッ!! 誰か! 誰でもいいから!!」
果たして応えはなかった。耳に聞こえて来るのは、眼下で蠢く不死者達の呻きばかり。
「う”るぉぁ・・・・・・」
右方から新たな不死者が現れた。背中に濃い影がまとわりついていた。
暗闇はその形を変える。赤く輝く光点だけがはっきりと映った。
最悪の化け物に取り込まれた人間だった。
逃げ場などない。下階に繋がる階段はテラスの両端にあり、今はその真ん中に位置している。
つまり、逃げるためには不死者と、ネオアンガーの脇をすり抜けなければならない。
鉄柵から階下へ飛び降りるという裏技もあるにはあったが、この高さはリスクが高すぎる。逃げて骨折など、本末転倒も甚だしい。
ダンッ! ダダンッ!! ダンッ! ダダンッ!!
硝子窓を乱打する音が響きわたった。
あまりにも数を増やした不死者の気配に、芽依はとうとう振り向いてしまった。
硝子板一枚隔てた向こう側に、地獄絵図が広がっていた。
虫のように所狭しと蠢く不死者の群れ。弛緩し、生気が失われた顔、顔、顔、顔、顔――その中に芽依の見知った、見たくもなかった顔があった。
「桜井、美樹・・・・・・!!」
転瞬、芽依はイチかバチか飛び降りる決心を固めた。
あんな風に取り込まれるくらいなら死んだ方がマシだと、心底思えてしまったからだ。
より強い恐怖に思考は麻痺。芽依が逡巡無く鉄柵に手を掛けたそのときだった。
<――上だ・・・・・・>
頭の中に、酷く耳障りな声が響いた。
「・・・・・・何? 幻聴?」
<――上・・・・・・上れ――階段、・・・・・・ある――早・・・・・・>
およそ人のものとは思えぬ、呪われたラジオノイズのような掠れ具合だった。
(・・・・・・階段? まさか、アレのこと?)
芽依の視界に階段などない。強いて言うなら梯子があった。壁際に備え付けられ、屋上に続いていた。確かに登ってしまえば追っ手を振り切れるかも知れない。あくまで登れれば、の話だが。
問題は高さだ。どうやら非常用ではなくメンテナンス目的であるらしく、床から梯子までの距離が二メートル以上あった。全力でジャンプしても、女子中学生が掴み取るには厳しい高さだ。
ところが芽依は躊躇わない。駆けながらナイロンジャケットを脱ぎ、勢い良く梯子に叩き付ける。
なんと、袖がふた回りほど段に絡まった。そしてジャケットを引っ張りながらのジャンプ! 右手で最下の段をしっかり掴んだ。
「よしッ!」
左手を添え、壁を歩いて体を梯子に引き寄せ、足を掛ける。反対の足で壁を蹴りつけ、一気に体全体を持ち上げた。
「ぐるお”ぁあ・・・・・・」
不吉な呻きに視線を落とすと、テラスには不死者が溢れ返っていた。
そこは地獄だった。死者たちは一様に両手を天に伸ばし、叫んでいる。
その阿鼻叫喚の様が、芽依には何故か、助けを求めるように見えた。
不死者の一人がジャケットに気付き、よじ登ろうとする。他の者がそれに気付き、真似ようとする。最初に気付いた者が邪魔する者を排除しようとした瞬間、ジャケットが解けてしまった。
もともと結んでもいなかったのだから、体重をかければ当然だ。
芽依はそれをちゃんと見越した上でジャンプの補助に一瞬だけ利用したのだった。
(・・・・・・まるで『蜘蛛の糸』ね)
この梯子が天上へ至る糸というのは心許ないが、『救い』が与えられる可能性というのは本来その程度なのだろう。
芽依は不死者に梯子を登るだけの知恵がないことを目視しつつ、急いでよじ登った。
ただ必死だった。死にたくない。助けたい。それだけだった。
闇の底へ誘うような冷気に晒され、芽依の思考が徐々に冴え渡る。
誰が呼んだのか分からないが、魔法使いの少女たちでないことだけは明白だ。
彼女たちなら、わざわざ助言する理由がない。言う前に敵を蹴散らしてしまうだろう。
自分を助けることに何らかの意義を持つ人物が待ち受けている、そう予想した芽依だったが、想像は思わぬ形で外れた。
<よう。巧く逃げられたみたいだな>
梯子を登り切って息の上がる芽依に、何かが語りかけてきた。耳から入る音ではなく、頭に直接響く不協和音だ。
<・・・・・・おい、聞こえてるのか? あの距離で聞こえるだけの資質があるンだろ?>
瞬間、芽依は飛び退く。屋上の縁であることを差し引いても俊敏な動きだった。
(――何!?)
同じ屋上の縁に何かがいた。備え付けられた鉄柵に寄りかかるようにして、腕組みしている。
いや、本当に”腕組みしている”で良いのだろうか?
二本足で立ち、前脚を胸の辺りで交差させているのだから、恐らくは腕組みなのだろうが、如何せん、それは人間でなく蛙――否、蛙似の何かだった。
背丈は芽依の膝ほどもあり、表皮はぬらぬらと輝く黒色と鶯色と濃紫色のまだら模様。眼球を初めとする頭部器官など、配置が歪過ぎてシュールだ。
そんな正真正銘の、紛う方なき真性クリーチャーが、腕組み+半身でこちらをじっと見上げていた。
「・・・・・・アナタ、誰?」
<良い質問だ。体は細っこいが、俺の見てくれにビビらないクソ度胸――気に入ったぜ。お前、名前は?>
「質問してるのはこっちよ、アナタは何者?」
危機的状況に高ぶっているせいか、芽依は恐怖を覚えなかった。今なら、この屋上の縁を全力疾走できそうだ。
<はン? 気の強い娘っこだな。まぁいい、俺の名前はギリアムだ>
「何故、私を助けるの?」
<決まってる。お前に資質があるからだ>
「・・・・・・資質?」
<そう、資質だ。なンなら資格と言ってもいいかもな。この異界の中で変質せず、自らの意思で動き、精霊の声を聞く。この人間界では、聖刻を持つ者――ジュエリストたる者の特権だろ?>
芽依は言葉の紐付きを瞬時に検証――完了。
自分のこれまでを最もらしく仮定したとき、ミスマッチは一つだけだ。
「で、ギリアム。アナタが精霊ということ?」
<そしてお前がジュエリスト――の卵ってとこだな。理解が早くて助かるぜ>
「・・・・・・私が、ジュエリスト?」
芽依の理解が正しい場合、ジュエリストとはあの少女達を指す語彙だ。聖刻とは下腹部の刻印。変質とはこの世界の色彩の変調や、自我の喪失を指すのだろう。
ならば、精霊の声とはこの蛙擬き(もど)に他ならないのだが――
「っははは・・・・・・」
芽依の渇いた笑いが夜の闇に響く。自分の仮説が何から何まで疑わしく、おかしかった。こんな怪物じみた相手の言うことを真に受ける訳など、どうかしてる。
「どうやってそれを信じろと?」
<信じるも何もないだろう。お前に選択肢は一つしかない。俺と契約してジュエリストになる、それだけだ>
「悪いけど、今は急いでるの。アナタの相手をしている暇はないわ」
<先に言っとくがな、他のジュエリストは来ないぞ>意表を突く巨大蛙の一言。
「・・・・・・何ですって?」
取り急ぎ無視する算段の芽依だったが、思わず聞き返していた。
<ふン、今に分かるさ。ほら、もうすぐ始まるぞ>
直後、巨大な稲妻が落下した。建物を挟んで反対側、ほんの数キロメートルも離れていない位置だ。爆音が僅かに遅れて轟く。体の芯に響き、希望まで揺さぶられるかのようだった。
天の怒号を皮切りに、四つの光が夜の街に輝き出した。
白/緑が空を飛び交い、赤/青が地上を駆けていた。
四つの輝きは何かと戯れるように動き回っていたが、一向にこちらへ来る気配がない。
「アレは・・・・・・?」
芽依が空に輝く軌跡を辿ると、黒い斑点が帯状になっていることに気付く。
そこへ意識を注いだ途端、ぞわりと全身が総毛立った。
今夜の異世界に飲み込まれたのと同じ感覚――いやそれ以上だった。
ただただ圧倒された。芽依は奥歯が浮きそうで思いっ切り噛みしめるが、なかなか噛み合わずカチカチ鳴った。
<恐ろしいな>
「ええ・・・・・・アレはとんでもない相手だわ」
<俺が言ってるのはお前さンのことだよ>
――お前? 私? 怖い?
投げつけられた言葉に、理解が追いつかなかった。
<どうしてアレを見て笑えるのか分からン。人界の者は俺の姿に怖がるくらいだから臆病な生き物だと思っていたが・・・・・・どこにでも例外はあるもンだな>
(・・・・・・笑う?)
芽依は引き締めた頬に手を触れる。確かに口角が上がり、笑っているように見えるかも知れない。だが、この状況で笑うなど――
考え始めてすぐに投げ捨てた。心理の機微など、今はどうでもいい。あちらよりもこちら。成すべきことを成さなくてはならない。
「状況は大筋で理解できた。それで、私に何をさせたいわけ? 何をすれば下の化け物を倒して貰える?」
<捜し物だ>
「捜し物? ・・・・・・具体的には?」
<それはいずれ話す。今は契約を先に――>
蛙もどきが話を急かそうとした瞬間、空に新たな気配。
先の四つの光とは異なる光源=目映い金色を纏った少女。
<五番目、だと?>「五番目!?」
奇しくも二つの心境が重なったところで、光源から何かが放たれた。
それは余りにも高速で、目にも留まらない。気付いたときには、地面に突き刺さっていた。
芽依は下がり気味となった眼鏡を持ち上げ、目を凝らす。
「あれは矢? ――違う、剣だ」
ネオアンガーを貫いて地面に突き立っていたのは、一振りの剣だ。
方々に散り散りとなったタイルと大量の土砂が、その衝撃の凄まじさを物語っていた。
瞬く間に、ネオアンガーは黒い霧となって霧散した。
ところが、驚くのはそれからだった。
宙に浮いた少女は、新たに金色の剣を創出。一本でも必殺の剣が計十二本。
少女が人差し指をくるり回すと、周囲を円周状に取り巻く剣が波打つように踊った。
そして、指先を眼下のネオアンガーに指し示す。剣は一斉にその切っ先を標的に定め、斉射される。
ダダダダダッ! と、あたかも機関銃の如く、ネオアンガーを屠った。
攻撃の手は休まらない。少女は輝く剣を作り出しては放ち、作り出しては放った。
驚くべきはその精度だ。これだけ大量に放ったにも関わらず、全弾必中。それはネオアンガーのそぐ隣に不死者がいようが変わりない。
不死者に人間らしさは残されていない。およそ人間ではない。
この異空間が壊れれば傷も復元される。心配する必要はない。
その仮説が100%信用に足るのだとしても、尋常な神経では不可能な攻撃だった。
芽依の胸の内に疑心が芽生えていた。
そのやり方は正しいのか、と。
そのとき、金色の少女は止めとばかりに、さっと右手で宙を撫でる。
金色の剣の刃先が向かう先は、芽依の足下。
少女の右側面に配置された剣が、獲物目掛けて解き放たれ――
「やめ――」
――四階のテラスに直撃。衝撃で足下が揺れた。
「お母さんっ! 裕樹!」
芽依は屋上の縁に掴まり、階下をのぞき込んだ。
まるで爆撃された後のように白煙が吹き上がり、その周囲には打ち上げられた雑魚の群れ≒横たわる不死者=元人間――いや、人間。誰が何と言おうと人間だ。
<おい何ぼさっとしてやがる! さっさと逃げろ!>
いつの間にか遠く退避したギリアムが叫ぶ。
わらわらと沸き上がる義憤が、必死の忠告を振り払った。
芽依が毅然と面を上げると、視線の先に、信じがたいものを見た。
少女は、左側面の剣を撫で終えていた。
その切っ先は、今、自分に向けられていた。
心臓が強く締め付けられる痛み、そして、一際強い光。
それがこの異世界での最後の記憶だった。
とても安らかな気分だった。
大きく、温かなものに包まれていた。ありのまま、そのままでいられた。
まるで母親の胎内で揺られているような、そんな遠い過去に忘れ去ってしまった感覚を、自然と受け入れた。
(――良かった)
声だ。声が聞こえた。
誰かが泣いていた。きっと、すぐ近く。手を伸ばしたら触れられるかも分からない。
悲しそうに、嬉しそうに泣いていた。
(――本当に、良かった)
優しさが伝わる。温かな想いで満たされる。それがどうしようもなく苦しかった。
ああ、泣かないで。あなたが悲しいと私も悲しい。
ああ、笑って。どうか笑って。あなたが微笑むなら、私もいつか笑えるのだから。
ああ、どうしたって触れられない。曖昧な境界線が邪魔をする。
なんて不自由な幻なんだろう。これはきっと夜明けに孵る卵の夢だ。いずれ何もかも消えてしまう。それだけが確かなこと。
(――間に合ったよ。アタシ、間に合ったよ)
もう一つだけ信じられる、自分の端っこ――<掌>――開きっぱなしの五本指から伝わる体温。一度だけ強く握られ、すり抜けていく。
(――ごめんね、芽依ちゃん。全部、アタシのせいだ)
遠く離れ。そして消えた。
「――――お母さんッ!!」
“自分”が繋がった途端、芽依は叫んでいた。
飛び出した感情は、頭の片隅に残された大切な何かまで吐き出した。
芽依は本当に空っぽになって、何の為に叫んだのかさえ見失っていた。
「大丈夫かい君!?」
視界に飛び込む男の顔/第一印象=“ヘルメットおじさん”。
情報がまったく紐付かず、そこから意味が見いだせない。
間違っていないはず。けれど、何故か正しいとも思えず、視線を下にずらす。
暗闇に浮かぶ白衣。二つセットになったところで”ヘルメットおじさん” が “救急隊員”と昇格したが、相変わらず意味が分からない。
数秒前まで自分は立っていた――はずだ。
ところが何故か夜空を仰ぎ見ていた。周囲には人だかり。しかも屋上でなくテラスである。
あやふやな記憶を辿れど、ぽっかり空いた白紙の時間は埋まらない。
(何? ここは何処? この人だかりは何なの?)
情報をかき集めれば集めるほど混迷の渦にたたき込まれ、たちまち溺れそうになる。
芽依はもがいた。抗わずにはいられず、跳ね起きていた。
「あ、君っ! 急に動かない方がいい! どこか痛いところは? 念のため病院で検査した方が――」
芽依より余程状況を把握しているであろう年長者の助言を無視して、制止しようする別の隊員を押しのけ、鉄柵にしがみついていた。
薄々は感づいていたことだが、そこに立つといよいよはっきりした。
世界は既に復元済みだった。
見渡す限りの全景――隣接する駅やビル、そのどこにも傷跡は見て取れない。
空間には色彩が宿っていた。
ショッピングモールのテラスから臨む夜景の黒。
隣接した高級マンションの温かな橙。
大通りを連なる車両のテールランプが、苛立たしそうに赤々と明滅している。
一見して、すべて元通りになったかのようで、しかし、芽依の日常は復元されていない。
眼下に、異常事態を知らせる無数の赤い回転灯が忙しく回っていた。
ショッピングモールの敷地内に押し寄せた緊急車両の多さが、事態の大きさを物語るようだった。
そして芽依の真横には、目と鼻の先にもう一つ、ひとだかりがあった。
複数の警察官によってテラスに繋がる扉が封鎖され、窓硝子を挟んだ向こう側で佇む一般客ら。彼らの緊張と不安をはらんだ表情を見るなり、状況の当たりが付く。
「あの子たちが、間に合わなかった・・・・・・?」
恐らく、あの『虹の破片』を使っても治しきれないほどの重傷者が出たのだ。
考えてみれば、今までだって怪我人くらいは当たり前のようにいたはずだ。彼女達が活躍するということは、それだけ被害が大きくなることを意味するのだから。
昨晩目の当たりにした、バターみたいに溶けた建物が、胸中に熱く流れ込むようだった。
これまで目したものはすべて事実だ。彼女たちは正しい。怪物を倒し、異世界を壊さなくてはならない――その認識が、この上なく危うい砂上の楼閣に思えてならなかった。
急に心細くなり、芽依は家族の姿を探した。
優しい弟の顔が見たかった。きっと覚えてないだろうが、“さっきは置き去りにしてごめん”と伝えたかった。
何を考えているか判らない母の顔が見たかった。母には――何も言うまい。色々とお互い様だ。ただ顔をひと目見られれば十分だ。
芽依が何気なく視線を落とすと、人混みの中にちらりと、毛布を掛けられて横たわる物体が見えた。
大きさからして恐らく成人。顔まで覆い隠されていたから、“ああ、亡くなられたのかも知れない”――なんて、どこか遠くの国の悲劇を、テレビを通して眺めている気分だった。
毛布の端から、長い黒髪がこぼれだしていた。
“ああ、うちのお母さんみたいだ”と、何気なく思った。
担架が持ち上げられると、毛布がずれて青白い女性の顔が覗いた。すぐに覆い隠されてしまったが、“ああ、本当にうちのお母さんに良く似てる”と思えた。
深い眠りについているような、穏やかな表情だった。母も憑き物がすべて落ちたらあんな顔で眠るのだろうか? 分からないが、考えるだけ無駄だろう。これからあの陰鬱な顔と向き合って食事をするのだ。
あるいはこの騒ぎに気分を悪くして、“家に帰る”とか言い出すかも知れない。なるほど、裕樹には申し訳ないが、それはそれで悪くない。
ささやかな期待を胸に、新たな目標を定める。そして次の一歩を踏み出そうという、まさにそのとき、
「自宅に電話してみたんですけど誰も出ませんでした。これ本当に”くろいわさち”――さんで良いんですかね? 館内アナウンスにも全然反応ないし、困ったな・・・・・・」
(な、――んで?)
誰かが母の名を口にした。
転瞬――芽依は己が身を救助隊員と担架に乗せられた物体の間にねじ込み、毛布を乱暴にはぎ取った。
「――――――――――お母さん・・・・・・?」
見間違いようもない。それは母の、黒岩幸の顔だった。
記憶に齟齬があるとするなら、一身に背負い込んだ不幸をすべて精算したかのような、穏やかな寝顔をしている事だけだ。
現実を確かめるように、青白い頬に指先が触れる。
「ッ・・・・・・!?」
そのあまりの冷たさに、一瞬だけ指を離し、もう一度触れた。
まるで蝋人形のように堅い感触。唯それだけが粛然と、今ここに在る事実を告げた。
「・・・・・・お母さん、なんで?」
根底が覆りようのない、一片の赦しもない事実を突き付けられ、手が勝手に震えだしていた。
刹那、素手で胃を握られたみたいに胃液が食道を逆流。咄嗟に両手で口を塞がなければ、盛大な粗相をしていた。
腹部か、脊椎あたりで悪寒がぐるぐると渦を巻き、冷たい汗が全身から吹き出した。
――君のお母さんかい?
投げかけられた問い/どこか遠くの方から。
芽依は沈みきった頭部を、縦に揺らすのが精一杯だった。
(お母さん・・・・・・何で? 中にいたはずでしょ? 何でこんなとこで寝てるわけ? おかしい。こんなの、理屈に合わない。こんな、こんな、こんな――)
答えなどない不条理を叩き付けようとした瞬間、裕樹の顔がよぎる。
「弟が・・・・・・弟がいるんです」
顔を上げ、訴えかけた。誰に何を伝えたら良いかも判らず、周囲のいる大人へ片っ端から投げ掛けていた。
「名前は黒岩裕樹・・・・・・小学生四年生の男の子で、カーキ色のシャツ・・・・・・あと、黒のズボン・・・・・・特徴は――違・・・・・・身長は・・・・・・たぶん、百三十センチ、くらいで、色白で、後は――」
芽依は思いつく限りの”黒岩裕樹”を言葉にした。一秒でも早く、このことを伝えなくてはならない――
いや、逆だろうか? 情の薄い自分ですらこんな有様なのだ。裕樹のショックは比較しようもないだろう。ならば事実を伏せ、落ち着いたところで話した方が何かと得策のような気がした。
一つの方向へ考えが固まりつつある折、ふと警察官と視線がぶつかる。
こういうのを条件反射とでも言うべきだろうか。身に覚えのない、倒錯した罪悪感から逃れるよう、芽依は自身を客観視する。己の潔白を確かめつつ、自然と周囲の表情を読みとっていた。
(――なんだそれは)
そこには同じ顔が並んでいた。複雑な感情のくすぶった――敷き詰められた憐憫の上で暴れる憤りを、義務と責任感で押さえたような堅い面。
途端に、現実が遠く感じられた。
(――ああ、そうか)
すっと、吐き気が引いて、心が透明になっていく。
“客観的”と見做すにはあまりにも他人事だった。いつものように意思の力でねじ伏せるでもなく、感情とか情動とかいう曖昧なものに触れられなくなる。
それは、冷静さを越えて冷徹、一般的な尺度からすれば冷血と思えるほどに透徹した在りようだった。
芽依は心の変わりようを整然と受け入れた。これは溢れた感情で壊れないよう、魂の自傷を防ぐための心理的機構であり、これから起こる結末/悲劇を受け入れるための、心の分化なのだと。
「・・・・・・弟に、合わせて頂けますか?」
そして別人のように落ち着きを払った声で、芽依は願い出た。
裕樹との再会は、搬送先である総合病院の地下にある霊安室だった。
ショッピングモールの裏手に新設された京成会総合病院は、真新しい内装の臭いが強かったが、地下二階にある生者の立ち入りを拒む重厚な扉をくぐると、鼻腔を刺激したのは、隅にひっそりと設けられた香炉から漂う線香の香りだった。
馴染みのない強い芳香に、芽依はいつもの癖で息を止め、僅かに眉根を寄せる。
十メートル四方の真っ白な空間に台座が四つ、同じ数だけ乗った水色の大きな遺体収納用の袋が蛍光灯の青白い光に照らされ、てらてらと輝いていた。
芽依は案内されるまま、一番奥の台座の前に立った。タグ付けされたジッパーが下ろされると、見慣れた顔がそこにあった。
「裕樹・・・・・・」
着衣に汚れはなく、怪我や持病の発作の痕も見つからない。閉じた瞳/長い睫。元より白い顔は、それこそ普段と変わりない。どうしたって、ただそうやって静かに眠っていようにしか映らない。なのに声を交わすことさえ叶わない。もう二度と。
母と弟の魂は帰って来ない。あちらの世界で起きたことは、すべて無かったことになったというのに。
裕樹は何を思っただろうか? 病を患ったまま、ろくに学校へ行けず、自由に外で遊び回ることもできない。
“家族で食事を”――たったそれっぽっちの、小さな小さな願いですら果たせない、そんな人生を、彼はどう思っただろうか? 悔やんだろうか。納得するだろうか。仕方ないと、諦めただろうか。
「ねぇ・・・・・・裕樹、教えて。何があったの? お母さんも――どうして?」
最後に別れた場所が思い出された。呻く母に、自失の体となった弟。二人を助けようとして、置き去りにしたあの瞬間が。
何がいけなかったのだろう。何が最善だったのだろう。
彼女たちジュエリストに救いの手を求めたのは間違いだったのだろうか? あるいは自分がジュエリストだったら、防げたのだろうか。
――私に、彼女たちのような力があれば。
――お前に、資質があるからだ。
酷く耳障りな声は、今も耳の奥にこびり付いたままだった。芽依にとって福音となるはずの啓示が、今は魂にまで絡み付く縛鎖になり果てていた。
ジュエリストに近付いたのが自身の罪で、死の懲罰を肩代わりさせられたのが家族。
許容不可能な因果に、吐き出すべき悲哀も、憤怒も、呪詛もなかった。
今、そんな途方もない感情を受け入れた瞬間、“黒岩芽依”は壊れてしまう。だから凍えるほど冷たく、押し潰されてしまいそうになるその鎖の重さにも心動かされない。
曇りのない、極限まで研がれた刃物のように、唯そこに在った。
「裕樹・・・・・・母さんとはもう会えた?」
芽依は絞りだすような、か細い声で問うた。
「少しだけ待っててね。私が罰を与えるから。裕樹とお母さんをこんな目に遭わせた奴を二人の前に突き出して、必ず謝罪させるわ」
弟の頬を優しく撫でると、芽依は瞼を閉じて、祈りを捧げた。
誰に祈ったら良いかも判らず、信心なんてどこかに置き忘れたままだったが、“何に祈るかは自由で、祈ることも適当でいい”という教えを思い出して、節操もなく願っていた。
“どうか二人の魂が寄り添い、いつまでも安らげるように”――と。
「そしたら私が罰を受ける。だから待ってて」
何ひとつ持たざる少女の、全霊を賭けた宣言だけが、家族への餞だった。
結局、帰宅は深夜になっていた。病院で警察の調書作成に付き合わされ、学校の担任である浅海杏や、顔を忘れて久しい校長、及び教頭が勢揃いするのを待たされたせいだ。
話をする時間より待たされた時間の方が圧倒的に長大という非効率極まりない段取りだったが、いちいち不幸を喧伝して回るよりは幾分かマシに思えて、芽依は大人しく待ち、ひたすら事実と嘘を織り交ぜて返答をした。ただ一刻も早く解放されたいが為だ。
夜分遅くとあって、浅海の車で自宅まで送られた。
浅海は最後の最後まで憂慮と配慮を欠かさなかった。芽依が”不良教師”と評した担任の、献身的な労りだったのだが、芽依にとって、そんなことはどうでも良かった。
感謝も、忌避すらもない。明日の朝にはすっかり忘れてしまえる自信があった。
古びたアパート前に、芽依は一人立っていた。どれくらい経っただろうか。思い出したように、右ポケットに入れた家の鍵を取り出した。
錆びて入り難くなった鍵穴/カタカタと音を鳴らすノブ。扉をくぐれば、いつも通り真っ暗なダイニング。うっすらと漂う煙草の香り。
芽依は姉弟の部屋に続く引き戸の前に立った。
いつも通りノック――静寂。
ゆっくりと開く――暗闇。
パイプベッドへ歩み寄ると、主のいないそこは伽藍堂としていて、元より大きなフレームが更に大きく感じられた。
そうして漠としたまま、これといって何もせずに芽依は自室を後にする。
次いで母の部屋に入った。一体何年ぶりだろうか? 記憶にあるのは、雑然とした印象だけだったが、過去の印象など当てにならないもので、予想に反して整然としていた。
年季とニコチンで黄ばんだ六畳一間にはシングルサイズのベッドがあり、隅の化粧台には重ねられた週刊誌と、シガレットケースにライター、そして灰皿には悪臭の根源たる煙草の吸い殻。
「・・・・・・誰も、いない」
この家にいるのが、永遠に自分だけなのだと実感した直後、芽依は猛烈な自己嫌悪に襲われた。
自分の偽らざる感情が、あるべきものとは正反対だったからだ。
家族の冥福を祈りつつ、悲しみに暮れる。それが芽依の描く人間らしさだった、
なのに、現実を噛みしめた瞬間に抱いた感情は”安堵”だった。
相性の悪い母を思い煩うこともなく、病弱な弟のために時間を割くこともない。自分は自分だけの世話をすればいい。
早朝のアルバイトだって、弟の治療費にあてがう為に始めたことであって、弟がいなくなった今、朝早くから街中を駆けずり回る理由は失われた。
解放されたのだ。何時終わるかも分からない、とても重い枷から。
永遠に自由――本心はそれを喜んだ。
尊いものが失われた喪失感はあった。だが、二人分の命と秤にかけても、針は自分自身に傾いた。とても人間のものとは思えない自分の情の薄さに、芽依は唖然としたのだ。
あんなに弟を大切に思えた気持ちでさえ、自身によって穢された。
こんなにも薄汚い感情が自分の本質なのだと、突きつけられた気分だった。
そんな自分が、どうしようもなく許せなかった。
(違う。違う。違う――私は!)咄嗟の言い訳。
化粧台の鏡に写した等身大の自分を見つけ、たまらず殴りつけていた。
ガンッ――と軽い音が響く。
鏡は割れ、破片が散った。
拳の皮が破け、血を滲ませた。
生まれて初めて全力で殴りつけた割に痛みが小さくて、もう一度叩きつけてやろうと拳を弓引く――が、違和感を感じて踏みとどまった。
<はぁン? こいつは本当に掘り出しモンだな>
ダイニングから、本気で人を不快にさせる雑音声。
真新しい傷口を抉るような響きに、芽依は深く眉根を寄せた。
「ギリアム・・・・・・今更、何の用?」
鏡へ視線を張り付けたまま芽依は問うた。
<力が欲しいんだろ? あいつらに復讐するためのな。俺に協力するなら――>「その前に一つ答えて貰うわ」
<・・・・・・あン?>
「私の家族を殺したのは誰?」
<何故、俺に聞く? お前も見たはずだ。あの金色の――>「いいえ」
芽依は強い口調で否定し、ギリアムの勢い良く回り出しそうな口を重くした。
「異世界の精霊ギリアム・・・・・・こういう状況だから表現は正確にするべきよ。私は過程を見ていない。あの金色の少女が母と弟を殺した? その方法は何? 剣の巻き添えを食らった? それとも直接斬りつけられた? 何も知らないわ」
芽依の確かな指摘に、ギリアムは完全に閉口した。
「聞いてくれる? 私は疑問を抱いてるの。『あのジュエリストは一体何故、唯の人間である私を攻撃したのだろう?』と。手元が狂った? 違うわね。あの子にはネオアンガーのみを正確に射抜くスキルがあった。ただ周りの不死者を気にしていなかっただけ。
では何故か。一つ、仮説が浮かんだわ。もしかすると、あの子は『私を狙った』のではなく、『私のすぐ近くにいた敵を狙った』かも知れない。
そう、とても運の悪いことに、ソイツのせいで事故に巻き込まれ、家族の死に目を見届けることもなく、こうして怒りの矛先を探す羽目になってしまった。仮にそれが事実だとするなら、それはとても許せないことだわ。元凶には、相応の報いを与えてやるべきだと、そうは思わない? ねぇ、ギリアム」
<俺が、ネオアンガーの仲間だってか? 冗談だろ>
「さぁ? ただジュエリストの助力を欲していながら彼女達を頼れない立場にある、それを”中立”と呼ぶか”敵対”と呼ぶかなんて、聞く方のさじ加減だと思わない? ああ、それと今気付いたのだけど――」
そこで初めて芽依はギリアムに向き直る。鋭利な刃物を思わせる黒瞳が、この瞬間にも断罪せんと鈍く光っていた。
「――ギリアム、アナタの気配って、とてもネオアンガーに似てるわね」
<・・・・・・似てる、か。そりゃそうだろうな>
呵々と、ニヒルに嗤う巨大蛙。唯でさえ歪な面が、不吉なまでに凶悪になった。
<そいつは追々話してやる。俺の捜し物と関係してるからな。ふン、そうだな。お前が巻き込まれたってのは間違ってねぇよ。お前の推察は大方合ってるだろうさ。
だがな、一つだけ訂正しておくぜ。いやしくも『聖霊』候補筆頭まで登り詰めたこの俺を、ネオアンガーと一緒にするんじゃねぇ。あんな汚物なんかとな。本気で胸くそ悪くなるぜ。
俺はこの世界に興味なんてないンだよ。救いたいともぶっ壊したいとも思わねぇ。捜し物さえ見つかりゃ、さっさとおさらばしてやるさ>
呪い、吐き捨てるように告げるギリアム。
果たして、真か偽か――
精霊の心理など知りようもないが、人間基準で言うなら唯の逆ギレだ。動機をはっきりさせていなければ、それを取り繕うともしない。不誠実極まりない態度を信じる理由がどこにもなかった。
<で、どうなんだ。協力する気があるのか、ないのか>
蛍光灯の白光に照らされ、ぬらぬらと輝く薄汚い巨大蛙が返答を迫った。
芽依は両手を見た。
小さな掌が二つ。これだけが自分の可能性。掴めるものは、ほんの僅かでしかない。
「いいわ。私はアナタの捜し物に協力する。けど、もしその言葉に僅かでも嘘があるなら、相応の報いを受けると思って頂戴」
<ふン。お前の方こそな。この先、嘘吐きは死んじまうから気をつけな>
呪詛のようなその言葉も、今の芽依にはどうということはなかった。何故なら人は簡単に死ぬのだ。例え正直者だろうと、嘘つきだろうと。
ペタンペタンとフローリングに張り付く足音を響かせ、ギリアムはゆっくりと芽依の元へ近寄る。芽依は受け入れるように跪く。
そこで自分の膝丈ほどもある巨大蛙の、シュールで生理的嫌悪必至の容貌を直視した。
不快指数は距離に反比例して高まり、天井知らずだ。
<手ぇ出しな>
素直に差し出されるメイの五指と、ギリアムの前肢――四つの吸盤付き――とが重なる直前、思い出したようにギリアムが言った。
<そういえば、お前の名は?>
「黒岩芽依よ」
<クゥロオイワメイ? 面白い名だな。精霊界では聞かない響きだ>
「面白いのはアナタの発音の方ね。私の名前は”黒岩”、“芽依”よ」
特段、面白そうでもなく、芽依は淡々と訂正した。
<・・・・・・? だからクゥロオイワメイだろ>
相手の音感に問題があるのか、あるいは特定の語彙は発音が不可能なのか、はたまた別の原因があるのか。
どちらにせよ、人類ですらない相手を矯正してやろうなどと、芽依は露ほどにも考えなかった。
「私のことは”メイ”と呼んで頂戴」
早々に諦め、音の正しいファーストネームの方を指定した。ギリアムは何が問題なのか、終ぞ知ることはなかった。
二人が手と手を重ね合わせると、そこに小さな光――<虹色に輝く波紋>――が広がる。まるで雨垂れが、水溜まりに滴り落ちるかのようだった。
<分かるか? これが今、お前に流れ込む精霊力の量だ>
ぽたり、ぽたりとほんの僅かなものでしかない。芽依にその多寡など計測不能だったが、あの街中に降り注ぐ『虹の破片』を基準にするのであれば雀の涙か、あるいは錯覚みたいなものだろう。
芽依の直観を察したのか、ギリアムはニヤリと精強な笑みを浮かべる。
それにしても、いちいち人を煽ろうとするのは演出のつもりか、それとも性格だろうか?
<聖刻を刻まれし者、メイの門よ開け。目覚めよ。不浄な闇を払い、精霊の世界に栄光の光を灯す伝説の騎士ジュエリストとして!>
芽依が気を取られた瞬間、下腹部に押し寄せる猛烈な熱量。今までせき止めていた何かが外され、一気に溢れ出したかのようだ。
狂熱が、全身を駆け巡った。苦痛から逃れようと芽依は目を瞑った。
<メイ、お前には何が見える。そいつはお前の精霊力だ。言わばお前の声だ。お前がそう感じたものがそこにあるだけだ。暑いと思っているから暑い。寒けりゃ寒いと思っているから寒い。何が見え、何を聞き、何を感じる!>
そして双眸を見開く。熱くなんかない、と念じた。
だが炎は依然として四肢を焼き払い続けた。
途方もない痛み――身体が、心が、神経という神経が焼き切れそうになる。
<疑え。本当にそれはお前を傷つけようとしているか。疑え。お前自身を!>
(・・・・・・疑う? 私は、私を疑ったりはしない)
反発を抱いた瞬間、全身の血液が蒸発したかと思った。
心身の負荷に耐えきれず、意識が遠のく。
<何故、自分を罰する必要がある? 自分を受け入れろ! 和解しろ! 自分を許してやるんだよ!>
「わた、し、は――――」
――すべて納得している。
薄れゆく意識が告げた瞬間、完全に闇に飲まれた。もう痛みすら感じなかった。
<馬鹿やろうッ! 言っただろう! 嘘吐きは本当に死ぬぞ!? 考えろ。お前の願いは何だ? お前の望みは! おいっ、メイ! メイ――>
あたかも身体を支える糸が切れたように、芽依の細い首が真横に折れ、頭から床に打ち付けていた。
<なんてこった・・・・・・>
不測の事態に、ギリアムが慌てて芽依の容態を確かめようとした時、
<痛”っでででででぇ!>
彼の前肢に、万力で締め上げたに等しい圧力が掛かる。ギリアムは慌てて振り払おうとするが、食らい付いて放さない。
獲物を捕獲した肉食動物を思わせる少女の繊手。そして、突如として吹き出す真っ黒な光。件の微光などとは比較のしようもないそれは、精霊力の瀑布だった。
すると、用済みとばかりにギリアムは戒めから解放される。ギリアムは精霊力の奔流に飲まれ、キッチンに叩きつけられた。
家中の家具が、地震と台風の同時発生に見舞われたかの如く激しく踊る最中、混沌の中心には芽依がいた。黒い嵐に包まれたまま、中空に浮かんでいた。
<おいっ、メイ! 大丈夫か!?>
果たして、芽依はギリアムの声は届かない。
「わたしの、」――震える左手が彷徨い――「ねがい」――虚空を掴んだ。
否、掴んだのは力だった。
外側に溢れ出た精霊力が左手に束ねられ、次々に芽依の痩躯へ巻き付いた。
腕に、腿に、胸に、首に、腰に――足先から頭頂まで余すことなく包まれると、厚みを持つ生地となった。
芽依が目を醒ましたとき、視界に入ったのは、普段は掛かることのない前髪だった。
無意識に手を伸ばすと、後ろで一つに纏めていたはずの髪が、いつの間にか解かれていた。頭がいつもよりずっと重たくなっていたが、それが背中まで伸びた髪のせいだとは毛先ほどにも思わなかった。
異変を確かめようと鏡を探し、芽依はやけに細部のはっきりした視界に気付く。
壁の小さな傷や汚れ方の違いまでも見て取れた。気持ち悪いほどに、はっきりと。それはもう眼鏡を掛けているときの比ではない。
パチパチと瞬きして眼の調子を確かめているところに、人をこの上なく不快にさせる声がした。
<一瞬、どうなるかと思ったが・・・・・・その姿、どうやら上手くいったようだな>
芽依は何がどう成功したのかちっとも要領を得なかったが、いつの間にか両手にはまった指無し手袋を見た瞬間、化粧台に飛びついていた。
ひび割れて幾つにも増した鏡面、そのどれもが偽り無く、自分ではない濃紫色の瞳の少女を映し出していたのだった。
「・・・・・・アナタ、誰?」
吐息のように漏らした言葉/同期する唇の形。
認めざるを得なかった。鏡に写るこの虚像こそが今の自分――“黒岩芽依”なのだと。
部屋に差し込む月明かりに浮かぶ黒衣の少女をまじまじと眺めた。
背中まで広がる頭髪。顔の輪郭を縁取るフェイスヴェールに、首もとを覆うレースのチョーカーと繋がったスキムノースリーブ。三層に重なるデニム様のティアードスカート。すべてが黒一色だった。
生まれてこのかた履いたこともないレザーブーツで土足していることに気付いたときは罪悪感が滲んだが、そんなことよりも、敷き詰められた黒の合間に晒された白が大問題だった。
「なんて格好・・・・・・!」
自分の意志でないとは言え、絶句するよりなかった。
腕から肩口、鎖骨から背中にかけて、白磁のような肌が大胆に露出していた。
それはいい――。いや、まったく良くなかったが、まだ耐えられる範疇にあった。
だが、この脚部と腹部は許容範囲を超えていた。
『重ねた』の意味を否定する、ばっさり縦に入った裂け目によって、一歩前に踏み出せば左足が太股まで丸出しになる仕様だ。
不幸中の幸いは中に履いたショートパンツなのだが、それも気休め――にはなりそうにない。むしろマイナスだろう。
不良品なのかデザインなのか分からなかったが、ショートパンツにはトップホックが付いておらず、ショーツが見えないのが不思議なくらい大きく開いていた。
スキムノースリーブの裾は鳩尾辺りまでしかないから、当然のように腹部は全開。臍の周りに刻まれた聖刻が、雪原の肌にくっきりと浮き彫りになっていた。
<かかか・・・・・・似合ってるぜ?>
自身の装いに戦慄く芽依を、化け物蛙は皮肉げに嗤った。
「服装の変更を要求するわ。可及的速やかに」
羞恥を通り越し、怒気を孕んだ声色だった。
気の弱い人間なら射殺せそうな視線が、直上からギリアムに突き刺さる。
その圧力のなんと凄まじいことか。ギリアムはガマガエルの如く、滝のような脂汗を流し出す。
<無理だ> - 「何故」 = タイムラグ0の追訴。
<決闘装束は、当人の願望だからさ。お前がそう望んでいるから、そうなってんだよ>
「私が、望んだ? この格好を?」
まさか自己責任を問われるとは思いもよらず、ばかばかしい、と吐き捨てた。
<ならお前の望みは何だ? どんな格好だったら満足する?>
問われて真っ先に思い浮かべた白い少女の姿。大きく可愛らしい帽子に、清廉でゆったりとした法衣を纏い、ふわふわ外套を颯爽と翻して――
・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
(止めた。駄目だ。根本的に間違っている。そもそも、感性からアプローチすること、それ自体がミスリード。ファッションショーのステージに立つのではないのだから、合理性から解を得ればいい)
思い付きを破棄し、自分に必要なものを列挙することにした。
「そうね、まずは動きやすいこと。関節が柔らかく使えて、軽く、邪魔になるアクセサリーの類は不要。戦うことが前提にあるならこれが必須。
そして相反する要件だけど、防御力に優れていること。急所を保護する軽量・硬質なプロテクターがいるわ。できることなら、ゆったりとした上下で手足を覆って動きが悟られないようにしたいところね。でも邪魔になるようならいらない。
最も優先度が低いのは外観美。これは幾ら犠牲にしても構わない。
後は、そうね。これまでの経緯を鑑みて夜間での活動が想定されるから、外敵に視認され難い濃色が好ましいかしら」
状況をイメージしながら列挙した割に適切な要求が出せたと、芽依は自画自賛する。
<はン。そのままじゃねーか。やはり伝承は正しいみたいだな>
ギリアムは芽依の機能要求を肯定した。芽依の並び挙げたものこそ、その姿なのだと。
「・・・・・・伝承?」
<精霊界には、伝説の騎士であるジュエリストに関する実際の記録が残されてる。さっき言ったのは、その中の一節だ>
「残念ながら、該当しているのは色くらいね。とんだ伝承だわ」
<直ぐに理解するさ。何せ、決闘装束はお前自身にも等しいからな――ああ、そんなことしても無駄だぞ>
芽依は忠告を黙殺し、手袋を外した。そして無造作に投げ捨てた。途端に、グローブは闇に溶けてしまった。
目の錯覚かと思った瞬間だった。何気なく映した自らの手には黒の手袋。今し方、投げ捨てたものと同じものが収まっていた。
「・・・・・・!?」
自分の手をまじまじと眺めた。
しかし、芽依は自分の神経を疑わない。記憶と認識に齟齬がないことを胸に刻みつつ、今度は片手だけグローブを外し、素手と見比べながら放る。
そして見た。指先から離れた直後に音もなく消える黒手袋と、奇術のように復元される黒手袋を。
同時に思えた二つの現象に、僅かながら時間差があることも見て取れた。
それは人の目には止まることのない速度であったが、芽依は呼吸をするくらい無意識の内に知覚していた。
「・・・・・・ギリアム。説明くらいなら期待して良いかしら?」
芽依の皮肉に、ギリアムの表情は幾らか歪んだ。どうやらぶすくれているようだった。
<お前はお前をやめることはできないが変えていくことはできる。だが、それでもお前がお前であることに変わりはない――これも伝承の一説を要約したものだ>
だからだろうか。化け物蛙は口を噤み、それっきりだった。
芽依は不平を言うでもなく、ただ平素通り考察し、すぐに結論に至る。
“デュエルドレスは自分自身に等しい”、“お前はお前であることに変わりない”。この二つの鍵が導く先に、扉は一つしかなかった。
「つまり、服装にも自己同一性や恒常性のような特性がある、と?」
<・・・・・・悪くない理解だ>
僅かに空いた間に、若干の悔しさを滲ませたようにも思えたが、芽依は関心の埒外だったので流した。
服装の変更がままならない以上、拘泥するのは時間の無駄というものだ。
竹を割るが如く置き捨て、本題を考察する。
つまり、『ジュエリストに何ができるか』だ。
ところが、思わぬ方面から横槍が入った。
ドンドンドン!
玄関の扉を激しく叩く音。飛び込み勧誘対策に、チャイムの電池を切れたまま放置しているため、ああやって戸を叩くしか黒岩家の住人を呼び出す手段がない。
恐らくはこのアパートの住人だろう。夜分にあれだけ騒然とさせたのだ、誰か不審に思う人間がいてもおかしくはない。
芽依は思わず舌打ちする。呆然と帰宅したせいで鍵をかけ忘れていた。
即座に周囲を見渡す。変身時の余波で家具は乱れ、食器類は床に散り散り。文字通り、散々たる有様だ。
強盗が押し入ったのかと思わせる状況も厄介だが、最大の問題は”コスプレ”の一言で済まされないこの風体、そして”ペット”と呼ぶには無理がありすぎる化け物蛙の存在だ。
何が何でも見られる訳にはいかなかった。
いつドアノブが回されるか分からない以上、居留守を使うのは危険だ。そして部屋に隠れるのは、見つかった場合を含め、リスクを上げる行為でしかない。
結論。芽依は極めて平静に、キッチンの脇に釣り下げたエコバッグを手にし、
<あ?――>
おもむろにギリアムへ被せた。
<お前ッ、こ”ら”っ、何”――>
じたばた+もごもご=ギリアムの無駄な抵抗。
芽依はギリアムの体表の粘液に触れないよう細心の注意を払いつつ持ち上げる。
違和感――その大きさからして、相当な重さになるかと覚悟していたが、予想に反してギリアムは軽かった。
まるで、内蔵や筋骨の代わりに綿が詰まっていそうな重さだ。
疑念を排し、ヤニ臭いの部屋の窓を開ける。
急速に入り込む秋夜の気配。
更なる違和感――身体の芯に触れそうな冷気が、やけに心地よく感じられた。
壁際から上下左右を見渡し、近辺に人気がないことを確認。窓際に手を突いてその身を外へ躍らせた。
そこで芽依は決定的な違和感を受け入れた。
(――身体が、軽い?)
芽依の算段はこうだった。
①ギリアム入りバッグを担ぐ。
②数メートル先のブロック塀まで駆ける。
③よじ登る。
ところが、体重を感じさせない脳が、その必要性を否定した。
代わりに、ちょっとした段差に飛び乗る感覚で膝を曲げ、ジャンプする。
「ぅッ――!」
視界が理解を超えて遷移/瞬間的パニック/併発する貧血/気が遠くなりかける。
目眩の原因は、脳が発した命令と結果のズレだった。
日常生活で体験できる機会など、せいぜい階段を踏み外した瞬間しかないのだが、そんなちょっとした誤作動でも、規模が何十倍にもなれば唯では済まされない。
タタン、と足裏にステンレスの固い触感。
まったくの偶然、まったく幸運でもって、自宅アパートの塀と私道とを超えた先にある、二階建て家屋の屋根上に着地していた。
芽依はしゃがみ込んだまま振り返った。自らが描いた軌跡を。遠く離れたその場所を。
「・・・・・・人間じゃない」最初は否定/驚愕。「人間じゃ――ない!」後に肯定/驚喜。
「・・・・・・跳ぶわ」
<何? ・・・・・・おわぁぁ!>
先ほどよりも足に力を込め、芽依は跳んだ――いいや、飛んだ。空を飛んでいるに等しい高さだった。
恐れは足枷、戸惑いは手枷だ。だが、如何なる摂理も、今の芽依を止められはしない。
黒衣の少女は今、決闘装束という名の両翼を与えられたのだ。
再び家屋の屋根が迫った。今度は猫よりも静かに着地。瞬間、たわめた両足の力を解放し、三度夜空を舞った。
今度はただ跳ぶのではない。抱え込みで前方回転を二つ、伸身宙返りにひねりを加えながら一回転。続く開脚状態での側転を延々と繰り返した。
決して優美とは言い難いが、それは見様見真似であるせいだ。宙返りなど、生身なら一回転ですら不可能だ。
<最初から無理するんじゃねぇ。怪我、すんぞ>
脇に抱えたエコバッグから、顔だけひょっこり出したギリアムが弱々しく語り掛けた。
意外な気遣いだったが、無論、芽依は受け入れるつもりなど毛頭ない。
アスファルトで舗装された歩道へ片足が触れた瞬間、芽依は反対の足で地面を蹴った。
「大体、感触は掴んだ。全力はこれから」
滑走――余韻すら残さず真っ暗な大空へ舞い戻る。
「これが・・・・・・あの子の、見ている景色」
感嘆は夜空に融けた。芽依の周りには何もなく、ただ空だけが広がっていた。
強い向かい風を纏い、独り占めにした朧月。手を伸ばせば届くような気がした。
眠れる街を見下ろし、初めて意識する。その一つ一つに命が宿っているのだと。
<・・・・・・おい、もういいだろ。いい加減に、しない、と、ヤバい、ぞ。本当に>
その小さく、弱々しい、青色吐息の呪詛が、少女の感動と感傷をぶち壊し、強引に現実へ引き戻した。
「私はまだ完全に自分の能力を理解してないわ。それとも、決闘装束に制限時間でもあるの?」
<そう、じゃ・・・・・・ない・・・・・・げ、限界、が、近いのは――>
息も絶え絶えに、ギリアムは懸念を捻り出す。
<――――俺>
跳躍軌道はちょうど円弧の頂点。これから緩やかに下ろうかという頃合い。芽依が蛙にまつわる未知の病魔を危惧した直後であった。
げろ、げろげろげろ。
ウシガエルの野太い鳴き声を、刻んで/擦り潰して/燻したような音だった。
果たして、一人の少女に芽吹こうとしたロマンとかファンタジーの種子は、除草剤によって駆逐された。
白目を剥きかけた化け物蛙の、大きな口から放たれる吐瀉物。
薄い月明かりの下でぬらぬらと輝くそれは、天上に翼を広げ始めたばかりの、黒い小鳥の軌跡/悪夢になった。
<お前・・・・・・俺を・・・・・・殺す、気か・・・・・・>
厚く重なった木の葉の上に、巨大蛙がぐったりとその身を横たえていた。一度目の嘔吐から、数分後の姿である。
悪夢のような出来事の直後、芽依は立ち止まるどころか加速し、一直線に駆けて、跳んで、ものの数分で小桜市北部の山間にたどり着いていた。
目的は蛙の介抱にあらず。あくまで自身の性能検証にあった。
ジュエリストの力を十分に発揮するには人気がなく、かつ広大な空間が必要だ。市内に限定した場合、候補地は二つしか存在しない。
一つは市の南側に広がる海岸だ。砂浜と防砂用の松林が海岸線に沿って延々と広がっており、全力で暴れるにはもってこいである。
もう一つは北側の山間部。山といっても山頂で海抜五十メートル程度で、感覚的には丘に近い。道路に沿って民家が点在し、田んぼと畑が半々の田園風景が広がるような場所だった。
芽依のアパートは両者の中間、やや南側に位置していた。芽依自身、地理に明るいのは、どちらかと言えば海側であったが、あえて山側を選択した。
地形が複雑な方がより実践的であると言えるし、障害物や高低差の少ない海岸では、幾ら深夜でも視認される可能性が高くなる。
芽依の選択は、平素と変わらぬ合理的判断に基づいていた。
「とても不幸なすれ違いね。緊急事態につき容赦して貰いたいわ」
芽依は慇懃に謝罪するが、しかし、許して欲しいとは微塵も思っておらず、冷然とギリアムを見下ろしていた。
もっとも、芽依の性格からすれば、誰を相手取っても大差ない。逆に、これほどシュールな相手を人間扱いしているだけでも賞賛に値するというものだ。
一体どこの世界に、こんな女子中学生がいるだろうか? 深夜にエコバッグの中で汚物と融合しかけた巨大蛙を抱え全力疾走する魔法使いの少女など。
「この辺りなら問題なさそうね」
街灯もない、木々に囲われた雑木林の真っ只中で、芽依は独りごちる。
比較的下草の少ない場所であったが、鬱蒼と茂る樹木が月明かりすら遮っていた。
辺り一面が闇。けれど芽依の目は暗がりに潜む木々や小動物の輪郭を捕らえ、色彩すら淡く乗せていた。
ギリアムといえば、青紫色の長い舌をだらしなく出しながら懸命に肺呼吸していた。
その様が、芽依の浮き足立つ心に無情/無常のローキックを浴びせるものだから、“エラ呼吸を卒業したばかりで慣れてないのかしら?“、なんてズレた感想しか出なくなりもする。
星の巡りが悪かった、と芽依は思うことにした。
「ギリアム、耳だけ貸して頂戴」
芽依は相手の返事を待たなかった。
「決闘装束は人間の身体能力を飛躍的に――いいえ、別次元へと向上させる。にも関わらず骨格の伸張や筋量の増加に代表される肉体的変化はない」
自らの腕や足を注意深く観察し、筋骨隆々となっていないことを改めて確認した。
その事実は少なからず芽依を安堵させる。自身はマッチョになろうと厭わないが、あの白い子の、清楚な法衣の下に、はち切れんばかりの筋肉が押し込まれているとしたら残念過ぎる。その可能性が否定されただけも喜ばしかった。
「神経接続系も強化される。視力――というか視覚機能全般において補正が入ってる」両手を正面に。真っ直ぐ延ばし、それから徐々に広げていく「視野はそれほど変わらない。動体視力は?」
足下に転がっていた拳大の石を拾い、おもむろに投げつける。
弾丸の如く放たれた石は、十メートルほど先にある樫の木に着弾。大いに樹皮を抉り、衝撃に耐えかねた石の一部が破砕。あらぬ方向へ弾けるその破片を、芽依はしかと見た。
「強化されてる・・・・・・それに腕力も。本当に大したものね」
掌を開いたり閉じたりして具合を確かめる。
「一般的に、人間に出力可能な運動エネルギーには限界がある。それは筋繊維の密度と骨の強度、関節の駆動域によって計算できる。ただし、理論的な数値と現実には大きな隔たりが存在する。何故なら、強い力を発揮するということは、同じ分だけ返ってくる反作用を受け止めなくてはならないから。もし力を発揮する度に自身を損傷させるなら、その個体は生存競争から淘汰される。だから自分自身を守るため、生命には本来の力が出せないよう安全弁が付いている」
ゆっくりと樫の木に向けて歩き、小石の陥没した幹に触れた。
厚い樹皮は乾き、ざらついていた。芽依は指先に感じる堅さを確かめ、無造作に殴り付ける。
芽依の拳は堅い樹皮を易々と貫通し、肘まで達していた。
全力とは程遠い力の入れ具合だったが、まるで発泡スチロールの板を相手にしているような感触だった。
「これは限界性能とかそういう次元にない。この世界の物理法則が書き換えられているのは疑いようがないわね」
これだけの破壊力だ。常識的には、殴りつけたほうの皮膚が切り裂かれ、下手をすれば骨折しているはずだ。
ところが、引き抜いた左腕には掠り傷一つなかった。
芽依は左手を収めると同時に、右回し蹴りを繰り出した。
膝が目測を超え胸の位置まで軽々と持ち上がってしまい、慌てて軌道を下方へ修正。
上から捻り込むようにして走る足先が、大穴の空いた幹を側面から粉砕した。
樹高が芽依の五倍はあろう高木の、自重に軋む音が暗中に響いた。
ゆっくりと傾き、やがて支えきれなくなった瞬間――芯が折れ、一際大きな絶叫が辺りを包んだ。
完全に倒木する前に斜向かいの木々に寄りかかって止まったが、地面に伏すのも時間の問題といった具合だ。
「関節まで・・・・・・? この調子だと、内臓や脳髄なんかも変化してそうね」
軽い調子で言ってみたものの、深く考えると実はかなり恐ろしいことだ。
先刻漏らした”人間ではない”という言葉の境界線は、今はどこら辺にあるのだろうか。
自分はどこまで『非』人間となっていて、果たして元に戻れるのか。
希望にして元凶は、芽依の腹部にあった。異変はこの痣から始まったのだ。
臍の周囲を囲った刻印に触れてみる。
凛――と、鈴の音が聞こえた気がした。
「例の異世界が精霊力で構築された空間だとすると、精霊力には物資の特性を変化させる効果がある。壊れた世界が元に戻るのは、空間の座標軸を――もう少し気の利いた表現をするなら、そうね、『空間形状記憶』とでも呼ぶべき情報に干渉している。だから位置の固定されている建造物は復元が早く、平面上とはいえ自由に動き回り、活発な代謝を行う人体は遅い」
芽依は親指で唇を弄りながら、比較対象である少女達を思い浮かべた。
「けど、単純に時間と空間の復元をするだけなら、彼女達の不可思議な力が説明できない。ジュエリストは精霊力を使って奇蹟を起こしているはずなのだけど――」
刹那、脳裏を巡る直感的な理解があった。
「――待って。ギリアム、貴方は確か、決闘装束を”自分自身”だと言ったわね。私は貴方に触れ、精霊力の量が跳ね上がった後、この格好になった。
そして私の手から放れた手袋は消えた。つまりは精霊力の塊を纏っているということ? なら私の服は? ・・・・・・まさか、精霊力は物質の記憶情報を復元するだけでなく、改竄する? ジュエリストは意図的に書き換えていると?」
<はぁン? ・・・・・・人間界の住人ってのはなかなか賢いもんだ。別世界の事象をこんな短期間で把握しちまうとはな。お前等、誰もそうなのか?>
ギリアムは横たえた姿勢から肘を突き、前足に頭部を載せていた。
相手を無視して話し出した芽依にどうこう言えた義理はなかったが、まったく酷い態度だ。
芽依は”気にしたら負け”と自分に言い聞かせ、見なかったことにした。ついでに、ギリアムが指の吸盤で鼻穴の付近を弄っていたことも。
「さあ、どうかしら」素っ気ない返答。
芽依は身の回りに異変を感じ始めてから、かれこれ三ヶ月以上も考察を巡らせていたのだ。そして少ないながら実体験も交えた上で立てた仮説だ。
流石に、別人がすぐに思い至るかと言われれば、可能性は限りなく低いように思えた。
ただし零ではない。それは確信を持って言えた。確率論とか形而上の話ではなく、実際に一人だけ、芽依には思い当たる人物がいた。
(宝生ひかり。あの子ならあるいは――)
首を振って否定した。無意味な想像だ。ここで理解すべきは自分を取り巻く環境であって、この場に居もしない人間のことではないのだから。
「で、私の仮説は正しい? 間違ってる?」
<さぁ、どうかな>ギリアムの言葉なぞり。
やられると存外に不愉快な気分になるのでこれから使いどころに注意しよう、と自省したのが最後、芽依は舵を切ることにした。主に嗜虐的方向へと。
「ギリアム。私はこれからとても興味深い実験を始めるわ。テーマは『ジュエリストは荷物を抱えながら垂直跳びから宙返りを何回転できるか』なんだけど、貴方にも是非協力して貰えないかしら?」
<お前・・・・・・俺を回し殺すだけじゃ飽きたらず、空で落とす気じゃ・・・・・・>
「え? 大丈夫よ。ソレに入って貰うから。空中で手が滑る確率なんて、手提げが壊れるケースを含めても十回に二回程度だと思うわ」
芽依はキラキラ液に汚され廃棄確定となったエコバッグを指さして言った。
<十回に二回!? それってかなり高いよなぁ! 俺の死ぬ確率ぅ!>
「ギリアム、何事も前向きに考えましょう? 十回に八回は生き延びるのよ。試してみる価値はあると思うわ」
<ねぇよ! これっぽっちもなッ!>
「大丈夫。私、頑張るわ。全力で回って、一回目でギリアムから”お願いです、もう殺してください”って言わせてみせるから」
<どちらにしても俺が死ぬのは前提なのか!? そんなことに頑張る必要がどこにある? このハナクソ程もねぇよ!>
指先の吸盤に付着した黒い物体を、ピンッと指で弾いて飛ばすギリアム。
「そうね。でもそれは仕方ないと思うわ。ギリアムが情報提供者としてその汚物程度にしか使えないと分かった以上、呼吸をさせておく価値もない。口封じ――ではなくて、口を封じておいて貰った方が地球の二酸化炭素軽減になってとってもエコロジー。これは揺らぎようのない真理だから――」<よし、この辺でおふざけは終いにするぞ。そろそろ真剣に――>「私としても悩みの種が一匹・・・・・・失礼。人にして約六分の一名ほど減ってスッキリするから、そうね。さっさと――」<分かった! 分かったから! 俺が悪かった。全面的に間違っていた! どうか許して欲しい!>
ギリアムは感情の灯らない目をした少女が空恐ろしかった。怒っても笑ってもいないのだ。それは覚悟とか勇気などという大仰な意思でない。
モノ――そうモノ扱いだ。この少女は”使えないから捨てる”と言うのだ。返答を誤れば本当に処分されかねない――と確信させる冷酷さが黒衣の全面から溢れ、氾濫の体となっていた。
「そう? なら質問に答えて貰えるかしら?」
<畜生・・・・・・何て奴だ。全然当たりなんかじゃなかった。外れも外れ、大外れだぜ。やっぱし俺は女運が――>
ギリアムの鼻先を小槍――もとい、小枝が掠める。ただし勢いが尋常ではない。もし急所に刺さったら致命傷になりかねなかった。
「ギリアム。ああ、ギリアム。鼻の穴って、二つより三つの方が呼吸しやすいと思わない?」
ギリアムは小声でぼやいたつもりだったが、強化された芽依の耳にはしかと聞こえていたようだ。
<――良すぎて参っちまうな、クソッタレ・・・・・・まぁ、大体合ってんじゃねぇか?>
完全に投げやりだった。先の意趣返しにしてはなかなか洒落ている。『命懸け』という点のみ好感が持てた。
そんな芽依の心理を慮ってか、巨大蛙はピョコピョン×二、慌てふためき前足を交錯させた。
<俺だって何でも知ってるわけじゃねぇんだよ! お前の『理』を否定する理由がなかったってだけだ! 俺だって教えて欲しいくらいさ! 何だって精霊力がお前たちにこんな変な力を与えてんだかよ!>
「? ・・・・・・精霊の世界では、誰でも不思議な力を使うのではないの?」
<はン? まさか! そりゃ特殊な能力を持った奴はいるがね、誰も彼もそう大差ないし、使い手としては俺より格下だね。そもそも、精霊力だってそんな特別なもんじゃない。ただ光ったり、熱を出したり、調べ物に使ったり、その程度だ。それがこちらの世界じゃ何故か知らん、爆発したり物を生み出したりする>
「ギリアム、貴方は精霊なのよね?」
<そうだ。別に信じて貰おうなんて思っちゃいないがな>半ば逆ギレ気味の返答。
芽依に揺さぶりは随分と効いていた。ぶっきらぼうだが見違えるほど素直だ。両生類にしておくのが少々勿体ない。もっと躾て手下してやるべきだろうか。
「いいえ、信じるわ」
<・・・・・・何故だ?>
「辻褄が合う。精霊が奇跡を安売りするようなら、ジュエリストを頼る理由がない」
ギリアムの顔面はもとより苦虫を噛み潰したような造形だが、輪をかけて歪むのが見て取れた。まさか、この程度で引っ掛けられた――とでも思ったのだろうか。
だとするなら、芽依としては心外だった。次はこの反省を活かし、もっと徹底的に追い詰めてあげるとしよう。
「それともう一つ。貴方はどうやってこちらの世界に来たの?」
<・・・・・・言いたくない>
ギリアムはくびれのない首を横に振る。
<時期がくればいずれは話す。それは約束する。精霊の誇りに賭けてな・・・・・・だが、今は駄目だ>
「なら質問を変えるわ。人間は、精霊界へいけるのかしら?」
<何だ? 興味があるのか、俺達の世界に>
「いいから質問に答えて」
<普通の人間には恐らく無理だな。『界門』をくぐれない。人間界から来訪者など聞いたことがないが、ジュエリストなら、あるいは可能かも知れん>
それがどうかしたか、とギリアムは芽依を見上げた。
「大した話ではないわ。こちらとあちらでは、一体どちらの方が高い力を持っているか、それを考えてみただけ。
もし精霊界の方が高位であるなら、ありふれた力である精霊力が、より低位である人間界に流れ出すこと自体は、この世界の理屈に矛盾しない。
通常はギリアム言う『門』があって、通り抜けはできない。しかし、何らかの例外によって精霊力がすり抜けることが可能となった。この世界に流れ着いた精霊力は、本来は存在しえない異物であるが故に極めて不安定であり、より安定状態になろうとして人間界の物質に結び付き、組成を置換する。ジュエリストはその流れを制御することで、自らの願望を現実に現すことを可能にする」
一息で説明し終えた芽依は、深く息を吸った。
「概念としてはこんなところかしら? あくまでこの世界の理屈で、何一つ証明できていないけど・・・・・・」
ギリアムはギョロリと目を剥き、首を伸ばして芽依を仰ぎ見た。
<お前、精霊界の研究者にでもなる気か?>ゴゴワァと奇怪に咽を鳴らす。
「それも悪くないわね。ジュエリストを廃業しても失業しない」
巨大蛙の皮肉に、至って真面目なジョークで応えた芽依だったが――
<変わってるな、お前>
ギリアムが、ポツリと、漏らした。
その一言には負けた。世界で一番変わっている相手から言われてしまっては、反論のしようがない。後はもう笑うだけだ。
芽依は薄い唇を軽く引いて微笑――ギリアムが初めて見る、美しい横顔だった。
だが、それもほんの一瞬の幻。
芽依は毅然と告げる。
「さぁ、次の検証をしましょうか」
朧月は未だ天の高きところにあり、長き夜の始まりを予感させるのだった。
“感情のまま生きることは、人の正しい生き方たりえるか?”
芽依が最初にこの疑問に行き着いたのは、小学校の卒業がもうすぐそこまで見えて来た時分だった。
当時、芽依は言葉にならない反発を胸の内にくすぶらせていた。
鎮火不能の原因は、取るに足らない課題にあった。それは卒業アルバム制作の一環で、将来の夢を文章にするというものだった。
といっても、渡された小さな紙片は文字数にして百四十字程度で、紙はすぐに埋まった。
ところが、書けども書けども違和感が拭えなかった。
夢とは一般的に、根拠の乏しい希望、ないし輪郭のあやふやな願望にすぎない。
よって思い入れの無い言葉で偽る必要はない。奇抜な思想を膨らませて生涯の生傷とするのも馬鹿らしいし、難解な暗号文、浅はかな人生哲学、無意味なメタファー、どれもこれも似つかわしくない。
個々人の、個別の、特別な感情に正答など存在しないというのに、誤答は誰もが良く分かるこの課題が、芽依は嫌で嫌で仕方なかった。
当時、芽依の描く未来は所謂、“人並みの暮らし”だった。
人並みの境界線は曖昧だったが、芽依がいつも描くイメージは家族全員が健全で、衣食住に思い煩わされない程度の裕福さのある暮らしだった。
唯、その願いは誰にでも判る誤答だった。馬鹿正直に綴ったが最後、芽依は”可哀想な子”になり下がってしまう。
今にして思えば、そのとき既にそう思われていたことだろう。人の口に戸は立てられないものだ。
だが自身を卑下する言動をきつく戒め、不幸を喧伝する輩を学力でもって黙らせて来た芽依にとって、他人に付け入る隙を与えることは許されざる行為だった。
感情と理性がぶつかり合った。自分らしさを貫いて貶められるのをよしとするか。それとも、あるべき自分を歪めて無難に収めるか。
一体どちらが正しい選択だろうか? 本音と建て前、一体どちらの選択が『黒岩芽依』としてより良き人生になり得るだろうか?
どちらを選んでも大差ないと、他人は笑うだろう。だが芽依には、どうしてもそう思えなかった。
芽依は昔から他人に調子を合わせるのが苦手だった。家族のことが引け目となって堂々と振る舞えず、その時々で適当な表情を捏造できるほど器用でもない。本当の自分を隠していたくないと強がりながら、傷つけられることに臆病だった。
たった一行。ただの一筆。そこに血を吐くような想いを込め、初めて自分の生き方を明確に記した。
決めたのだ。正しい生き方をしようと。誰に笑われても構わない。純粋に、自らの感情のままに生きるのだと。
誓いが産声を上げてから、芽依自身となるのはその年の春――小桜市立白月中学に進学し、亜麻色の髪の少女と出会った後のことだった。
Q.あなたの将来の夢は?
A.家族の健康とお金に困らない暮らし。
六年二組 黒岩芽依
(市立白月小学校第三十七期生卒業アルバムより抜粋)
吐き気がした。酷い吐き気だった。
芽依はそれを過労が招いたもの――そう思っていた。
家族を失ったあの夜から二晩、一睡もせず、気力が尽き果てるまで特訓していたせいだと。
徹夜明けの登校など何でもない――そう思っていた。
ところが校舎を目に映した後より胃に不自然な重さを感じ始め、教室に近づくにつれて不快感は増した。
胃液が、喉元まで逆流した。教室で自分の机を目にした瞬間だった。
ホームルームの直前を指し示す時計の針。
口を噤んで凍り付いたような教室。
机の上に置かれた一輪挿し。
名も知らぬ小さな花。
雌蕊が黄色で、そこから薄い青紫の花弁が真っ直ぐに伸びた、菊に似た姿だった。
それは人の死を連想させる。この場合、誰が死者で、誰が生者なのだろう。
生者を死者に見立てて嗤うのか、生者が死者を貶めるための献花なのか。
(母さん・・・・・・裕樹・・・・・・)
クラス中の視線が無遠慮に突き刺してきた。芽依は着席せず、机の前に立ってジッと花を眺める振りをした。
(いつまでも、嗤っていられると思うな・・・・・・!)
見えざる敵へ相応の報いを与えんと無言の宣誓。セルフレームの眼鏡を外し、俯き、手で顔を覆った。
端から見れば、悪戯で済まされない仕打ちに感情が高ぶり、涙しているようだった。
ただし瞳に溢れるは塩水でなく精霊力。純然たる敵意が、不可視の力と混じり合い、爆縮する。
《部分兵装開放》
初めて変身してから連続二十時間超に及ぶ特訓によって習得した三番目の技能に、芽依はそう名付けていた。
体器官に直接触れることで意識と精霊力を集中させ、決闘装束を纏わない状態でジュエリストの能力を極めて限定的に流用にする、究極の離れ技。
精霊力により強化され、濃紫色に染まる双眸。指の隙間から無数の表情を完全補足。同時に読みとった数は実に二十にも及ぶ。
――大半は意図を理解しておらず悪質な悪戯の範疇で流して誰が実行したかも分からないから咎めることも億劫で傍観を決めたはいいが少しの違和感を含む戸惑いと後からやって来るであろう良からぬ事態に対する恐怖を完全に拭いさることが出来ないまま周りの出方を互いに伺い合って硬直する集団心理に支配された目の少年少女の中でも普段から黒岩芽依を良く思っていない者達の明らかな嘲弄を含んだものとは異なり眼球を右左左下右下右左とせわしなく動かしながら唇を微かに震わしてまんま自分が犯人ですなんて名乗り出ているような人間がいた。犯人がいた。罪人がいた。いた。いた。いた。いた。いた。いた。
芽依の二つ後ろの席で懸命に平静を装うとしている女子がいた。
――金木由佳。
芽依は眼鏡を掛け直し、一輪挿しを片手に被疑者の眼前に立つ。
「な、なんだよ!?」
無言で見下ろす芽依に抗う甲高い声/自衛の腕組み/ありありと浮かぶ動揺。
限りなく黒いに近い灰色だったが、それでも裏付けは必要だった。
空惚けさせないための、言質でない、確度の高い証拠が。
耳元の髪を掻き上げる――<開放部位変更>――振りをし、強化箇所を聴覚へ変更/即座に完了。
「これはあなたのかしら?」
愚問だった。何故なら、その一輪挿しはずっと以前より教室の隅に置かれていたものであって、持ち主不在はクラスの共通認識である。
ただこのときだけは、無意味なことに意味があった。この状況で詰問は逆効果。犯人扱いもまた然り。
どんなに理性的な人間であっても、生理反射から逃れられはしない。
ドッ! ドッ! ドッ!
投げ掛け直後から跳ね上がる心音。まるで胸元へ耳を当てているかのように聞こえる、早く、力強い鼓動。実行犯にしか出し得ない、暗い感情の現れ。
偽証不能である心音は、信じるに値する情報源だが、芽依は盲信もしなかった。
嘘発見器と同じだ。対象がそれと意識していない場合、虚構は真実となり得る。
強力な自己催眠、極度の錯乱、事象の認識障害。どれも真となる脈動を現すだろう。
仮に精霊力がなくとも、芽依は事実を疑う。何故なら、この手の子供じみた犯行が単独犯によるものではないと、経験的に知っていたからだ。
“ざわめき”――<雑音抹消>――“つぶやき”
ナニシテンノアイツ。エ。ア。マタヤッテルシ。バーカ。ウザ。ウワァ。ヤダヤダ。
困惑、動揺、辟易、嫌悪――幾つかの感情が奏でる不協和音の中に、たった一つ異質な音色。
バーカ < ばーか < 馬ー鹿 → “間違えてやんの。馬ッ鹿じゃね?”
感情の源泉は真実への嘲り。贖罪の羊を使い、安全な場所から事態を傍観する者の慢心。
興味ない振りをして窓の方を眺め、笑い出しそうになるのを必死に堪える女子がいた。
――桜井美樹。
芽依の身に降りかかった災厄を知りうる可能性が最も高く、芽依と、芽依の母から受けた仕打ちを照らし合わせれば、現時点で最も動機ある者。
カチリ。
頭の中で、歯車の噛み合う音がした。
「ああ、そういうこと」
摂氏零度の呟きと共に《部分兵装開放》を解除。対象を金木由佳から桜井美樹へ切り替え(スイッチ)。
脇を抜けていく超危険人物を横目に、張りつめた緊張の糸を綻ばせる由佳。こぼれ出す安堵の吐息――そして冷水。
天を突くような金切り声が、室内に反響した。
由佳も、まさか頭上から水が降り注ぐとは青天の霹靂であろう。
だがそれも因果応報だ。律儀に花瓶へ水など入れなければ、花が送られるだけで済まされたはずなのだから。
芽依は空になった一輪挿しを桜井美樹へ差し出す――
「は? それアタシんじゃないし――」
――振りをして手放していた。
美樹の戯れ言を、陶器の砕ける音がきっちり断つ。
芽依の手から滑り落ちた花瓶は、大小無数の破片となって木目調の床を汚した。
「・・・・・・駄目じゃない、ちゃんと受け取ってくれなきゃ」
ありもしない責任を美樹に押し付け、自身は花瓶の、比較的形を残した底の部分を拾い上げた。
二股に分かれたその先端は刃のようで、まるでナイフの如き存在感があった。
芽依は切っ先に親指を押し当て、引いた。
見る者は皆、幻の痛みを押しつけられて咽を絞った。
傷口から鮮血がぼたぼた溢れ落ち、床に無数の血痕を描いた。
「犯人は見つかり次第、殺すわ。もちろん、犯行を指示した人間も必ず探し出して殺す」
静謐、かつ苛烈な宣誓。流血を用いた強烈なメッセージ。
芽依と周囲に張り巡らされる不可視/不可侵の境界線。それは極限まで伸張させ、なお強度を保つ鋼鉄の意志であり、触れるものすべてを裁たんとする本物の狂気だった。
気圧され絶句する美樹の左頬を、血で塗れた親指がゆっくりとなぞる。
刻まれる血の痕が、警告を呪いに変えた。永遠に消えることのない心の傷として。
それから芽依は陶器の切っ先を、教室の中央へ向ける。
「傍観者も同罪」
その声は、凛として刃の如く。切りつけられた一部からは、早くも贖罪の啜り泣き。にわかに混沌が加速していく。
そのとき、一筋の光明が差し込む。
ガンッ!と教室の扉が乱暴に開かれ、果断に割り込む一人の少女。
「今、ガラスが割れた音しなかったッ!?」
宝生ひかりが、慌てた様子で飛び込んで来た。
救済を求めるような眼差しがひかりに集中した。だが当人が感じとったのは、唯一つの異質な気配。混濁した空気の中でも透徹した視線。
「芽――――黒岩、さん・・・・・・?」
不用意に近寄ろうとするひかりの腕を、後から駆けつけた夢乃が掴んだ。掴まなくてはならなかった。
下手をすれば、取り返しの付かない事態を招きかねない。後れ馳せた夢乃にも痛いほど伝わる、危うい気配が教室に満ちていた。
ひかりに変わり、夢乃が一歩前へ出た。
夢乃は自分に何ができるとも思っていない。それでも、ひかりが接触するよりは良い、それくらいの感覚でしかなかった。
唯々恐ろしかった。その証拠に、夢乃のすらりと長い足は細かく震えていた。
何かが違った。夢乃の知る黒岩芽依ではなかった。何も違わないのに、先週とはまるで別人に見えた。
一歩近付くにつれ、まるで猛獣と対峙しているような気分になる。
視線を合わせるのさえ怖かった。だが、ここで目を逸らせば、この先ずっと向き合えない。その方が怖くて、なけなしの勇気を振り絞った。
夢乃は芽依とその周りを注意深く観察した。
割れた花瓶。握り締めたガラス片。赤く染まった芽依の指先と血溜まり。
そして由佳と美樹――水と血に塗れた二人の少女の怯えすがるような眼差し。
事態はいよいよ分からない。まるで目隠しをしながら吊り橋の上を歩くような気分だったが、幸運にも、夢乃には天啓に等しい閃きがあった。
「芽依ちゃん。よく状況が分からないんだけど、とりあえず手当しよ? 後片付けは私がやっておくから、保健室に行ってきて。 ・・・・・・ちょっと落ち着いたら、話し、聞かせてくれないかな?」
これがひかりであったなら、“一緒に保健室へ行こう”と、無理強いしたに違いない。夢乃も最初に同じ事を考え、すぐに思い直していた。
誰かに寄り添って貰いたいだなんて、そんなことを芽依が望んでいるとはちっとも思えなかったからだ。きっと深く傷付けば傷付くほど、独りでいることを欲するに違いない。
何かしてあげたい。でも何もできない。クラスメイトとして、一人の友人として、それは寂しい限りであったが、何もしない事こそ、夢乃が芽依のためにできる唯一のことだった。
「・・・・・・助かるわ」
そんな夢乃の心遣いを、芽依は素直に感謝した。せめて微笑で気持ちを伝えようとしたのだが、目元の筋肉が追いつかず、口元だけが不自然に釣り上がった。
それが最後だった。後は躓かぬよう、不様に倒れぬよう歩くので精一杯だった。
芽依はひたすら念じた。“真っ直ぐ進め”――と。
ひかりは何もできなかった。体が、動かない。指先も、唇も。呼吸を忘れ、瞬きすら止めていた。
たった一つの確信が、すべてを失わせていた。
“いつの間に、夢乃は『彼女』の信頼を勝ち得ていたのだろうか?”
それは、この緊迫した状況とは無縁の感覚だった。よって、当然のことながら誰にも理解されず、想像も及ばない。
当事者である夢乃は勿論、芽依にも”信頼”などという、ご大層な評価が正しいとは思えないだろう。
だが、ひかりには確信があった。芽依の心の奥底で開き始めた、自分以外には閉ざされていたはずの扉があることに。
論理や感情を越えて導かれる解など誰にも理解されない。それは唯の妄想であり、錯覚であり、逃避なのだ。
ひかり自身、この”真とする”感覚が、一体何処から降って来るのか知らなかった。
まるで自覚がない。なのに全身が確信している。その矛盾はズレとなって現れた。
意識と行動が紐付かず、あらゆる器官はその動きを失わせた。
後から夢乃が声を掛けていなければ、ずっとそのまま、倒れるまでそうしていたはずだった。
芽依は階下にある保健室まで堪えられなかった。
教室からの順路上にあるトイレに駆け込むものの、便器まで辿り着けず、洗面台へ激しく嘔吐した(スプラッシュ)。
まだ原型を残した米粒が今朝の朝食の光景――コンビニのおにぎり――を思い出させ(フラッシュ)、無理にでも食べたのは失敗だったと、脳裏から非難の嵐。
奇跡的にタイルの床を汚さずに済んだが、それだけだった。一度出してしまえば、後は止めようがない。後から後からこみ上げる悪寒になぶられるがまま、げーげー吐きまくった。
四、五回も戻すと、胃液すら出なかったが、涎と涙は何故か無尽だった。
(ぁっ・・・・・・痛、あ”、がッ、痛――ッ! ク・・・・・・ソ!)
暫くは顔も上げられず、吐瀉物で栓をされた洗面台に顔面を落とさないよう支えるのが精一杯だった。頭蓋骨をすり抜け、直接脳髄を打ちつけるような痛みなど、一介の女子中学生に克服できるはずがなかった。
実のところ、芽依は能力開発の過程において、《部分兵装開放》の副作用を経験済みだった。そのときも激しい嘔吐感と頭痛に見舞われたものだが、ここまで酷いのは初めてだった。
短時間内での連続使用に問題があったのか、強化部位の即時変更が拍車を掛けたか。
使用する側としては因果関係を明確にしておくべきだったが、芽依はもう二度と試そうとは思わなかった。
決して、使用時の負荷を気安く考えていた訳ではない。奇跡に代償は付き物だ。
だからリスク込みでの決断であり、そのことに事態に後悔はない。今でも判断は正しかったと断言できる。ただ能力に対する理解が不十分で、結果的に、対価が高く付き過ぎただけ。
(あいつらは、蟻だ・・・・・・甘いって知ったら、絶対、群がってくる。中途半端じゃ、逆効果・・・・・・やるなら、徹底的に。やり返そうなんて思えないくらい――でも、これじゃ、唯の・・・・・・自滅。方法論が、根本的に間違ってる)
一体どれくらいうずくまっていただろうか? 頭痛は一向に収まる気配を見せなかったが、どうにか体を動かせる程度には回復した。
口を濯ぎ、顔を洗い、洗面台の掃除をした。一連の作業に、普段の十倍は時間が掛かった。
鏡は見なかった。見なくても分かった。覗き込めば、死人のような顔をした黒岩芽依が映っているだけだ。最悪な調子に、最低の顔を載っけた愚者がいると再認識するだけだ。
他人の同情を引く類の態度は芽依の趣味ではない。さっさと保健室のベッドに潜り込もうと思った矢先、首筋に伝わる違和感に振り向かされた。
半開きとなった窓に直立する、前衛芸術的戯画然としたシルエット。唯一にして無二のシュールさを誇る巨大蛙のお出ましだった。
「・・・・・・ギリアム、協定違反よ」
芽依とギリアムが協力関係を築くにあたり、幾つかの約束事が明文化されている。その一つに『芽依が学校に行っている間は一切干渉しない』という要項があった。
真っ先に女子トイレ内への闖入を咎めなかったのは、単に一瞥した時点で生理的嫌悪が満杯になっていたからにすぎない。
<ふン。その協定にある『例外的事態』ってやつだよ。俺だってな、日のあるうちは動きたかねぇ。ヘマしたら焼け死ぬンだぞ? ここまで登って来るだけでどれだけ大変だったか聞かせてやりたいぜ・・・・・・>
「状況を説明して」
<お前、さっき精霊力を開放しただろ>
ズバリ言い当てられ、不快感が増す。果たして、この場がトイレでなければ、自分の生理現象まで監視されているような嫌悪感を抱かずに済んだのだろうか?
「・・・・・・その可能性は事前に伝えてあったはずよ。アナタは”問題ない”とも言った」
<まさか本当に使うとは思ってなかっただけだ。ジュエリストの奇跡を生身で体現させるなンて大それた発想をするのはお前くらいだぞ。案の定、酷ぇ有り様だな? カカカ>
体調だけなら半死半生といった感の少女を眺め、ギリアムは嘲笑う。
<そう睨むなよ。お前の軽率さが招いた不運だ>
「私は後悔なんてしてない。必要だから使ったまでよ」
<お前の存在がバレた可能性があるとしてもか?>
芽依は僅かに動揺を見せ、すぐに表情を引き締めた。事実を断定するにはまだ早い。
<お前が精霊力を開放した直後、空の高いところで精霊力が高まった。ありゃ何か法術が行使されたに違いねぇ。そんな真似ができるのはジュエリストか精霊くらいだ>
「ギリアム。精霊力の感知精度は距離に比例する――そうだったわね」
目下、芽依の脳味噌は絶賛撹拌中だ。頭の中だけで事態を整理するのは不可能だから、口にしながら考えることにした。
「感知可能な範囲は最大でも三百メートル。精霊力の塊である例の異世界や、ジュエリストが行使する莫大な力は例外。私の《部分兵装開放》は従来の一部、かつ制限された発動に過ぎない。仮にドレスを纏っているのと同等だとしても、この短時間の間で半径三百メートル以内にたまたま精霊が通りかかった? 小桜市の面積は三十五.七一平方キロメートルよ。それってどんな確率だと思う?」
<それ以上の距離ともなれば感じられるのはせいぜい気配のみ――誰かが何かをしていそうってだけだ>ギリアムが言葉を繋ぎ、「だから何らかの方法で確かめようとした。その術次第では露見した可能性がある――ね」芽依が締めくくる。
芽依の眉間に寄った皺が一層深くなった。
「それって本当に私が何者か探ろうとしたのかしら?」
<なに?>
「ギリアムの感知能力が精霊の世界における底辺でなく、相手の技術がそれ以上だと――」<おいおい、俺は次期『聖霊』候補の筆頭だったんだぞ、筆頭! 分かるか? 若手勢で最優秀だ。聖霊のジジババども相手だって引けはとらねぇ!>「――だったら尚更、相手も誰が何をしたか分かっていなかった可能性が高いけど――」<そいつはさっき俺が説明したことだ。能力の使い過ぎで頭がおかしくなったか?>
芽依の揶揄に、ギリアムは辛辣な言葉で応酬する。
心にはまったく刺さらないのだが、酷い濁声が頭痛を悪化させる。だが付け入る隙は与えない。大きく息を吸い込み、反撃の準備を整えた。
「私が精霊なら、そこで知らない誰かがいるとは考えない。何故なら、ジュエリストの存在は稀有であり、その大き過ぎる力を安全に発動させる場は異世界の中に限定される。それでも力を行使したということは、自分の協力者が何か不測の事態に遭遇したと判断し、連絡を試みるわ」
芽依の示唆するもう一つの可能性に気付き、ギリアムは驚きを露わにする。
その歪んで締まりきらない表情に芽依も驚きだったが、これを黙殺。
「恐らく、この学校の生徒の中にジュエリストがいるのよ。上空のやつは私をその少女だと勘違いした。確かに露見したかも知れないけど、それはお互い様――いいえ。むしろ、こちらがジュエリストに遭遇したことがある分だけ有利よ」
議論する気もないから論証を抹殺。仮説で押し通り、論理の飛躍も問答無用でぶった切る。
「下手に動けば、それこそ尻尾を掴まれるかもしれない。逆に何も動かなければ、例え疑われようと監視されようと無意味だろうし、状況次第では相手を辿ることも可能。よって今後の方針に変更はない。無くしたものを探し出し、真実を知ること。私達の戦略目標は継続中よ」
絶不調にも関わらず、根拠のない自信と、嘘で固めた確信を吐き出しきった後に訪れる奇妙な充実感。
将来はきっと詐欺師か煽動者に違いないと、芽依は悲観的未来を確信せずにはいられなかった。
学校からの即刻退去を渋るギリアムを脅し文句で叩き出し、不吉な気配が完全に消失するのを待って、芽依は再び保健室を目指した。
トイレを出た直後だった。一度は復調したものと思いきや、視界がぐらりと揺れた。眼球が勝手に眼窩を駆けずり回っているような気持ち悪さだった。
体と意識を繋ぐ神経がぷっつり切れたかのように、前のめりに倒れ込んでいた。
なすがまま、腕一本動かせず、受け身も取れないで無様に転がる。
そう思った瞬間、甘い果実の香りがふわりと鼻腔を刺激した。
気取らず、それでいて上品。まるで熟す前の、まだ若い林檎のような香り。作り物の臭いに敏感な芽依だったが、不思議と嫌な気分にならない。
芽依は堅いリノリウムの床ではなく、柔らかな感触に包まれていた。
「っと――危ねぇ~。 ・・・・・・大丈夫か?」
男っぽい口調に、脱力した芽依を正面から受け止めるだけの腕力。なのに触れた腕や胸の柔らかさは女性以外の何者でもなく、芳しい香りもまた彼女のものだった。
「立てるか?」
手を支えられながら、芽依はゆっくりと姿勢を元に戻す。
途中で視線が交差すると、少女は白い歯を見せて快活に笑った。
榛色の大きな瞳には活力が満ち、濡れたように輝いていた。
身長は夢乃ほどではないが高い。見知らぬ小洒落た制服――やたら丈の短いプリーツスカート。ラフに着崩した上着、袖を折って魅せる裏地は赤×白チェック。
大きく開いたシャツ、覗く豊かな膨らみと金色の十字架、エネルギッシュな小麦色の肌。どこぞのバンドマンのように大きく外に跳ねた明茶色の髪。総じて、あからさまに遊んでいる風体。
本来は清楚で上品な仕立ての制服を冒涜的かつ背徳的に着こなす少女は、とにかくゴージャスでコケティッシュ。後数年もすれば、間違いなく大人の色香を匂わす華になるだろう。
クラスメイトを基準にするのであれば、一番近しい人種は桜井美樹なのだが、至って別物。事実、その手の人種に抱く嫌悪感が湧いてこなかった。
理由は明白だ。あちらは偽物で、こちらは本物だから。
何処にも偽るものがない。あるがままに、自分らしさを馬鹿正直に、出し惜しみすることない、そんな在り方。
――きっと同類。
芽依の直感的理解。全然違うのに同じものと思える錯覚。親近感と嫌悪感が相殺されるからこそ、自分の属性ではない婀娜っぽさも許容できるというものだ。
「ありがとうございます」
芽依が二つか三つ年上であろう少女へ謝意を伝えると、にんまりと謎の笑みが返ってくる。まるで燦々と照り返す陽気な太陽だ。
「いやいや、気にしないで下さいセンパイ。上級生を助けるのは後輩の勤めですから」
「・・・・・・先輩?」
「アタシ、見たまんまこの学校の生徒じゃないんですけど、中二なんですよ。センパイは三年生だからセンパイって――」「私も二年」
芽依の間髪入れぬ指摘。相手は唯でさえ大きな瞳を、猫のように丸くする。
「・・・・・・マジで!? 勝手に二つか三つ上かと思ってた。いやでも、この学校の制服着てるし、きっと三年だろうな~って。ははは、悪い悪い」
普段ならきっともう一言、二言やり取りがあったかも知れない。ただ今は立っているだけで奇跡的、口を開くのも辛かった。
芽依は目線だけで”気にしないで。それじゃさようなら”と告げてふらふらと歩き出す。
ふと漂う甘い果実の香り。
気配を感じさせず、少女は猫のようにするりと芽依の懐に潜り込んでいた。腕を取って自らの肩に掛け、腰をがっちりと密着。その流れるような体裁きは、手慣れているというより、何か武術の達人のようだった。
「アタシの名前は――あ~・・・・・・七海だ。七つの海で七海。姓じゃなくて名前な。たまに勘違いする奴がいるんだ。そっちは?」
「黒岩、芽依」
どこか言い澱む七海を訝しながらも、芽依は素直に助力を受け入れる――というより抵抗する気力が尽きている。代わりに七海が足と口を動かした。
「アタシってさ、こう見えて普段は結っ構人見知りなんだ。だから助けるやつも、助けたいやつも親しい人間だけなわけ。正直、それ以外はどうでもよかったりするんだよ。なんつーか、見知らぬ人間を助けるなんて柄じゃねぇっていうかさ」
「・・・・・・なおさら、分からないわね」小声で疑問を挟む。
「似てたんだ。芽依が、あの馬鹿に。遠くから見て、アレ? って一瞬思って、何かやばそうに見えた。そしたら走ってたよ」苦笑/微笑「でも良かった。危機一髪だったしな」
階段を下っているときも、七海が一方的に喋り続けた。大半はどうでもいいような話で、ちっとも頭に入ってこなかった。
気付けば保健室の前。芽依にとって長かったような短かったような、よく分からない時間だった。
「ここまでで大丈夫。助かったわ、七海さん」
「困ったときはお互い様さ。ああそれと、タメなんだし、呼び捨てにしようぜ――って、アタシの方はさっきからずっとそうだけどな」
七海は壁に肘を突き、拳に頭を載せながら豪快に笑う。
強引で一方的。だが、器量の大きさを感じずにはいられない。将来はきっと剛毅なる麗人となる事だろう。もう二度と会うこともないだろうが、そのときを一目見てみたいと思えた。
自分でも意外な名残惜しさは、疑問となってこぼれていた。
「そういえば、七海はこの学校に何の用が?」
「下見だよ」七海の悪戯な笑み/悪巧みを企てる子供の顔。
「・・・・・・下見? 何の?」図らずも追求。
「それは企業秘密」
芽依の薄い唇にそっと触れる七海の人差し指+軽いウインク。
「・・・・・・ッ!?」
驚きに閉口する芽依。追求を難なく躱し、七海は快活に笑って颯爽と立ち去る。表れたときは突然であったが、いなくなったときもまた突風のようだった。
芽依は呆気にとられるも、今求めるものはやはりベッドしかない。空きがなければ床でも構わない。とにかく、もう立っていられなかった。
幸い、保健室には誰もいなかった。勝手にベッドを拝借。倒れ込むように横になる。
冷たい清潔なシーツが気持ち良かった。
頭痛が酷く、とても眠れそうにもなかったが、目を閉じ、“少しでも和らげ”と念じる。
勿論、精霊力抜きで。
鐘の音が遠くに聞こえた。
耳骨の裏を震わせる物寂しい音色。瞼に刺さる橙色の光。
薄く目を開け、夕暮れ時だと気付く。
条件反射のように腕時計で時間を確認。とっくに放課後だった。
実に二日ぶりとなる睡眠のお陰か、頭痛はすっかり治まっていた。
ベッドから体を起こすと、凝り固まった体が痛かった。頭は重く、鈍い。
回らない思考を自覚しつつ、軽く伸びをして上履きを履き、パーティションの役目を担うカーテンをさっと開け放つ。
「体調はどうかな?」
低く平坦な声色が問いかけた。
芽依の視線の先には、回転式の椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んだ男性。
まるで見知らぬその男は、広告のモデルのように仕立ての良い黒スーツを嫌味なく着こなす。
長身痩躯。長い飴色の髪。前髪は後ろに撫でつけ、秀麗な顔立ちをはっきり見せる。
彫りは日本人離れして深いが、鼻筋は真っ直ぐでアジア系に近い。ところが肌は白人系。外見は三十絡みだが、頭から足の先まで微動だにしないその落ち着きようは、あたかも老成した巨木の様相だ。
切れ長の双眸には全くといっていい程に光がない。覗き込んだ常闇を写したまま、希望も、絶望すら飲み込んだ死者の目をしていた。
人種不明+年齢不詳=正体不明。
当たり前のようにそこに座しているが、養護教諭――所謂、『保健の先生』ではない。
白月中学の担当は、これといって特徴のない中年の女性だ。無論、通常の学科担当教員でもない。幾ら他人に興味の薄い芽依であっても、これほど浮き世離れした人間なら忘れることなどできない。
「君の体は限界寸前まで疲労が蓄積されていた。無理のし過ぎは、あまり褒められたものではない」
熱気も冷気もない口調。如何に些細な気遣いであっても、感情の抜け落ちていては意味を成さない。何より、芽依は初対面の人間を無条件で受け入れるほど無防備でも無頓着でもない。
「・・・・・・あなた、誰?」
芽依は眉根を寄せ、突き放した態度で距離を取る。
「カーウェイン=ストレイマン」
男が名乗る/耳に残る響き。記憶の断片に触れたような――しかし、紐づく情報はない。
「黒岩芽依・・・・・・ジュエリストたる君に関心がある」
ぞわり――背筋をうねる悪寒/跳ね上がる緊張感。
霞がかる思考が一気に晴れるが、感謝などしない。
芽依は警戒心を最大に引き上げ、相手の一挙一投足に注意を払った。
「そう警戒することもない。私に危害を加える意思があるなら、とっくにそうしているはずだ」虚無の微笑。
それもまた事実ではある――が、人間の嗜虐性など他人に知れたものではない。人の死さえ嗤えるのだから、生きた人間を欺くことなど容易いと思えた。
「信じる理由がないわね」
冷淡に返しつつ、芽依は腕組みをする。自己防衛心理の現れではなく撃退準備――あくまで《部分兵装開放》を発動させる為の構えだ。
二度と使うまい――そう心に誓っていたが、秘密を知られている以上、最悪のケースに備える。
「適度な警戒心と鋭い感性、混乱を馴らしての抵抗準備。その思考は柔軟にして果断――現在は勿論、過去の少女達にも引けを取らないな」
男が立ち上がる。非の打ち所の無い典雅な様に、思わず視線が釘付けとなった。
「君に一つ問う。彼女は目を醒ましただろうか?」
名前も知らない相手など知らないし、興味もない。思わせぶりな発言に捕らわれることなく、芽依は無言を貫いた。
「私は、君が勝者となることを望んでいる。是非、この戦いを乗り越え――」無機質な瞳に宿る微光「――私を殺してくれ」
(――殺してくれ?)
その言葉の意味を計れず、芽依は一瞥くれる男を悄然と見送った。
男の背中が扉の向こうに消えたところで、芽依は夢から醒めるようにハッとして後を追いかけていた。
「・・・・・・!?」
茜色に染まる廊下の左右を見渡すが、スーツ姿は影も形もない。
最も近くの死角まで約十メートル。どれほど足に自信があろうとも、微かな気配さえ残さずに曲がりきるのは不可能な距離だ。それこそ、ジュエリストでもない限りは。
まるで狐に摘まれたような面持ちで、芽依は灰色の廊下に佇む。
刹那、背後に気配を察した。
足音が男のものでないため、あえて確かめようと思わなかったが、三秒後には”いち早くこの場から去れば良かった”と後悔する羽目になった。
「黒岩さん・・・・・・体の方はもう大丈夫、なの?」
男と入れ替わりに現れたのは宝生ひかりだった。
亜麻色の髪を揺らし、濡れたように輝くライトブラウンの瞳には不安の影が差す。
その心からの気遣いに、芽依は苛立ちすら覚えた。
「・・・・・・私に何か用?」
芽依は半身だけ向け、尖せた眦を送った。
早くも臨戦態勢の芽依に気圧されながらも、ひかりは思いの丈を打ち明けた。
「あのね、美樹ちゃんと由佳ちゃんのことなんだけど・・・・・・二人とも、悪気はなかったみたいなの」
開口一番、ひかりは地雷を踏みつける。
「話しを聞いてみたんだけど・・・・・・ちょっと悪ふざけが過ぎたというか、何というか。その、別に黒岩さんを、って訳じゃなくて、誰でも良かったらしいんだけど、たまたまというか――」
抉る。踏みにじる。どこまでも。
「本人たちもね、今はすっごく反省してるんだ。もう絶対しないって誓ったし、後でちゃんと謝りたいって言ってたから、あの・・・・・・黒岩さんも許してあげて欲しいの」
芽依はぎりりと奥歯を噛みしめた。神経を電動ミキサーで撹拌され、精神の絶叫が喉を震わせた。唇を強く引き結ばなくては、口から何が出てくるか芽依自身にも想像が付かなかった。
血液が沸騰したように、頭の中を真っ赤に染め上げた。
悪意のない、清廉なその顔を引き裂いてやりたくなる。人の善いところを信じてやまないその純粋さを、悪なるもので犯してやりたくなる。
ほんの些細な刺激で決壊しそうな激情を、残された最後の理性で押し留める。
「やっぱクラスみんなで仲良くできたらいいなーって。ね? 黒岩さんもそう思うでしょ?」
引き金はあっさりと引かれた。脳天目掛けて放たれた弾丸によって、最後の薄壁は粉々に打ち砕かれた。
芽依はひかりへ詰め寄った。吐息が掛かりそうな程に近くまで迫り、鬼の形相で睨め付ける。
「あ――」
某か口を開こうとするひかりの胸ぐらを掴み、黙らせた。
「悪ふざけ? 悪気はなかった? 加害者の言うことを真に受けるなんて、どれだけ脳天気なの?」
更に力を込めて引き寄せ、二つの額がぶつかりそうになる。
「死者を・・・・・・私の家族を嗤うなんて絶対に赦さない!」
「・・・・・・え?」
そのとき、強く引かれたシャツのボタンが飛んだ。
ボタンの弾けた拍子で胸元が大きく見開かれた。白い肌と淡いピンクの下着、そして丁度心臓の辺りに、何か意味を持っていそうな形の痣。
鼻先で顔面蒼白になるひかりに気付かないほど、芽依の視線は釘付けになっていた。
(・・・・・・この痣、まさか聖――)
突然、芽依は突き飛ばされた。
その加減知らずの一撃に息が止まり、背後に倒れ込む。運悪く窓際の柱の角に背中、続けて後頭部と打ち据えられた。
「違っ・・・・・・あたし、そんなつもりじゃ・・・・・・!」
ひかりは片手で胸元を覆い隠し、懸命に首を振った。
芽依が痛みを堪えて顔を上げる。見上げた先には、今まで見せたこともない怯え、そして困惑の表情。傷つけたこと、傷つけられたことへの恐怖がまざまざと映し出されていた。
「ゴメン」
小さな呟きだけを残し、ひかりはその場から逃げ出した。
一方の芽依も、後頭部と背中の真新しい痛みを覚えていられないほど混乱していた。
「あの子が――ひかりが、ジュエリスト・・・・・・?」
聖刻の保持者=ジュエリストではない。芽依はそれをよく知っていた。
自分が変身した後、考えたことがあった。自分が選ばれる程度のことであるなら、もっと相応しい別の人間がいるのではないか、と。
考えはした。けれど『その可能性』を頑なに否定し続けて来た。
他の誰だって構いはしない。才能があろうとなかろうと、有害だろうと無害だろうと、どうでもよかった。だが彼女だけは否定した。それだけは皮肉に過ぎるから。
二人を繋ぐ糸は、曖昧だった二人の距離が決定的になったあのとき、完全に切り離したはずだった。
それがまた結ばれようとしていた。『ジュエリスト』という、予想だにしなかった因果によって。
「ふふ・・・・・・」芽依は低く咽を鳴らす「あはは…」
くぐもった笑い声は次第に大きくなり、人気の途絶えた廊下に響いた。
「それがどうしたというの? そんなのは関係ない。私は家族の敵を倒す。立ち塞がるものは誰だろうと叩きのめす。唯それだけのこと」
思えば、朝から色々と最悪な日だった。不幸は不運を呼び寄せるものだと芽依は痛感する。
ならばこそ、せめてこれからの時間はいつも通りでありたいと願った。
芽依は右手の腕時計を眺めた。
「ギリアムと決めた時間まで・・・・・・あと二時間」
陰鬱な気分を祓うには物足りないが、この際は致し方ない。
真っ先に思い付いたのは鳳図書館だった。
何者にも邪魔されることのない、芽依にとってのまほろばだ。
それに、今は独りで暗がりに居るより、光があって見知らぬ誰かが居る場所の方が良かった。
誰もいなくなった家には遺体が帰って来る。せめてその瞬間までは、惨めな現実に寄り添いたくはなかった。
「・・・・・・最悪」
心の声がそのまま漏れるほどの衝撃に、危うく片腕に抱えた本が零れ落ちそうになった。
普段より時間帯が早いせいか、図書館には先客がいた。
芽依の定位置は図書館の中でも端の端、かなり奥まった所におまけで作られたような狭い空間だ。それだけに、知る人ぞ知る『隠れ部屋』のような趣きになっていて、滅多なことでは他人と出くわさない。そう思っていたのが、今は同じ年頃の少女がそこに座していた。
背中まで届く漆のように艶やかな黒髪。背筋を伸ばして椅子に腰掛けたその姿勢は凛としてなお肩肘張ることなくたおやか。静かにページを捲る繊手には、気品さえ感じさせた。
先刻のスーツ姿――カーウェイン=ストレイマンなる男の振る舞いはどこか超然としたものを感じさせたが、こちらは雅な貴人といった風情だ。
芽依は呆然と立ち尽くしていた。予想外の先客もさることながら、これほどまで毛色の違う人間がこんなにも身近に実在することに驚いていた。
あまりにも不躾な視線を送っていたのだろう。相手が顔を上げて芽依の方を窺った。
そこで更に驚いた。顔立ちまでびっくりするほど整っていた。
卵のようにほっそりした顎のラインと、透明感のある柔肌。やや目尻の垂れた瞳は深めの二重瞼も相まってどこかおっとりした印象だ。頭頂から真っ直ぐ下ろされた前髪が、丁度良い塩梅に梳いてあり、ひっそりと覗く眉が上品だった。
身に纏う制服には皺一つない。まさに『深窓の令嬢』という言葉のイメージをそのまま形にしたような少女だった。
「ごめんなさい。ここは貴女の場所でした?」
芽依の心中を察してか、少女が謝罪する。
ずばり言い当てられ、芽依は内心で大いに赤面する。子供のような独占欲が恥ずかしかった。
「いえ。気にしないで」
「そうですか。どうぞ、おかけになって」
その少し低めの声は芽依のイメージから外れたが、芯の強さに既視感を覚えた。
どこかで会ったことがあっただろうか? 何かが頭の片隅で引っ掛かった。
芽依は少女の対角の椅子に腰掛ける。幾ら気になるとはいっても、流石に隣や正面を選ぶほど大胆ではない。
手にした本を開き、ページをめくる。文字を追う。ページをめくる――文脈を見失う――ページを戻る。ページをめくる・・・・・・内容が一向に頭に入って来ない。
先方が気になって集中できないだなんて、図書館の隣人=空気と思っていた芽依には驚きの経験だった。
ふと視線を上げる/視線が交差する。相手も全く同じタイミングでこちらを見ていた。
まるで車のアクセルの踏み込み直後の衝突事故だ。相当に慌てたが、それはあちらも同じだったらしい。
一呼吸置いて、二人で微苦笑を浮かべる。
「ごめんなさい。アナタと何処かで会った気がして・・・・・・」
「奇遇ですわね。あたくしもどこかで――」唇に人差し指/思慮顔「――と思ったのですが、やはり気のせいでしたわ」
少女はやや強引に話題を自己完結させる。
「この図書館は良く利用されますの?」
相当にばつが悪かったのか、早々に次の話題が振られた。
「ええ、ほぼ毎日利用してるわ」
急な転換に面食らいながらも、芽依が率直に答えると少女は感心/関心。大きく頷いた。
「勉学の目的で?」
「半々かしら? 予習・復習が終われば、後は趣味の時間だけど」
「ここの設備は使い易いですか?」
世間話程度の振りかと思いきや、思いの外、質問は途切れない。それどころか、次第に熱を帯びだしていた。
利用時間帯は? 家からの距離は? 景観は? サービスの充足度は? 司書の対応は? 目についた問題は? と、のべつまくなしだ。質問は事細かに、時に過去の問いを別の言い方をして確かめる執拗さは、まるで喋るアンケート用紙といった具合だった。
芽依も端的、かつ的確に答えるものだから、質疑応答は加速の一途を辿り、ついには少女が身を乗り出し、
「あと、お聞きしたいのは――」
・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
今度はちょこんと座り直す。
流石に芽依の鳩が豆鉄砲を喰らったような顔に気づいたらしく、少女は頬を紅潮させながら萎んでいった。
それからコホンと、わざとらしく咳払いまでして、十分な間を取ってから切り出した。
「失礼しました。つい興奮してしまいまして」
(・・・・・・質問で、興奮?)
どうやらその清楚な見た目にそぐわぬ情熱の持ち主らしい。芽依は内心で小首を傾げたが、平静を装った傍から滲む熱意に、言及ははばかれた。
「では最後に一つだけ。この図書館で貴女のお気に入りはございます? 人でも設備でもサービスでも、何でも結構ですわ」
「すべて気に入っているけど・・・・・・そうね。強いて一つ挙げるなら、その席かしら」
芽依は軽く指さす先に、相手の驚愕が見て取れた。
「何故・・・・・・ですの?」
揺らめく黒瞳の奥には、期待と、不安とが入り交じって見えた。
何かに対して熱意を持っている分だけ、真意を聞かされるのが怖いのだろう。だが芽依は愚直に答えるより他にない。相手の望みが見えなければ、叶えようがないのだから。
「例えば、そこは端の窓から中庭が見えるでしょ? 図書館の何処からでも見るけど、ここは光の入り方が他とちょっと違っていて、日中と夕方、それに夜間と全然違う表情を見せるのが割と気に入ってる。眺めていると、気分がリラックスできるみたいね」
芽依の微笑/自慢の玩具を見せるように。
「ここは建物の奥の奥にあるせいか、実は知らない人が多いの。知っていても狭いでしょ? そのせいだと思うのだけど、自分だけの場合も結構あって。それって何だか秘密基地みたいで、特別な場所って感じるわ。
恐らくデッドスペースを活用したせいだと思うけど、狭苦しくならないよう机と椅子はここだけ小振りなものに変えてある。壁掛けの絵とか、緑とか、小物の配置もそう。
この空間は人が入ってから座って、出て行くまで、ずっと心地よくあるよう色々考えられてる。それでいて遊び心を忘れていない。作り手の願いがストレートに伝わる良い造りだと思う。だから、そこが私の定位置・・・・・・まぁ、ただ狭っくるしいのが落ち着く性分っていうだけなのかも知れないけど」
想いの丈を語り終え、目線を戻すと芽依はぎょっとする。
少女が胸に両手を合わせ、瞳に熱いものを溜めていた。
「ごめんなさい、何か気に障ったかしら?」
「・・・・・・いいえ、決して。むしろ逆ですわ。私、とても感動していますの」
「感動?」
自分の評価に何か感傷的な語りが混じっていたか、疑問符を抱える芽依に少女はにっこりと気品ある笑顔を送る。
スカートのポケットから取り出したハンカチでさっと両目を拭い、何事もなかったように振る舞った。何故か、そんなちょっとした所作にも気高さを感じるのだった。
「ああ、ごめんなさい。自己紹介もまだでしたわ。あたくし、聖ユイレール学園二年生、鳳小夜と申します」
「鳳って、まさか・・・・・・」
「はい。この図書館の設立した一族の端くれですわ。あたくし、主にこの図書館の意匠とホスピタリティ面でお手伝いをさせて頂きました。後は一部設計も」
「では、この部屋を考えたのは鳳さん、ということになるのかしら?」
「・・・・・・良く、お分かりになりましたわね」
小夜が目を丸くして驚いたが、言った方がもっと驚いていた。まさか、という意味も混じっていたものだから、臆面もなく肯定されてもにわかに信じ難い。
「当初の図面では倉庫になる予定でしたが、あたくし、直観でもったいないと思いましたの。それで何ができるかアイディアを絞り出して、資料を作って、プレゼンをして、関係者と調整して・・・・・・一部屋形にするだけで散々悩みましたわ。でもその苦労があった分だけ思い入れがあるというか――」口ごもる小夜「先ほど貴女に言って貰えたことが、あたくしの想いそのものだったので・・・・・・その、嬉しかったんです。ああ、ちゃんと判って貰えるんだ、と」
もう驚かされっぱなしだった。この図書館が設立して約一年半。自分と変わらぬ年端の子供が――いや設計段階ならもっと前だ、もしかすると小学生だろうか? そんな年頃から社会人に混じって仕事をしているという事実。
芽依は改めて少女を――鳳小夜を眺めながら、その背後を思い浮かべた。
“鳳”と”御剣”――小桜市の住人でこの二企業を知らない者はいない。市の端から端まで二つの内のどちらか、あるいはその両方と何らかの関係を持っている。
鳳は教育、医療、出版、映像、情報関連の人とメディア関連事業を、御剣は水道、ガス、電気、道路、鉄道、建築などの社会インフラ系事業を国内外で展開している。各々、グループ連結での業績が十兆円を越える巨頭である。
その象徴とも言える建造物が、隣町にあるエストラントセンタービルだ。
地上二二三メートル、小桜市のどこからでも視認可能な超巨大建造物は、その出資総額の七割強を二社で調達してみせた。お陰で市は二社に頭が上がらないという逸話は、小桜市の住民ならしばしば耳にすることだ。
市場だけでなく市政まで影響下におく二大企業の片翼、その創業者一族の人間ともなれば、存在だけでも一目置かれる宿命にある。七海といい、謎の男といい、今日は物珍しい人によくよく縁のある日だ。
「そう言えば、まだお名前を頂戴していませんでした。お伺いしても?」
「黒岩芽依。白月中学二年。同い年みたいね」
「黒岩、芽依・・・・・・良い名前ですわね」
噛み締めるように呟く小夜。その上品な微笑はなるほど、育ちの良さがよく現れていた。
第一印象から何も変わってはいないが、“鳳”という超高付加価値に裏付けされると、印象以上のバイアスが掛かって映る。
とはいえ、驚きを藪から棒に下世話な質問に繋げる気にはなれず、ただ黙って小夜の顔を眺めるしかなかった。
何度見ても可愛らしい顔をしていると思う。芽依は自分の顔付きが鋭い自覚があるだけに、幾分かの羨望も混じって映った。
「・・・・・・あたくしの顔に、何かついていますか?」
突き放すでもなく自然と距離を取るその振る舞いは、他人から注視されることに慣れた人間のそれだ。自分には演じることさえできない完璧な態度。
ふと、それがどこまで混じり気のないものか確かめたくなる。俗だと自覚しながら、芽依はちょっとした悪戯心の許すままにした。
「ええ、目と口と鼻が。ああ、それと眉と耳も」
真顔で答える芽依/微苦笑の小夜。
「それは黒岩さんのお顔にもあるかと思いますが」
「おまけに眼鏡もね」指先で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「眼鏡も体の一部、ということですか?」
「ええ、もう付き合いが長いから。そういえば知ってるかしら? 物は百年使われると魂が宿ると言われるけど、より身体と密接である眼鏡は十年で神経が生まれて触覚を宿すの」
小夜の瞳には理解の灯り。冗談を受けてやろうという意思が伺える。
――計算通り。
「面白い俗説ですわね」「本当よ」
躊躇無く言い切る芽依/確信めいて不動といった雰囲気。
揺らぐ小夜/冗談を受け流すつもりが可能性を模索中。
事実か暗喩か。果たして、眼鏡を長く掛けたことがある者にしか感じ得ない何かがあり得るのだろうか?
そんな馬鹿な、という思いで、小夜は恐る恐る訪ねてみた。
「・・・・・・本当、ですの?」「嘘よ」
再度、躊躇無く言い切る芽依。完全否定。眉一本動かさない。
口を空音で開閉させる小夜。馬鹿が見ると言われたかの如く呆気に取られる。
「そ、そんなの判っていましたわ」「嘘というのは本当よ」「一体どっちですの!?」
ふっ、と芽依の挑発的な笑み。完全にペースを掴んだことを確信。
――すべて計算通り。
「鳳さん、既成概念に捕らわれては駄目よ。常識で考えてみて。物に神経が宿るなんて当たり前じゃない。例えば、アナタが長年愛用している鞄があるとするわ。それを誰かに壊されでもしたら胸が痛むでしょ? もしアナタの家族が愛着をもつ食器を人目の付かないところでアナタが割ったとする。頭が痛くなるでしょ? それは定説の証左に他ならないわ」
「そういえばそう――――い、言えませんわっ! 物でなくたって、ペットでも家族でも失えば胸が痛みます! しかし神経があるのはあくまで人間の方です! しかもそれらしい仰りようでしたが、既成概念に捕らわれないで常識で考えるなんて不可能ですわ!」
小夜の反論。芽依は悲しげな+不屈の意志を込めた表情。
「鳳さん、諦めては駄目。いつだって人類は不可能を可能にしてきたわ」
「あたくしに人類を代表して言語的矛盾を打ち破れと!?」
「他の誰にできるというの? 世界の命運は今、アナタの掌の上でコロコロ転がっているかも知れない。世界を救うのは、アナタしかしないと言い切れなくもないわ」
「世界の命運が何か凄く安っぽく聞こえますわ!」
「他之誰的同様可能無。世界之命運今、汝之手之上於転在予想知無――」「――!! 漢文だとソレっぽく聞こえるのは何故です!?」
小夜はハッと我に返り、息を深く吐き頭を振る。
「ここまで堂々と冗談を言い続けられる方は初めてですわ」
小夜は何かを思い出し、妙なる微笑が消えた。
「それにしても世界の命運とは・・・・・その類の冗談は、この街で起きている怪現象で十分間に合ってます」
独白は窓の外へ投げられた。
窓から差し込む茜色。夕焼けに染まる小夜の横顔には憂いの色。
窓の外を眺めるその眼差しはどこか達観しており、遠く、どこか別の世界に想いを馳せているようでもあった。
芽依は図らずも同意する。小夜と意味合いは違うだろうが、ここ数日は冗談とは何なのか考え直す必要に迫られていた。それだけ不愉快の一言で済まされない事件が多すぎた。
だからこそ、こんな他愛もない言葉遊びを楽しく感じてしまうのだろうか?
「冗談ばかり、ね・・・・・・そんなことがあるわけ無いと思って、今振り返ってみたのだけれど――確かに今日は特別お喋りなのかも知れないわ。多分、二週間分は喋ったと思う」
そんな訳が――と即座のツッコミを入れようとして、ハッと我に返る小夜。
何か罠があると踏んだ学習能力は高いが、決して上手くはない。その証拠に二人の間がすぅっと延びていく。そして今ボールを手にしているのは誰か。
心中で相手の欺瞞を見破ろうと躍起になった小夜だったが、奇妙な間に耐えかね、訝しながら問うた。
「・・・・・・それも何かの比喩ですの?」
「唯の事実よ。これでも普段はとても無口なの。だから出血ウルトラ大サービス中」
「ではあたくし、その特別セール中に出会えて幸運、ということになるのですね」
続く冗談に軽口で応酬して一息つく小夜。
過ぎた勘ぐりが空振り、ほっと胸をなで下ろす――事も芽依の計算通りである。
「ええ、確率にしてツチノコに遭遇するのと同等」「貴女は喋る奇跡ですの!?」小夜の瞳に燃えるような輝き「――いえ、違いますわ。ツチノコは架空の動物。ということはそれも真っ赤な嘘。語るに堕ちるとはこのことですわ! おほ、おほほほほ!」
「これは失言ね。せめてケセランパサランにしておけば後三杯はおかわりできたのに」
「貴女、“失言”の使い方を相当に誤っていますわ! 語弊を通り越して誤謬です。しかも、あたくしをオカズにする企てが先の先の先まで展開されていただなんて・・・・・・なんと破廉恥かつ悪辣な!」
「鳳さん」
「何ですか? いい加減、騙されたりしませんわ!」
「声が大きいわ。もう少し小声で」
「うっ・・・・・・」
これは芽依が正論であることに疑いようがない。小夜は真一文字に口を引き結び、憤然とした気配を押し込める。
初対面の相手には些か不躾だっただろうか? 人と人との見えない境界の線引きは、芽依の最も苦手とする分野だった。普段は鉄壁で遮断して無自覚でいられるから良かったが、適切な距離を作る今も下手くそなままだ。
「ごめんなさい。鳳さんが特別に見えて、ついからかいたくなった。でも、もうしないわ。読書の邪魔もしない。なんならここから出て行くから許して」
口にするなり腰を浮かした芽依を、小夜は手を差し出して止めた。
「あ、いえ! これは違います。決して黒岩さんのせいではありません。自分自身に腹が立っただけなんです。あたくし、昔っから本当に落ち着きのない性格で・・・・・・今はその、自省していたところなんです。
期待に沿えなくて申し訳ありませんが、あたくし本当に特別でもなんでもなくて、唯の小娘なんです。鳳の人間としてもっとしっかりしなくてはと、常日頃心掛けているのですが、これがなかなか・・・・・・」
芽依が小夜の自戒に耳を傾けていると、ずっと引っかかっていた点に気付く。
ちなみに話しとは全く関係無い。制服だ。朝、学校で見たものと同じだった。
着こなしが一八〇度違うからなかなか連想できなかったが、小夜は七海と同じ学校なのだ。しかも同学年でもある。
「一つ聞いていいかしら?」
「何でもどうぞ。真顔で答えられるとよいのですが・・・・・・」
自虐のスパイスが効き過ぎた小夜の渋面。
「鳳さんの知り合いに”七海”という名前の女の子はいる? 七つの海と書いて”ななみ”。私たちと同じ中学二年。身長は一六○後半。スタイルが抜群によくて、褐色の肌に明るめの茶髪、猫みたいに大きな目。多分、普段から制服をかなり着崩していて、とにかく派手だから傍目からでも目立つわ」
「・・・・・・見たことも聞いたこともありませんわ、そんなアバズレ」
ツーンという音が、背後から聞こえて来そうな気がした。
とんでもなく時代錯誤な語彙を発したか思えば、そっぽ向いてこれ以上の会話を拒否。雅な貴人がいきなり小学生に変身したかのような豹変ぶりだ。
どうやら頑なな拒否反応を示す程度には、よくよく知っているらしいのだが、これ以上踏み込むのは、地雷原を目隠ししながら散歩するくらい危険だと確信する。
またも沈黙。空気が一層重くなる。お互いに気まずい状況だったが、幸か不幸か、静寂を分かつように低周波音が響いた。
小夜がスカートのポケットから携帯電話を取り出した。画面をしばし眺め、ため息を一つ。
「申し訳ありません。そろそろお暇のようです」
席を立つ小夜の顔には痛恨の色。反省の直後にあるまじき態度だったと、遅れてやってきた苦みに顔をゆがめる。
何か声を掛けるべきだった。もう二度と会うことはないだろうが、最後くらい笑顔でありたいと思えた。
だが何と言えば? “気にしないで”?、“頑張って”?、“アナタはアナタよ”?
何かが違う。世間で大安売りされている気休めなど、彼女に相応しくない。
既に十分努力しているはずだし、自分の立場に悩める人間は、常に自分の足で立とうとしている。
記憶を遡るうちに、最初に目にした小夜を思い出す。
“凛として気高く”
それが彼女の在りようだった。そして彼女自身の望みでもあるだろう。
誰かに押しつけられたのではなく、彼女がそうあらんと願っている。願い続けている。歩みは今も止まってない。
ならば、伝えるべきことは一つだけだ。
「鳳さん――」小夜を正面にして見上げる「アナタは私にとって価値あるものを――かけがえのない場所を作ってくれた。ありがとう」
小夜は瞼を伏せ、そして力強く頷く。口元には気品漂う笑み。
「そういって貰えるだけで、あたくしは幸せです。今度会えたときはお茶でも如何? 貴女とはもっと色々な話しをしてみたいですわ」
「ええ。いつか――きっと」
芽依は次の約束も、携帯電話の番号も聞かない。
空約束をするつもりはなかった。生きて『次』があるかどうかも判らない。何より、母と弟を殺した犯人を突き止め、裁きを下す。今はそれがすべてだった。
「ごきげんよう」
優雅な去り際と流れる黒髪を見送り、芽依は隣の椅子に隠した二冊目の本を手に取った。タイトルを眺め、僅かに眉根を寄せる。
“実践! 猿でも解る軍隊式格闘術!! ~良い子は真似しちゃいけない一○八の必殺技~”
悪ふざけの過ぎるネーミングにある通り、表紙にはデフォルメされた猿が悪人面の男に技を仕掛ける戯画が描かれていた。中身も大半が演出過剰気味なイラストで一見して俗悪的だが、内容は輪をかけてえげつない。
技巧の解説やポイントはしっかりと記述されているのに、各技に被ダメージが挿入されていたり、技術評価に”超人級”やら”仙人級”と誇大表現が挿入されているせいでまるでギャグだ。
しかも説明の最後には必ず『トモダチには絶対やってはダメ! 君の拳は大切なもの守るためにあるんだ!』とキャラクターに語らせ、責任回避を徹底するところが、ジョークにしてもいやらしい。
穿った見方をすれば、ここまで徹底しないと出版できないような危険な技術書――というのは少々盛り過ぎだが、他の入門書と比較しても分かりやすさが群を抜いているのは確かで、芽依のような初心者向けだった。
それに芽依は格闘技に拘りはない。近接戦のみが趨勢を決めるとは考えていないのと、付け焼き刃の対人間技術が手足のない化物や、高速・遠距離攻撃が予想される対ジュエリスト戦でいかほどのものか未知数だからだ。
だからといって、変な言い訳したり、手をこまねいているのも性に合わない。
それはそれ、これはこれだ。僅かでも可能性が開けるなら徹底する。それが”黒岩芽依”の在り方だ。
その点、気掛かりがあるとすれば、そんなちょっとした工夫を鼻で笑いそうな大蛙がいることくらいだった。
<こちらの世界の人体破壊術か。一流の騎士になるには必要な知識だ。覚えておいて損はないだろう>
闇の中から酷く耳障りな所感が、自然発生雑音くらいに聞こえたときは流石に驚いた。
<意外そうだな。小馬鹿にされるとでも思ったか?>巨大蛙が呵々と笑う。
「否定はしないわ」
芽依の実直な返答に、ギリアムはふんと鼻を鳴らした。
駅にほど近い小桜市中央公園、その奥まった位置にあるベンチで、一人と一匹は目下、情報を共有中だった。
ベンチは立派な楢の木を同心円上に囲んでおり、ギリアムと芽依は対角に背中合わせに座している。
もっとも、ギリアムの姿は闇に溶け込んでおり、変身していない芽依には位置すら定かではない。あくまで『そちらの方から聞こえる気がする』程度だ。
公園の敷地は広いが、街灯は出入口付近を中心に数えるほどしかなく、異形の蛙が闇に紛れるなど造作もない。暗色の表皮が保護色になっているだけでなく、何か特別な技術を使っている気配もあった。
何にせよ、この公園を待ち合わせ場所に指定したのは正解だった。
夜分の利用者も皆無ではないが、目撃されてもせいぜい女子中学生の独り言であって、顔が割れるのを防いでくれる。日常において暗がりは『恐怖』の対象でしかなかったが、近頃は何故か人から見えない方が落ち着くようになっていた。
<確かに、にわか仕込みで決定力とはならンが、精霊力と組み合わせることで開ける可能性がある。俺達、精霊の得意とするところだ>
「可能性・・・・・・例えば?」
<そいつはお前の時間で教えてやる。今は俺の時間だ>
俺の時間/芽依とギリアムの協定第一項。
『芽依は日没後の三時間をギリアムの捜し物に協力し、残りの時間はギリアムが芽依の特訓に協力する』
日中はギリアムが積極的に動けないための時間配分だったが、学校へ通わなくてはならない芽依にとっても悪くない条件だった。
「それで、肝心の捜し物は何? まさか何も教えないまま探せとか言わないでしょうね?」
<ある意味で的確な答えだ>
ギリアムは忌々しげに顔を歪める。
<俺が探しているのは”力の宝珠”と呼ばれれる・・・・・・その、なンだ。一言で言うなら石だ。本質的には少し違うが、そう考えて貰っていい。精霊力が途方もなく長い歳月を掛けて純結晶化した、あちらの世界でもかなり珍しい代物だ。特徴はお前の拳ほどの大きさで、見た目に反してかなり柔らかい。そして最も特異なのが色だ。力の宝珠は、それ自身が発光していて、周囲の環境に反応してその時々で色を変える――だが、今となってはこの情報に殆ど意味がない>
芽依にはギリアムの意図が読めた。最悪の可能性を最初から考慮しなくてはならないという点においても、説明に先回り済みだった。
<力の宝珠は先の通り、混じりけのない精霊力の固まりだ。こちらの世界に来た時点でどういった状態になっているか、正直想像が付かない>
「精霊力はこの世界において極度に不安定なのは知っての通り。“力の宝珠”が精霊力の結晶だとするなら、既に何らかの現象を引き起こして消失した可能性は?」
<恐らくそれはない。“力の宝珠”は精霊界でも七大秘宝に数えられる神秘中の神秘だ。もしこの世界と融合しているなら、誰の目にも明らかな異常事態になってるだろうな>
ギリアムの断言に、芽依は異世界で見たあの大破壊を想起し、内臓が熱くなった。
「もし、宝珠を悪意ある者が使ったら?」
<・・・・・・使いこなせるか判断しかねるが、被害が出るのは確実だな>
別世界の出来事が現実に――いや、それすらも凌駕する災厄がこの街に降りかかる。誰かが誰かを失う。つまり、あの悲劇が繰り返される。
他人事のように説明するギリアムに本気で殺意が沸いたが、彼を非難することは無意味だと、自身に言い聞かせる。
今だからこそ事態の重大性が判るし、同時に平静でいられた。
精霊力の特性と確率論から考察すれば、ギリアムの悠長な態度も理解可能だ。
第一に、力の宝珠が暴発していないという事実。
精霊力の反応速度が刹那よりも短いことは学習済みだった。この街に何も異変がないのであれば、既に何らかの状態で安定下にあると予想できる。
第二に、悪意ある人間が手にする可能性。
普通の人間では精霊力の概念に触れられない。この懸案に関わるのは精霊と、精霊に選ばれた人間――ジュエリストに限定される。
詰まるところ、精霊自身が悪意を持っているか、破壊願望を秘めた人間を選定するような間抜けでなければ問題は起き得ない。現段階の情報を重ね合わせると、利害関係者は十指足らず。確率は低い。
だが、人の安全より敵の殲滅を優先させるジュエリストもいる。それだけは忘れてはならなかった。
<だから問題が起きる前に宝珠を回収し、あちらの世界に持ち帰る。俺の用件はそれだけだ。お前にはその手助けをして貰いたい>
「そう。なら早速探しに行きましょう。五感を外側に向けていれば何か引っ掛かるはず、そうよね?」
<・・・・・・ああ、そうだ。本当は変身を――>「悪目立ちするから街中では使わない。他のジュエリストに察知される行為は最後の手段。前提条件は忘れていないわ」
巨大蛙は肉でくびれが埋もれた首を傾げる。
<・・・・・・やけに物分かりがいいな。もっと質問責めにされるかと思ったが>
「必要に応じてそうするわ。私はまずはやってみてから判断する主義なの」
芽依はうそぶく。実践主義であることに偽りないが、本来は情報を集められるだけ集めた上で着手する。本来ならギリアムは今頃、締め上げられ、絞りカスになっているはずだが、芽依は抱いている疑問を何一つ口にしなかった。
力の宝珠が人間界に存在する原因。
この小桜市が探索範囲である理由。
宝珠を手に入れようとする動機の源泉。
他の精霊やジュエリストを頼れない事情。
この街に発生する異変との因果関係。
知っておくべき要点は山ほどある。
目的は本当に回収だけだろうか? ギリアムが嘘をついていないと、どうして言い切れる? ギリアムが背後にいる誰かの意思で動いていないと、どうやって確かめる?
“加害者の言うことを真に受けるなんて、脳天気以外の何物でもない”
ひかりに突き刺した刃が蘇り、その切っ先は今、自身に向けられていた。
大切なことは目的を達成すること。そして、踊らされないことだ。
ジュエリストの舞い踊る舞台に立つことはできた。だが、与えられた配役は何か知らされてはいない。
光輝く主演にはなれない/なろうとも思わない。
だからといって、間抜けな道化役は絶対に願い下げだった。強烈なライトなんて浴びなくていい。必要なのは真実に至る自由だ。
ならば陰で思いのままに動く黒子、それこそが相応しいかろう。
手始めは、夜が濃くなった街での捜し物。地道なところから始めるのは、芽依の得意とすることろだ。
「さぁ、始めましょう」
結論から言うならば、その晩の探索は失敗した。失敗すべくして失敗した。
よもや一晩で見つかるとは猫の髭先ほども考えていなかったが、全くと言って良いほど感じ取れる”何か”はなかった。
これが探偵物の小説なら、きっと偶然の出会いや発見を引き寄せたはずだ。非現実の極みである魔法使いになったのだから、“事実は小説より奇なり”とばかりの展開が待ち受けているのかと思えば、そこは恨めしいほど現実的だった。某かのヒントすら得られないのだから、ある意味清々しい。
強いて新たな発見を挙げるなら、制服で夜の街を徘徊して補導されやしないか心配したものだが、それがある意味的外れな感覚だという、ちょっとした気付きだろうか。
夜の通りでは――より厳密に言うのであれば、夜の駅前では、制服姿の若者など別に物珍しくともなんともなかった。
ファストフード店やレンタルショップが軒を連ねる通りには溢れかえり、当たり前のように出入りしていた。誰もそれを咎めようなど考えていない。目に映ってさえいないのではないかと思えたほどだ。
だが、よくよく考えれば交遊や徘徊目的でなくとも、部活や学習塾の帰り際に立ち寄ったとすれば自然な流れなのかも知れない。夜間の外出など、図書館との往復しかなかった人間にとって新鮮だったというだけで。
黙々と周り回って三時間。振り出しに戻るということで、最初の公園のベンチに辿り着く。
殆ど休みなしで歩き通すと流石に疲労が溜まっていた。
ベンチに腰掛け、足を前に投げ出すなり両足からじんわり熱い痺れ。無性に咽を潤したい欲求にかられるが、園内に自販機はない。
「・・・・・・一つ、確認していいかしら?」
闇の中へ問い掛ける。すると肌で感じ取る不浄な気配。
触覚とも嗅覚とも言えない、汚水が垂れ流されるような空気感。以前に指摘済みではあるが、本当にネオアンガーが醸すものと良く似ていた。
<何だ?>
「例の捜し物だけど、本当に見つかる見込みがあるの?」
三時間歩き通した所感としては、もっとかつ根源的な問いであった。他に効率的な方法論がないと予期していても、問わずにはいられなかった。
<さあてね。だが何もしなければ何も手に入らない、それだけは確かだ>
「なかなか上手い言いようね。詭弁ではあるけど」
芽依は呆れてものが言えなかった。何かしようとも手に入らないものなどごまんとあるのだ。だからこその情報、だからこその方法論だ。
今は前者が足りない。それも圧倒的にだ。
現状から発見する確率を数式化したら、きっと天文学的なロマンを感じずにはいられない素敵な数値が弾き出されることだろう。
ただ見つかるはずがないと半ば確信しながも、芽依に焦りの色はなかった。
言わずもがな。見つけだすこと、それ自体に義務も罰則もないからだ。
ギリアムの情報提供を考慮すればそれなりの意義はあるが、つまりはその程度だ。
小夜に冗談で言った『世界の命運が云々』といった事態ではないし、そうなっても一女子中学生の手に余るだけだ。
なりふり構わないなら、足で稼ぐ以外の手段がないわけでもない。
ギリアムがそうであるように、他人の協力を得るという方法がある。探査技術に長けた精霊やジュエリストの助力を得る、得られないなら巻き込めばいい。
最悪、他の誰かに見つけさせて強奪するとかいう手法も考えられるが、芽依の主義にも趣味にも反するやり方だった。
<今一つやる気に欠けるようだな>それは事実。
「別に手抜きはしていない」それも事実。
<だが全力という訳でもねぇ>実に的を射た洞察。
「非難される謂われがないわね」実に素っ気ない返答。
<はン? 別に責めちゃいないさ。何せ、こちとら協力して貰っている立場だからな>
芽依は横目に暗がりを覗く。やはり、気配もその輪郭すら掴めなかった。
<そういえば一つ思い出したことがある――>すっと現す歪なシルエット<――俺にはあまり意味がないから、すっかり忘れていたぜ>
ギリアムは芽依の反応を伺うように、いちいち間を空ける。
<『世界を駆ける四界の連玉』に、『愚者を諭す万理の天玉』、そして『暗闇を照らす真実の王玉』。どれも”力の宝珠”の異名だ。その呼び名から知性を高めたり、知識を与える効果があると考えられている。異名なんてものは普通一つあるか無いかだからな。それだけでも例外中の例外なのが判るだろう?>
忘れていた、というのは恐らく虚言。自分の回収目標の情報を忘れるはずもない。状況に応じて相手のモチベーションを上げ下げさせる為の脚本が用意されているのだろう。
「・・・・・・妙な話ね。実在するのに”考えられている”だなんて。まるで使われたことがないみたいな言い回しだけど」
<その通りだ。力の宝珠には《契約者》がいない>
「・・・・・・《契約者》?」
<秘宝はそれ自身が『使わせる相手』を選ぶのさ。相応しいと認められた者だけが真の力を引き出すことができる――と言われているが、まぁ、単に相性ってだけなのかもな。
ただ、秘宝を手にした者が、後に英雄や国王と呼ばれるようになった才覚者であったことは史実だ。精霊は約束という概念を尊ぶからな、そんな秘宝に対して畏敬をもって”契約”と表現するのさ。力の宝珠は存在が確認されて以来、過去に一度たりとも力の顕現がない唯一の秘宝だ>
「矛盾してるわね」芽依は短く切って捨てる。
誰も効果を知らないのに異名が付けられ、秘宝に祭り上げられた遺物を探せと言う。それが真っ赤な偽物の可能性があるにも関わらず、だ。
霞に幻想を描くような眉唾物。それでも雲を掴むような話に惹かれるのなら、それは一縷の望みにすがる愚者か、確かな未来を見通せる賢者だ。
どちらでもなく、人並み。ただ賢くあろうとするだけの人間――芽依は自身をそう評価していた。
芽依は黒縁眼鏡のブリッジを押し上げる。レンズの奥には思案顔。涼やかな表情の内幕では、無数の選択と分岐が構築されていた。
<少しは興味が出たか、うン?>
「そうね。持ち主を選ぶ、という点が興味深いわ。あるいは意思を宿しているというなら、一度話をしてみたいものね」
<意思? 話し? 初めてだな、そんなことを言う奴ぁよ>
「・・・・・・精霊の世界はどうか知らないけど、この世界の命はね、とても弱いの。体も心も。どれほど完全に見えても、どれほど優れた力を持とうとも、およそすべて命が弱さを抱えている。
力の宝珠がこの世界に触れたというなら、そのとき、きっと何かを失った。代わりに何かを得ているでしょうけど、それでもやはり完全ではなくなっている。
今も独りでいるのなら、見知らぬ世界に震えている。寂しくて、不安で、誰かを待ちわびている――だから、私は会話してみたい」
<会話、ねぇ? 随分と詩的だな。それともお前自身の感傷か?>
(感傷・・・・・・?)指摘されて気付く成分/即座に否定
詩的であっても私的ではない。これは唯の一般論からの推測であって、自分は独りを恐れてなどいない。もう誰かの力をあてになどしないし、誰かに助けて欲しいだなんて思っていない。
自分は変わったのだ。ジュエリストとなって、強くなったのだ。
だからそう、助けたいだけだ。強くなったのだから、弱くて、弱いままのその子を、救ってあげたいだけだ。
「少し、気が変わったわ。宝探しは止める」
<は!? おい、協定は――>「迷子捜し」
芽依の即答に、ギリアムの沈黙は長い。
「力の宝珠に帰る家があるなら――探し出して、家まで送り届ける」
やがて、ふぅ、と大きく息を吐くギリアム。
まさか動機付けの情報が、協定の決裂に繋がるとは想定外だったのだろう。
実質的に、芽依の宣言はこれまでとこれからの方針を覆す類のものではない。言うなれば言葉のあやだ。
あるいは感情論とでもいうべき極めて主観的な、極微の差異であって、異世界の住人にその機微は理解されなかった。
芽依自身、動機の根元が同情心であると疑わない。見たこともない、人ですらない、実在するかも疑わしい”モノ”に注ぐ情があるとは自分でも驚きだったが、亡くした想いの代償行為だと納得させた。
このとき、芽依は心の奥底まで辿り着けなかった。
常軌を逸した現実に適用しようとする渦中の自己分析に勤しむ余裕がなかった。
あるいは無意識の内に直視するのを避けたのかも知れない。
ギリアムの指摘の正しさを認め、弱い自分を甘受することを。
心が映し見た幻想を救おうとする意思がどこから来たかを。
本当に救いたいと願ったのは他の誰でもない、自分自身だということを。
胸の内側、もしくは頭の中核と呼ばれる場所で、たゆたう水の様に、静かに泳ぐ魚の様に、知識と知性と知恵とが溶け込んだ広い湖の、深く深く潜った水底で独り微睡む少女は、ひっそりと差し込む光に気付き、うっすらと瞼を開く。
驚きに目を閉じる。ゆっくりと、おっかなびっくりに薄目を開ける。
――美しい。
初めて目にする”世界”に、何かが震えた。
感じる。外側を思う。外側。外と内とに境があると知る。
手を伸ばすが、何にも届かない。掴めない。
否、限界に届いた。自分には長さが、何処までも延びていかない不自由が在ると知る。
それを見る。先に五指が在る。小さな指先。小刻みに動くそれを折り畳む。
温かい。握り拳に熱。腕を伝ってじんわりと胸に染み込む。
鼓動。それは動いていた。胸に手を当ててみるとはっきりした。強く、規則正しく、うるさいくらい賑やか。
ああ、一体何という激しさだろう。この躍動は何処からやって来るのか。
少女は何かに導かれるように、その根源を知りたいと願う。
もう一度手を伸ばしてみるが、ああ、やはり届かない。
光は其処/水底に、確かにあるというのに。
いきたい――そこに、知りたい。
体が前に進む。何かが後ろに延びた。少女は振り返った。足があった。
行きたい――ソコへ、知りたい。
足がざらつく砂を掻いた。手もそれを助けた。這いずって、少女は光を目指した。
生きたい――其処で、生きていたい。
何処からかやって来る鼓動に突き動かされた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
切れ切れとなった息と、口の中に充満する鉄の味。脇腹に刺さるような痛みが走る。
ふらついた弾みで、芽依は地面に片膝を付いた。
森の中は静寂が支配していた。虫の声も獣の気配もないのに、静まらない脈動と耳鳴りが、いつまでもうるさかった。
<どうした? もう終わりか? 俺はいつ切り上げても構わんぞ>
「・・・・・・・・・・・・まだやれる」
芽依は短く答え、立ち上がる。身に纏う決闘装束の黒衣は闇に融けていて、紫の双眸と剥き出しになった白磁の肌が浮かび上がった。
乾いた空気と濃密な闇の満ちたこの森は、芽依が変身後に初めて訪れた場所だった。
探索前にギリアムが話していた『広がる可能性』という触れ込みの検証に訪れ、異形の蛙擬きを傍らに、本で覚えたばかりの技をひたすら繰り出していた。
ギリアムの助言は単純だった。『精霊力の”流れ”を御する』、すべてはこの一言に集約される。
通常、精霊力の流れは閉じた状態の聖刻がせき止めてる。閉じられた”門”を完全に解放すると『決闘装束』と呼ばれる状態であり、局所的に開くのが芽依の裏技である『部分兵装開放』だ。
決闘装束の実体は全身から溢れ出る精霊力であり、ジュエリストはその流れを意識せずに制御している。
例えば、ジャンプする際は下半身に力が入り、上向きの力と共に身体が浮き上がる。
このとき、精霊力の一部が下半身から移動し、消費される。その多寡はジャンプ力を決定付けることになる。ここまではこの世界におけるエネルギー交換の原理と同等の概念だ。問題はその先にあった。
ならば全く飛ぼうとせず、膝すら曲げない状態で、先例と同等の精霊力の流れが生じた場合に何が起こるか。
答えは『同じだけ体が持ち上がる』だ。つまり、ジュエリストはジャンプしなくても飛べる。これがまったく新しい概念だった。
精霊力は肉体の延長として補助的に作用する力ではなく、あくまでそれ自体で世界を変質させる特性を持った存在だという。
手足に力を込めることで、より大きな出力が得られるのは唯の錯覚。肉体の動きに付随して、精霊力の流れが変わったに過ぎないということ。それがギリアムの語る要旨だ。
だが筋力でないなら、一体何が力を移す引き金になるのか? 芽依の疑問に対し、ギリアムは至って真面目に言い放ったものだ。
<だから”願い”だ。さっきからずっと言ってるだろう>
芽依には理解不能だった。全くもって、ちっとも判らない。頭が言語変換に失敗しているとしか思えなかった。
「なら敵を攻撃する際に一体何を願えばいいの? “神様、どうかこの蹴りが敵の脳天に当たりますように”とでも?」
<呵々、いい例えだな。どこぞの間抜けが考えそうな願いだ>
刹那。一つ、二つと続けて繰り出される左右の回し蹴り。
後方から対角となる前面上方へ、柔らかな股関節から流れるような上段回し蹴り(ハイキック)が凄まじい勢いで走った。
重たいデニム様の三層構造スカートが踊る/激しくうねる空気/巻き起こる旋風。
二つの暴風の直撃を受けたのは勿論ギリアムだ。蛙にしては大きすぎる体躯が後ろに一回転と半分。頭部を地面に着けて逆立ちしたらもう大変だ。唯でさえ崩れて奇っ怪な構図だったが、上下を逆転させようものなら、いよいよ認識不能だった。
「そうね、心なし威力が上がった気がするわ。攻撃対象がより明確になった影響かしら?」
<・・・・・・おい、お前さん。これは割と以前から思ってたんだが・・・・・・異世界からの客人に対しての扱いがだな、何だ、割と酷くないか?>悄然とギリアム。
「“招かざる客”――」冷然と芽依。
「覚えておいた方が良い語彙よ。この世界に少しでも滞在するならね」
<ふン、親切にすぎて涙が出るぜ>
「気にしないで、私たちは協力者でしょ?」
<・・・・・・嫌みで言ったんだが?>
「奇遇ね。こちらも唯の皮肉よ」
いつからかだろうか、憎まれ口でのやり取りが互いの流儀となっていたのは?
いや、考えてみれば、友好的であった試しがなかった。ただ出し惜しみしなくなったというだけだ。こんな歪んだコミュニケーションであっても、果たして打ち解けてきたと言えるだろうか?
芽依は小さく首を振って、再び構えを取る。
<繰り返しになるが、目標は第一段階に当たる”力の流れを感じ取れるようになる”だ。無自覚に垂れ流している力を感じ取れるようになるまで、ひたすら動き続けろ>
ギリアムの指示を皮切りに、芽依は心を細く絞り、まるで槍先の如く研ぎ澄ます。
一瞬にして、世界で唯一人となった。
息を止め――体を回し、拳を突き出す。ステップを踏み、蹴りを放つ――息を吐く。
教科書をなぞるように。漢字の書き取りをするように。同じ動き繰り返す。黙々と。延々と。それこそ思考が消えてなくなるまで。
決闘装束は、それを纏う人間の身体能力を別次元に昇華させる。
だが先の通り、決して筋力そのものを強化させている訳ではない。外観こそ強く影響を強く受け、衣服や毛髪、虹彩などが著しく変化しているが、主たる干渉は動的な肉体ではなく、皮膚一枚を隔てた外界に対してだ。
基礎体力はそこまで強化されないため、続けざまに体を動かせば疲労する。
精霊力の作用よって一つ一つの動作に大きな力を使わずに済むが、疲れにくいというだけでやはり疲れは溜まり続ける。
こと持久力に関しては、大いに問題だった。
もとより芽依は体力自慢のタイプではないし、運動部で汗を流す生徒でもない。吉岡夢乃並の潜在能力があれば良かったのだが、望むべくもなかった。
(・・・・・・もっと鍛えないと、独りで戦い抜けない)
漠然とした想いが脳裏をよぎると、薄くなった宵闇に気付く。
いつの間にか黎明が近付いていた。
時間を意識すると、体中に倦怠感が染み込んで来るようだった。
手足がやけに重い。疲労はとっくに限界を通り越していた。頭の方も麻痺していて、霞が掛かっている。
それでも芽依は止めようとしない。何かに取り憑かれたように、さもなければ自らに罰を与えるように、拳を突き出した。
(え、と・・・・・・次は? “やや内角を狙い、抉り込むように”――ではなくて・・・・・・)
何かが違った。ところが幾ら考えても肝心なところが霞がかって思い出せない。だというのに思考が空回っていることだけははっきりとしているのだ。
言葉に言い表せない不自由さに、感情が爆発した。“疲れている”、そう納得すればいいものを、苛立ちにまみれた心がそれを許さなかった。
「絶対に、思い出す・・・・・・!!」
芽依は呟き、その場に座った。落ち葉と小石の上で胡座をかき、目を瞑る。散り散りとなった精神を、再び丁寧に束ね直した。
芽依が『唯一の特技』と自負する技能、“記憶の抽象像化“を展開――
呼び起こされる真っ白な世界――大きな湖とそこに沈んだ記憶の塊――変わらぬ景色。
後は探索のキーとなる記憶を湖へ放り込むだけだった。
ところが芽依は動けない。
誰もいない、自分だけの世界に人がいた。
蒼穹を背景に背を向けるその少女は、素足のまま澄んだ湖の縁に佇んでいた。
黒い髪と白いワンピースの強いコントラストが、視線を掴んで放さない。
「・・・・・・キレイ」
芽依は無意識に賛辞をこぼしていた。
必要な要素を極限まで削ぎ落とした、美しい世界がそこにあった。
殺風景で無味乾燥とした印象はそのままに、ただ欠けていたパズルの最後の一ピースがはまったかのように思えた。
すると、少女が芽依に気付き、ワンピースの裾を翻した。
にわかに、それが誰だか判らなかった。
振り向いたのは他の誰でもない”黒岩芽依”だった。
俯瞰した自己認識を指して訳ではない。創造の世界では逆説的な言い回しになるが、彼女は実在した。
“黒岩芽依”と鏡合わせにしたようにそっくりで、全くの別人がそこにいた。
何故なら、少女の、弾けるようなその笑顔が眩しすぎて/心底愛らしくて、芽依には自分だと認識できなかった。
こんなにも素敵な笑顔を浮かべる人間が、黒岩芽依であるはずがなかった。
「芽依!」
少女が胸に飛び込んで来た。同じ背丈の、同じ重さの人間に抱きつかれ、芽依はたたらを踏んでしまう。
「やっと逢えた。ずっと逢いたかった・・・・・・!」
宝石のように瞳を輝かせる少女。
やはり、とても信じられなかった。こんな無邪気な自分というものが。
突然の出来事に、芽依はただただ唖然としてしまう。
「・・・・・・芽依? どうしたの?」
少女の顔が陰る。その憂いの表情は、純然とした思いやりで満ちていた。
芽依は自問せざるを得なかった。
果たして、過去にこんな顔をしたことがあっただろうか? 教室は言うまでもなく、家の中ですら、こんなにも誰かを思いやったことがあったのだろうか? 家族の死も悼めない薄情なこの自分が、こんなにも――
「芽依?」
<メイ!>
――こんなにも、醜い物体がこの世に存在するのだろうか?
眼前も眼前、比喩でなく本当に目と鼻の先――距離にして十センチメートル弱の位置に、黒紫と黄土がまだら模様を為してぬらぬら光る表皮と抽象画を思わせる配置の器官で悪夢を拡散中の巨大蛙の顔面があった。
<おい、しっかりしろ! メイ!>
ぺちぺちと頬を叩いてくる水掻き付きの前脚。そして鼻腔を刺激する水性生物特有の生臭さ。
無意識に、芽依の左手が動いていた。
まるで視界を飛び回る小虫を払うが如く、眼前の物体を凪払った。
ぎゃ、と小さな呻きが遠くなって消えた。肩に取り付いた呪縛が消え、ようやく心に平穏が戻る。
“記憶の抽象像化“を強制解除されたせいか、前後の記憶が散乱していた。それとも単に脳が休眠に入っていたのだろうか? 何だかふわふわして、現実との境界があやふやだった。
彷徨った焦点を意思の力でどうにか絞り込む。
そこには数時間前と変わらぬ巨大蛙の逆像があった。
「よくそんな体勢で寝れるわね。風邪引くわよ。・・・・・・そういえば、精霊は風邪なんて患うのかしら?」
よもや自分の所業とは露知らず、ギリアムは何時間もずっと同じ格好でいる内に眠りこけてしまったものと、芽依は都合良く解釈していた。
だらしなく舌を伸ばしたギリアムの姿を眺めていると、今日のところは潮時かと思えた。
薄らいだ闇と寝静まった森に立ちこめる霧。
朝露に湿る空気に、夜明けの気配を感じた。
日が差し込むまであまり時間がない。今ならまだ、残された闇に紛れ、この姿のまま帰宅できそうだ。
「ギリアム、今日はこの辺りで切り上げるわ」
芽依は一言とギリアムを残し、山を後にした。
ピリリリリリ――――
真っ暗な部屋に鳴り響く電子音。
滅多に鳴ることのない音が、その日は立て続けに三度響いた。
一人目。福祉課の担当職員から。
「こんにちは。わたくし、小桜市児童福祉課の米倉と申しますが、黒岩さんのお宅でしょうか? ――ええ、はい。黒岩芽依さん、でしょうか? あ――はい。この度はご家族を亡くされたこと、お悔やみ申し上げます。ええ、それでですね、本日お電話差し上げたのは、今後の事でですね、一度直接お会いしてご相談させて頂きたいと考えておりまして――ええ。はい。そうです――ええ。はい。それでは、明日の、五時頃――ですね。では、ご自宅の方へお伺いさせて頂きます。はい、それでは」
二人目。警察の職員から。
「あー、小桜警察署の者ですが、黒岩さんのご自宅でしょうか? ――はい。あー、黒岩芽依さんですか? 先日、病院で幾つか質問させて頂いた斉藤ですが、覚えてますかね? ――ええ、お電話したのはですね。その、病院の方から連絡がありまして――ええ、そうです。ご遺体の引き渡しが可能になったようなので、どうするか確認させて頂きたくてですね――――はい。 ――ええ、はい。ああ、それは役所の方でも可能ですが――あ、はい、そうですか――――ええ。分かりました。ではそのように手配しますんで、よろしくお願いします。それでは、失礼します」
三人目。親戚を名乗る女から。
「――あ、やっと掴まった。ホント、幸さんと同じで自由ね。ああ、ごめんなさい。唯の独り言だから。気にしないで。 ・・・・・・ええっと、あたしはアナタのお母さんの従姉妹にあたる大島千冬っていう者なんだけど・・・・・・ご存じ? ――あ、まぁいいわ。そんなことだろうと思ったし。 ――え、用件? あ。そうそう。話はそっちよね。なんか幸さん事故で亡くなったんですって? 警察の人から聞かされたわ・・・・・・聞きたくもなかったけどね。 ――ええ。それで身元引き受け人を探してるって言うでしょ? だから今、親戚筋集めて会議中なんだけど――はぁ、全くいい迷惑よね。十年以上音沙汰なくて、連絡寄越したと思ったら本人死んでますって、どんな冗談よ。 ――ああ、ごめんなさい。これも唯の独り言よ。 ――ん? ああ、そういうことね。飲み込みが早くて助かるわ。 ――と、言ってもねぇ? まだこちらも相談中だから、どうなるか判らないんだけど。とりあえず本人の意思を確認した方がいいかと思ったのよ。ほら、本人の希望は尊重したいじゃない? そちらの生活もあるでしょうし、こっちの親戚筋はみんな東北の田舎だからねぇ? 嫌だって言われるかと思ってね。誰だって寒いの嫌でしょ? ――ええ。――ええ。まぁ、そういうことなら。じゃあ、決まったら電話して頂戴。番号はxxx-xx-xxxxxx。よろしく。それじゃ」
「“施設行き”と”遠縁行き”が選べるんですって、ありがたいことね」
最後の電話を終え受話器下ろすなり、薄い唇からほろり皮肉が零れ出す。
<何だ? 言うほど感謝していないみてぇだな?>
ダイニングの椅子に腰掛けた巨大蛙が、水泳用に進化した長すぎる足を組んで気取っていた。
そんな珍奇な蛙は世界に一匹しか存在しない。言わずもがな、精霊ギリアムである。
昨晩は気絶したままのギリアムを放置&帰宅したのだが、芽依が寝ている間にアパートへ忍び込んだらしく、今も当然のようにそこに座って、芽依が出したコーヒーを啜っている。
ちなみに、コーヒーは好意からでなく、寝起きに顔を合わせるなり”何か飲み物をよこせ!“と煩いからインスタントを出したまでだ。
目覚ましには厳しすぎるビジュアルを見せられた、芽依なりの意趣返しだった。あるいはカフェインに毒性でもないか淡い期待を寄せたのだが、果たして両生類には効果がなかった。それどころか、ブラックの苦みに不満を漏らすこともない。相変わらず精霊の生態は謎のままだった。
「感謝、ね・・・・・・有り難迷惑だと思うのは不遜かしら?」
ギリアムはなだらかな肩を竦めるだけだった。精霊にはまさしく別世界の事情なのだろう。
心慮も何もあったものではないが、その無関心ぶりがちょうど良い。もし、憐れまれたり諭されでもしたら、それはこれまでの自分が否定されるのと同義だ。
それに、芽依には言うだけの根拠がある。
今まで勉学と家事、そして勤労をこなしてきた。現実を受け入れる分別があり、孤独も孤立も恐れず、他人に依存しない。いつだってその場で必要とされる行動がとれるし、心許ないが預貯金だってある。
現状、日々の暮らしを営むのに必要な要素がそれ以上見あたらず、自分の観念に揺るがすものはない。そう考えているからこその発言だった――はずだ。
瞬間、吹き抜けるすきま風。
後に残るは一抹の虚しさ、そして胸に穿たれた痕。
意識し得なかった虚無、それに気付いた。
いや、気付いてしまった。
意識するなり空洞は侵食し、詰まっていたものを片っ端から容赦なく喰らう。
確信とか自信とか、そこに在ったはずのものがあっという間に消えた。
(な、ん・・・・・・で?)
理解不能な不意打ちに、恐慌が起こる。
――大変だ! このままでは空っぽになってしまう!
――大変だ! 何で構わないから早く埋めなくては!
実際、大騒ぎしたのはほんの数秒で、不幸なことに、胸の空洞はすぐに埋まった。
何処からともなく這い出た黒い感情が、瞬く間に虚無を満たした。
そして、芽依は変身衝動に支配される。
“自分を変えたい”、“生まれ変わりたい”という変革願望ではなく、純粋な力への渇望だ。
解放する――闇を纏い、夜空を駆け、不自由な現実から解き放つ。
破壊する――この不条理で、不愉快な現実を、片っ端からぶち壊す。
“何もかも消してしまえ”と、耳元で何かが囁いた。
「ギリアム、変身するわ」
<何だ? 唐突に――>「変身よッ!」
芽依の怒号がギリアムの問いを吹き飛ばした。
これが何の意図もない、衝動的な要求だと露見すれば、『情緒不安定な子供』のレッテルを張られていたことだろう。ところが事態は逆だった。
次の瞬間、一人と一匹は莫大な精霊力の発生を捉える。
東の方角。かなり遠い位置に点在する何か。判るのはやたら数が多く、ぼんやりと知覚するものを合わせると数十はくだらない。間違いなくあの異世界の出現だった。
<《異世界》の出現を予知したってことか・・・・・・一体どうやった?>
「別に。何となくよ」
芽依はからがら平素通りの=温度のない、適当な回答で真実を覆う。我ながらよくぞ、といった感だった。
感情の暴発によって、心の汚濁は幾分か抜けていた。そこで冷静さを失っている自分に気付くが、そんな偶発的間隙などすぐに埋もれてしまった。
不意に訪れた舞台開演の鐘に、心がはやる。思慮とか熟考なんてものは後回しのすっ飛ばしで、小躍りを始めていた。
危険な兆候だと実感しながら、力へ惹かれていく感情を止められない。
(そうだ。自分はジュエリストだ。人間を越えた超人だ。次元違いの性能を持った怪物だ。何を躊躇する。誰に止められる。
目標はあの金色のジュエリストだ。接触して情報を引き出そう。交渉する余地がなければ追跡して生身の所を抑えればいい。後は――)
――後は、あの子が本当にジュエリストなのか確かめる。
何はなくとも、それだけは避けては通れない。運命論なんて信じていないが、ある種の確信がある。『宝生ひかり』と『黒岩芽依』はそういう因果で結び付けられている。
宝生ひかりと同じ舞台に立つ。その状況を思い巡らせるだけで嗤いを誘った。
運命がとことん嘲笑うならば、こちらも一つ嗤い返してやろうという、狂った感性の産物だった。
芽依の微笑に不吉なものを感じ取り、ギリアムは胡乱げに問うた。
<おい・・・・・・今更なんだが、一つ確認しておくぞ>
「・・・・・・何?」
<お前、まさか他のジュエリストとやり合おうだなんて、考えていないだろうな?>
「必要があれば、そうするわ」
芽依は言って退ける。ギリアムは目を丸くし、そんな馬鹿なことがあるか!と言葉よりも如実に訴えた。
<止めておけ。ジュエリスト同士の戦いになればお前は勝てない。絶対にだ>
「別に全員と正面から馬鹿正直に戦いを挑むとは言ってないわ。それとも、誘い込んでからの一対一でもどうにもならないほど、私と、彼女達との能力差は絶望的?」
<そいつは・・・・・・>
断定口調だった割に、ギリアムは言い淀んだ。芽依はまたぞろ駆け引きかと思ったが、本当に伝えにくそうな雰囲気だ。
その理由は大いに気になるところだが、今は知っていようがいまいが関係ない。勝ち負けを競うスポーツではないし、倒すことが目的ではないのだから。情報さえ引き出せればそれでいい。
「理由は後で聞くわ。それより変身よ、手を貸して」
芽依の強い意思に後押しされ、ギリアムは躊躇いがちに手を差し出すのだが、余りにも気乗りしないその様子に、流石の芽依も訝しがった。
「他に気懸かりでも?」
<お前はあの異空間に関してどれくらい知っている? 今回のは何か違和感を覚えないか?>
実のところ、ギリアムに言われる前から芽依には幾つかの気付きがあった。
件の異空間――《異世界》を初めて知ったのはほんの二ヶ月前、夏休みの終わりだ。それから三度ほど中に入り込んだが、常に夜間だった。時間も場所もばらばらだったが、とにかく日没後だった。
もう一点、明確な違いがある。発生個数の多さだ。
前回発生時の全容は不明だが、前々回が駅周辺を丸ごと覆うサイズが一つ。それより前はもっと小規模なものが一つだけ。統計と呼ぶには頼りないが、同時発生は前例がなかった。
<以前、俺達が出会ったときに現れた怪物を覚えているか? あれは邪神官の一人、《怨恨》のロー・デルヌスだ。またアイツか、さもなければ他の邪神官が来るかも知れん>
「邪神官? 聞いていないわね」
“聞いていない”――というか、正味すっかり忘れていた。
あの異空間には外敵がいる。『グール』、『ネオアンガー』、そして両者を超越する何か。それを今更のように思い出していた。
遠方で瞬間的に姿を現した正体不明より、直後に起きた事件の方が遙かに衝撃的で、とてもではないが振り返る余裕など――
いや、あの瞬間を顧みる気がなかった。どれだけ時間があろうと、目を向けていられない。少なくとも今は直視できない。
本当の意味で、芽依にはギリアムを責める資格などなかった。
<単に優先度の問題だ。俺達に邪神官を倒す義務はない。アレはあちらの問題だからな。捨て置けばいいさ>
「? その邪神官を倒すのがジュエリストの使命、という訳ではないの?」
<そうだとも言えるし、そうでないとも言える。ことお前に関してはな>
「・・・・・・」
<どちらにせよ、今回は異世界に近付くな。他のジュエリストの突入を確認したら、こちらは捜し物の再開だ。今なら変身したお前が全力を出しても、彼女達に気取られない>
まったく訳がわからなかった。ギリアムは本気で手出しさせる気がないようだ。
邪神官の危険性がネオアンガーとは比較にならない点に関しては暗に認めていたが、だからといって放置する理由にはならない
それとも拙い連携や、意志疎通前の共闘意識など持つな、という意味だろうか?
いずれにしろ、芽依に唯々諾々と従う選択肢はなかった。優先度はあくまで『家族殺しの犯人探し』の方が高く、ぷらぷら散歩するテンションでもなかった。
「異世界の外に宝珠はある、と決めるのはまだ早い。異世界の発生条件に”力の宝珠”が関係している可能性は残されている」
<・・・・・・>
この問いに、ギリアムは否定も肯定もできないはずだ。
“この街に存在するらしい”、などという不確定情報が前提である以上、否定するにも一度は探してみなければならないだろう。
また、そうでなくては話の前提が崩壊する。ギリアムの意図をはかる上でも、踏み絵にするにはもってこいだ。
芽依にしても、あながち強弁でもなかった。ギリアムがこの街にやって来た時期と、この街に異変が起き始めたのが同時期という事実から、両者には何らかの因果関係があると推察していた。
例えば、件の『邪神官』なる存在が『力の宝珠』を使ってこの街に異世界を発生させている、という脚本は誰でも思いつく。筋としては通りやすいし、害悪を打倒せんとするジュエリストの立場もより明確だ。ただし――
この悪意に満ちた世界が、それほど単純ではあるとも思えなかったが。
ギリアムは芽依の提案を暫し吟味し、
<ジュエリストと邪神官、奴らには手を出すなよ。絶対にな>
渋々と芽依の手を掴んだ。
黒衣を向かい風に踊らせ、芽依は夕闇の中を駆ける/跳ねる。
事件現場に辿り着くまで、ものの数分と掛からない。移動時間の短さは芽依の成長の証だったが、同時にギリアムの『悪い予感』を裏付けるものでもあった。
「大きい・・・・・・」不安が囁きとなって漏れた。
小桜市の北東部に現れた異空間は、大小合わせて三十三個にものぼった。
半分ほどが石鹸の泡のように地表付近を半球状に包み、もう半分が真球として空に散在している。
夕焼けの橙を写した巨泡が、視界を埋めていた。その大きさはまちまちであったが、端から端まで合わせると小桜市の一割はカバーしているだろうか? これまでに見たこともないとんでもない規模の物体に、距離感がおかしくなる。
「・・・・・・さて、何処から手を付ける?」
その自問は、先日の闇雲な探索とはまた違った途方もなさから生まれたものだ。
洒落ではないが、一つ一つ虱潰したら”日が暮れる”どころか、夜が明けてしまう。
<馬鹿野郎、ま、まずは状、況、確認・・・・・・だ。他の、ジュ、エリスト、の、動向、はどう、なって――・・・・・・おぃ、丁、重に、運べ、と言った、ろう。馬鹿野郎>
背中から、暴言だけは滑らかな助言が届いた。
背に担いだデイバッグの中で早くも青色吐息/辛くもキラキラ液をせき止めるギリアムだった。
彼は必死に耐えていた。単独先行しようとする芽依を諫め、帯同に漕ぎ着けるところまでは思惑通りだったが、如何せん芽依から提示された”一滴でも漏らした瞬間にバッグ(=ギリアム)を廃棄する”という条件を飲んだのは、早計だったと言わざるを得ない。
どんな状況であっても容赦ない少女であると身に染みているだけに必死だった。
他方、芽依は芽依でより重大なことに気を取られ、ギリアムの涙ぐましい――というか半泣きの努力に見向きもしない。
(昨日は力の流れが全く掴めなかった・・・・・・けど、やるしかない・・・・・・!!)
両手を広げ、どうにも感じ得ない精霊力という謎の力へ神経を注いだ。
矛盾を実感しながら、それでも力の流れが掴めそうな、それっぽい構え(ポーズ)を実践してみる。
精神を束ね、こよりの如く絞った。
視力が強化された双眸には、茜色が急速に細り、暗闇に染まっていく無数の巨泡がはっきりと映った。鼓膜から、皮膚から、生身では知覚不能な微細情報が、洪水の如く入り込んで来る。
昨晩と全く同じだ。何かを感じ取ろうと意識すると、どうしても使い慣れた感覚器の伝えてくる情報が優先されてしまう。
例えるなら受信感度が良すぎて雑音の聞こえないラジオ――そんなイメージだ。
そこまでは既に理解しているのだ。ギリアムの『体を動かし続けろ』という指示は、要するに体を酷使することで五感を減退させることにあるのだろう。
そうすることで、新たな感覚の覚醒を促そうとした――が、結局、何も掴めなかった。
芽依は直感的に、『精霊力の知覚』は反復訓練によって習得する類のものではないと予測していた。
決闘装束が自律して作用する以上、呼吸するのと同じ事だ。普段は意識しないが、切っ掛けさえあれば『息をしている事実』に辿り着ける――はずなのだが、問題は方法論だ。どうすればいいか、最初の一歩すら踏み出せていなかった。
(意識をより内側に向けるべき? それとも集中力が足りない? あるいはギリアムの言う通り”願い”を込めるか――)
沈黙。
チラリ、芽依は足下を覗き見た。ギリアムが視線に気付き見上げると、沈めた視線は元の位置に戻されていた。
ふぅ、と溜め息にも似た長い吐息。あるいは葛藤の排気/廃棄。
“卑小な体裁などゴミ箱にでも捨てておけ”と、自身を叱咤し、広げていた両手をたたんで胸の前で組み合わせた。
(あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。あの金色のジュエリストが見つかりますように。見つかりますように――――)
たっぷりと、そして、ひたすら願った。
ギリアムの言葉は半信半疑だったが、自分の可能性というやつを信じた。願いは叶うもの、祈りは通じるものだと。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
<・・・・・・・・・・・・・・・>
再沈黙。
<何してんだお前・・・・・・うン? まさかとは思うが――>
刹那――そう刹那だった。一秒の何十分の一かの間に、芽依は『記憶の抽象像化』の世界へ一時逃避していた。
まさに危機一髪! 惨事は芽依の英断によって回避された。
仮に、万が一にでも、巨大蛙の頬が釣り上がる様を目撃したとしよう。それを地面ごと踏み抜き、大地と一体化させるまでコンマ一秒は掛かるまい。
至極正当ではあるが不快極まる刑罰を下さずに済んだ。お互い幸運だったと、胸を撫で下ろす思いであったが、厄介なことに、所詮はこの場も一時凌ぎにすぎない。
これから始まる惨劇/喜劇を如何にして回避するか、そんな価値の乏しい思案を始めた直後だった。
「芽依、どうしたの? いきなりいなくなって! 凄く、心配したんだよ・・・・・・?」
――!?
背後からの声に、芽依は驚いて振り返った。
苦笑いを浮かべた黒岩芽依/白いワンピースに素足/自分と同じ顔の黒岩芽依。
自分の頭の中に他人が住み着いている違和感/驚愕に襲われ、脈動がこめかみを強く打ち付けた。
「あなたは誰? 何故、此処にいるの?」純粋な問い。
「私は貴女――なんて言う言葉遊びは嫌い?」不純な答え。
何故か強く出られず、口ごもる芽依。
「答えになっていない答えは、好きじゃない」
「そう・・・・・・そう、なんだよね! 芽依は、そういうまどろっこしいのが苦手で、好きじゃない。ううん、むしろ嫌い。大嫌い。白か黒かはっきりしないのは」少女の悲しげな微笑。
「だって、曖昧だと、どうしたらいいか判らないから。近付いてもいいのか、それとも離れた方が良いのか、ちゃんと言葉にして伝えてくれないと判んないから。それを間違えると、とても悲しいことになって、苦しい気持ちになる。だから――」
随分と知ったような口振りだ。まるで長い間、芽依と共に過ごしてきたような、そんな実感が込められていた。
「――ちゃんと答える。芽依はきっと怒ると思うけど、でも怒らないで聞いて欲しい。それでも納得なんて全然できないって判ってるけど・・・・・・アタシの答えはね――“判らない”」
「・・・・・・判らない?」
「そう、判らない。判っているのは、アタシは『黒岩芽依』だけど、アナタじゃないってこと。アタシは芽依のことを何でも知ってるけど、アタシだけのことはちっとも判らない。アタシの全部は芽依だけど、全部芽依から貰ったものだけど、それでもやっぱりアタシはアナタじゃない。それだけが確かなこと」
「意味が分からない」
事前に置かれた布石のおかげか、謎掛けのような回答にも嘆息一つで済んだ。
どうやら変身状態でこの世界に入り込むと不思議な出会いがある、それだけは確かなようだ。
「いいわ。ならアナタが誰かということは問わない。もう一つの質問に答えて。何故、此処にいるの? アナタが私じゃないのなら、此処にいるのはおかしいわ。だって此処は私が創った、私の為の、私だけの世界なのよ?」
「それも”判らない”。気付いたときにはこの世界にいたんだもの。アタシはアタシの始まりを知らない。それは芽依が芽依の始まりを知らないのと同じこと」
決してレトリックが嫌いではない芽依だが、あくまで詩の世界や思考実験としてだ。会話で使われたら分かり難いことこの上なかった。
そんな芽依の心中を察してか、少女は謎掛けのような振返りを続ける。
「始まりは判らない。けど、アタシが何処にいたのかは知ってる」
少女はこの真っ白な世界に、唯一つだけ存在する場所を指さした。
「私はあの中にいた。そして、今は此処にいる」そう言って胸に手を当てた。
芽依は眉をひそめた。我ながら不可解な話だ。この湖は『記憶の象徴』、周囲に広がる真っ白な世界は『自分という枠』の象徴。それ以上でもそれ以下でもない。まして別人格を育むような代物ではない。自分の創り上げた世界なのだから、それで間違いない――はずだ。
本当に記憶の中にいたのなら、『黒岩芽依』を良く知っている理由にはなるが、そもそも何故、別人が入り込んでいるのか?
芽依が漠然と抱いた仮説は精神疾患――母と同じ、心の病。
引き金は家族の不条理な死。弾丸はこれまでの社会的ストレス。許容範囲だと思っていた暮らしは、いつの間にか自分を瀕死に追いやり、乖離性同一性障害――俗に言う『多重人格』を発症し、芽吹いた人格がこの少女だと言えないだろうか?
認めたくはない。だが、それなら一応の理由になる気がした。自分が作り上げた世界に、自分と同じだが自分ではない存在が許される理由に。
芽依は少女を正面に見据えた。
こんなにも穢れない表情が病から生まれたかと思うと、何とも皮肉な話ではないか。自分より余程好かれ、本物以上に本物らしく振る舞うだろうに――
(・・・・・・本物以上に本物?)
そうやって可能性の考察している最中だった。ふと衝撃的事実が掠め、
(まさか、そんなことって・・・・・・!)
『黒岩芽依』を根本から揺るがしかねない可能性に撃ち抜かれた。
始まりは”何のために異なる人格が生まれたのか”という問い。
一般論では心を守るための”身代わり(アバター)“だとされているが、この場合は何の身代わりだろうか? 社会を拒絶し、社会から拒絶された現実を乗り越えるために捧げられる贖罪の羊? いいや、違う。芽依は苦難や困難を誰に代わって貰おうだなんて、まったく考えなかったのだから。
更に踏み込んで仮定してみる。
これまでの孤独で、先の見えない、混沌とした状況において、『柔らかで穏やかな心』と『茨にまみれても揺るがぬ鋼の心』、どちらが相応しいだろうか。
どこにも変わって貰う理由はないが、代理が必要な場合とは何か。
こんなとき芽依は決まって自分が嫌になる。歪んでいるとさえ思う。物事を疑ってかかるのは性分なのだ。
感情の反対側に立ち、相対する観点から考察することで隠された真実を削り出し、得られる充足感。真理/心裏に一歩近付くことでしか得られぬ優越感。
単純に言えば快感――でなければ自己愛と換言しても間違いではない。
感情は初めにこの少女が『代理人格』であると理解した。当然だ。自分は黒岩芽依の主人で、黒岩芽依という世界の唯一にして無二の神であり、それ以外は他人なのだから。どちらが主で、どちらが従であるかなんて、いちいち考えたりしない。
一方で、反対側からは何が見えるだろうか。
この少女から見た黒岩芽依は、家族の突然死という不条理を、独りで粛々と受け入れる、尋常ではない、異常と言っても過言ではない適応力の持ち主だろう。
それは、そういう目的で――つまり、『あらゆる苦境に立ち向かう』ことを目的にした”黒岩芽依”なのではないか。この純真な少女を守るため生まれ落とされ、それを無自覚のまま今日の今日まで生きてきた代理人格――それが”私”という黒岩芽依の本質であるという可能性に気付いてしまった。
「笑えない冗談ね・・・・・・」
だからといって、今更どうなる訳でもなかった。とてもではないが、芽依は嘆く気になれない。あくまで可能性は可能性でしかなく、仮に正鵠を射ていようと、この仮説が真実なら”私”という対悲劇に特化した人間は悲嘆しえない。極論、誰も自分の証明なんてしようないではないか。
(今はやるべきことをやれば、それでいい。すべては終わらせてからの話だ)
厳めしい表情の芽依に、少女はなにやら不思議そうな顔を見せた。
「芽依、アタシも質問していい?」
「・・・・・・何?」
「何でそんな格好してるの? 私の知ってる芽依の趣味とは、少しズレてる気がするんだけど・・・・・・」
これで一体何度目だろうか? 言われて初めて気付く事態というやつは。
はっとして頬に手を当てる。眼鏡がなかった。代わりにフェイスヴェールの艶やかな感触。
視線を下に――デュエルドレスの黒衣――相変わらず肌の露出が激しいスキニーなノースリーブに三層構造スカート。
確かにカジュアルな服装しか持っていない芽依の趣味とはかけ離れていたが、それを何故か問われると答えに窮する。
『デュエルドレス=願望の現れ』というのはギリアムの言だが、未だ信じていないので一応の理由にもしたくない。
「不可抗力よ。精霊力を自在に制御できるようになれば、すぐにでも変更するわ」
「精霊力の制御?」
芽依の説明は更なる謎を呼んだようだが、一から説明している時間はなかった。
現実は時計の針を止めていない。今この瞬間にも意識が引き戻される可能性すらあった。
現実に戻ったところで問題解決の糸口さえ見当たらないが、“宝探し”へ完全にシフトさせないよう、適当に取り繕うしかあるまい。
そんな算段を整えた頃合いだった。
「できるよ、芽依なら。ううん、もうできてる」
少女は平然と言い放つ。
「応用だって難しくない。コツ、教えてあげようか?」
芽依は驚きに目を見張る。
ニィと、少女の小悪魔的微笑。まるで誰かの母親みたいな顔だった。
「その代わりお願いがあるの。聞いてくれる?」
<おい、こら! 都合が悪くなったからって急に無視すんじゃねぇよ!!>
芽依の足下では、ギリアムがぴょこぴょん(×二)跳ねながら、がぁがぁ騒いでいた。
それでも半径一メートル以内に近寄ろうとしなかったのは、昨晩の手痛い教訓だった。
「・・・・・・何?」
急に返答を寄越した芽依に、ギリアムは勢い仰け反る。
<何って、お前・・・・・・だからよ、精霊力の流れが掴めるようになったのかって――>「できるわ。当然」
芽依は瞳を閉じ、巨大な泡の如き異空間を指さす。
そして、感覚を閉ざしながら広げた。
「大きな、熱いヘドロみたいな気色悪い気配が動いてる。距離・・・・・・約三キロ。なるほど、こいつが邪神官ね。それともう一つ別の力、それを取り巻くように――かなり早い・・・・・・! この澄んだ水のような感じ、ジュエリスト?」
磁石にひきよせられるようにして、指先が背後を指す。
「八時の方角から異空間に向かう気配が三つ。この似たよう感じは・・・・・・やはりジュエリストみたいね。察するにメンバーの誰かが先行し、それを追いかけてる最中、といったところかしら?」
<はン? そこまで判れば上等だな。 ・・・・・・それにしてもお前、《探索》なんていつの間に習得した。基本とは言え法術だぞ?>
――今さっき。
などと馬鹿正直な返答をしたら本当に馬鹿だ。
「最初から使えてた。ただ使えることを知らなかった。それだけよ」
聞いた科白を右から左へ流すだけ。何の捻りもないが構わないだろう。協力関係に必要なものは”信用”と”成果”だ。
<・・・・・・あン? 意味が分からん。最初から、だと? どういう――>「どうでもいいことよ、そんなことは。それより、この状況で迷子捜しができるかだけど」
<おいおい・・・・・・お前、本当にどうしちまったンだ? 俺の提案なんぞ軽く無視されるものと思ってたンだが>
「それは心外。助言には耳を傾けるわ」
実に心無い抗弁だった。だが、それだけに真意は見えにくい。
<・・・・・・まぁ、そういうことにしておく。後はやり方だがな――>「《隠蔽》で気配を殺しつつ、戦闘領域外から《探索》で特異な気配を探す。そのついでにジュエリストや邪神官の動きも追跡もしておく。今後の戦術の参考になるだろうから。運が良ければ彼女達の顔を拝めるかも知れないわね」
グェ、と咽を鳴らすギリアム。両者の目的を同時進行させる名案を先読みされた驚きだった。それは実に不気味な声だったが、芽依の耳に届いていなかった。
(確かに私は使えていた。使い方を、知らなかった)
芽依の脳裏には、少女の声が響き続けていた。
「感覚を閉じるの」
静寂に包まれた世界に、少女の明朗とした声だけがあった。
「目を閉じ、耳を塞ぐ。血の味とか、煙草の臭いとか、痛いのとかはすべて忘れ去る。それから自分だけの、空っぽの世界を想像/創造する」
芽依はただただ驚く。何故なら、その工程を知っていたから。誰よりも詳しく、誰よりも正しく。
「そう、この世界の始まりの姿。まだ何もない、自分さえもない場所。それから世界を描く。“記憶”という名の過去を現すのではなく、現在をすべて溶かして世界と一つになる」
瞬間、少女の言葉に、曇天を割って射し込む光を見た。
そしてギリアムの言う”願い”の意味が繋がった。
願いとは、単に欲した結果のみを指し示すのではなかった。
表層的なものでなく、根源的なもの。あらゆる想いを越え、時に自分さえも作り替えるほど絶対的な、神に捧ぐ祈りの如き純粋な意思のことだ。
「この世界の器そのものになれば、中に注がれるものはすべて手の内にある。そういうことね」
少女は頷く。芽依が辿り着いた答えが、自分のことのように嬉しそうだった。
「これは世界の変え方のひとつ。方法は一人一人みんな違うし、可能性は無限に広がっている。芽依は芽依の納得するやり方を探してみて。アタシも知らない、もっと素敵な方法がこの世界にはあるかも知れない」
「そうね。このハードルを飛べたら」
双子以上に似た二人だ、少女の憂い顔は気難しい姉妹を気遣うようにも見えた。
だが芽依はそれを『見返り』への憂慮だと取り違えた。
「安心して、約束は守る。力の宝珠は私に必要なものでもある。必ず手に入れてみせる」
「・・・・・・ええ、待ってる」
少女の苦笑。
行ってらっしゃい――
――行ってきます。
そう伝えるべき相手が未だこの世界にいたことに、胸の奥がちくりと痛む。
それが何の痛みか知らず、芽依は視線を落とした。
手のひらを眺め、自身に流れる力の方向を計る。試しに指先へ集めてみた。
ゆっくりと、だが確実に精霊力が集約されていった。
今度は全身の精霊力を閉ざしてみる。これも簡単なことだった。
「ただし完璧とは――とても言い難いわね」
決闘装束は放出している精霊力が膨大で、気を逸らした側から見え隠れしてしまう。その扱いはかなり繊細なようだが、それでも異世界の中に侵入してしまえば『隠蔽』と呼べるだろう。
それに、抑制され過ぎても移動や、咄嗟の攻防に支障をきたす。
ON/OFFの切り替え精度を新たな課題として記憶する一方で、芽依は精霊力の実体を理解したことで自分の『部分兵装開放』が如何に常軌を逸しているか客観視できた。
闇雲に力を欲し、精霊力のなんたるも判らず強引に引き出していた自分がどれだけ無知で、無茶で、無謀だったか。思い返すと空恐ろしく、ギリアムの戦慄も頷けた。
例えるなら、シャワーを浴びたくてダムに穴を空けるようなものだ。一歩間違えば、“黒岩芽依”という枠が壊れるか、精霊力に溺れ死んでいたはずだ。
そう考えると悪運の強さだけはかなりのものだ。それでも、あの異世界で生き残れるかどうか判らない。《隠蔽》状態にありながら《探索》できるかさえ、やってみないと判らないのだから、ハッタリもいいところだ。
しかし、それでもやるしかない。もう後戻りなどできない。戻るべき場所は既に失われてしまったのだから。
視線を正面に向け、膝をたわめる芽依の双眸に迷いはなかった。
「行ってきます」
無意識に溢れた言葉を残し、黒衣が空を駆けた。