雨はいつの間にか降り止んでいた。だが分厚い雲は相も変わらず。
月明かりのない夜道を、芽依はとぼとぼ歩いていた。
考えていた。何をどうすればいいのか、どう償わせるべきなのか。だが、いつまで経っても納得できる答えを導けずにいた。
正直、まるっきり分からない。はっきりしているのは一つだけなのだ。
折笠花音がほぼ無関係だということ。完全に無関係でもないが、立場はまるっきり被害者でしかないから、矛先を向けるのはお門違いなのだということ。
ならば詩音はどうなのだ? 詩音は自らの犯行を認めた。だが、人格こそ『折笠詩音』だとしても、体は少女の――折笠花音のものだ。
花音の話を信じるなら、折笠詩音は既にこの世にいない。何故、どのようにして花音の体を操っているのか。そもそも、原因は何なのか。事故のショックによるものか。それとも、決闘装束のせいなのか。
「もしかして、自分もああなるの?」
薄い唇から、溢れ出した不安が漏れた。どう切り口を変えても、付きまとった重たいものが振り払えない。それだけ二人の境遇は似通っていた。
親兄弟を無くし、超常の力を得て、頭の中に厄介な隣人を抱えている。
これだけ特殊な状況が重なれば、自分にも同じことが起き得ると考えるのは当然だ。
勝手にもう一人の自分が外に出て来て、別名を名乗り、変身して、勝手に動き回り、挙げ句、人殺しまでする。そんな洒落にならない事態が自分にも降りかかるかも知れない。そう考えるだけで空恐ろしかった。
残り時間の見えない時限爆弾を抱えて全力疾走しているとき、人はこんな気持ちになるのかも知れない。
芽依は激しく混乱した。可能性を飲み干せずにいた。心が、唯々寒かった。
既に唇から血の気が失われている。体の芯から冷え切っていた。
認めざるを得ない。花音と接触したのは失敗だった。さもなければ、迂闊だった、と評すべきか。
共感させることなど造作もないと高をくくっていた。事実、容易かった。ただ、そこに”同情を引く”という意味合いのみを見出していた。
何故もっと深く洞察できなかったのだろう? 真の共感とは、相手の感性を揺さぶるだけではない。同時に、己の感性も同じ高ぶりを覚えているのだと。
他人に感じ入ることが、こんなにもマイナスに作用するとは思ってもみなかった。
露ほどにも疑ってはいなかったのだ。自分は被害者であり復讐者――その確固たる立場が揺らぐとは。
芽依は、“黒岩芽依”という人間が、情の希薄な人種だと信じて疑わなかった。
何せ、我が身に降りかかった災難ですら感じ得ないのだ。どれほどの不幸が他人を襲ったところで踏み越えられるのが道理ではないか。
人間は恥知らずなほど利己的だ。芽依もご多分に漏れず、自分の為に生きてきた。
煩わしい関係を可能な限り切り離し、孤独の中で、感情のまま生きてきたのだ。
今更見ず知らずの人間を思いやる必要がどこにある? 折笠詩音を断罪すればいい。折笠花音ごとだ。乖離性同一性障害? そんなの知ったことではない。
そう、知ったことではないのだ。彼女がどんな人生を経て今に至るなど。どんな絶望を味わい、今どれだけ苦しんでいるかなど。
自分の方がまだ幸せだとか、より不幸だとか、そんな比較は無意味だ。希望と絶望は、本人しか知り得ない。同じ量の不幸が降り注いだところで、結局のところ、当人の受け止め方一つでしかない。
芽依は頭の奥の方で、一つの現実を受け止めていた。
あると信じた『復讐の権利』など、本当のところは酷く曖昧で、朧気な代物だと。
“俺が知るかよ、んなこと――”
あの拗ねたような一言が如実に言い表しているではないか。詩音は母と弟を殺そうとしたのではない。そこに殺意はなかった。
二人は被害者だったが、それはジュエリストの戦いに巻き込まれただけなのだ。貰い事故は誰にも防げないし、誰にだって訪れる。そこにあるのは運の差でしかない。
この憤りの正体は、冷静に過ぎる理性と、現実に追いつけずにいる感情の溝だ。
「私の復讐劇は、とっくに幕を閉じていて、私は、余りにもくだらない脚本に、納得できずにいる脇役の一人。そういうことなの?」
行き場を見失った思考に、芽依はそっと蓋をした。
「疲れた・・・・・・」悄然と呟く。
まるで命を賭した激戦直後のように、心身が疲労していた。
早く帰ってシャワーを浴びたかった。食欲もないが、何か腹に入れて寝よう。そして、いつもより少し遅く起きるのだ。それからどうするか考えよう。そうすればきっと少しはマシな考えが浮かぶことだろう。
そう決意した瞬間――、
世界が、壊れた。
「・・・・・・やっと終わった」
芽依は腕時計を眺め、嘆いた。異世界の発生を確認してから実に一時間強。ここ一週間のワースト記録だった。
遠くの空へ目を凝らすも、そこには何も映さない。
異世界内で眺める崩壊現象はまるで虹のシャワーだが、外側からでは何故か一筋の光すら放たれない。だが、大きな気配が途絶えたことで、彼女達が中央制御核を仕留めたのだと知れた。
この後、ジュエリストの少女たちは、街の修復を見回りながら流れ解散となる。その行動パターンは、芽依が観察を始めてから一度も変わってはいなかった。
本来はここから芽依の尾行が開始される予定だったのだ。
皮肉なものだが、異世界崩壊後から尾行した場合、追跡そのものに失敗していた公算は高い。
というのも、ジュエリストの動きは速すぎるのだ。目に見える時だけ追いかけていたのでは、とても間に合わない。よってジュエリストの姿ではなく、その特有の気配を追跡することになるのだが、異世界の崩壊中は精霊力が至る所に拡散される。雪が降ると人気が掴めなくなるのと一緒で、ジュエリストの気配は空間に溶け込んでしまう。
ならば消え去った後で――理屈は合っているが、実際はそちらの方がより難しい。
通常空間で力を振るおうものなら、ジュエリストは大いに目立つ。第三者は観測し易いだろう。ただし、その中には、芽依以外の一般人も含まれている。
もし偶然にその場面を映され、ソーシャルネットにでも拡散した日には、遅かれ早かれジュエリストの活動そのものに支障をきたすことになってしまう。だから彼女達は衆目に注意を払って力と気配を殺して動いた。
芽依が懸命に神経を尖らせ、所々で漏れるジュエリストの動きを掴んだとしても、距離が離れてしまえば、それはもう意味のない情報だった。
「そういえば・・・・・・」
いつまでも煮詰まらない仮説に蓋を閉めたのも束の間、不意に気掛かりが首をもたげる。脳裏に浮かんだのは、やはり件の少女だった。
遠目からも、彼女と他のメンバーとの距離感を感じられたが、詩音という存在を知ったことによって、芽依の中で決定的な違和感が醸成されていた。
集合時間に遅れる/集まらない/集まっても連携を取らない。散見された協調性の無さは、彼女が最後に加わったメンバーだから遠慮がちなっているのだとばかり思っていたが、思い違いではなかろうか?
今だからこそ、その理由も察せられる。恐らくは、折笠詩音と折笠花音の関係を、仲間内でも秘密にしておきたいのだろう。不意に、芽依の母がそうであったことを思い出していた。
心の病は、往々にして誤解や偏見の元だ。おおっぴらに出来るはずがない。しかし公言されないことで、他者の無理解がトラブルを起こすこともしばしばある。どちらにしても、罹患者にとっては茨の道なのだ。
ああして集団でいるが、彼女達の仲間に入りたいと本気で考えているのだろうか?
戦友としての絆を得ることより、近付きすぎて正体が暴かれるのを恐れているのではないか――そう思えてならなかった。
確かに、少女の集団にあって、“男っぽい性格”で誤魔化しきれない事態が起きたら一大事かも知れない。例え上手く立ち回ったところで、深入りする内にプライベートでも関係性が築かれてしまった日には、一波乱は火を見るより明らかだ。
そもそも、どれだけ間二人は入れ替わっていられるのだろうか? 花音は詩音の存在に気付いていない。ジュエリストとしての働きも。行動に干渉される可能性がある以上、花音に詩音の存在を知られることは都合が悪いはずだ。ところが、身体を共有しているが故に、詩音は花音を排除することはできない。
だから、詩音は他のジュエリスト達と”付かず離れず”という位置に収まろうとした。
「ここまでは理解できる・・・・・・」
芽依は呟き、一区切り付ける。
「でも、詩音がジュエリストの少女達に拘る理由はどこにあるの? 何故、リスクを冒してまで仲間ごっこをしたがる? そうまでして面倒を抱える?」
詩音が街や人命を守ることに無関心であるのは明白だ。ではルビーやサファイアのようにゲームと見なしているのか。それにしては積極性に欠けている。
これまでの戦い方や会話から察せられるのは、大雑把で興味のないことには無頓着、ないし億劫だと感じてやまない人となりだ。あの不遜な態度が、社会への帰属意識の裏返しとは到底思えない。
芽依は花音と詩音の一挙手一投足を思い返し、考える。組み合わせを入れ替え、また考える。ゆっくりと、慎重に、組み立てていく。
堅く結ばれた謎を紐解く高揚感が、思考へ静かに火を灯した。体中を巡る血の勢いが増していく。しかし、相変わらず上手く噛み合わず、気持ちばかり逸った。決定的な情報が足りない。それでも芽依は辛抱強くあった。
「・・・・・・結局は、個人的な興味ってこと?」
ようやく絞り出したその動機は、自分でも憮然となるほど、ありきたりなものだった。
ただ近くで眺めていたい。ただ側にいたい。同じ場所で、同じ景色を見ていたい。
好きだから。憧れたから。触れたかったから。欲しかったから。
そんな不確かな理由が成立するのだろうか? 一瞬だけ疑ったが、納得せざるをえなかった。
――自分も、同じだから。
芽依は自分の下腹部にそっと手を触れた。服の上からでも伝わる微弱な気配。
熱とも冷気とも違った精霊力の温感。空気を震わせる波にも似た触感。
下腹部に刻まれた聖刻は、単に精霊力の源泉やジュエリストの資格というだけでなく、芽依にとって特別な意味を持つ。
聖刻は、運命が変わったことを示す、始まりの印である。様々な縁と、不運とに見舞われてこうしているが、芽依のターニングポイントは、やはりあの日になるのだろう。
あの日――白いローブの少女に命を救われた日。芽依は確かに輝けるものを得た。
格好良い。自分もああやって自由に飛び回りたい。誰かのために戦いたい。この街を護りたい。純粋にそう思えた。向かい風にローブをなびかせる少女の、その後ろ姿の力強さに胸を打たれた。
だからこそ今自分は此処にいる。そのことに疑いようはないのだ。
遠く、昔のことのように感じられる記憶が甦ると、どうしようもなくあの白いローブの子に会いたくなった。会って確かめたかった。
――ねぇ、本当はどう思ってるの?
この街のこと。仲間のこと。戦いのこと。
迷いはないのか。不安は。恐れは。
絶望してないか。希望があるのか。未来は見えているのか。
そして、あの日のこと。きっと覚えていないだろう。
自分が彼女に救われたこと。命だけでなく、心まで。
自分がこれまで独りで戦ってきたこと。捜し物が見つからなくて困っていること。
話したいこと。伝えたい想い。沢山の気持ちが胸を締め付けた。言葉が、内側から溢れかえって息が詰まりそうになった。
瞬間、芽依は反射的に身を強ばらせる。そして、突風。
勢い、体ごとさらわれそうになった。道路の両端に並んだ雨戸や窓ガラスがガタガタガタッ! と不吉な音を鳴らし、庭木が激しく踊っていた。
風はそれっきりなりを潜めた。殆ど無風状態からの、竜巻にも匹敵する疾風。それが人為的であると気付いたのは芽依唯一人だった。
突風が巻き起こる直前、見知った/間違えようのない気配――透き通るように輝く精霊力が、通り過ぎていった。
芽依は風の通り道を駆けていた。考えもしなかった。彼女に追いつけるかどうかなんて。
前兆もなければ予感もない。ただ、真っ暗闇の中に、ひかりが見えたからそちらを目指した。芽依にとってはそれだけのことだった。
大きな釣り橋を渡り、線路を横切って、幾つもの横断歩道を越えた。息が切れて、口内に鉄の味が滲んでいた。治りたての脹ら脛がじくじく痛んだが、芽依は毅然と顔を上げ、辺りを見回した。
人影一つない。まるで異世界の中だ。頭を振って想像を否定し、もう一度走り出した。芽依にしては珍しく、どこをどう進んだかさえ覚えていなかった。
見知った街並みのはずが、どこか朧気。まるで不思議の国に迷い込んでしまったかのような、倒錯した気分に陥った。現実と幻想の狭間を行き来していると、本当に不思議の国の入り口を思わせる庭園が目の前に飛び込んで来た。
手入れの行き届いたイングリッシュガーデンと、その広々とした空間に溶け込んだ大きな家。門構えの代わりに造られたアーチ。淑やかに咲く小さな赤い薔薇。手作りと思しき愛らしい蛙型のポストが抱えた表札には、『宝生』の二文字。
そして、大きな庭を、てとてと小走りする影が一つ。後を追いかけるように流れる雨雲。その綻びから差し込む月明かりに映える亜麻色の髪を、芽依が見間違えるはずがなかった。
たった今、宝生ひかりは何処からか帰宅したのだ。
――こんな時間に?
それがどうした。きっとそこいらを散歩していただけだ。
――あんな急いで?
それなら少し遠くまで足を延ばしたのかもしれない。
――どんな理由で?
きっと勉強で頭を使いすぎたのだ。気分転換に庭を散歩していただけだ。
「どんな理由で?(、、、、、、、)」人知れず漏らした問い。
心の呟きの確かさを理解するため、芽依はもう一度言葉にしなくてはならなかった。
「こんな夜更けに出歩くには、どんな理由が必要なの?」
まるで正面に立つ誰かに語りかけるように。
「そうね。例えば、『人知れず怪物から街を護るため』なんて、どうかしら?」
自問自答。その口調はとても静かで、熱の入り込む余地はない。
なのに、芽依は目の前の電柱を殴りつけていた。返ってくる痛みを押さえ込むように、手の甲へ額を押しつけた。
「なんで、そうなるのよ・・・・・・!」
理性が懸命に間違い探しをしているのに、感情があっさりと現実を認めてしまっていた。
すなわち、“宝生ひかりは、あの白いローブの少女である”、と。
記憶の中から否定材料をかき集めるほどに確信めいてくる。何という矛盾。何という皮肉。何もかもが不確かだった花音/詩音とはまるで正反対の働きに戸惑いすら覚えた。
証拠はたったの二つ。一つは宝生ひかりの胸に刻まれた刻印。夕暮れの校舎でぶつかり合ったとき、一瞬覗き見ただけだが、あれは見間違えなどではなく、確かに聖刻だった。
もう一つは、甚だ非論理的な示唆にして、芽依にとって決定的な要因――つまりは、彼女が『宝生ひかり』であることだった。
誰からも愛され、誰でも愛する少女は、奇跡にすら愛される。媚びを売らずとも、運命の方から目を掛けることだろう。よく出来た寓話のように、偶然の横糸と必然の縦糸でもって物語が織りなされ、饒舌な語り部を必要としない英雄譚が書き綴られることだろう。
この小桜市で幕が上がった悲劇は、きっと宝生ひかり(ジュエリスト)のために用意されたのだ。希望も、絶望も、すべて彼女のために用意された演出に過ぎない。それが判ってしまえる自分が、例えようもなく悲しかった。
果たして、芽依は完全に力の意味を失った。復讐の切っ先は定まらず、この街と人々を護る大義と正義は宝生ひかり(ジュエリスト)にこそある。残された意義は”力の宝珠”の探索だが、それこそ方便に過ぎない。
<酷い面してやがんな。一体どこほっつき歩いてやがった?>
酷く耳障りな濁声が、芽依の頭蓋骨をひっかいた。
いつの間にか、目の前には芽依の膝丈もある巨大な蛙。壁に背を預け、気障ったらしいポーズで芽依を指さししていた。
芽依は宝生ひかりの家から、無意識で自宅へ足を進めていた。
古びたアパートの屋根が見えた。一度ゴールを意識してしまうと、一刻も早く煩わしさから離れたかった。
「アナタの顔面と勝負して勝てる日が訪れないことを切に願うわ」冷然と。
芽依はギリアムの質問を横切って自宅へ向かった。
<ははン? その態度。さては失敗したな。しかも盛大に! そう何事も上手くいくと思ったら大間違いだってこった。ぐふふっ>
芽依は振り返らない。振り返らなくとも目に浮かんでしまう、そのいやらしく歪んだ顔を、足裏で踏み潰さずにいる自信がなかったから。
対して、ギリアムの表情は、今まで見せたこともないような喜悦に輝いていた。
そこには投げ掛けた言葉以上の含みがあったのだが、芽依がそれに気付くのは、罠にはまった後だった。
曲がり角に差し掛かった瞬間、
<それはそうと、家の前に妙な女がいるぞ>
ギリアムの忠告と、芽依が後ろに飛び退ったのは殆ど同時だった。一瞬で壁際に身を隠す様に、ギリアムは堪えていたものを爆発させて哄笑した。
<ぐっへっへっへ!>
要するに、芽依が無視することも計算の上での挑発、ということだ。
(・・・・・・挽き肉と薄切り(スライス)、どちらが好み?)
冷徹少女の報復宣言を目線で受け取ってしまい、悪辣蛙の肩がびくりと身震いする。
芽依の自宅前には、確かに不審な人物がいた。
古びたアパートの一階角部屋――その扉の前には、折り畳み式のナイロン製の小さな椅子に腰掛けた女性と思しきシルエット。ただし格好が普通ではない。
厚手のニット帽にマフラー、そしてダウンジャケットとナイロンパンツ。おまけに雪山にも耐えられそうな厚手のグローブとブーツと、体の端々まで完全防御。横に飯盒やテントこそないが、格好だけなら、そのまま登山に向かいそうな勢いがある
冬の足音が聞こえて来る昨今ではあったが、ここは街中である。幾ら何でもやりすぎだろう。俯いて面貌こそ知れないが、不審者以外の何者でもない。
この国の警察は一体何をやっているのか――芽依が訝しがったのも束の間だった。
不意に思い至った光景――連日ポストに投函されていた切手のない手紙とA4用紙。そして扉に張り付けられたメモ書き――芽依はいずれも無視していたのだが、差し出し主の方が、いよいよしびれを切らしたらしい。
不審者の正体、それは中学校の担任である浅海杏だった。
実はここ一週間、浅海は何度か芽依の自宅を訪問していた。ところが、近頃の芽依は早朝から深夜まで外出しているものだから直接会話する機会が得られず、書き置きを残しても一向に反応を寄越さない。仕方ないので、こうして張り込みまでしている、という次第であった。
(放っておけばいいのに。ご苦労なことね・・・・・・)
しかし、芽依の所感はかなりぞんざいだった。浅海の、一教師としての熱意や責任感や矜持とかいうものはまったく信じておらず、むしろ、“上司からの突き上げがあるのだろうか?” とか、“問題児がいると体面を保つのにも一苦労するのだな”といった世知辛い想像ばかりが泡沫となって消えていった。
何故そう思えたのかと問われれば、浅海杏がそういう人間だからとしか言えない。
春からの付き合いだからさほど長くもないが、浅海の教師としてのスタンスを芽依は熟知している。
浅海は『教師は教師であり、生徒は生徒でしかない』という原則に忠実だった。
公言してこそいないが、彼女が特定の生徒に入れ込む素振りを見せたことはないし、かといって冷たくあしらったり無関心という訳でもない。男女も公平。常に一定の距離感を保っていた。
それは、あの”宝生ひかり”が相手でも変わらない。大多数の教員が彼女を贔屓目にしている中で、珍しい部類であり、当人のこざっぱりとした性格も相俟って、ドライな印象を確固たるものにしていた。
故に、あからさまに業務外の対応をしているからには、浅海個人ではなく、学年主任やら校長辺りからの圧力があったものと芽依は考えたのだった。
「さて、どうやってお帰り願おうかしら?」
立ち話をする時間でもないし、こちらから話せることもない。出来れば接触は避けたいが、これ以上付きまとわれるのも勘弁して貰いたい。
矛盾する要件に対し、芽依はほんの数秒だけ数える内に結論を導き、横目で相棒に目配せした。
<・・・・・・ははン? 俺を使いぱしりに出そうって腹だな。いいだろう。お前に代わってガツンと一言いってやンよ。“俺の相棒の犠牲になるのは俺だけで十分だ。お前は早くここから逃げろ!“ってな。そうすりゃ二度と近寄りゃしないだろうさ>
「その発想は無かったわね。なかなか興味深い提案だわ」目を軽く見開く芽依。
唇に指を添えて思案げに呟く相棒に、果たしてギリアムは訝しがった。この少女にして、その程度思い至らぬはずがないからだ。
「私はただ、こんな夜更けに目の前で原型が判る程度に粗挽きにした蛙の血肉が出来上がったら二度とこの場所に近付かないだろうと――」<待て待て。何だ蛙の血肉って!?>
「もちろん蛙という生物を構成する血液と筋肉と脂肪のことよ。仮に表皮と骨が入っていても、まぁ表現としては問題にならないと思うけど?」
<そうじゃなくて、蛙である必要性がどこにある。他にも生き物は幾らでもいるだろうが!>
「その発想は無かったわね。なかなか興味深い示唆だわ」目を丸くする芽依。
<お前の頭の中には、俺を挽き肉に変える以外の発想がない・・・・・!>キッパリと。
「いいえ。この企画の重要な点は、まず生きたまま対象の目に触れ、直後に爆散してみせるところにあるの。ここを外しては画竜点睛を欠くというものよ」
<お前の頭の中には、生きた俺を挽き肉に変える以外の発想がない!!>キリリと。
「ええ、その通り。それが正しい状況認識よ。流石、私の相棒。覚悟が違う」
真顔で首肯する相棒に、ギリアムは手元が狂って用意していた毒を飲んでしまったかのような表情。
<お前を相棒に選んだことを俺は死ぬほど後悔している! 死ぬほどだ!>
その半ばヤケクソ気味の台詞に、芽依はすっと薄い唇を歪めた。
とても面白い冗談だ、と。
「ものは考えようね。きっと、死ぬ方が、死ぬほど後悔するより気楽だわ」
そして一瞬、両者の間に沈黙が広がる。
言った方も、言われた方も、その言葉遊びを流しきるまで、僅かに時間を要した。
<・・・・・・そいつは、死んだことのない奴が口にする科白じゃねぇな>
「・・・・・・確かに、そうかも知れないわね」
よしないことを言ったものだと、芽依は頭を振った。その暗い色をした瞳を見たギリアムもまた、らしくない事を口にしていた。
<はン。そんなに知りたいならやってみたらいいだろうが。お前はいつもそうやって来たんだろ? 言っとくが、死んだら終わっちまうからな。良いも悪いも無くなっちまう。これまでの努力がパーだ。それじゃ意味がない。幾らお前の頭がぶっ飛んでいても、それくらいは判るだろ。あン?>
「・・・・・・それもそうね」
ギリアムのそれが、唯の皮肉ではないと判ってしまうくらいには、この化け物じみた相棒と心通わせるようになってしまったのだと実感し、芽依は更に暗澹たる気分になった。
そして、大きく溜息を一つ。
「まずは、死ぬほど足掻いてみるとしましょうか」
そう口にして、本日最後の仕事に取り掛かった。
コン、と金属がコンクリートの地面を叩く音で、浅海杏は目を醒ました。
反射的に腕時計を確認する。現在午前二時半。張り込みを開始してから四時間強、直近の一時間は寝こけていたので、体感的には三時間といったところだった。
ズズズと鼻をすする。それなりの服装を着込んでいるが、鼻の頭まではカバー仕切れない。マスクを買っておくべきだったと、少しだけ後悔。
幾ら週末とは言え、流石にこの時間まで粘るのはどうかと自問をしつつ、背後の扉が開いた気配がないことを確かめる。
扉の前に居座っているのだから、無視して入るなんていう真似はそもそも不可能なのだが、念のため郵便受けを押し開けて中を覗く。中は湾曲させた金属板があるのでもちろん覗きなど成立しない。だが浅海は、こういうのは気分が重要だと考える。だから扉に耳を当てて、人気のない家の中に聞き耳を立ててみたりもする。決して犯罪行為に興味がある訳ではないことを心の中で強調しておく。弁明する相手もいないのだが。
裏手の雨戸が降りているのは座り込み開始時点で確認済みなので、やはり中に人はいないと結論付けて椅子に座り直した。
「アイツ、どこほっつき歩いてんだ?」
足を尊大に組み、一人ごちる。そこまでしてようやく目覚めの切っ掛けに意識が回った。本来なら真っ先に注意が向いてもいいはずなのに、やはり金曜の晩ということで疲れが溜まっているようだ。
疲れを吹き飛ばすためにも、ここは一つ酒を飲むべきだろうか。
業務時間外だしなんら問題ない――いやいや、念願叶ったときに酩酊でもしていたら会話をするどころではない。まぁ会話自体は成立するだろうが、寝て起きた後に覚えているかが非常に怪しい。
その辺りに関して浅海は自分を疑わない。酒癖の悪さは友人から指摘され続けて、早何年になるだろうか。何年になるか判らないくらいだから相当なのだろう。
しかも相手は黒岩芽依である。彼女は子供とは思えないほど疑り深く、また鋭い。
おまけに目つきも鋭ければ、口舌も切れ味抜群。せっかく綺麗な顔をしているのに、実に勿体ない。宝生ひかりまでとは言わなくとも、吉岡夢乃くらいほんわかしたら、きっと周りと上手くやっていけるだろうに。いや、あの性格だと、それこそ難しいのか。家庭の事情もかなり込み入っている。
まぁ本人がそれで良いと言うなら――。
いやいや本人のためにも集団行動を学んだほうが――。
何度も考え、結局何と伝えたものか未だに決まらない指針が、頭の中をわらわらと踊りだしてしまった。
浅海はもやもやする思考をぴんと人差し指で弾き出し、取り急ぎの意志決定をした。
やはり酒を飲もう。この際、何だって良い。ともかく飲まなくてはやってられない。
後は晩酌中にばったり黒岩に顔を合わせたときに何と取り繕ったものかだが――
適当に流そう。下手に誤魔化すと後が厄介だ。
そう割り切って腰を浮かしたとき、ふと足下の物体に目が止まった。
缶コーヒーと、その下に挟まれているのはレシート、だろうか?
こんなものいつ置かれたのだろう。浅海は今更ながら、自分を目覚めさせた音の正体に思い至る。
だが、幾ら何でも何の気配も残さないなんて。
薄気味悪い缶に手を伸ばしたが、どうも素手で触れる気にはなれなかった。
手にとってドキリとした。手袋越しでも缶から感じる熱。
辺りをきょろきょろ見渡す。件の教え子の姿は何処にもない。
ふと、二階から吊したのかと思い至り、視線を上げた。
「・・・・・・だよな」
そこには玄関の小さな明かりに映されるほどくっきり錆の浮いた天井。その劣化ぶりは、“二階の住人はインターホン無しで来客が判る”と、想像に難くない程だ。
一階とて、人が歩けば察することだろう。まして、缶は玄関前に置かれていたのだ。釣り下ろしたのでは角度的に無理がある。よしんば振り子にしたところで、着地に失敗するのが関の山だ。第一、黒岩芽依がそんな子供じみたことをやるとは思えない。
浅海は紙片を摘まむ。コンビニのレシートだった。缶コーヒーを買ったときのものらしく、この近くのコンビニで発行されたものだ。明細をじっくり眺めたが、何の変哲もない。
「・・・・・・ん?」
やがて紙面の意外な事実に気付き、腕時計を確認する。念のため携帯電話を取り出し、重ねて確かめる。まじまじと眺める――が、やはり浅海の理解を越えていることに変わりはなかった。
「二分前って、どういう・・・・・・」
コンビニからこの場所まで、自転車でも片道三分以上かかる距離だ。浅海は黒岩家を訪問するに際し、幾度か利用したことがあるので間違いない。
音がしてから缶を手に取るまで、多少なりとも時間は経っている。そうなると、コンビニからここまで一直線に飛んで来た――とでも考えない限り不可能な芸当だった。
浅海は目を皿にして観察するが、手の込んだ悪戯といった印象はしない。何気なしに裏返し、更なる驚きに打たれた。
“月曜に、請求しに行きます”
宛名もなければ差出人も書かれていない。本当にその一言だけ。
その簡素すぎるメッセージを、浅海はくしゃっと握り潰してしまう。ニット帽を脱ぎ、短い髪をガシガシ掻き毟った。ふぅーっと大きく息を吐いて、驚愕+憤激を萎ませる。
「来なかったら絶ッ対、払ってやんないからな!」
大声で叫んだ。もしかして、すぐ近くにいるかも知れない。そんな期待を込めて。
それから憮然と口をへの字に結んだが、多少締まりが悪くなっていた。
請求しに行く=登校する、という黒岩なりの意思表示を勝ち取ったのだ。仕方ない。
それにしても何という捻くれ者だろう。彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。
「・・・・・・まぁ、ちゃんと飲んで、請求されないとな」
気持ちに一区切り付いたところで、浅海は缶のキャップに指をかける。暖かい内に頂こうという感謝の気持ちと共に押し上げた。
カチリ、と音を立てた刹那。
浅海が唯一防寒していなかった顔面に、熱湯が勢い良く飛び散った。
<おい、いいのか? あの女、また何か叫んでるぞ?>
ギリアムが胡乱げな顔を、隣に並んだ黒衣の少女――変身した芽依へ差し向ける。
芽依の表情に、反省の色はなかった。それがフェイスヴェールで口元が隠されているせいなのか、はたまた本当に悪いとも思っていないのか。自宅アパートの屋根上で、芽依はただ沈黙を貫いていた。
缶コーヒーの差し入れは浅海の空想通り、決闘装束の能力を遺憾なく発揮した離れ業だった。中身を暴発させたのは、まったくの想定外だったが。
缶を破壊せず、中身を振動させることによって液体を再加熱すること自体は成功したが、加減を誤った。暖めるどころか、沸騰しすぎたせいで高圧状態になってしまったようだ。
瞑目すると、頭の奥の方で漂う残響が、波のように押し寄せた。
“黒岩覚えてろよ! 私は絶対忘れないからな!”
小悪党の鑑のような捨て台詞が、遠く消えながら頭の中で繰り返される。
(でも先生。そうは言っても、素手で持ってば気付いたはずでは? お互い様じゃないかしら。こんなときは早く寝て忘れましょう。お互いのために)
身勝手な結論で恨み節を遮断。眼下を睥睨すると、浅海が大股でアパートを離れていくところだった。
もし振り返って見上げれば、芽依の姿を捉えたはずだが、芽依はそのまま見送った。
仮に発見されても、瞬きほどの時間で姿をくらませるのだ。結局は本人の見間違いで納得せざるを得ない。所詮はその程度の問題だ。
本当の問題は、週明けの約束の方だった。浅海をこの場から動かす策とはいえ、はやまっただろうか? だが、避けては通れない道だ。むしろ、もっと早く向き合うべきだったのかも知れない。
自らの進路――福祉施設か、遠縁の親戚か。
どちらかを選ばなくてはならない。どちらにしても、この街にはいられない。それをきちんと伝える義務が芽依にはあった。
だが、迷いがあった。選択をするということは、この街で起きている事件や、それに立ち向かうジュエリストの少女達と縁を断つということだ。
同時に、ギリアムの依頼である”力の宝珠”の探索を断念することであり、頭の中に住み着いたもう一人の”私”との約束を反故にすることでもある。
そして、家族の無念を晴らす機会を永遠に失う。何一つ成し得ないまま、自分の物語は幕を閉じる。
ならば、仮に課題がすべて上手くいったら自分の道が変わるのか?
否だ。心の澱も、多分消えはしないだろう。
何も変わりはしない。結局、行き着く先は同じ。そこに達成感とか自己満足とかいう付属品があるかないか、それだけの違いでしかない。
なのに、何故か割り切れないでいる自分がいた。
<おい、なんて顔してやがる。死ぬほど足掻いてみせるんだろうが。さっさと寝て、腹一杯飯食って、一刻も早く力の宝珠を見つけやがれ>
表情/心情は変わらず隠しているはずなのに。
心の揺らぎ見透かしたかのような指摘に、芽依の心臓が跳ねた。
<まさかとは思うが、お前さん諦めたんじゃ――>「冗談は止めて」
凍った血液が、自らの言葉によって沸騰するようだった。
何も変わらない――それがどうしたというのだ。いつもそうだったではないか。家族がいたときだって、この先ずっと自由などないと諦念していたではないか。
発想が逆だ。枷の外れた今こそが、この瞬間こそが自由なのだ。家庭も、学校もない。社会から切り離され、宙ぶらりんで最大に不安定な今こそが。
今更だ。今更、運命は変えられない。生き方だってそうだ。
過去は否定できない。これまでの自分を否定したくない。誰かに誇れる自分を。感情のままに生きる自分を。
ならば、自らの言葉に準じよう/感情に殉じよう。
せめて、潔く/格好良く。
意を決して、芽依は口を開く。
「ギリアム。聞いて欲しいことがあるの」
<・・・・・・何だ、改まって>
「私は――、ジュエリストを討つわ」
<お前、いきなり何を・・・・・・>
「理由は――」
突然の宣言に戸惑う相棒へ、一から説明する必要があった。
ジュエリストの抱える問題。自分の抱える問題。根本にある願い。叶えたい想い。
徹底的にやり尽くす。そこにひとひらの意味すら残されていなくとも。
それが黒岩芽依だと叫び続けるために。
芽依はギリアムが納得できるだけの、論拠ある言葉を尽くそうとした――が、結果的に、それは叶わなかった。
「――り、ゆう、は・・・・・・」
初めは軽い眩暈。次に膝から力が抜けて、カクンと折れた。バランスを崩して屋根の斜面に倒れ込む。咄嗟に顔面を護ろうと差し出した手が半ばまでしか上がらず、横っ面をもろに叩く。
痛くはない。決闘装束は変わらず衝撃を無効化した。
だが、それとて心までは護れない。体の不全に、理解が追いつかない。
体は何処も痛くないのだ。確かに疲労感や倦怠感はあった。だが病気のような自覚症状など――あった。
芽依は異世界の中での一幕を思い出した。
止まらない咳、そして吐血。十分過ぎる状況証拠だ。
<おい、大丈夫か?>
泡食ったギリアムが近寄る/近寄らないで。心からの拒絶。芽依は二重の意味で遠慮願う。
(とにかく、家の中に・・・・・・)
体を起こし、手足の感触を確かめながら立ち上がる。
疼痛――無し/良し。
痺れ――無し/良し。
眩暈――無し/良し。
ともすれば正常。されど異常。何の脈絡もなく、全身が崩れた。
そうとしか言いようがないくらい、体中から力が失われていた。まるで体を誰かに奪われたかのように。
メリーゴーランドより激しく回る視界/三半規管だけが知る一瞬の落下感覚。
そして、地面の抱擁/奇しくも玄関先/まるで手間を省いてやったとばかりに。
物音に気付いたアパートの住民が顔を出さないよう、芽依は祈った。祈ることしかできなかった。
横たわったまま手足が動かない。指一本が重すぎた。
何の違和感もない。何も感じない。
(何も感じられない?)
音も、熱も。そこにあるはずの感覚にアクセスできない。あらゆるものが遠い。
やがて、水平に映る地面に、黒色と鶯色と濃紫色がまだら模様を成した異形の物体がやってきた。だが、歪み、黒く塗りつぶされた意識ではそれが何なのか判らなかった。
そして黒瞳は、ひかりを失った。
<おい、どうした? まーた昨晩みたいに起きながら眠ってやがンのか? あン?>
はっとして、意識が繋がったとき、芽依の正面ではギリアムが椅子に腰掛けていた。
自分も椅子に座っていた。だが、その理由が判らなかった。
「・・・・・・ここは、どこ?」
芽依が茫然自失の体で呟く。
<はぁ? 何処も何も、お前の家だろうが。ついでにお前さんが何者か教えておこうか? 聞いて驚くなよ。お前はな、この世界と精霊界合わせても二人といない極悪人だ。恐れ多くも、精霊をこき使うなんて非道にも程がある。判ったか? 判ったら話を続けるぞ。それでお前が言うネオアンガーをおびき寄せる方法だがな。やって出来ないことはないだろうが――>
云々とギリアムの反論口調が続くも、まるっきり意味が分からない。
家? 確かに自宅のダイニングだ。この古めかしさ、この窮屈さ、見間違えようがない。だがこれはどうしたことか。自分はアパートの屋根から落ちて、そのまま意識を失ったはずだ。
そもそも今は何時だ? この明るさだ。深夜、ということはあるまい。
自分は夢でも見てるのか――と思ったが、よくよく思い出してみると、今が対ジュエリストの作戦会議の真っ最中だと、頭の中に情報が流されてきた。如何にして彼女達と戦うのか、それを論じていたのだ。
<・・・・・・何だ? まだ寝ぼけてやがるのか。人間ってやつは何処でも寝るんだな。まったく感心するぞ。まぁ、眠くて屋根から転げ落ちるくらいだからな。判らンでもないが、お前が言い出したことだぞ。しっかりしやがれ>
「私が言い出した・・・・・・」
そうだ、自分が言い出したのだ。戦うべき理由を。事前に考えていた通り、一言一句違えず、全部伝えきった。だからギリアムも一応の理解を示してくれたのだと、思い出した。
どうも頭の回転が鈍い。なかなか前提となる記憶を思い出せなかった。
疲れているのか――そう疑い出すと、何故か無性にシャワーが浴びたくなった。
シャワーには――昨晩入っている。家の中に足を踏み入れてから、馴染みの景色が物珍しく感じたせいで、きょろきょろ見渡した後、一つ一つの動作を思い出すようにして浴室に入り、シャワーを浴びたのだ。
思い出した。思い出してなお浴びたかった。汗一つかいてなかったが、うなじの辺りに残った奇妙な感覚を洗い流してしまいたかった。
「ギリアム。ごめんなさい、まだ少し疲れているみたい。休憩を入れさせて」
<気にするな。お前さんの計算じゃ、今日は現れないンだろ? ゆっくりやったらいいさ>
「異世界が、現れない? そんなこと――」
一瞬、口を噤み、吐き出しかけた言葉を咀嚼。
「――言ったわね、確かに」
良いながら、三度思い出していた。自らの唇から発した予言を。そんなこと出来もしないというのに。
いつもの虚言ではない。何の目的もなく嘘を付くほどうらぶれてはいない。
だが単に口を滑らせた訳でもない。故に、それは自分の言葉ではない。
例え、自らの口から発したとしても。
繋がらなかった線が、ようやく繋がった。違和感の先端を捉えたのだ。
芽依は急いでバスルームに向かう。浴室の扉に手をかけ、そこで急停止。
「立ち入ったら、理由の如何を問わず、別世界に旅立つことになるから」
ぼそりと、芽依は振り返らずに告げてから奥に消えた。
それからギリアムは天井を仰いだ。昨晩に続き二度目の恫喝である。流石にげんなりもする。
<・・・・・・相変わらず判らんね、人間ってやつは。風呂ってのは、それほどの秘事なのか? その割には簡単に入れちまいそうだが>
中で何をしているのか興味がないわけではないが、後が怖い――どころではなく、確実に後が断たれてしまうから、決してその扉の向こう側へ冒険しようとは思わないギリアムであった。
芽依は全裸になってバスルームに入ると、まず蛇口を捻った。しばらくして湯気で鏡が曇り出すと、手で乱暴に擦った。露わになる自分の虚像。眼鏡を外したその顔は、寸分の狂いもなく彼女のものだった。
「出て来なさい。アナタの仕業でしょ?」
果たして、浴室にはザーザーとタイルを打つシャワーの音だけがあった。決闘装束を纏わなくては彼女の声すら聞こえないのか。それともただ黙しているだけか。
「私から、逃れられるとでも?」
鏡面に額をくっつけ、虚像を睨みつける。鏡の中の自分もまた睨み返した。
負けじと、意識のすべてをそこに注ぎ込んだ。額から伝わる冷感で強化すべき部位を明確にイメージ。芽依は聖刻で閉じられた”門”をこじ開ける。
芽依の裏技『部分兵装解放』。その大き過ぎる反動に見返るだけのリターンはない。命に関わる状況以外で濫用すべきではなかったが、折笠詩音の一件がある以上、躊躇していられない。
“門”の隙間から、精霊力が瀑布となって溢れた。局所的に、頭部が決闘装束を纏ったに等しい状態へ遷移。
声は、すぐに聞こえてきた。
「芽依、無茶にもほどがあるよ。変身したときに会いに来てくれれば良いのに」
鏡の中で、目が、口が、自らの意思とは無関係に動き出した。
人生初の降霊術体験。自己催眠状態や演技商法と異なるのは、その光景を完全に俯瞰しているという点。まるで、鏡の中にいるもう一人の自分が話しかけてくるようだった。
「時間が惜しいわ。手短にいきましょう。アナタの仕業で間違いないわね?」
「ええ、そう」
もう一人の芽依は、呆れるくらいあっさりと自らの犯行を認めた。
「でもそれは芽依が考えていたことでもある。私は芽依の記憶から”黒岩芽依”らしく振る舞っただけ。その証拠に彼、疑ってもいなかったでしょ?」
「・・・・・・私になり変わって何をしようというの?」
「芽依。折笠詩音のことを連想しているなら、それは間違いだよ。アタシは芽依と一緒に居たいだけ。“黒岩芽依”になりたい訳じゃない。それにね、正直に言うと、この世界は悲しすぎる。私が独りで生きていくには、あまりにも苦しいことが沢山ありすぎる。だから、アタシは芽依の中で、芽依と一緒にいたい」
「だったら何故体を乗っ取った。私の演技までして・・・・・・!」
感情を押し殺すように声を震わせる芽依に隠れて、鏡は彼女の真意を写さない。
「じゃあ、あのまま玄関先で寝っころがっていた方が良かった? その場合は今頃、病院のベッドの上だよ。点滴2、3本打ち終わって少しは元気になれたかも知れないけどさ」
「それは・・・・・・」
「それに、だよ? 立ち上がって無言でお布団に潜り込むだけじゃギリアムを心配させちゃうでしょ? 変に”私”を出して勘ぐられるのも後が面倒だろうし。適当な言い訳を作っていつも通り振る舞う。最善だったと思うけどな」
病院に搬送されるのと、自宅で休養するのはどちらが良かったか? 考えるまでもない。だがまだ出したものを引っ込める訳にはいかない。彼女が語る言葉が真実である保証は何処にもない。
疑え――そう自分に言い聞かせる。
「なら起床してからは? 私が目覚めるまでアナタは出てくる必要がなかった」
「それは不可抗力。芽依ってばお寝坊さんなんだもん。私が呼んでも起きなかったし、ギリアムが様子を見に来てもそう。それから頬をつついたり、抓ったりして――最後なんてもう凄かったわ彼。息をハァハァさせながら芽依の体を隅々までまさぐって――」「ちょっと待って!? 私は知らないわ、そんなこと!!」
「もちろん冗談」
鏡の中の少女がくすくすと笑った――かと思えば、唐突に芽依の憤然とした表情が書き換える。
「でも彼が様子を見に来たことは事実だよ。凄く心配そうにしてた。だからアタシが起きて、いつも通り振る舞って安心させた。それから暫くして、昼近くになってから誰かさんがお目覚めになった。そういうことだよ」
「だからって・・・・・・」
にわかには受け入れがたい感情があった。もし自分の体を使って、誰かが自分より上手くやってくれるなら――そんな妄想を誰でも一度はしたことだろう。
辛くて悲しいことを避けられて、楽しいことだけを甘受する。もしそんな都合の良い機能が人間にあったなら、それは薔薇色の、理想的な人生となり得るだろうか?
違うはずだ。不都合があるからといって逃げ回っていては、自分という存在の意味を忘れてしまう。己の価値を、自分が否定することになる。それは、断じて間違っているのだ。黒岩芽依はもちろん、彼女だって。
精神が肉体にぶら下がる風船のような存在だったとしても。其処に在る限り、一人の人間として扱われ、生きていくべきだ。誰かの鏡写しではなく、たった一人の人間として。
結果的に彼女の行動は最善だった。芽依の思う様を忠実に橋渡しした。だが、彼女の行いは、芽依の裏側にいたいという彼女の”願い”は、どうしても納得がいかない。
どうすれば良いか、答えなどない。しかし、例え代案がなかったとしても、それは断じて認められないのだ。
芽依の葛藤を感じ入るように、虚像が悲しげに顔を歪ませる。
「芽依。もう無茶はしないで。《部分兵装解放》も、決闘装束も、芽依を蝕むだけだよ。これ以上、あの黒いヤツに芽依の世界が壊されていくのを見てられない・・・・・・」
「まだよ。私はまだ何も成し得ていない。それではこれまでのことが全部無駄になってしまう。確か貴女はギリアムにこう言ったわね。“私の目的は敵討ちではない”、“死んだ人間は還ってこない”、と。その通りよ。私は、ただ復讐がしたいだけ。この街の人間を護れなかったあの子達に、家族を護れなかった私自身に。その為に、私は残された時間を使うわ」
「なら、アタシとの約束は? 力の宝珠を見つけてくれるんじゃなかったの?」
「じゃあ、教えて。力の宝珠は今どこにあるの? この小桜市を隅々まで探したわ。でも見つからなかった。本当にそれは存在するの? 貴女は何でも知ってるんでしょ? だったら教えなさい、今すぐ」
「・・・・・・判らないわ、そんなの」拗ねたように顔を背ける。
「嘘ね。本当は知ってるんでしょ? 力の宝珠の在処を。さもなければ、この世界に存在しないことを。アナタは力の宝珠を欲していながら、その実、何も望んでいなかった。それもそうね。だって貴女の目的は私の中にいることだもの。約束は、私に探し続けさせ、私の中に居直り続ける口実に過ぎない。貴女――私の中で一体何をするつもりなの?」
「芽依の推理は大体合ってるよ。けど、根本的なところがズレてる」
浴室に響く、芯の通った声。
「・・・・・・」
「伝わらないかな・・・・・・私の願いはね、芽依とお話しすることなの。話しをしているだけで良いの。お題なんて特になくたっていい。毎日の何気ないことを話して、笑い合って。たまに言い合いして、何気ない言葉でお互いを怒らせたり、傷つけ合ったり、でも言葉を重ねていく内に解り合えて、安らげる。そんな毎日。特別じゃなくて良い。私が此処にいることを実感できて、私が此処にいて良いんだって思える。それだけで――」「貴女もズレてる」
「え・・・・・・?」
「貴女だってズレてるわ。だって、毎日話しをするだけなら力の宝珠なんていらない。私が毎日会いにいけばいいだけ。そうでしょ? アナタは”力の宝珠を手に入れて”ではなく、“毎日会いに来て”と、私に約束させれば良かったのよ。そうね。もっと平たく言えば、“友達になって”とでも頼めば、それで済んだ話しだわ」
「・・・・・・でも宝珠がなければ、私達はずっと一緒に居られないから。だから私には必要な――」「誰だって永遠じゃない」
芽依は彼女の言葉を遮る。間違いを正すのではなく、理解を促すために。
「この世界はね、みんないずれ消えてなくなる。貴女も、そして私も。だから、そんなこと気にせず、そのときまで精一杯生きればいい。一ヶ月とか、一年とか、猶予なんて大した意味はないの。どうせそのときになったら”もう一日だけ”と望むに決まってる。そのとき、そこ迄で良いと思えたなら、それはそこまで大した願望ではなかったってことでしょ? 願いはね、誰かに預けるのではなく、貴女自身が求め、足掻き続けることに意味があるのよ」
優しく、諭すように。一つ一つの言葉を紡ぐ。
鏡の向こう側からやってくる、互いの痛み。
伝わる/共振し合う/いたたまれなくなる。
芽依は彼女の白い頬に触れた。銀板の冷たい感触だけしかなくても、それでも触れてあげたかった。
「でも、力の宝珠は永遠を与えてくれるんだよ?」
芽依の答えは判っている。それでも彼女は問わずにはいられない。
「要らないわ」
「もう一度やり直せるんだよ? 芽依の家族も含めて、全員で人並みの暮らしを」
「要らない」
例え幾度問われても答えは変わらないだろう。疑いもなく言い切れる。そんな確信が芽依にはあった。
「私はね、自分がした選択の幾つかは、今も悔いてる。けど、恥じているものは一つもないの。今まで色々なことがあったわ。けど、悪いことだけではなかった。慰めなんかじゃない。何かを失ったときは必ず何かを得ていた。私は、決して人生の被害者なんかじゃない。これまでも、そしてこれからも足掻き続ける。自分が最善と信じたことをやり切るために」
「そっか。だから、ジュエリストと戦うことが芽依にとっての最善なんだ」
「そう。私には出来なかったことを、彼女たちにやって欲しかったことを叶えるためには、間違うことが正しい。正すことが間違いだなんて誰にも言わせない。それは私にしかできない、ジュエリストではない私だけにできるたった一つのことだから」
「芽依は強いね、悲しいくらい。宝生ひかり・・・・・・あの子が――」
芽依の細い指先が、鏡に映された薄い唇に触れる。それだけで、不思議と言葉は止まっていた。
「私は、アナタの願いを叶える。だから、アナタも私の願いを叶えるために協力して」
「それじゃ、ギリアムだけ願いが叶わなくて可哀想だよ」
「ギリアムは別に――」
言いかけて言葉に詰まる。ふむ、と思案を漏らす程度の間があったろうか。
「――何か考えておくわ」
ギリアムに関して二人が出した結論は苦笑いだった。
「今晩お話ししましょう。私は何の話しでもいいけど・・・・・・そうね、芽依のために、ジュエリストの防御を突破する方法、なんていうのはどうかしら?」
「ええ、判った。それじゃまた。あちらで会いましょう」
バイバイ――胸の前で小さく手を振った可憐な笑みは、果たしてどちらのものだったろうか?
芽依は俯き、目を瞑った。黙って耐えた。《部分兵装解放》を切断した直後から襲い来る、頭が二つに割れそうなほど酷い頭痛に。
だが、そこにあるのは痛みだけではない。痛みと戦い、勝利を掴み取るための勇気が満ちていた。
芽依はこれから一人で戦いに挑む。決して勝ち得ない戦いだ。だが独りではない。相棒がいる。助言者がいる。小さな力がある。大きな知恵がある。確固たる目的がある。柔軟な意思がある。
足りないものだらけだが、無いものは無い。後はやり方次第。いつものことだ。
さぁ立ち向かおう。さぁ考えよう。
ジュエリストを――宝生ひかりを倒す方法を。
「君は・・・・・・一体何者だ?」
宝石は問う/少女は嗤う。
「市立白月中学二年、黒岩芽依――どこにでもいる、普通の人間よ」
路地裏に、芽依の自己紹介が響く。案の定、疑問も、詰問も返ってこなかった。
「念のため鍵をかけさせて貰うわ。安心して、手荒に扱ったりしないから」
そういって芽依は路傍に置かれた鳥籠に、宝石を閉じこめる。
檻はあらかじめ芽依が用意しておいたもので、ステンレスのフレームに精霊力の皮膜加工を施した特別仕様だ。《聖光》を使った直後で聖霊はまともに動けないはずだが、念には念を入れた。体の半分が精霊力で構成される聖霊は、薄い物体ならすり抜けることができるため、本来は檻など無意味だったが、そこに精霊力が添加されているとなれば話しは別だ。《同質抵抗現象》の反作用が透過を防いでくれるなら、檻の強度は鳥籠程度でも十分なのだ。
<はン? どうやら上手くやったみたいだな>
闇の中から、ずんぐりした巨大な蛙擬きがひょっこりと現れた。不快なその雑音に、心なし弾むような軽さが含まれていた。
「まだ第一段階よ。喜ぶのは早い」
芽依が軽く窘めると、ギリアムは歪んだ顔を絶望的なまでに歪めてみせる。
<喜んじゃいないね。お前の戦術が上出来すぎて、むしろ怖くなってンのさ>
そう、と興味なさそうに芽依は呟く。
「撤収するわ」
その静かな宣言と共に、無事な右手で鳥籠を持ち上げた。
今晩はきっと長い夜になる――芽依には予言めいた所感があった。
ダイヤ(ひかり)はまともに機能しないだろう。肉体的なダメージよりも精神的な動揺、そして決定的な要因である《精霊融合》の欠如。
精霊という歩行器を失ったダイヤは、刻印装具という切り札が使えないだけでなく、従来の力すら発揮できなくなる。
単にジュエリストが一名欠けたのではない。芽依はあのチームの切り札を――、精神的支柱を奪ったのだ。中央制御核の駆逐には、普段以上の時間が掛かることだろう。
そして、このとき芽依は気付いていなかったが、もう一つジュエリストの少女達に深刻なダメージを与えていた。
聖霊ベルケム――ダイヤの相棒にして、実質的に戦闘における総指揮官がいなくなったことで、要所要所での決断に不全をもたらす。
芽依の戦略目標であった『宝石化した精霊の強奪』は、ジュエリスト達の急所を知らず知らずの内に突いていた。
(これで彼女たちはチームとしての在り方を見つめ直す必要に迫られる。そして、あの子も――)
芽依は振り返り、路地裏の闇を見つめた。
「ひかり、私は私の持てるすべてを捧げる。だから、アナタも本気を出しなさい」
「えー、それでは、これより第一回ジュエリスト緊急ミーティングを開催しますわ。司会進行は、僭越ながらこの鳳小夜が努めさせて頂きます。まずはこの場を提供して頂きました宝生さんと、宝生家のご家族に、ジュエリストを代表して御礼申し上げます。また皆々様方には夜分遅く、そして激戦の直後ではありますが、先の戦いで緊急を要する問題が発生したため、貴重なお時間を割いてお集まり頂いた次第で御座います。では早速ですが、第一回のテーマとしては――」「長ぇっつの! 前置きはいいから、早くあの真っ黒黒助について判ってること話せっつーの!」
流暢な口上を、御剣七海はばっさり切り捨てた。その榛色の大きな双眸が、気の立った猫のように睨め付けていたのは、七海の正面に正座した鳳小夜だ。
七海とはあらゆる意味で対照的な少女は、背中まで届く艶やかな黒髪をさっと払う。
そのちょっとした仕草の端々に湛える気品。透明感のある柔肌と、少し目尻の垂れた瞳が、見る者におっとりした印象を与えた。しかし、
「“人の話は最後まで聞きましょう”と、動物園で飼育員の方に教わらなかったのかしら? そんなのだから貴女は未だ人間にメガ進化できないのです」
その柔和な顔立ちの裏には、びっしりと棘が生えている。
小夜と縁が腐って久しい七海には真綿のような刺激だったが、聞き慣れない者たち――例えば七海の隣に座る吉岡夢乃などは、その鋭角具合にギョッとして、丸まりかけた背をピンと伸ばす。
「それが小学生に上がるまでオネショしていた奴の台詞か? 中学生になったんだから、流石にオムツは卒業してるよな。あ、その背だと、まだ小学生だったか」
「なっ・・・・・・! 他人の容姿をあげつらうなんて、貴女は人間として最低ですわ! ちょっとばかし、む、胸が大きいからっていい気にならないで頂けるかしら!?」
「はぁ? 胸・・・・・・? ははぁ~ん? お前、普段からやけに厚着してると思ったら。そうか貧乳なのか。もっと牛乳飲めよ。成長期は終わっていても、頑張れば一年で一ミリくらいは大きくなるかも知んねぇーぞ?」
ちらりと覗かせた傷口を目ざとく見つけては、悪意を塗り込んで嗤う七海。
「――くッ、言わせておけば、ホルスタインの分際で! さっさと搾乳されて垂れ乳になってしまうがいいわ!」
呪詛を込められた悪罵にもどこ吹く風。反対に、どーんと胸を張って小夜を威嚇。予想外の流れ弾をくらったにのは夢乃だ。
「貧、乳・・・・・・」
ぼそり、こぼした瞬間、がちゃりと、部屋のノブが鳴る。
「おまはへ~。ほみもおもっへひはよ――っへ、ほひた?」
片手で扉、もう片方の手には小さな盆。乗り切らないお菓子のパックを二つ口に咥え、宝生ひかりが顔を覗かせる。
飲み物が満載になっているせいでプルプル震える盆を、夢乃は慌てて受け取りつつ、ひかりの出っ張りに目がいってしまう。
部屋の明かりと、廊下の暗がりで陰影が際だっていた。薄手のカーディガンの上からでも、実った果実の大きさがなんとなく伝わってくる。
「・・・・・・夢乃ちゃん?」
夢乃の様子を気にしながら、座布団に座るひかり。全員揃ったところで、夢乃は立ち上がったまま部屋の中をグルリと見渡す――小夜/ひかり(でん↑)/七海、そして自分の胸元に。
何故か子猫の鳴き声が聞こえた。
「ごめんね、たいしたものなかったや。おなか空いちゃった人には申し訳ないけど、これで我慢してくれい」
恐縮しながら、ひかりは歓迎者として、ひとりひとりにコップとクッキーを二、三個手渡す。
「さて、そろそろ話し合いしよっか。あ~、あと一つお願いが・・・・・・こんな時間だしもう少ーしだけ音量を落として貰えると嬉しい。二人の言い争い、下まで聞こえたよ・・・・・・親が起きたら、多分、大変なことに・・・・・・主にアタシが。うちのママ、怒るとおっかないんだなこれが」
両手を胸の前で合わせ、お願いお願いポーズのひかり。
瞬間、七海の猫のようなまなじりが、シャー! っと釣り上がる。
「ばぁぁか! 元はと言えば、ひかりが悪いんだろうが。あっさりやられやがって。あの後、アタシらがどんだけ苦労したか解ってんのか? 中央制御核も今回に限って《奇形》だったんだからな。反省会をお前の家でやるのも、そこで騒ぐのも言わば罰だ、罰」
「これ。宝生さんが悪い、と決めつけるのは尚早というものでしょう。まだ結論は出ていませんわ。 ・・・・・・まぁ、九十五パーセントくらい責任があるかと思いますが」
「小夜ちゃん、それフォローになっていないような・・・・・・」
「ふぇ・・・・・・ほんとにほんとにごめんよぉ。でも、いきなりだったからさ~」
ひかりは眉を八の字に下げて本気で凹んだ。泣き出す十秒前といった感じになってしまうと、少しだけ気まずくなった七海はプイッとそっぽを向く。
「ふん。まぁいいや。じゃ、もう一回状況をおさらいしておくぞ。まず最初にひかりが、あの正体不明の黒い奴から不意打ちを受けた。そうだな?」
「うん。気付いたら後ろにいて。最初のは防いだんだけど――」「その前に」
ひかりが語り出した傍から小夜の横槍。七海は忌々しく舌打ちした。
「どうやって相手は背後まで近寄ったのですか? 仮にもジュエリストの高速戦闘ですわ。尾行されたら気付きそうなものですが」
もっともな疑問に、三人の視線が自然とひかりに集中する――が、期待通りの答えがあるなら、こうして腕組みをしながら小首を傾げてはいない。
「それが全然前触れとかなくてさ。とにかく、いきなりドンッ! って感じで後ろに立ってたのね。隠れてたっていうか――飛んできた、みたいな?」
ひかりの感覚的な説明ではイマイチ伝わらず、夢乃が助け船を出す。
「多分、私と同じタイプの能力、だと思う。あの子が逃げるとき、《電子制御》に良く似た感じの能力、使ってたから。きっと、エストラントセンタービルから私達がバラけるタイミングを伺ってて・・・・・・こう、落ちて来たんじゃないかな?」
夢乃が手振りで落ちてくる物体を表すと、みな思案げだ。
超高層ビルから恐れも知らず急降下――想像するだけ背筋がざわついた。
いくら決闘装束があるとはいえ、本能的な恐怖心を克服するのはなかなか難しい。
決してやって出来ないことではない。だがやろうとは思わない。ジュエリストの少女達が持つその境界を、あの黒衣の少女はあっさり飛び越えて襲いかかって来たのだ。
「・・・・・・んで、何でやられたんだよ。初撃は防いだんだろ? アタシが言うのもなんだけどさ、ひかりの《幾重にも重ねる(ミルシールド)》を突破すんのって、結構骨が折れるぞ?」
「いや、それが。何というか。あの子の手がさ、“うわ、真っ黒になった!” って思ったら、突破されちゃってて・・・・・・何が何だか解らない内にベルケムを取られて、蹴られて。その後はさっぱり記憶がないのです。はい」
あははーと、ひかりの乾いた笑いが響き――はぁ、と溜息がこぼれる。空元気すら枯れ気味だ。
「手が黒く?」夢乃に疑問符が点灯。
「どのような手段にせよ、精霊力の壁を貫いたのです。高出力の精霊力を極点に集中させた一撃、ということでしょう。この破壊狂がやったみたく」きっぱりと小夜。
「七海ちゃん? うーん、どうだろ。力技で壊したっていうより、何かふにゃふにゃになっちゃった、って感じだった気がする。コンクリートで造ったつもりの壁が溶けちゃいましたー! みたいな?」
「溶けちゃいました、だぁ? 《同質抵抗現象》はどうした、《同質抵抗現象》は。精霊力に精霊力をぶつけても作用しないで弾かれんじゃねぇーのかよ」
「それって、私達の知らない――未知の属性攻撃、ってこと?」
夢乃から飛び出した疑問は誰も打ち返せず、重たい空気となって部屋を漂った。
大きな間を見かねた小夜が、仕切り直しを図る。
「その件は精霊たちが戻ったら、改めて確認するとしましょう。まずは経緯の確認を」
現在、話し合いには必ず同席する少女たちの相棒たちが不在だった。
彼らも実質的なリーダーを拉致されたことで動揺しているらしく、精霊側で情報交換と対応方針の取りまとめをする間、現場担当のひかり達に状況の整理を任された次第だ。
「なら次はアタシだな。ちょうど、ひかりがぶっ飛んで行ったところだったよ。現場に到着したときはな。なんつーか、空き缶みたいだったな、ありゃ」
その時の様子を思い出して、七海はケラケラ笑う。
面目ない、と頭を掻いて恐縮するひかり。小夜は不謹慎な発言に、不快を表すように眉をひそめた。
「それから突っ込んで、ぶん殴ってやろうとしたんだけど、いきなり目の前から消えたんだ。んで、いきなし後ろから反撃くらった――と、んん? 言われてみれば、緑に光ってたかもな。だったら、あれは夢乃の《光速短距離移動》ってことか。道理で見えなかった訳だ」
目配らせを受けて夢乃は状況を繋ぐ。
「それから私がスイッチしたの。その子に蹴りを入れて、それで距離を詰めたんだけど――」「ちょっと待ってくださる?」
慌てて小夜が割り込んだ。
「吉岡さん。今、あの黒ずくめの少女に、貴女の蹴りを食らわせた、と?」
「・・・・・・え? う、うん」
「全力で?」
「た、多分。ぜんぜん、手抜きできそうな相手に見えなかったし、七海ちゃん、なんか凄く本気になってて、間に入らなかったらあの子、絶対怪我しちゃうって思って、それで、その、仕方なく・・・・・・」
「《雷撃》も付いてたぞ。デッカいのな」
七海は、よくぞやったとばかりにウインクを贈る。
「まぁ・・・・・・! それで、その方、良く動けましたわね。大したものですわ」
小夜はとんでもなく感嘆する。同じ攻撃を受けた身としては、相手に同情するばかりだった。
「あ、いや、全然。効いてるふうじゃなかった――かも。動きを止めにいったんだけど、反撃されて・・・・・・結局、相打ち、だったし」
「吉岡さん、貴女はこのあたくしと伍す力の持ち主ですわ。もっと自信をお持ちになってもよろしくてよ」
小夜の激励には、僅かばかり苛立ちめいたものが含まれていた。
夢乃の、相も変わらない自己評価の低さ。優れているくせに素直に認められないその感覚が、どうしても小夜には馴染めない。
要するに、自分を認めないことと、自分が認められないことを混同しているのだ。もちろん、そんなものは単なる錯覚だと弁えているからこそ、小夜は軽く流す。
「確かに同じ属性が相手では、効果が薄かったのかも知れませんわね。でも、それならおあいこなのでは?」
夢乃は首を大きく振って否定した。
「私、揺さぶられた」
これもいつもと同じだ。夢乃の言葉はいつも何か足りない。
怪訝そうな顔を浮かべる少女達を見て、慌てて言葉を紡ぐ。
「あの子の攻撃、途中で全然別物に切り替わったの。あの赤い光、あの感触。あれは七海ちゃんの力と同質、だと思う」
「えぇ? そうすると、あの黒い子は夢乃ちゃんのと、七海ちゃんの――二種類の力が使えるってこと?」
唯一その場に居合わせなかったひかりは大層驚く。
無理もない。普通、一人のジュエリストが使う系統は一つなのだ。もちろん、すべての力の源が精霊力だから、理屈の上ではどんな能力であっても再現可能だし、工夫すれば、見かけだけ同じように演出することもできる。
ただ、自分の特性に合わないとかなり出力効率が悪い。なので、相当な偏屈でもない限りは、自然と一系統に特化することになる。
そんな新鮮な驚きを否定したのは小夜だった。
「いいえ。三つですわ。彼女、貴女の《すべてなぎ払う(バスター)》を使ってみせました。威力も宝生さんほどではありませんでしたが――」
その神妙なもの言いには、口にした当人の戸惑いがよく現れていた。実際、目の当たりにしていても、未だ何かの見間違いである気がしてならなかった。
精霊力が奇跡の詰まった弾丸だとするなら、ジュエリストの技は銃器だ。
破壊力、貫通力、初速、飛距離、連射性――備えた機能は様々で、努力次第で誰でも習得可能な汎用的なものもあれば、刻印装具の補助を前提としたジュエリスト固有のものもある。ひかりの《すべてなぎ払う(バスター)》は、間違いなく後者であり、やれといって真似できる類の技ではない。
語尾を濁した小夜に、七海が鋭く切り込んだ。
「じゃ、四つだな。最後の方で幼稚園のお遊戯みたいなのを出してたし。一応はカウントしといた方がいいだろ。除いたところで全く影響はないけど、念のためな」
流し目で了承を求めた相手は、一瞬だけ頬をぴくりとさせるが、能面のごとき無表情を装った――と思ったのは、多分、当人だけだろう。優しく垂れた瞳が、激しく炎上していた。
「お遊戯――とは、あたくしの《物体念動》を指しているのかしら?」
「ほほぅ? 自分の能力がお遊戯だという自覚があったのか。こりゃ失敬」
「ふっ・・・・・・お遊戯に遊ばれてしまうチンパンジーだなんて滑稽ですわね」
“やんのかゴルァ!”→“受けて立ちますわよオホホホ!“と無言の応酬。
目に見えない火花を散らせる二人の間で夢乃はおろおろするばかり。ひかりは苦笑いし、見計らったように新たな疑問を投下。
「みんなの能力を真似する子、か。そうなると、花音ちゃんのもできるのかな?」
「精霊力を固めた剣、だよね?」
ナイスパス! とばかりに夢乃が繋ぐ。
「出来んじゃね? アタシらの中ではいっちゃん単純だしな」
七海がゴールを狙う! これで決着か? しかし、そうは問屋が卸さない。
「それでも考え無しの無鉄砲には不可能な芸当でしょうね。人の能力を盗むなんて、それはそれで相当な技術力ですわ。無謀ともいえる実行力に、引き際を弁えた決断力、そして巧妙な戦略、背後にいかなるシンクタンクがあるか判りませんが、彼女自身がかなり頭の切れる子のようでしたわ。単細胞な誰さんかと違って」
小夜のラフプレーによるインターセプト。まさかのタイミングに、唖然となる七海。
「お前な・・・・・・いちいち人を引き合いに出さなきゃ気が済まない主義なのか? そんなにアタシのことが気になるのか? えぇ?」
「“気になる”のではなく、“気に入らない”と言ってくださいな。もっとも、より気に入らないのはこの場にいないメンバーの方ですが」
そして矛先は意外な方向へ飛んでいく。暗雲立ちこめる場外乱闘の気配がした。
「あはは。また断られちゃったよね。いつになったら一緒にお話しできるかな~↓」
「お話しよりも優先すべきは戦術の合意です。唯でさえ人の言うことを聞かないおサルがいて大変だと言うに、身勝手な行動は謹んで頂きたいものですわ!」
「ごめんね。今度、ちゃんと話してみるから」
「・・・・・・何故、そこで宝生さんが謝るのです?」
「いや、花音ちゃん誘ったのアタシだし。小夜ちゃんの反対を押し切ってさ」
しょげるひかりの肩を、七海がグーで軽く叩く。
「気にすんなよ。コイツがカリカリすんのはいつものことさ。基本、鉄みたくお固いくせに、窒素みたいに沸点低いから」
「は? 貴女、馬鹿ですの? 窒素は常温で気体です。沸点も何もありませんわ」
そのはんなりした容姿に反比例する性格=攻撃最重視=“やられる前にやってしまえ”の特攻精神はジュエリスト随一。
「な? 言った通りの頑固だろ?」七海は肩を竦める。
果たして小夜は皮肉を受け損ねた。しかし、苦笑いで会話されると、流石に黙っていられない。
「一体何の話しですの!?」
「きっかけは、ひかりだったかも知れないけど。その後のことは、本人の問題、じゃないかな・・・・・・」
夢乃から始まる回避策――
「そのとーり。夢乃が正しい。ひかりは悪くない。そもそもお前、本人にはちゃんと伝えたのか?」
――と思わせておいて、ここぞとばかりに反撃に出る謀反人。
「当然言いましたわ!」
「何回も? アタシにするみたいにしつこくしたか?」
「それは・・・・・・」
「誰も彼も、お前みたいに躾られてると思ったら大間違いだぞ」
僅かに強められた語句。反射的に反論しかけて小夜は言葉を飲み込む。何度も咀嚼して、反芻して。ようやく腹に押し込めた。
「判りました。アンバーには後日改めて警告をしてから、少し様子を見ます。ですが、それでも改善されない場合、この合同チームから外れて頂きます。みなさん、よろしくて?」
それは一方的な宣言――とは言い切れないだろう。確かに、戦いに参加したりしなかったりされては戦力として考慮しづらい。一緒に戦うにしても、せめてもう少し協調性があればこんなややこしい話しにはならなかったはずだ。
あの金色の少女――アンバーに抱く心象としては、『好き勝手遊んで回る子供』といった感じだ。ジュエリストとしての実力は申し分ないだけに、身勝手さが浮き彫りになっていた。小夜が口火を切ったが、皆もう少しなんとかならないものか、思うところがあったからこそ、無言で肯定するのだった。
(こんなときベルケムがいてくれたらな・・・・・・)
ひかりは、ジュエリストになってからこれほどまでに心細く思ったことはなかった。
ずっと共に戦ってきた相棒というだけでない。何でも話せる家族のようにひかりは思っていた。それが自分のミスで奪われてしまったのだ。悔やんでも悔やみきれない。
――どうか無事でいて。
ひかりは心から祈っていた。
芽依は心からウンザリしていた。
「ギリアム。少し落ち着いたら?」
<あン? 俺のどこが落ち着きないってんだ? よく見やがれ! どこからどう見てもいつも通りだろうが!>
そう気炎を上げた傍から、狭いダイニングの端から端をえっちらおっちら行き来する巨大蛙。
ジュエリストの少女達との戦闘を終え、帰宅するまでの間は終始無言だったのに、帰宅した途端、この有様だった。
いや、相棒の様子がまともだったことなどないのだが、ここまで気が立っているような場面は記憶になかった。
ただ、その原因は明らかだ。ギリアムの視線は常にダイニングテーブル上の鳥籠から剥がれない。
鳥籠の中には蒼炎を放つ一羽の鷹――《宝石化》を解除した精霊が鎮座していた。だらりと片翼を伸ばしたその姿は、リラックスしているようにも衰弱しているようにも見えた。
精霊の体力状態が判るはずもないので、芽依は取りあえず自分の飲み物の準備しているところだった。
ケトルに水道水を注ぎ、スイッチON。沸騰を待つ間に棚からインスタントコーヒーを取り出す。芽依はコーヒーより紅茶の方を好むが、この時間帯ともなると、眠気覚ましとなりそうな方が飲みたくもなる。
「精霊は、水分が欲しくなるのかしら?」
何気ない質問を投げてみる。誰、と言わなかったのはわざとだ。ギリアムは聞いてもいないのに飲み物を要求してくるのでいちいち確認したりしない。
ちなみに、ギリアムは大抵コーヒーを欲しがる。過去に、芽依は嫌がらせのつもりで振る舞ったのだが、それ以来すっかり虜になっていた。
<捕虜にお伺いを立ててどうする。ほっときゃいいンだよ、ほっときゃ>
「彼は捕虜ではなく『客人』よ」
<人間界では客人を招くのにいちいちさらうのか? ご苦労なこった>
「時と場合、それと相手によるわね。親しい間柄なら、普通はお願いすれば来て貰えるけど。そうでない場合――特に相手が拒絶することが確実な場合は、方法が変わることもある」
ともすれば険のある皮肉を、芽依は埃を払うように軽く退ける。
<もっともらしく言って退けるお前の神経が羨ましいね。あっちじゃ悪くて死罪だぞ。個の自由を奪うんだからな。この世界でも何かの罪になるンじゃないのか?>
「いいえ、ならないわ」芽依は断言「何故なら、この世界のいかなる法において、精霊の権利は一切保証されていない。だから、殺したところで罪には問われることはない――」
その切り口に流石にギリアムも唖然――、
「例え、貴方が彼を殺したとしても」
そして硬直。ギロリと厚ぼったい瞼を剥いて芽依を睨んだ。
「何を考えているか知らないけど、あちらのしがらみは少し置いといて貰えるかしら」
<はン? 何のことか、さっぱり判らンね>
沸騰したお湯をマグカップに注ぎ、テーブルまで運ぶ。
芽依は一連の動作をすべて右手だけで済ませていた。利き手である左手は治療のため、石膏で塗り固められたような状態で、今は使い物にならない。
片手では存外に生活しにくい――そう実感すると共に、母の姿が思い出された。
芽依の母親は身障者だった。歩くときは片足を引きずり、利き手でない方の手では、茶碗以上に重たいモノを掴むことができなかった。
状態は違えども、不自由になって初めて母の気持ちが僅かばかり理解できたような気がしていた。だが、思い出ばかりに気を捕らわれてはいられない。今、洞察すべきは母ではなく、目の前の精霊なのだから。
「お疲れのところ申し訳ないけど、幾つか質問に答えて貰えるかしら?」
籠の中の鷹に話し掛ける――が、返事はなかった。
<ひゃっはっは! 無視されてやがる!>
吸盤の付いた指先で芽依を指して、軽快に嗤うギリアム。
研ぎたての刃物を思わせる黒曜の双眸は、ただ蒼炎の揺らめきを直視していた。
相手とコミュニケーションが取れないことも、ギリアムが調子に乗ることも十分に想定の範囲内。そして、脳内で十回ほど蛙擬きを謀殺したときだ。
「『手は手でなくては洗えない。得ようと思ったらまず与えよ』」
芽依は呟きとマグカップを手元に置き、一呼吸。
「なら最初にそちらの質問に答えましょうか。答えられる範囲で答えるわ」
何でも、と大風呂敷を広げないところが芽依らしいといえば芽依らしいが、その一言にギリアムが苛立ちを露わにした。
<そんなまどろっこしいことしないで、絞っちまえばいいだよ。いつものお前ならそうするだろうが。俺に見せる容赦の無さを見せつけてやれ!>
「それは対ギリアム限定。客人に取る態度じゃない」
<なン・・・・・・だ、と?>
そして今度は驚きを露わに。この世界には謎が多すぎる――とギリアムが驚嘆している最中、声楽者を思わせる重厚な響きが古びたダイニングに響く。
「君は――、そちらの生物が何者か知っていて協力しているのか?」
蒼炎の鷹の第一声。それから両翼を畳み、ゆっくりと体を起こした。
「何者――とは、具体的にどういった意味かしら?」
芽依は慎重に回答し、相手の反応を探る。
「君に力を与えている相棒は、君達人間に仇なす”ネオアンガー”と呼ばれる存在だ。信用しない方がいい。いずれ君を裏切ることになる」
その一言で芽依の胸にあった一抹の不安は消えた。
ジュエリストの精霊達が人類と全く異なる思考をするのではないか――、そんな疑念があった。
ギリアムという『元精霊』がいたが、純粋な精霊には初めて接するのだ。彼らがジュエリストの少女達とコミュニケーションを取っている以上、杞憂である確率は高かったが、こうして実際に話してみて初めて綺麗に払拭された。
精霊の思考は理解の範疇である。この精霊は心理戦を仕掛けて来た。その意味することは精霊もまた、人間を理解しているということの証左に他ならない。つまり、交渉も折衝も可能だということだ。
「ああ、そういうこと。知ってるわ、勿論。でも、そうね。信用しない方がいい、という助言はありがたく頂戴しておくわ」
<そこは捨て置けよ、おい・・・・・・>
いい具合にギリアムが釣れたので、芽依はこれを利用する。
「ついでに我が家の金言として後世に言い伝えるわ。“気を付けろ。蛙は信用ならない”、と」
すっと怜悧な瞳を向けると、ギリアムも芽依の意図を理解したように素早く反応。
<お前の子孫は何の忠告かさっぱり判らないぞ・・・・・・!>
「では具体的に。“蛙を見たら盗人と疑え”――どう?」
<どうも何も、蛙が一体何を盗む!?>
「そう。なら”蛙が話しかけて来たら聞こえないふりをしろ”、これでいいんでしょ?」
<人間以外が話しかけて来るはずがない! いい加減離れろッ、鮮度が落ちてるぞ!>
「判った。“ギリアムと名乗るものを抹殺せよ”、これでいくわ」
<子孫ともども俺の呪いをくれてやる・・・・・・!>
両手を目一杯広げ念力を送るギリアム。その姿は、寓話の中の呪われた怪物もかくや。
「と、まぁ気が置けない間柄でもないから、そのときが来ても大事にはならない。期待するから裏切られる。初めから裏切ることが判っているなら、色々と割り切って付き合えるものよ。不思議とね」
いつも通りの掛け合い。普段と変わらぬ揶揄と皮肉の応酬。常に毒にまみれているから裏切りも怖くないと豪語する少女の言が、果たしてこの蒼炎の鷹にどう映ったかは定かではないが、堅い空気を解く切っ掛けになった。
「君たちの望みは何だ?」
「この街の平和」
淀みなく答える芽依。蒼炎の鷹はしばし考えを巡らせる。
本気か建前か、それとも冗談か。凍った芽依の表情からは読み取れるものはない。
事前に話し合いを繰り返してなければ、ギリアムでさえその真意を知り得なかっただろう。
「我々と対立することが平和に繋がる――本気でそう考える人間がいるとは驚きだ」
「まさか。敵対したところで益はないわ。お互いにね」
その躊躇のない一言に、鷹は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「だが、実際に君は敵対行為を取った。それはどう説明付ける?」
「それは視点の違いね。短期的に見れば損失だけれど、中長期で見れば利益になる」
「何故そう言い切れる」
今度は芽依が回答を詰まらせた。だが、それも一瞬だ。
「貴方の契約者が”宝生ひかり”、だから」
「宝生ひかり? それは誰だ?」
遅くもなく、早くもない、極々自然な間。これが芽依でなければ、すんなりと相手の言葉を信じたことだろう。
「貴方は知らないだろうし、興味ないだろうけど、自己紹介したとき気付かなかったかしら? 私、あの子とクラスメイトなの。クラスメイト――判る? 同じ空間で共に学ぶ人間のことよ。正直、私はあの子のことを大して知らない。理解できないことの方が多いし、実際、あの子の周りにいる子たちの方があの子のことを良く判っていると思う。けど、他の子が知らないことを一つだけ――いえ、二つほど知ってる。もちろんジュエリストであることを抜きにして」
芽依は立て続けに喋った。
「相棒の貴方は気付いてるかしら? あの子、見た目や態度ほど素直じゃない。私と同じか、私以上に、綺麗に歪んでる。でも多くの者は気付かない。何故なら、あの子は周囲どころか、自分すら難なく騙すことが出来るから。普通の人間なら疑問に思うことを丸飲みにしてもちっとも痛くない。だから歪んでいること、それ自体を矛盾なく受け入れられる」
<おいおい、そんなに謙遜するな。誰が何と言おうとお前が一番だよ。間違いない。この俺が保証してやる>
ギリアムがちゃちゃを入れる間も芽依は隙無く観察を続けた。外見の変化は当然のこと、精霊力の変化にも注意を払った。
「知らない人間のことを言及されても回答のしようがない」
蒼炎の鷹はあくまで宝生ひかりを知らない人間として扱う。普通ならここで可能性の分岐だ。果たして、彼女は誰なのか、と。
しかし、確信を得ている芽依にとっては、相棒の情報を漏らすまいと細心の注意を払う知性を見せられているようなものだった。
確かにジュエリスト『ダイヤ』=クラスメイト『宝生ひかり』である物理的な証拠はない。シラを切り通すことは可能だろう。だがこの会話の目的はジュエリストの正体を暴くことではなく、まして相手を論破することでもない。
芽依の目的は、言葉でもって相手を拘束する。しばらくの間――少なくとも、宝生ひかりと対峙する迄の間、この籠の中で大人しくして貰う。唯それだけのことなのだ。
こちらの真意を理解して貰えれば、拘束する必要さえない。だからこそ、芽依は気負うことなく思考を切り替えることができる。
「そう。では質問を変えるとしましょう。貴方たち精霊の行動目的は何かしら?」
「君達と共にこの街を――ひいては、この世界を救うためだ」
即応――空から見つけだした獲物を捉えるが如き反応。
適応――襲い来る爪を見極めんとする鋭利な刃物の如き視線。
「それだけ? 私達の世界のためだけに、精霊力の存在できない別の世界に渡って来た?」
「そうだ。確かに、我々には我々の事情がある。しかし、君達人類と我々の利害は一致している。だからこその協力関係だ。決して互いを裏切らぬよう、我々は契約を交わした。これまで私は君達人類を見てきたが、我々は君達以上に契約を大切にするだろう」
「なるほど。ところで貴方のパートナーだけど、貴方はどうして彼女を選んだのかしら? 他にも候補となる人間が最低四人は居たわけだけど」
あと五人――とは、選ばれなかった者には言えなかった。
「彼女と巡り会ったのは単なる偶然、さもなければ唯の幸運だろう。どのような相手を契約者として選ぶかは、個々の裁量に一任されている」
「ある意味、基準は個々人の好み。そうなると、貴方たちの間でも、他の精霊たちが何をもって彼女らを相棒としたかは把握していない?」
「明確な規準がない以上、そういうことになるだろう。それにしても――」一間。
「君が何を私から聞き出したいのか図りかねるな」
「言った通りよ。貴方に対する私の興味は、“貴方が何故彼女を選んだか”――その一点以外にはないの。今のところね」
「ふむ。では仮に私が何らかの基準を持っていたとしよう。例えば――そうだな、優れた身体能力や強靭な精神力。規範となりえる人格や集団における統率力。果てしない想像力に実現力といった概念といったものだ。彼女はそれらすべてを兼ね備える逸材――とでも言っておけば、君は満足するのか? あるいはその反対ならば。残念ながら、彼女はそのどちらでもない。至って普通の少女だ」
最後の一言は、流石の芽依も面食らった。
ぽかんと、鳩が豆鉄砲を食らったように間抜け面になってしまう。そして、こみ上げたものを堪えきれず、口を押さえることでどうにか破顔を食い止めた。
「精霊が・・・・・・ふふっ、よりにもよってあの子を? 普通って・・・・・・ふふふ」
あれだけ容姿の整った人間を、人間界の住人ですらない存在が普通と評価する。これが冗談でなくて何なのか。いや、精霊から見れば人間は等しく普通ということか――思考を凝らせば凝らすほどおかしさが染み出して来る。
だが不思議と、両者が全く的外れな人物像を描いているとは、露ほども疑わなかった。
「ごめんなさい、悪気はないの。許して頂戴。なかなか面白い冗談――いえ、貴方にとってはそれが正しい。私にとっては――そうね、意味合いとして近いのは前者。でもこれから伝えたいのは後者、といったところかしら?」
「どうも意味が判りかねるな」
「では率直に。あの子は、貴方の期待ほど性能を発揮してない。違う?」
「それも意味が判りかねる。一体何を根拠に?」
「私が貴方の立場だったら、迷うことなく”宝生ひかり”を相棒に選ぶからよ。他に候補の子たちが目の前にいたとしても、やはり私はあの子を選ぶ」
その答えになっていない返答に、怪訝そうな表情を浮かべたのはギリアムだった。
「私はね。あの子のこと、嫌いなの。物凄く。でも本当に成すべき目標があって、真に倒すべき敵がいて、それが自分の力ではどうにもならないなら、感情を排してでもあの子を選ぶ」
何故――と、問われる前に芽依は言葉を繋げた。
「理由は多分、貴方と同じ。同じでなければ、貴方は今後の考慮も配慮も不要な無能精霊ということになる。でも、そうでないと信じているからこそ、こうやって会話しているのだけど――私の勘違いかしら?」
褒め言葉――にしては素直に受け取りかねる評価だった。
だからだろうか、幾つか数えるほど経ってから鷹は意見した。
「ふむ。それは過大評価だろう。私が無能であることは、こうしてこの場にいることからも明白だと思われるが」
淡々と、自虐的に。
「そこは、“君が想定外に有能だった”――そう評すべきだと思わない?」
うんうんと、自嘲気味に。
小首を傾げる芽依の顔に険はない。純粋に、自分の戦いぶりを訊ねてみたかった――そう思わせる表情だった。
「確かに先の戦術は見事だった。実際に五人のジュエリストを手玉に取って、宝石化した精霊を鹵獲したのだからな。あれは君が立案したものか?」
「骨格はね。後はそこのギリアムと、もう一人の私とで肉付けをしてもらった」
「“もう一人の私”?」
「企業秘密――といっても、大した秘密でもないから今度紹介するわ。ああ、紹介といえば――ねぇ、貴方の名前は? いつまでも”貴方、貴方”では堅苦しいでしょ?」
「私の名はベルケム=ウォルハイド=イゴール=ラ=シュニーゼ。三つ目以降は出自に付属するものなので、呼ぶときは”ベルケム”か”ウォルハイド”と」
蒼炎の鷹が名乗った際、芽依はギリアムを――正確には、ギリアムの反応を観察していた。
名を聞いた瞬間、ギリアムは何も反応を示さなかった。ただ、名乗ろうとする直前から歪んで波打つ口をぎゅっと閉じていた。それは何も漏らすまいと戒める心理の現れだった。程度は判らないが、ギリアムはベルケムを知っている。そして、それを悟られまいとしている。今はそれだけ判れば十分だった。
「ベルケム、ウォルハイド、イゴール、ラ、シュニーゼ」
推察は一端置き、芽依は区切るようにフルネームを復唱。口に出したのは一度きりだが、その前後で”蒼い炎”、“鷹”、“バリトン”、“慎重”、“賢い”と名前に関連付く索引を十度ばかり胸の内で呟いていた。
「ねぇ、貴方の相棒は何と呼ぶの?」
「ベルケムだ」
「では私も”ベルケム”と呼ばせて貰うわね。あの子は私のこと”芽依ちゃん”――と呼ぶけど、それは流石に勘弁して貰いたいから、“芽依”でお願い」
「芽依、君は――」
ベルケムが何某か言い掛けた瞬間だった。
<おい、そろそろいい加減にしとけよ。日が昇ったら、“ちゅうがっこう”とやらに行くんだろ。少しでも寝ておかないとまたぶっ倒れるぞ>
「・・・・・・それもそうね。では休ませて貰うわ。ギリアム、念のため確認しておくけど」
<ああ、判ってる。お前が居ないときに勝手に話したりしない。話しかけられても無視する。それでいいんだろ?>
不承不承といった感の返事だったが、ギリアムは納得せざるを得ない。それは芽依の勝手な言動をさせないためでもあった。きちんと公平な取り決めなくては、芽依は隠れて交渉するくらい平気でやってのけるはずだ。ギリアムとしては、協力関係の維持になるべく不用意な情報を渡すわけにはいかず、会話に必ず同席することで両者が合意していた。
芽依が自室に消えたのを確認し、ギリアムは改めて鳥籠を眺めた。
あと二、三時間もすれば夜が明け、相棒が起床してくるだろう。ギリアムにとって今が好機であることは間違いない。
蒼炎の鷹――聖霊ベルケム=ウォルハイド=イゴール=ラ=シュニーゼから聞き出したいことが山ほどあった。
力の宝珠に関する情報は勿論、あちらの/王国の/王女殿下の/状況が知りたかった。
ギリアムの高ぶる感情を察したように、ベルケムが口火を切った。
「ギリアム、君は精霊界の住人だな」
<・・・・・・>
「君がどうやって彼女に取り入ったかは知らないが、我々の世界とこの世界の関係性は説明しているのか」
<さて、どうだったか忘れたね。あの世界がどうなろうと俺にとっちゃどうでもいいことだし、アイツは知っていようがいまいが好きにやるだろうさ。自分に無関係とあっちゃなおさらな。
それよりアンタの方はどうなんだ、あン? 相棒にお願いしたのか、“君たちが暴れ回ると我々の世界が色々とアレだから気を付けてくれたまえ”って――ぐふふ、ジュエリストの奴らが手を抜いてんのはそのせいか、お優しいことだな>
ギリアムには、ベルケムが相棒に真実を語るはずがないと確信していた。確信しているからこその皮肉だった。
二つの世界の関係性など、伝えたところで意味はない。それが判りきったことだからギリアムも芽依にそのことを話そうとしなかったのだ。
自然界なら捕食者であるはずの猛禽は、籠の中で沈黙を守った。
何に対して黙したかはギリアムの知るところではない。だが相手が質問に答えなければ答えないで一向に構わなかった。もし、あちらが探りを入れてきたら、いちいち躱すのが面倒だ。それより何より――相棒が扉の奥で地獄耳を澄ましているかと思うと、これ以上の会話は危険に過ぎる。
早々に切り上げたギリアムがダイニングテーブルの下でごろんと横たわると、ベルケムも身を縮めて休息の姿勢に入る。
そうして、戦う者たちにとって長い長い夜が、ようやく幕引きとなった。
古びてきつく擦れる引き戸を開け放つと、異景が広がっていた。
何も変わってはない。けれど、そこに日常は無く、遠く霞んだ記憶の残骸あとを幻視するばかり。
通い慣れたはず教室が、別のクラスに踏み入ってしまったかのような錯覚――いや、錯覚ではないのだろう。教室の中から向けられた視線は、異物を目にしたときのソレだった。
何故、としか語らない瞳の群れを潜り抜け、芽依は自席へ向かう。
シン――と静まり返った教室が、やがて従来の雑踏を取り戻す。まるで何事もなかったかのように。あるいは、なかったことにしたかったかのように。
ガタンと、一際大きな音を立てて立ち上がる一人の少女――宝生ひかりは、真っ直ぐ芽依を見据え、歩き出した。
吉岡夢乃はそれを止めるべきかどうか迷ってしまった。どちらも正しく、どちらも間違っているような気がして、手を伸ばせず、口も開けなかった。
他のクラスメイトにしても変わらない。ともすれば、雑音は一瞬にして静寂に還る。その瞬間、誰もが固唾を飲んでいた。
宝生ひかりが、黒岩芽依に話しかける。それはこれまでと同じ、そして、これまでと違う結果かたちになる――はずだった。
ひかりが芽依の元にたどり着くより、教室の前の扉が開け放たれる方が早かった。
クラス担任である浅海が、ホームルームを取り仕切りに入室――だが、そんなものは無視だとばかりにひかりの歩みは止まらない。
「おー! ひかりじゃん!! あ、本当に夢乃もいるのな! こうやって会うと何か変な感じすんなー」
快活な声が響き渡った。予想と違った声に名指しされ、ひかりは図らずも振り返ってしまった。
浅海の後に続く少女を、夢乃はぽけーっと口を開いて眺めていた。
どこかで聞いたことのある声色に、芽依の視線は教壇へ流れた。
浅海の隣でモデルのように堂々と立つ背の高い少女――その肌はエネルギッシュな小麦色。肌よりやや暗い色をした茶髪は肩口で大きく外に跳ねさせ、長めの前髪は斜めに流して反抗心と大人っぽさとを演出。
その見慣れぬ容姿もさることながら、服装はもっと分かり易く白月中学の”普通”を逸脱していた。
膝上十五センチは確実であろう紺のスカート×黒ニーソックス。上着の袖と裾に縫いつけられたはずの鍍金の安っぽいボタンは、それぞれ星、髑髏どくろ、テントウムシ、ハート、イルカのブローチに置き換え済み。真っ白なベスト×スカイブルーのシャツは、肌の色も相まって鮮やかに映った。
スラリと伸びた生足や、シャツを大きく押し上げる胸元なんかはやたら婀娜っぽいのに、活力の満ちた榛色ヘーゼルの大きな瞳が、見る者に爛漫な印象しか残さない。
雑誌の中にいる見本モデルが飛び出してきたような豪奢な少女/ニカッと真っ白な歯を見せて人懐っこく笑うだけで、たちまち化学反応=大喝采。
「静まれ、静まれ! 者共!!」
指で耳栓しながら生徒たちを手綱を取ろうとする浅海の表情は、“苦々しい”の一言に尽きるだろう。治まらない頭痛に苛まれたようだった。
一向に落ち着かない教室。浅海は大声で雑踏を割って入った。
「急な話しだが、ウチのクラスに転校生だ! 取りあえず喜――」
「カワイイィィ!!」「スタイルイィィー!」「カッコイイィィ!!」「ヤヴァイィィ!」「ゲーノージンキタァァ!」
浅海の許可を待たずに弾ける叫声/乱射される嬌声。
にわかに教室中が沸騰。芽依の存在など、すっかりどこぞへ吹き飛んでいた。
棒立ちになるひかり。殺到する質問を躱すため、自席への退散を余儀なくされる。
どう収拾したものか間を図る担任の姿を横目にした少女が、一歩前に踊り出る。
両手を広げて”まぁ落ち着け”、とジェスチャー。一斉に口を閉じられたその瞬間、すかさず浅海に微笑+目配せ。
「・・・・・・すまんな。では気を改めて。転校生を紹介するが――時間がないから、お前達静かにしてろ。いちいち騒ぐな。どうせすぐに見慣れるんだ。 ・・・・・・よし、じゃあ御剣よろしく頼む」
「御剣みつるぎ七海です。よろしく」
――――――
――――
――
しばしの間。簡潔すぎる自己紹介に、“え? まさかもう終わりじゃないよね?“という微妙な空気が流れ始めた頃、拍手が静寂を割った。
教室の隅で、一人手を鳴らす芽依。ひかりが、夢乃が続き、やがて教室は拍手で満たされた。最中、不意に芽依と七海の視線が絡む。
すると、壇上から可憐な微笑の贈呈。突然の贈り物をとっさに受け損ね、芽依はぎょっとしてしまう。
それがまた七海のツボを刺激したらしく、壇上で小さく一人笑いする。
「オーケー。御剣の席は一番奥に開けるから、近くの奴はちょっと手伝ってくれ」
「先生」
「ん? なんだ?」
「アタシ、目が悪いんで前の方が良いです」
「・・・・・・お前、さっき”どこでも良い”って言ってなかったか?」
ふむ、と一考し、浅海はまぁ問題なかろうと楽観的裁可をくだす。
「では、こちらの列を一つずつ後ろに――」「芽依の後ろでお願いします」
ざわり、教室がざわめく。何故なら、芽依と名の付く生徒はこのクラスに一名しかいないからだ。
「あー、御剣? お前、黒岩と知り合い――」「お願いします」
七海の笑顔に、浅海が固まった。
完璧。なのに全く心のない、まるで無表情で人を拒絶するような笑顔だった。
一回り以上年長であるはずの浅海が、一人の少女の豹変ぶりに気圧され、思わず”ああ”と漏らしてしまった。
「ありがとうございます」
すると、今度は打って変わって元の人懐っこい笑み。
一瞬の攻防で、浅海は御剣七海の一端を理解した。彼女の華やかさの陰には、得体の知れない何かが潜んでいる。それは、もしかすると黒岩級――いや、彼女があの”御剣”の血縁であることを加味すれば、それ以上の爆弾に――と、浅海が栓のない予感に駆らる間に、当人はスタスタと窓際へ。
教室中の視線を引きずりながら、窓より最前列に座る芽依の正面に。
「よっ、久しぶり!」
まるで十年来の友人のような気安さ/太陽のように燦々と輝く笑顔。
「“下見”ってこの事だったの?」
「まぁーね――って、どうした? その手。すげーことになってんじゃん?」
言われて、芽依は自分の左手――手首から指先までびっしりと巻かれた包帯――を眺める。
感覚的には既に修復されていそうな気がした。ただ、念には念をと、今日明日くらいは様子を見るつもりでいた。
石膏然とした手を剥き出にしてはばつが悪かろうと巻いてみた包帯だが、端から見れば、これはこれで厳めしいようだ。
「ちょっとうっかりしてて――」
言い訳を口にしながら、反対に七海の右手に目が止まった。
そして、息を飲んだ。
「・・・・・・ん? これか? イカすだろ」
芽依の様子に気付いた七海が、手の甲をさする。そこ刻まれた文字――何か意味が込められていそうな――を愛でるように。
(聖刻・・・・・・!?)
七海はそれを隠そうともしない。堂々として、むしろ見せつけるようだった。
芽依は注視したくなる衝動を押さえつけ、肩を竦めてみせる。
「刺青は、ちょっとやりすぎじゃないかしら?」
「刺青なんか入れるかっつーの。アタシはピアスだって”しない派”だぜ? 痣だよ、痣。自然の神秘ってやつだな」
そう、と一つ頷き返し、芽依はそれ以上の詮索しなかった。
下手な詮索は藪蛇――そう判断しただけのことだったが、そんな素っ気ない態度が逆に七海の興味を引き寄せてしまう。
急ピッチで席作りが進む最中、七海はじっと芽依を観察していた。
「・・・・・・何?」
「芽依って、変わってんな」ポツリと。
「貴女の台詞じゃないわね」チクリと。
「・・・・・・違ぇねー」
芽依の指摘に七海は苦笑した。両者言葉の裏には、当人だけでなく、暗にその家柄も含まれていた。
この小桜市において、“鳳”と”御剣”は特別な意味を持つ。両者は市内に住まう人間なら必ずといって良いほど耳にする名士の姓であり、両社はその名を世界中に轟かせる国内最大規模の持ち株会社の名である。この白月中学校に通う生徒の中の親類縁者に、その関係者がいたところで何ら不思議ではないのだ。
以前、名のり合った際、七海が名前だけを出したのは偶然ではなく、怪しまれないようにするための予防線だった、と考えるべきだろう。
ただ、芽依は聞き耳を立てている外野と同じで、いま一つ――いや、半分だけ本物であるか確信が持てない。
もう少しで運び込まれた机と椅子が収まる。七海が動きだそうとしたその瞬間を見据えて、芽依は決め手となる一言を放つ。
恐らく――というか絶対に地雷であることを承知の上で。
「ねぇ、鳳小夜って女の子を知ってる?」
「知らねーな、そんなモヤシみたいな女。どこで聞いたのか知らないけど、関わらない方がいいぞ。たぶん、頭が悪くなる。あと人間性も」
七海はプイっと芽依から顔を背け、ドスンと不機嫌に着席。小夜のときと全く同じ態度に、芽依は微苦笑。
「二人とも、そういうところはソックリね」
「はぁ? ・・・・・・芽依、まさかアイツと会ったのか? ちゃんと塩撒いただろうな?」
「そんなことしないわ。二つに分裂するらしいから」
その冗談味0gの物言いに、七海は思わず吹き出してしまう。
「そりゃ、確かにやんない方がいいわな」
その後も落ち着いて親しげに話す芽依と七海。
(+)御剣七海とお近付きになりたい。
(-)黒岩芽依とは関わりたくない。
(=)見てるだけ。
周囲には、そんな葛藤がよく現れていた。
されど宝生ひかりにはそんなもの関係なかろう。そう、切っ掛けはたぶん宝生ひかりが作り出す。そう期待しての静観でもあった。しかし。
これはどうしたことか、と訝る一部の人間は、むしろ、ひかりの方を観察していたりするのだが、当人はアヒル口で不満を露わにするだけで一向に動こうとしない。
珍しい、と思ったのは夢乃だけではないはずだ。
「ひかり、どうしたの?」
ひかりの隣の席に座る夢乃が、小声で様子を伺った。
「・・・・・・なんか、やな感じなんだ。この辺がざわざわーってしてる」
首の付け根あたりを指先でさするひかり。
「やな感じ? 芽依ちゃん、他の子と話してるんだから、いい感じ、なんじゃない?」
「そうなんだけどさ・・・・・・」
「これが切っ掛けで、みんなと、打ち解ける――かも?」
「そう――なんだけどさ。なんか、よく判んないや・・・・・・」
そう言い残し、ひかりは机に突っ伏してしまう。
他方、歯切れの悪いひかりとは違って、夢乃は一縷の希望を見出していた。
七海はあの通り、気さくな性格である。上手く立ち回ってくれれば、芽依とクラスメイトとの橋渡しが出来るかも知れない。
そんな淡い期待は、昼食の鐘の音と共に砕かれることになる。
「やだね、そんな面倒なこと」
夢乃がそれとなくお伺いをたてた瞬間、七海はそう言い切ったものだ。
それはひかり、夢乃の両名が七海を連れ、校内を案内して回っている途中だった。
案内は昼食に適当な場所を探すついでなのだが、七海は目を凝らして楽しげ。もともとは『教室で』『みんなと』――あわよくば『芽依も一緒に』――と画策していたのだが、主賓である七海が『教室の外がいい』とごねたせいで、こうして散策する羽目になっていた。
窓から差し込む日差しに、七海は榛色の目を細める。
「そもそも、そんな必要あんのか? あいつ、すっげーまともだぞ? やたら落ち着いてて、全然笑わないけど、普通に話せんじゃん」
「それは、そう、なんだけど・・・・・・」
確かにその通りだと、夢乃も思う。彼女は絶対に自分から話しかけないし、極端に人を近付けないが、他人に対して常に攻撃的であるかと言えば、それは違う。むしろ、そうであった例ためしがない。排他的に映るのは、距離感を無視して近付くからだ。
少なくとも夢乃自身はそういった扱いを受けたことがないから、きっと確かなのだろう。この前の流血沙汰トラブルにしたって、あれは金木祐佳と桜井美樹が悪い。本人らは何だかんだと言い訳をするが、悪意があったのは間違いないのだから。
攻撃されたから守っただけ――夢乃は一連の出来事をそう受け止めていた。
「へぇ、こぢんまりしてていいじゃん」
褒めているんだか貶けなしているんだかイマイチ判らない感想に、案内人である二人は苦笑するしかない。
「はぁ? 褒めてんに決まってんだろ? 前の学校なんて馬鹿みたいにデカかったから、敷地内で自転車とか乗ってるやついたし。超アホだよな。学校ってのはこれくらいが丁度いいんだよ」
「聖ユイレール学園、だっけ? そんなに大きいんだ」
想像も付かないスケール感に夢乃は溜息を漏らし、ひかりはポンと手を叩く。
「そういえば小夜ちゃん、何て?」
「何て? アタシの進路だぜ。いちいち言うはずないだろ?」
七海がさも当然のように言って退けると、ひかり・夢乃は揃って足を止めた。
「マジですか? 七海さん?」
「それは、ちょっと・・・・・・ヒドい、ような・・・・・・」
二人は揃って疑問を投げかけるが、当人は平然としたものだった。
「良いんだよ。ほっときゃ。同じ学校たってクラスも違うし、たまに顔を合わせりゃ無視するような間柄だぜ? そんなの別にダチでも何でもないだろ」
「仮にも――いやいや、実際、戦友だって。ちょっとくらい何かあるでしょ~?」
「ちょっと? 何か? 具体的には?」
純粋な疑問を返され言葉に詰まるひかりに、七海は諭すようにのたまう。
「なぁ考えてもみろよ。異世界が出てら嫌でも顔会わせんだぜ? それに今更伝えたところでどうにもならねーさ。学園には戻りません、って一筆書いて来たしな。 ・・・・・・ま、なるようになるって」
一筆、というフレーズが謎だったが、学園あちらではあまりよろしくない学徒だったことが察せられて、なんとなしに口を噤む二人だった。
肝心の場所探しだったが、ひとしきり案内が終わっても、結局、適当な部屋が見つからなかった。人目があれば必ず注目を集めてしまうこの三人には、少々厳しい目標ミッションだったかも知れない。
(・・・・・・芽依ちゃんて、いつもどこで食べてんだろ?)
夢乃はいつも一人教室の外に出る芽依を思い出し、ふと疑問に思う。
「うーん、なかなかいい感じなとこが無い!」
「外にすっか?」
「いや、日差しはあるけど、風が強いから厳しいような・・・・・・」
だが、今、教室に戻るとなると、七海ではないがばつが悪い。どうしたものかひかりが頭を悩ませていると、今度は夢乃がポンと軽快に手を叩く。
「なら・・・・・・ウチ、くる?」
職員室で借り受けた鍵が鍵穴で回転すると、ガチャッと、分かり易い音で解錠を教えてくれる。
どうぞ、と夢乃が調理実習室ウチの引き戸を開け放った。
部活動の名目で実習室を拝借した三人は、奥の調理台を選んで弁当を広げた。
「へぇ~、夢乃が料理部――ねぇ?」
「そんなに意外、かな?」
「謎だな/謎だよね」美しくハモる七海とひかり。
いつもの周囲の反応に、夢乃はしゅんとする。
「陸上部ってイメージがある。じゃなかったらキックボクシングのランカーだな」
「後者って、部活動ですらないよ・・・・・・。わたし、そんなに蹴ってる、かな・・・・・・」
「いや、でも夢乃ちゃん、すっごく料理上手なんだよ? 本気の本気でミラクル美味しいから! あと、アパレル詳しいの。流行の最先端は夢乃にお任せ! って感じだよね」
「それは聞いたことあるな。何? モデルでも目指してんの? 料理が得意なスーパーモデル。何か、すっげーモテそう。エプロンとか三角巾付けてランウェイをキャットウォーク。あははっ、最高にクールだな!」
「おたまを忘れちゃいけませんぜプロデューサー」
ひかりの下手なフリに、七海は持ち前の奔放さで遺憾無く答えてみせる。
「よし、君。そこの中央を歩いて、君自身を表現してみせてくれたまえ」
両手で前髪をばっと後ろに撫でつけ、低い声で指示を出す。絶対バカにしてそうな、悪ノリが過ぎる寸劇だった。
「絶対、やんないから・・・・・・!」
夢乃は唇をへの字にして泣きそうになるのを堪えた。
得意な分野ならノって来るかと思いきや、反対に二人は慌ててフォローに入る羽目となった。
「失礼します」
芽依がノックと一礼をして職員室の扉をくぐると、すぐさま教職員の視線を感じる。
先日のトラブルがあったせいか、芽依は他人の視線に過敏気味だった。
浅海の席までほんの数メートル。本人の着座も確認済み。話しの結論は既に出ている。
慌てる理由は皆無だ。なのに、気持ち足早になっていた。
視線に過剰反応して居心地が悪いのもあるが、その背景には、やはり朝一で訪ねたのにも関わらず後回しにされた経緯があったからだろう。
十中八九、転校生の応対に追われたせいだろうが、芽依はどうにも腑に落ちなかった。
いくら教え子が増えると言っても、転校そのものはかなり前から決まっていたはずだ。学校側も、それなりの準備もして来たことだろう。果たして、直前で慌てるような事態があるのだろうか?
そんな芽依の根本的な疑問に、浅海は聞いてもいないのに答えてくれた。
「ああ、黒岩か。朝は済まんかった。直前になってあの教頭が――いや、教頭先生が”担任を間違って伝えていた”とか抜か――言ってくれてな。慌てて担当予定だった先生と情報共有したり、資料の修正とかせにゃらなくてだな・・・・・・」
「いえ、気にしないでください。それよりお話があるのですが、お昼の後にでも少しお時間良いですか?」
その神妙な物言いを予期してたのだろう。数秒の間があって、浅海は口を開いた。
「ああ、勿論だ。私も少し話しておきたいことがあったしな。昼飯は後にするから、今から生徒指導室で――」
そう言い掛けたところで、奥から浅海を呼ぶ声がした。職員室と横続きになった校長室から教頭が顔を覗かせ、ヒステリックに浅海の名を連呼する。
「あの――、xxxxxxxxx!」
怒りに掠れた声は上手く聞き取れなかったが、聞き取れても伏せ字にしなくてはならない類の常套句であったことは想像に難くない。
浅海は教頭と芽依の間で視線を彷徨わせたが、すぐに意を決した。
「すまん、ちょっと待っててくれ。すぐ戻る」
「どうぞ。お気になさらず」
素っ気ない芽依の態度に浅海は苦笑し、扉の奥へ消えていった。
五分ほど経っただろうか。乱暴に奥の扉が開かれ、大股で浅海が戻ってくる。
古くなった板張り床の軋み具合が、当人の怒りを代弁するようだった。
「黒岩。本当に、すまん! ちょっと長くなりそうなんだ。放課後にして貰っていいか?」
浅海は近付くなり真っ直ぐ頭を下げた。目も合わせず深々と下げられてしまっては、ただ”はい”としか応えようがなかった。
このとき、背後にどんな込み入った事情があったのかは明らかにされなかった。
そして、放課後になっても状況は変わらず、結局、面談は明日に持ち越される約束になった。
担任の怒髪の理由が判明したのは、翌朝のことだった。
「あー、何だ。転校生だ。二日連続だな。つまり二人連続だ。この市立白月中学創立以来の珍事だそうだ。お前ら良かったな。こんな奇跡的な場面に立ち会えて。それもこれも校長先生に感謝しなくちゃいけないな。校長先生がうっかり(?)、うっかり(笑)だろうな。転校生の受け入れがあったことをすっかり忘れてくれていなければ、こんな事態にならなかったはずだからな。何でウチのクラス? とか野暮なことは聞くなよ? ウチはな、成績や人間関係における黄金比率的なバランスがどうのこうのって、先生もよく判らない論理を延々と――君たちがウンというまで――説明しなくちゃいけないからな。嫌だろ? そんなの。先生も嫌だ。昨日聞かされたばっかだしな。君らもまだ未成年とはいえ、社会の一員だ。そこのところの事情は飲み込めるだろ? うん? 判ったか? 判ったら喜べ。新しい仲間が出来たんだ。喜べ。むしろ喜ぶ以外の選択肢があると思うか? ないよな? そうだろ、それ以外無いんだ。道理とか、在るべき論とかはこれっぽっちも存在しないわけだ。だが悲観することはないぞ。良ーく考えてみろ、答えはきっとある。
ちなみに先生はこう考えたんだ。いいか、一度しか言わないから良く聞けよ?
授業で国語はあるだろ? 英語もある。でも独語は無いよな? これで判っただろ。な? そういうことだ。よし。では自己紹介、張り切っていってみようか!」
シン――と静まり返った教室/昨日の盛り上がり様こそ奇跡であったと確信させる空気感。
原因は何だろうか? 担任の壊れようか? はたまた昨日の反省か反動だろうか?
それらもあるだろう。だが、真因は別だ。
教室中が気付いていた。芽依は勿論のこと、ひかりも、夢乃も、七海は――窓の外を眺めていたが判っているだろう。誰がどう見ても、それ故の態度だ。
教壇上には、一人の少女が粛然と立っていた。
凛と背筋を伸ばしたその佇まいには、気品さえ感じさせる。きちっと着こなした聖ユイレールの制服には皺一つなかった。
背中まで届く漆のように艶やかな黒髪。頭頂から真っ直ぐ下ろされた前髪が丁度良い塩梅に梳いてあり、ひっそりと覗く柳眉が上品だった。
そして顔立ちは驚くほど整っている。筋の通った鼻梁、卵のようにほっそりした顎のラインと白く透き通るような柔肌は、『深窓の令嬢』という言葉のイメージをそのまま人の形にしたよう。
そして、少し目尻の垂れた瞳は、深めの二重瞼も相まってどこかおっとりした印象――のはずなのだが、今は永久凍土もかくやといった感のブリザードを放っていた。
普段から怒りっぽい人間が爆発するより、いつもはニコニコしてまったく波風立てないような人間の激昂の方が遙かに恐ろしいのだと証明するように、誰もが壇上の少女と視線を合わせぬよう押し黙った。
「あ~、鳳・・・・・・?」
教室を代表して浅海が恐る恐る問いかけるも、少女はこれを完全に無視。視点はとある一点から頑として動かない。
沈黙が更に一分ほど経過――体感的には三倍くらい長い――浅海はコホンとわざとらしく咳払いをした後、再度促そうと試みた。しかし。
「おい、先生の言葉が聞こえなかったのか? 自己紹介だよ、自己紹介。さっさと済ませろよ。トロくせーな」
そっぽを向いていたはずの七海が、轟然と燃えさかる炉へ、燃料ならぬ”爆弾”を投入。
喧嘩腰――というより、戦争腰で緊張感を煽った。
平和を愛する神様がいたら、きっと天罰が下っていたことだろう。だが、この世に神も仏もない。その現実を証明するかのように、少女はクワッと、眦まなじりを決した。
そして少女の艶やかな唇から、想像を絶する罵詈雑言が吹き荒れる――誰もがその瞬間を幻視――はずが、実際は小さく開閉しただけだった。
少女はそこで深呼吸を二度ほど繰り返し、にっこり上品に微笑む。
爆弾が花束に変わったのを見届け、芽依は胸に手を当てるジェスチャーを止めた。
「先生。自己紹介の前に、一つよろしいですか?」
「な、何だ・・・・・・?」
「教室に小猿が一匹紛れ込んでいるようなので、放逐してから自己紹介を進めたいと思うのですが」
「小猿? そんなものどこに――」
言い掛けて、言わんとしていることが判ってしまい閉口。
「ほら、そこですわ。そこ。ちょうど黒岩さんの真後ろですわ」
指さした先を視線でなぞると、案の定、憤然とする七海の姿があった。
「なんだ、また黒岩の知り合いだったのか?」担任の素朴な疑問。
「先生、それはどういう意味ですの?」少女の意外な食いつき。
「え? あ、いや。昨日も同じような――」「アタシと芽依がダチだってだけさ。な?」
気安く芽依の肩を叩いた次の瞬間、七海は仮面の如き無表情を壇上に向けて徹底抗戦の構えを取った。
「判ったらさっさと自己紹介しろよ、転校生」
――お前もだろう。
七海を除く教室の総員が同じツッコミが入るも、心の中で発せられたものなら当人らに届くはずもなく。
暗雲立ち込める2年C組の中で、この展開を想像していた唯一の人間である芽依は、再び小さくジェスチャーを送る。
人差し指と中指を立て、前に倒す/『無視して先に進め』。
少女は小さく首肯し、くるりと背を向けた。長い黒髪が後を追いかけて、ふわりと美しく舞った。
何をしでかすのか注視される最中、少女は一切の遠慮なくチョークを手に取り、堂々と黒板に殴り書きする。
かっ、かっ、かっ、かっ、と板上に響かせるその音質は、彼女の怒りの丈をぶつけるようにも見えたが、書き出された『鳳小夜』という文字には微塵の乱れもなく、清流の如き美麗な字体に、先刻とは別の意味で、皆、息を飲んだ。
「鳳小夜と申します。どうぞお見知りおきを」
深々と頭を下げる=きっちり斜め四十五度/三秒キープ。面を上げた後に微笑――すべて完璧な所作。
普段、絶対に見ることのない優美な様に、誰もが呆気に取られた。
「先ほどは初対面にも関わらず、大変失礼いたしました。改めてお詫び申し上げます。親の都合とはいえ、急な転校が決まってしまい、少し気が動転していたのだと思います。今は落ち着いていますので、どうか気軽に話しかけてください」一呼吸「それはそうと、わたくし、皆さんとお会いできるこの瞬間を、とても楽しみにしていましたの」一つ高い声で「昨日なんてワクワクしてなかなか寝付けませんでしたわ!」一足に駆け上がり「そういえば自己紹介、でしたわね。何か自慢できることがあれば良かったのですが、生憎と大した持ち合わせてなく・・・・・・ああ、一つだけ、あるにはありましたわ。本来は言うのもはばかれますが、今回は自己紹介ということでお許しください。実は、わたくし、とても多趣味ですの。恐らく皆さんの中で一番数があるかと思います。一例ですが、」一間開けて「書道に舞踊、茶道、弓道、射撃、乗馬。剣道に柔道、それと合気道。語学は英・仏、嗜む程度ですが中国語」一段上がる調子「ピアノ、バイオリンといった楽器を嗜んだせいか、音楽鑑賞はもっぱらクラシック。美術面ではあまり覚えがなく――水彩画と陶芸くらいですわね。そうそう、一風変わったところでは、株を始めとする投資関連もはまった時期がありました。ただ、今一番興味をもって取り組んでいるのは建築学ですわ。構造体の美しさと強度の神秘について興味がある方は是非ともお声掛けください。あたくし、その方とは有意義な議論ができると確信しますわッ!」
小夜の表情には、ショートスピーチに最適とされる時間で纏めきった恍惚感と、まだまだ語り足りない不完全燃焼感が二等分されていた。
そして、どうだ見たか! とばかりに七海を睨みつける。
七海は、手で顔を覆って俯いていた。
――痛すぎる。
当人は痛くも痒くもない様子なのに、何故か他人の頭がずーんと重く感じられるのだ。
その他の面々ときたら、完璧なはずなのに完全に受け損ねた自己紹介をどう消化したものか、自問自答中の真っ最中だった。
仕方ないので、昨日に引き続き、芽依がクラスを代表して拍手を送った。
すると、夢から醒めたように次から次へと拍手が続いた。
やがて万雷の拍手に背中を押されるようにして、小夜はもう一度深々と一礼。
さっと面を上げた少女の白い頬は薄桜色に染まり、こぼれるその笑顔は、美しさの中に年相応の幼さを滲ませ、見る者の胸をトクンと高鳴らせた。
浅海は場が静まる前にゴホンと、わざとらしく咳払い。注目を集めた。
「新しい仲間が増えたが、みんな仲良く頼むぞ。仲良くな」
儚い願望――担任の口から流れ落ちた言葉おもいを、皆、そう感じ取った。
「よし。それでは、これから鳳の席を作る。要領は昨日と同じだからみんな判るな。これが終わればホームルームは終わりだ。さ、平穏に終えるとしようか。先生、鳳の席は対角がいいと思うな。どこの、とは言わないけど対角だ。そうさな。入り口側・・・・・・一番後ろなんてどうだろうか? いいぞー、そこは。何たって後ろには誰もいないからな。落ち着くだろ? それに出入り口近くだ。朝はすぐに自席に付ける。帰りなんて数歩で教室から出られる。トイレだって行きやすい。良いこと尽くめだ。よーし、いい感じだ。これで決定!」
一人異常な盛り上がりを見せる浅海を無視して、小夜は窓際へ。
そして誰もが既視感にさらわれた。
芽依の元へ行くのか――と思いきや、小夜の行動は凡人の想像を超越していた。
芽依の机の一歩手前で立ち止まると、綺麗に九十度回頭。そして、芽依の右隣に座る男子に向かって微笑みかける。
自分を指さして狼狽ろうばいする少年に、小夜は一言。
「あたくし、とても目が悪いので、この席を譲って頂けないかしら?」
その堂々とした物言いは、懇願しているのはずなのに命令しているかのように聞こえるから不思議だ。
男子生徒は咄嗟に浅海を見やる。浅海もまた男子生徒を見つめる。
そこで両名は見解の一致をみた。
――逆らわんとこ?
男子生徒は夜逃げが如くそそくさと机の中の荷物を運び出し、席を明け渡した。
抵抗が無意味だと察した人間はかくも従順なり、と見せつけられ、ぞっとした者は決して少なくない。まして、一歩距離を縮めた小夜が謝意を伝えると、被害を被ったはずの当人がまんざらでもなさそうな顔をするから殊更だろう。
「お久しぶりですわね、黒岩さん。また会えて、わたくしとても嬉しく思いますわ」
着座するなり、小夜が話しかけてきた。
「ええ、久しぶり。それにしても、急な話だったみたいね」
制服すら間に合わないなんて――と、芽依は視線で問うた。
「ええ、本当に急だったもので、私自身驚きでした」
「おい、芽依。こいつの言うことは間に受けんなよ。色んな意味で自分が馬鹿だと思えてくるぞ」
後ろから七海が小声で割り込む。
「あら? 何やら獣の遠吠えが・・・・・・。ここは動物園が近いのかしら?」
「て、んめぇ・・・・・・!」
「ちなみに、制服は業者とタイミングが合わず受け取り損ねてしまっただけですわ。今日の昼にでも届けられるはずです」
芽依の疑問を微笑で躱しながら、小夜は一限目の教科書を広げた。
教科書は何の折り目もついていない新品だ。それはいいとして、ノートも、筆記用具ですら使われた感触あとがないのはどうしたことか。
――まさか、全部ほっぽりだして来た?
そんな予感を抱くも、芽依は質問を押し殺した。ところが、
「お前、またやりやがったな?」
七海が語気を鋭くして切り込む。小夜は黙って睨みつけることで、詰問そのものを握りつぶそうとした。
二人の衝突は昨日とは別の化学反応を起こし、たちまち不穏当な空気が充満。芽依は――仕方なしに――換気に注力せざるを得なかった。
「鳳さん、判らないところがあれば聞いて――といっても、私もここ一、二週間ばかり休んでいたから、把握できていないところが多々あるのだけど」
そう言って、わざと怪我している左手を上げて見せつけることで、怪我の本当の理由/切っ掛けを話さなくて済むよう、小夜をミスリードする。
「問題ありませんわ。だって貴女は学年主席ですから、それくらい、すぐに取り返してしまうのでしょう?」
その情報は誰から? と、安易に驚きを見せたりはしない。芽依から成績の話しをした覚えはないのだから、情報源は浅海辺りに限定される。
ということは、芽依が主席であることを聞いたのではなく、主席が誰かを聞いたら芽依だった、というニュアンスになるのだが・・・・・・。
「幾ら私でも二週分は大きいわ。追いつくまで――そうね、五分くらい掛かると思う」
「それ、早すぎやしませんこと? 本当に遅れていたのか怪しいところですわ」
「なるほど。おだてられて、少し見栄を張りすぎたかしら? では多めに見積もって五分×三ヶ月としましょう。これなら十分だと思う」
「今度は遅過ぎです! それでは次回のテストに間に合いませんわ。もう少し頑張って頂きませんと・・・・・・」
「頑張る? 何故?」
何故、と問われるのが予想外だったのか、小夜はぐっと答えを詰まらせた。
しばし黙考し、それから芽依を真っ直ぐ見定めた。
「一番は、退屈ですから」
そう言って退ける小夜の表情は、どこか寂しげだった。
一番を目指すのに、それを嫌だという矛盾。
一番になるのが前提であり、当然であるという傲慢さ。
一番になる努力を積み重ねてきて、これからも積み上げる覚悟。
その一言には、『鳳小夜』という人間の在り方が敷き詰められている気がした。
ただ高みを目指していたい。同じ頂きを目指す好敵手を見つけ、競い合いたい。
生徒の成績を聞き出したのは、そのための布石であったのだろう。
優美な装いに隠された飽くなき闘争心と好奇心。その一端が多彩/多才すぎる趣味。
競う相手は常に自己であり、一つの完全性を追求し、結果的に一番になった芽依とは全く異なるモチベーションの持たせ方だった。
芽依が黙って『鳳小夜』の人となりを解剖していると、小夜が訝った。
「・・・・・・わたくし、また何かおかしなこと言ってしまいましたか?」
刹那、芽依の脳裏に既視感。
甦る苦々しい記憶――
疑問――前向き過ぎるほど前のめりな性格を、周囲の人間はどう思うか。
前提――人間、誰もが同じ感情を共有しているわけではない。
推論――近くにいるからといって、同じモチベーションを維持している訳ではない。
持論――押しつけられる善意と熱意ほど鬱陶しいものはない。
極論――本人に悪意がないから、なお悪質になる。
結論――己の善行に陶酔する者は、酔いが醒めるその瞬間まで、己の悪行を知らない。
――刹那で殴殺。
「いいえ。少し考えていたの。私が鳳さんのフォローをするということは、結果的に私の座を狙うライバルを利することになる。ならば、ここは一つ間違った情報を流して混乱を誘っておくべきかしら、と」
魂胆を吐露してしまうのは実直さなのか、余裕なのか、冗談なのか図りかねたが、小夜としては望むところだ。
「情報戦は現代における基本戦略です。大いに望むところです」
先日してやられた借りをここで返しておくべし、と。強気の笑みでもって応えた。しかし、
「では早速。鳳さん、ほっぺにご飯粒が付いているわ」
「それは私が求める情報戦とは何かが違います!」
端から肩透かしを喰らってしまう。
「鳳さん、肩に霊が付いている」
「何気に気になってしまう情報ですわね!?」
ふぅ、と大きく息を吐いて小首を傾げる芽依。
「冗談はさておき。鳳さん、一限目は数学よ?」
「え? ですが、火曜の一限は英語のはずでは――」「もちろん冗談。本当は国語よ」
ここまで来れば流石に、自分はからかわれているのだと悟る。
「ですから、わたくしが言いたいのは、もう少し高尚な・・・・・・」
「鳳さん。その認識は甘い、と言っておくわ。基礎をおざなりにして高みに上り詰めた人間はいないのよ? 偉業とは、多くの失敗の上に築かれる白亜の塔。つまり、戯れ言の海の中にこそ、真理という名の真珠は眠っているのよ」
言い回しだけ高尚な雰囲気を醸しておきながら、中身の無い提言をぶっ放す芽依。
小夜はこめかみに指先を当てて、疼痛を感じているかのようなポーズを取った。
「・・・・・・黒岩さん? 幾ら情報戦といっても、度が過ぎれば立派な『狼少年』ですわよ?」
「そうね。でも私は『少女』だから心配無用」
「本質的な理解が間違っています! 嘘つきは信用を無くして痛い目に合う、という俗諺ぞくげんですわ!」
「では、鳳さんの忠告に従って黙るとしましょう――既に先生がお待ちよ」
芽依の視線に促されて小夜が振り返る。教壇には誰もいなかった。
席替えはとうに完了しており、浅海もいつの間にやら退散済み。教室には、ホームルームと一限の間の弛緩した空気が流れ始めていた。
また騙された! と小夜が己の脇の甘さを猛省した瞬間だった。
「始めるぞー、席に着け」
一限目の英語担当である男性教諭が顔を覗かせた。
騙してもいないし、騙されてもいない――その、ちょっとした驚きに小夜が振り返ると、そこに本当の驚きようが待ち構えていた。
教室の中で唯一人、己の作業に没頭した隣人。一瞬にして頭を切り替えたのだと知れる眼差し。秋の斜光を受けて輝く、黒岩芽依の凛とした姿。
どんな美辞麗句より、その光景が小夜の心に強く火を灯した。
昨日の今日に転校という無計画極まりない無茶を、通すべき筋の無い馬鹿を、とりつくり様のない恥を、あらゆる矛盾をやっと飲み込めた。両親、そして祖父にまで頼み込んだ甲斐があったと、初めて思えた瞬間だった
昼休みになると、調理実習室では昨日に引き続きジュエリストの少女らによる昼食、兼緊急ミーティングが開かれていた。
「小夜ちゃん、驚いたよ~本当に! 七海ちゃんもそうだけど、何で一言いってくれないかな~?」
ひかりのやんわりとした抗議に、夢乃がうんうんと頭を縦に大きく振ってみせた。
「驚かせてしまったことに関してはお詫びしますわ」
丁寧に頭を下げた小夜は、公言通り白月中学校の制服に身を包んでいる。
それは昼休みの始まりを告げる鐘がなった直後のことだった。ひかりら四人が教室を飛び出すと、どこからともなく黒いスーツに身を固めた妙齢の女性が現れた。
女性は四人と目線すら合わせず、そのまますれ違う。そして小夜は悠然とトイレに向かった。その手の中には、数秒前には存在しなかった紙袋。
ともすれば、法的に危険アレな代物ブツの如き受け渡しから二分と経たずして、小夜は折り目正しく、まるで学校紹介のパンフレットに載ってそうな楚々とした佇まいで現れ、ひかりと夢乃の度肝を抜いたのだった。
こうしてまじまじと眺めていても、違和感皆無。“着こなす”とは、こういう服と人の関係を指すのだと、改めて教えられた気分だった。
「ですが、これも自分の進路です。しっかり自分の頭で考え、決めたことです」
暗に、『相談しなかった点に関してはちっとも悪く思っていませんわ!』と、七海と同じく明言/迷言。ひかりと夢乃は顔を見合わせて苦笑いするばかりだ。
その一方で、小夜の言動に最も過敏な態度を示すであろうその人は、ムスッとしたまま一向に喋ろうとしなかった。
「らしくないですわね。何か言いたいことがあるなら、はっきりおっしゃいなさい」
「・・・・・・お前、いつから芽依と知り合いなわけ?」
七海らしからぬ、歯切れの悪いくだりだった。
「あ、それ。私も、聞きたかった。凄く、仲良さそうだったから、ちょっと、ビックリしたんだ」
次いで、夢乃が興味津々といった感で問うた。
「いつから――というか、先日たまたまお会いして、少々お話しただけですわ。それが何か?」
「お前はアイツに近付くな。アイツが駄目になっちまう」
「駄目になる?」
ひかりと夢乃の疑問が重なる。
「コイツさ、人を腐らせる天才なんだ」
七海の嘆息、そして小夜を横目に。
「さっきの頭の悪い自己紹介聞いただろ? 要するに、あからさまな自慢なんだけどさ。実は一つ一つが半端なくて、趣味とかいうレベルじゃないわけ。面白くないことに、何やらせても大抵一番になりやがんの。
んで、酷いのが、興味を持ったことには手を出さずにはいられない、そいつが持ってるプライドをズタズタにしなけりゃ気が済まないっつー、ひっでー性癖な。コイツに絡まれると、大抵のヤツはこれで参っちまう。んで、そういう一芸がなかったり、プライドも持ち合わせてないヤツにはお得意の言葉責めだ。
ちょっと前の話だけどな。前の学校に、イケメンって評判の男子がいて、何をトチ狂ったか、コイツにちょっかい出したわけ。そいつ、何て言われたと思う? 『貴方は中身が空っぽでつまらない』、だぞ? 何様だってんだよな」
小夜は眉間に皺を寄せて不快感を露わに。夢乃はリアルな想像して、思わず身を引いてしまう。
「事実をありのままに言っただけですわ。それに誤解無きように言っておきますが、その方は、わたくしが”貴方には興味がないので近付かないでください”と口を酸っぱくして言ったにも関わらず、何故かことあるごとに言い寄って来るから、近付かないで欲しい理由をきちんと伝えたまでです。何も悪いことはしていませんわ」腕組みして自衛の構え。
「それって、もしかして、小夜ちゃんのこと、好きだっただけじゃ・・・・・・」
「うーん、若気のいたり・・・・・・かな?」
二人の何気ないコメントに訝る小夜。
「わたくしを好き? 何故、そんなことがお二人には判るのですか? わたくし自身、一言も聞いていませんのに・・・・・・」
「とまぁ、それは置いといて。もっと酷いのはな、もうちょっとしたたかなヤツだな。知ってるか? こいつんち、超が付くほど金持ちでさ、おまけに色んなとこに顔が利くから、今回みたいなことも平気でやってのけるわけ。んで、そういう”家庭の事情”を知ってるヤツは世の中結構いてさ。近寄って来るんだよ。何かおこぼれにあずかれないかって。そしたらコイツ、どうすると思う?」
「いっぱい奢ってあげる?」
無邪気すぎる夢乃の回答に対し、ひかりの妄想はもう少し安直だった。
「バラ撒きで票集め!」
「一体どこの政治家ですの?」
小夜はささやかにツッコミ、七海は甘い! とばかりに指さす。
「逆。逆。何も与えないんだよ。それどころかニッコリ笑いながらパシる。飼い犬におもちゃを投げて、持ち帰ってきたら褒めてもう一回行かせる、みたいなイメージだな。
いっつも取り巻きみたいなのが三、四人いてさ、でも一緒に遊んだり、奢ったりしないんだぜ? たまに何か一緒にやったらやったで、真剣勝負ガチになって泣かされる。
はっきり言って普通の人間には手の負えない重すぎる女だ。でも何故か取り巻き『予備軍』みたいのがいっぱい居てな。ぼろぼろになって脱落したヤツから交換されていく仕組みになってんの。ほんと、世の中どうなってんだろうな。物好きが多くて困るぜ」
七海から幾ら叩かれようが気にも留めない小夜だったが、ほんとなの? というイタイケな視線を夢乃から浴びせられては、流石に居心地が悪そうだ。
「これも誤解無きようお伝えしておきますが、決してそんな事実はありません。わたくしが友人と遊び歩かないのはひとえに無駄な時間がないからです。やるべき事とやりたい事が山ほどあるため、平日はもちろん、休日も余裕がないだけです。遊びにいかなければ奢る・奢られるという機会がないは当然。小間使いのような真似をさせたことがない、というのは嘘になりますが、その場合は重ね重ねの確認を取った上での話しです。強要したことなんて、それこそ一度もありません。勝負事で真剣になってしまうのは性格です。他意はありませんわ。
・・・・・・確かに、わたくし個人よりも別の何かに興味を持たれる方は多くいらっしゃいました。ですが、それではせっかくお近付きになれた意味がないと、わたくしに興味を持って頂けるよう色々と勧めたり、わたくしからその方の興味ある事柄を学んだりと、わたくしなりに意識を共有しようと努めてきました。これは、より多くの方と関わり合いを持つことは有意義だというおじいさまの至言でもありますし、貴女にとやかく言われる筋合いはありませんわ」
「お前がどう思っていようと、事実は事実だろ? アタシはダチを大切にする。学校の内側だろうと外側だろうとな。けど、お前はダチを消費する。 ・・・・・・お前さ、他のヤツのこと、自分の付属品くらいにしか見えてないだろ?」
「違います。わたくしには尊敬し合える友人が沢山います」
「・・・・・・じゃあ、その中にお前が対等だと思える奴いんのか?」
「いますわ! もちろんッ!」
勢い――と思わせるその反応は、じっくり考え出したらもしかすると出てこないんじゃないか――なんて一抹の不安を抱かせるような強さがあった。
「そんな人間に、アタシのダチを関わらせたくない」
続く七海のその一言は、小夜の逆鱗に触れる。
今までとは一線を画し、小夜は柳眉まで逆立てた。
「同じことをそっくりそのままお返ししますわ。関わらせたくない? はっ、貴女のような粗暴な人間が、彼女のような静謐を旨とする方の近くにいる、それこそが既に罪ですわ! 普段から夜な夜な出歩き、学校からマークされるなんて朝飯前。果ては乱闘事件を起こして停学。そのとき十人ばかりを病院送りにした貴女の悪名が学園に与えた被害など、金額では計り知れませんわ。校長を始めとする教職員や事務の方々がどれだけ対応に追われたかご存じ?」
「乱闘? 停学?」夢乃の口が開いたまま塞がらず、「十人、病院送り?」ひかりは飛び出した数字がピンとこない。
「んなことアタシの知ったことじゃない」
「なら、事件のもみ消しに、貴女の家が支払った示談金が幾らだったか教えて差し上げましょうか?」
瞬間、素っ気ない態度を貫く七海が、強く歯噛みする。
だが、それでも押し黙った。口当たりの良い言い訳もなければ、賢しく武勇伝を語りもしない。
「何か弁明の一つでもしたら如何ですの?」
「まぁ事実だからな。特にねぇーよ」
「貴女はそうやって・・・・・・!!」
とことん突き放した態度に逆行するが如く、小夜はずんずん詰め寄った。
「ストォォーップ! どうしちゃったの二人とも!?」
「七海ちゃん、小夜ちゃん。ちょっと、落ち着こ?」
「アタシは冷静だ。熱くなってのはアッチだろ?」
そう言った七海は、いっそ無機質に思えるほど暗い瞳をしていた。
「とくにかく、お前はアイツから離れろ」
「・・・・・・七海ちゃん。あのさ、何か芽――黒岩さんのこと、随分と、その、気に掛けてるみたいだけど、何か、あったの?」
ひかりが怖ず怖ず訊ねると、七海は逆に不思議そうな顔でひかりを眺めた。
「いや別に? アイツのこと全然知んねーし。まぁ気に入ってるってのは確かかもな。アイツの傍は静かでいい」
「そういえば、そうですわね。あの席から離れた途端に大勢に囲われてしまいました。席に戻るとさっぱり途絶えて不思議に感じたのですが・・・・・・」
二人の所感に、夢乃は微妙な表情を浮かべる。
「ちょっと気になったんだけどさ。アイツ、何かみんなから嫌われてんの?」
それをつぶさに読みとる七海が鋭いのか、はたまた小夜が鈍いのか。
「嫌われてる? 何故ですの?」
「知らねーから聞いてるんだっつーの。昨日今日の感じだと、何か、ひかりの近くが馬鹿みたいに騒がしくて、芽依の周りがお通夜みたいだけどさ。これってデフォなん?」
「嫌われてるのは、どっち・・・・・・かな」口を濁すひかり。
「なんか、昨日から雰囲気がいい感じだから、これでいいかなって、そう思ってたけど、二人ともクラスメイト、だもんね。だから、ちゃんと、話しておいた方がいいよね」
夢乃が躊躇いがちにひかりの様子を伺う。ひかりは良いとも悪いとも言えず、伏し目がちだ。
「実はね――」
夢乃はこれまでのことを掻い摘まんで話した。
二年に進級してからの芽依の態度。クラスでの隔絶。ひかりとの確執。そして、避けては通れない事件――通称『花瓶事件』。
記憶に新しい流血沙汰があって、芽依が暫く登校しなかったこと。そして、後から知れた家族の不幸。
夢乃がたどたどしく話す間、七海と小夜はじっと耳を傾け、一言も口を挟まなかった。
夢乃がすべて話し終えても、暫く言葉がなかった。
「・・・・・・なんか強烈だな。まぁ、クラスの奴らの態度も頷けるか」
「いいえ、まったく腑に落ちませんわ。それだけのことをしておきながら本人に謝罪すらしていないなんて」
真っ向から対立する意見。
「そりゃアタシらのせいだろ? 空気が変わっちまったから何となく流れた。良くあることさ」
「それは・・・・・・そうかも知れませんが――筋は、通すべきです」
「だな。このままじゃみんな気持ち悪ぃもんな」
七海は短く同意。それが意外だったのか、小夜は目を丸くした。それを誤魔化すように咳払いを一つ。
「それはそうと、今一つよく分からないのですが、この前のトラブルはさて置き、宝生さんは何故黒岩さんに嫌われているのですか?」
「ひかりのことだし、どうせ何かやらかしたんだろ?」
「えぇ? 何もしてないよ・・・・・・あたし、く、黒岩さんと仲良く、なりたいし。むしろ」
「・・・・・・語調が乱れていますわね?」
「いや、ほんとにほんとだよ。これでも一年の最初のときはすっごく仲よかったし。なんか、いつの間にか距離が空いちゃったけどさ」
その一言に二人は顔を見合わせて同意する。
「実は、心当たりがあるのでは?」「もう過ぎちまったことだ。気にしないでゲロっちまえ」「落ち着いて、深呼吸してから、胸に手を当ててじっくり考えてみると、何か思い出すかも知れませんわよ?」「おうおう、お前がやったんだろ? ええ?」
七海が長方形キッチン台をドンと叩き、小夜は器用にパントマイムで卓上ライトを造り出してはぐいっと向ける。
あぅ、と眩しいフリをしておどけてみせるひかり。
「刑事さん止めてくださいよ。あたしゃ何もしてません。心当たりがないものはないんです」
いつも明るくて、誰に対しても優しくて、ノリが良いけど少し天然――そんな印象しかない”宝生ひかり”と理性の塊のような”黒岩芽依”が仲違いする理由が良く分からない。
例えそれが上辺だけのものだとしても、フリをするくらいは出来そうなものだが。
「んじゃ、質問を変えるぞ。ひかりは何でそこまでしてアイツに拘んの? 別にほっときゃいいじゃん。何で?」
ひかりは矛先が完全に自分に向いているなーと、困ったように頬をかく。
「いやぁ・・・・・・それはさ、何というか。クラスメイトはみんな仲良く、って思うのは普通じゃない?」
「そうか? アタシは色んなヤツがいるってのが普通だけどな。もし、“私誰とも仲良くしたくないぜー”ってはっきり主張してるやつがいたら、そいつの意見を尊重するぞ?」
「そんなことしたら、その子きっと虐められちゃうよ。普通にしてないとさ」
「普通? んじゃ何か? ひかりは芽依のヤツが虐められないように仲間に入りなよって伝えたかったのか?」
七海の追求にひかりは首を横に振る。
「そんな偉そうな話しじゃないんだけど・・・・・・。ただね。黒岩さん、家の事とか、色々あったから。的が分かり易いとさ、狙われちゃうし」
その言葉は、この場にいる全員が味わったことのあるであろう感覚――人とは違い過ぎるという感情/疎外感に訴えかけるようだった。
優れた容姿。卓越した才能。華々しい家柄。悪目立ちする要素を持って生まれた人間を待ちかまえる落とし穴は、いつだって、どこにだってある。
全員で考え込んでしまい、時間だけがいたずらに過ぎた。持参した弁当の箸も進まず、昼休みも残り少なくなった頃だった。
小夜が唐突に口を開いた。
「そういえば――、明日はアンバーが転校して来ると言ってましたが、皆さん聞いてらして?」
「ええ!?」ひかり/「本当!?」夢乃/「嘘付け(ダウト)」七海。
真っ向から切って捨てられ、小夜はむっとする。二勝一敗の冗談だから気にすることでもなかったが、とにかく言い方が気にくわなかった。
「本当に面白くないですね、貴女という人は」
「面白くないのはお前の冗談の方だろ? アイツはお前みたいに人のケツ追っかけたりしないし。あと、芽依の真似したつもりだろうけどな、冗談言ってやろうって感じが丸出しだったぞ」
「だ、誰が貴女の、け、け、け、ケツ、なんか――」
図星を付かれ頭が瞬間沸騰。火を噴きそうになるのを堪えると、恥ずかしいのに恥ずかしさがどこかに隠れん坊。留守を狙い澄ましたように、ちらり、と目線に入ってくる艶めかしい腰回り。
「――言われてみれば、目印としては十分過すぎるほどですわね!」
普段なら絶対に言わない/言われたくない身体的特徴をつついてしまう。
「は、はぁ? 何言ってんだお前。別に全然デカくないし。超セクハラだし。お前の方こそ、いい加減、蒙古斑とれたのか?」
「そんなものはもう付いていませんッ! 貴女の方こそ、し、し、し、下のアレはそろそろ――」
そうやってやんややんやとトラウマドロップキックに、フライングコンプレックスアタックで相打ちを始める両者を眺め、ひかりは安堵した。
(良かった。・・・・・・うん、いつもの光景だ)
何に安心したのか自分でもよく分からないまま、ひかりは締めに取っておいた言葉を放つ。
小夜が溜めているであろう雑感おもいを引き出す引き金となるキーワードだ。
「小夜ちゃんがそんな冗談言うなんて、なんか意外だった」
強調された一言に、はたと小夜が口撃を止め。思い出したように言った。
「意外と言えば、吉岡さんが料理部というのは正直、意外でしたわ。わたくし、てっきり陸上部か、バスケ部。さもなければキックボクシングのランカー――」
「それもういいからッ!」
夢乃の悲痛な叫びが、場に新鮮な空気を送り込む。
七海は昨日を思い出してケタケタ笑い、小夜は何がおかしいのか分からずブツブツ呟き、夢乃はウジウジ丸まった。
ひかりは、その場に溶け込むようにニコニコ笑顔を浮かべていた。
三度目の正直。その思いで芽依は生徒指導室の扉を叩く。返事はすぐに返ってきた。
室内は飾り気が少なく、一見して変わった様子もない。厳めしい名前の割に、これといって生徒のプライバシーに配慮されているわけでもなく、ただ長机が二つ横並びになっていて、周囲を幾つかのパイプ椅子で囲われただけ。
強いて特徴を挙げるなら、圧倒的に狭い、というくらいだろう。容積は普通の教室の半分もないので、椅子を引くと壁に当たってしまうほどだ。当然のことながら、幅に比例して窓が少なく、斜陽を仕切るためカーテンを引いてしまうと室内が薄暗い。圧迫感――とまでは言わないが、相手次第では息苦しく感じそうな気がした。
「昨日今日と、ドタバタしてしまって済まんな」
浅海が手で着席を促す。芽依はパイプ椅子に腰掛けるなり、口火を切った。
「お忙しいようなので手短に。私、今週一杯で転校します。手続き必要な書類があればサインしますので、お願いできますか?」
それは相談ではなく唯の依頼。事務作業の確認だった。浅海は暫し言葉を失い、じっと芽依を見る。
「そうか。残念だな・・・・・・」
「そうでもないと思いますよ。二人増えて、一人減る。問題児が減った分だけ纏め易いだろうし」
「私自身は黒岩を問題児だと思ったことはないよ。むしろ、あの二人の方がよほどやらかしてくれそうな気がするがな・・・・・・」
「そうでもないんじゃないですか? まぁ、生徒は生徒ですから、気楽にやったらいいと思います」
「生徒に励まされてしまった・・・・・・お前は、少し可愛げが足りないな」
「自覚してます。一生身につかないだろうな、って」
おどけるでも、自嘲するでもなく、冷静に評価してみせる芽依。
急な環境の変化があったにも関わらず戸惑い一つ見せない生徒に、浅海は不安を抱く。
動揺してたり、憤慨したり、開き直っていたり、はたまた自棄になっていたり――と、苦難における心の在りようは人それぞれだ。だが、普段より触れ幅が大きくなって然るべきではないか?
年頃の少女だ。逆に無口を貫き、自分の中にわだかまりをため込む子供も多くいることだろう。しかし、誰かに打ち明けたいのに傷付くのが怖くて心情一つ漏らせない状態であるなら、浅海はここまで不安を感じたりしない。
そういう当たり前の人間だったら、孤独にさえ生きなければ、いつか再起できると浅海自身が確信しているからだ。
そうやって、また少し沈黙が広がった。日が傾いて薄暗くなった室内。
浅海はすっと腰を上げる。そしてカーテンを開けはなって光を呼び込んだ。斜陽が、窓際を赤く染め上げる。
「書類の件は明日にでも用意しておくよ。在校証明と教科書給与証明だから特に書いて貰うこともないが――念のため、判子を持って来てくれ。受領印が必要だったかも知れん・・・・・・あ、いや必須だな。費用の精算がある。このタイミングだと納入済みの食費くらいだし、日割りにするから大した金額じゃないんだが、領収書を切るから受け取りには必要になる。それはそうと黒岩、お前、転校の流れは把握してるか? もし必要なら――」
「調べてあります。問題ありません」
芽依が淀みなく言い切るから、浅海は世話を焼く隙もなかった。そうか、と一言こぼし、席に座り直す。
「・・・・・・少し、立ち入った話しをしていいか?」遠慮気味に。
「何でしょう」淡々と。
「黒岩のご家族は・・・・・・その、亡くなられたわけだが、今後はどなたの世話になるんだ?」
「母の親戚にあたる人です。住居は東北だそうです」
「面識は?」
「ありません。電話で話しただけです」
「そうなると、あちらは歓迎してくれているのか?」
口にした後で、浅海は己の愚かさに気付く。
“口が滑った”では済まされない、馬鹿馬鹿しい最低の愚問だった。咄嗟に取り消そうとした矢先だった。
「されていないと思います。電話越しでも伝わるくらいでしたし。それに、私が受け入れる側だったら――見も知りもしない子供を押しつけられたら、たまったものじゃないって、恐らく、そう考えるでしょう。それは自然なことだと思います」
芽依は平然と言って退ける。
例え態度だけだったとしても、冷静過ぎるほど冷静に状況を受け入れる子供を、浅海は痛ましく思った。同時に、腹が立った。何もできない間抜けな自分に。
「別に先生が気にすることではないと思いますよ。人には、その人なりの人生がありますし、私はどこに居たって、結局”私”ですから」
それどころか、芽依は必死に感情を覆い隠そうとする浅海に気遣いさえみせた。浅海は、そんな芽依の諦観を聞けば聞くほど不安が募った。
これ以上の質問もなかろう判断し、芽依は席を立つ。
「それでは、失礼します」
踏み込むべきではない――そう判っているのに、浅海は問わずにはいられなかった。
部屋から出ようとする生徒の背に向け、言葉のナイフを突き出してしまう。
「黒岩――お前、ちゃんと泣いたか?」
「・・・・・・いいえ」
芽依は振り向くことなく、部屋を後にした。
「少し、お時間よろしいかしら?」
教室へ戻るなり呼び止める声。凛として、真っ直ぐ投げかけられたそれは、誰に対するものか迷いようがない。
だが、芽依の歩みは止まらない。人気がない夕暮れの教室を直角に曲がって、最短距離で自席へ向かった。
机の脇に掛けたデイバッグを背負い、それからようやく小夜へ向き直った。
「・・・・・・何?」
――私はこれから帰宅するところだけど何か用?
まるで副音声すら聞こえてきそうな態度に、小夜は目を瞬かせた――が、怯みはしなかった。
「この前の約束、覚えていらっしゃいますか?」
リィン、と鈴鳴る記憶。
――今度お会いしたときはお茶でも如何?
今度は芽依が驚く番だった。
芽依は眼鏡のブリッジを押し上げ、微笑を浮かべる小夜を見据える。
去り際の社交辞令を律儀に果たそうとする相手の、その真意が霞んで見えなかった。
「ええ、あれから一秒たりとも忘れた瞬間はない。勿論、一言一句違わず思い出せる。貴方はそう――再会の暁に、マドロスバーガーのてりやきバーガーセット、ホットアップルパイ付きを奢ってくれる、そうでしょ?」キリリと。
「違います。一句どころか一音たりとも合っていません」ピシャリと。
「そう。それは残念。今後に期待するところ大ね。じゃあ私は――」
これでサヨウナラと一言投げ捨て、小夜を抜き去る――より先に手を取られていた。
「マドロスバーガーよりもっと良いところにご招待致しますわ」
小夜の高らかな宣言。有無を言わせぬ力強さで引かれた。
「ちょっ――、何処へ・・・・・・!?」
がっちり繋がれた手を振り払えぬまま、あれよあれよという間に校舎を飛び出していた。
正門まで連行されたところで、芽依は諦め加減に一息/一突き入れる。
「それにしても、鳳さんがマドロスバーガーを知っていたのは意外ね。鳳家のご令嬢はオーガニックフード以外、お口にしたことがあるのかしら?」
「マドロスバーガーの年間売上高は連結で二千億強。ファストフード業界最大手です。当然、動向の把握と商材のリサーチは定期的に行っていますわ」
芽依は揶揄のつもりだったが、小夜はあくまで真顔で答えるのだ。まるで、想像の斜め上を特急で滑っていくようだった。
「リサーチ、ね?」
小夜はつぶさに芽依が醸す違和感を悟り、さっと口元を覆い隠した。
「・・・・・・あたくし、また変なことを言ってしまいましたか?」
「いいえ(no)。変ではなく(you are not strange)、変わってる(but interesting.)」
「それは初めての頂戴した評価ですわ()。前の学校では周りからそんなこと一言も言われたことがありませんわ()。 まぁ、あの女には”お前はおかしい!”()だなんて、顔を合わせれば言われていたような気もしますが()」
英語を使ったのは単に意味合いをぼかしたかっただけで、それ以上の意味はない――はずなのだが、“どうぞ!英会話は得意中の得意ですわ!“と、輝く瞳が雄弁に主張してくる。
そんなところが変わっている――という雑感は胸の内へ。芽依は英会話を続けるスキルもないから、無難な質問を投げ返す。
「なら、何と言われていたのかしら?」
一転、黙然となる小夜。反射的に飛び出しそうになった返答を口の先で留めたせいか、ぷっくり形の良い唇がアヒル口に。
「・・・・・・・・・・・・“鳳さんは物知りですわね”」
瞬間、芽依は口に手を当てて顔を背けた。
――――――
――――
――
そして、バネが弾けるような勢いで回した首を、可能な限りゆっくりと戻した。
「何ですかそのリアクションはッ!?」
「くしゃみよ」
安直な嘘で煙に巻こうとする芽依に、小夜の小顔がぐいっと迫る。息が掛かりそうな距離で芽依の黒瞳をじぃ~っと直視。
芽依は前の一点を見定めたまま、身動ぎ一つしなかった。
首を回した時点で、意識なんてものは遠く彼方に置いてきぼりにしてあるので余裕で堪えられた。
「嘘ですわ」
それでも小夜は芽依の能面を疑って掛かる。それくらいの経験値は培われていた。
「本当よ」無我の境地で。
「怒りません。正直にお願いします」無辜の願いで。
そこまで言うならと、芽依は肩を竦めるジェスチャー。
「本当のような言い方をしてみただけよ」「日本語は曖昧に過ぎますわ!()」
抗議から目を逸らすように、芽依はひそやかに瞳を閉じた。
「ごめんなさい。“らしい”って、唯そう思っただけ。他意はないわ」
そして、すっと浮かべられる微笑。
――――――
――――
――
瞬間、小夜は人知れず心奪われていた。
少し肌寒い空気と、物悲しい黄昏に映える、凛としたその横顔に。
「・・・・・・それなら、いいです」
そうして言葉を無くした二人の間を埋めるように、白いセダンが正門前に停車した。
一目で最高級車であることが分かるその美麗な車両から、ダークグレーのスーツを着込んだ妙齢の女性が降り立った。
それから恭しく一礼し、
「どうぞ、お乗りください」
そう短く告げ、後部座席の扉を引いた。同時に、芽依の気持ちも引いた。
引きも引き、ドン引きだった。
さも当然のように車へ乗り込むこの”鳳小夜”という少女は、皮肉が尻尾を巻いて逃げ出すようなお嬢様なのだという事実に、芽依の二枚舌ですら巻かれる思いだった。
絶対関わらない方がいい、そう直観で理解する。
このまま後を着いていけば、ともすれば、宝生ひかりに関わるのとは別の意味で悲惨な思いをするに違いない。
立ち去れ――そう念じながら、芽依は二の足を踏んでいた。
視界の端では、学校の真正面で堂々と立ち往生する車に、他の生徒達が何事か好奇の目を向け、耳打ちをしていた。
本来その役目を負うべき人物ではなく、一庶民である芽依の方が恥を晒している気分に陥る。
「どうかなさいましたか?」
その一方で、小夜は芽依が自分の誘いを断るなど疑ってもいない。
ここで引いたら負け、そう思い込んだ芽依の負けだった。
(ままよ・・・・・・!)
念仏一つ呟き、小夜に続いて後部座席に滑り込んだ。
重厚な扉がひとりでに閉じた。同時に、一切の環境音が閉め出される。
耳を澄ませば、微かにエンジンのアイドリング音が聞こえる程度。凄まじいまでの静寂は、まるで防音室の空気感だ。
芽依が静けさに気を取られている間に、車は行き先も告げず出発してしまう。
緩い加速に揺られ、全身を革張りのシートに埋める。今まで体験したことの無い柔らかさ――睡魔が隣で寝ていても驚きはしないレベル――が、腰から背中までをすっぽり包み込んだ。
それだけで芽依の敗北が決定的なものに。後は好奇心の成すまま、無遠慮に車内を見渡していた。
インテリアは黒を基調に、艶やかな木目が印象的なパーツが所々にあしらわれており、無粋なものは一切存在しない。削り出されたような格調高さは、シックにしてエレガント。まさしく大人のための空間だ。
だから、という訳でもなかろうが、女子中学生だけの後部座席に、華やぐような会話はない。むしろ無音。さしたる話題もなく。
ただ、沈黙は芽依にとって苦痛でも何でもない。
片親で、しかも心を病んだ母と確執を持ちながら、孤独を愛せぬはずがなかった。
ところが、そんな芽依であっても、この状況は流石に静謐と言い表し難い。
原因は、芽依の神経をちくちく刺激する気配――車のバックミラー越しに送られる女性の視線だ。
後方を確認するようで、その実、芽依の態度を逐一監視するような隙の無さだ。
出迎えの運転手というより、護衛か何かと思わせる雰囲気がある。
芽依はそれを一貫して無視。気付かない振りをした。
息抜きに外を見やる。スモークガラスで明度の落ちた景色が流れて行く。
(・・・・・・少し落ち着きなさい。別にとって喰われる訳でもなしに)
少し浮き足だった自身に言い聞かせ、心を落ち着ける。あえてシートに深く体を沈め、徐々に余裕を奪い返した。
そして、逆襲のシナリオが組み立てられると、芽依は早々に打って出る。
「で、私はこのまま海に沈められる運命なのかしら?」
「方向は合ってますわね。方向性は、かなり間違っていますが――」小夜の閃き「それとも何か心当たりでも?」
「実はありすぎて困ってるの。さてさて、どれが正鵠を射るかしら、と」
「なるほど。一例をお聞きしても?」
二人は目で『お約束』を取り付けた。これで遠慮なく口先を回せるというものだ。
「そうね。直近では鳳さんの隠し撮り写真でボロ儲け、とか」
瞬間、は!? と意外な場所から零れ出す驚愕。件の、ハンドルを取る女性のものだった。
後部座席の二人は揃って黙殺。当たり前のように会話を続けた。
「前の学校でもそういった類の噂を耳にしましたのですが、わたくしの写真に需要があるとはとても思えないのですか・・・・・・」
そう平然と返す小夜に、芽依も大層驚いた――振りをする。十分に想定の範囲内だ。
「まさか二番煎じだったとは正直驚きね。流石に恐れ入るわ。けど、そんなブロマイド鳳さんでも、このマークアップ率を聞いて平常心を保っていられるかしら? 驚異の2Kオーバーよ。益率だけなら夜店のかき氷や綿飴でさえ目じゃないわ」
「2K・・・・・・? まさか2000%ですか!? 家庭用プリンターでインクと用紙、人件費を加味して一枚あたり――約35円だと仮定しましょう・・・・・・十倍の350円で売っても約900%ですわ。二十倍の700円でもまだ1900%・・・・・・私の写真は一体幾らで取引されるのですか!?」
一瞬にして瞳に熱を灯す少女に、芽依は次々と餌をまき散らす。
「流石に計算が速いわね。原価計算も良い線いってるわ。ただし発想が少し違う。コストカット意識は忘れてはいけないわ。カメラのタキムラなら一枚28円でL版が作成可能よ。しかも人件費はオーナー兼制作・製造責任者である私の分だけだから、無視してOkey-dokey(よろしくてよ)」
「では肖像権料を請求させて頂きますわ。原価計算が違うというなら、これで黒岩さんも同様です」したり顔で小夜。
流石に拘り所が普通の人とはひと味違う――と感心しつつ、芽依は更なる一手を指すことにした。
「妥当な指摘ね。では某有名ネズミを参考に、一枚に付き15%の著作権料を鳳さんにキックバックするわ。ちなみに、我が黒岩商店は高収益体勢を旨とするため、追加マージンはすべて顧客負担とし、販売価格を900円に再設定することでこの受難を回避する」
「・・・・・・なるほど。ですが、それでは価格高騰により売上げが落ちますわね」
「ええ。なのでラインナップに七海を追加。コンテンツの強化を図る」
「それではむしろ商品力が弱体化しますわ!」
突如として小夜がいきり立った。そして、語気を荒くして訴えかける。
「間違いありません。そんなことをするくらいなら、私の写真のバリエーションを増やすべきです!」
「では鳳さんのセクシーショットを五割り増し価格で」
運転席の女性の息を飲む気配。その必死に声を押し殺す様を横目でしかと確かめ、芽依は溜飲を下げた。これで借りは十分に返したことだろう。
「・・・・・・わ、私の貧相な体に、そ、そういった価値は――いいえ! そもそも公序良俗の精神に反しています! 断固拒否――いいえ、むしろ訴訟を起こしますわッ!」戦慄く小夜。
早々と路線転換を迫られた。ところが、オーソドックスな方法論は他にも幾らでもあるため、芽依は全く答えに困らない。
「そう? では戦略を変更して販売網を増加、他校に販路を設けるわ」
「生産委託販売、という訳ですか?」
「個人的には販売代理店と謳いたいところね。実物が近くにいない場合は鳳さんのブランド力低下が予想される。全く売れず在庫がだぶつく危険性を回避する意味でも、このビジネスモデルをノウハウごと売り出したい。それでコンサルタント料なりプロデュース料なりが三十パーセント前後得られればベター」
「でもそれでは、成功モデルの真似事を始める輩が現れますわね。柳の下の何とやらといった具合に」
販売モデルの問題点そのものより、相手の反応を伺うような小夜の表情――を読み取り、芽依はオチを付ける算段を整える。
どこからも持っていけるし、どうとでも言える、実に簡単な落とし所だ。
「それは競争原理だから許容するしかないわね。こちらが取り得る戦術は、販売チャネルを増やしながら知名度の向上を計りつつ、品質強化とサプライチェーンの改善で、競合他社との差別化を明確に示すわ。あと必要に応じて、販売価格のデフレを引き起こさないよう競争相手との対話も、選択肢としては含まれる」
「それは一種の談合・・・・・・、ですか? 相手が協調してくれるとは限らないでしょうし、もし真に成功モデルだとするなら、むしろ反発を生むのでは?」
つらつらと語られる一般論に小夜が疑問を呈すと、芽依は不愉快そうに眉をしかめた。
「談合? その選択は愚かだと言わざるを得ない。差し辺りのない言葉尻にだまされては駄目よ。考えてもみて、相手は憎き商売敵よ? 商売敵。つまりは敵。エネミー。言い換えれば悪。要するに私が正義。で、あれば遠慮は無用。配慮も無為。心慮のまま聖戦の一撃あるのみ。先駆者と模倣者の立場を相手に思い知らせるまで語彙を尽くして攻め抜いてみせる。勿論、入念に個人の下調べは入念にした上で、ね。いざ交渉の段になったら揺さぶりまくってやってやるわ。結果的に相手が自身の軽率な行為を生涯悔やみ、ひいては親兄弟の未来まで心配するようになったら私の勝ち。ちなみに、黒岩辞典に”和睦”の二文字はないので、それ以外の結果は私の戦術的敗北と見なしていいと思う」
「世間一般ではそれを恫喝と呼びますのをご存じ!? わたくし、貴女の将来が心配になってしまいますッ!」
「心配ないわ」しっかり視線を噛み合わせる「鳳さんも気付いての通り、すべて私の妄言だから」一分の笑みもなく。
その一言は一時の熱をすべて引き去っていく。運転席にも平穏が返って来ただろうか?
「それは・・・・・・そうかも知れませんが」
それはせっかく弾んだ会話に冷や水を浴びせるようで。
だからだろうか? らしくもなく、芽依はもう少しだけ妄言を繋げることにした。
「でも、そうね。私が本気でやるとしたらたかり屋ではなく、たぶん、アイドル業ね」
「わたくし、たった今、黒岩さんの意外な一面を知りましたわ」
心底驚く小夜に、流石の芽依も嘆息を禁じ得なかった。
「この私が、心の奥底で歌って踊って握手会を開くことを願ってやまない人間に見える? 冗談にしたって質が悪いわね。そうではなくて、手近な素材――クラスメイトを使ってアイドルユニットのプロデュースするのよ。対象は鳳さん、七海、夢乃に――――と、かなり優良素材が揃ってる。これ以上、優位性があって成功の確信の持てるビジネスは思いつかないわね」
「・・・・・・黒岩さんは、『宝生ひかり』に魅力を感じないのですか?」
その問いは素朴すぎた。ある意味で当然。どう考えても行き着いてしまう必然だろう。
芽依の口が滑ったというより、警戒し過ぎて逆に不自然になってしまった。
きっと、多くの人間にとって『宝生ひかり』から先に出るのが普通なのだ。
だが、今更を取り繕うのも違和感しか生まない。芽依は澄まし顔で理由の後付けを試みた。
「・・・・・・ユニットには、ね。あの子は一人で完成されてる。だから、グループだと逆に浮いてしまう気がする。もちろん売り出すけど、やるなら単独が良いと思う」
「なるほど。一理あるかも知れませんわ」
実直に頷く小夜に、探りを入れるような気配はない。芽依はこれを好機と捉えた。
「逆に聞くけど、鳳さんの目に、『宝生ひかり』はどう映る?」
「・・・・・・どう、とは?」
「何でも良い。率直に、感じたままを聞かせて」
小夜は目を閉じ、一人の少女をイメージする。
「そうですね、一言でいうなら・・・・・・愛玩動物、でしょうか? 誰かに愛されるためにあり、誰かを愛するためにある、そんな人に見えますわ。とても可愛いらしくて、愛嬌があって、時折、悪戯心というか、茶目っ気を出したりして。常に周囲の賑わせてくれる、その場に現れるだけで空気を変えてしまえる希有な存在、ですわね」
「転校初日とは思えないほど鋭い批評ね。とても良く言い表してると思う」
――それは本性ではないけれど。
心の中で、しかと寸評に加筆して締めくくる。
「そう、でしょうか? 何となく、そんな気がしただけですわ?」
「そういえば昼食を一緒に取っていたようだけど、もしかして貴女達、以前から知り合いなのかしら?」
「・・・・・・え? ええ、実は。あの女が宝生さんと知り合いでして、その縁で、少しばかり顔見知りだったのもので」
「七海とは反目しても、あの子を介することで纏まれる?」
芽依は行間に潜む矛盾を重ね重ねつついた
「いえ、別に、その・・・・・・あまり信じて貰えないかも知れませんが、実は言うほど大した軋轢はありませんの。ほんの、些細なことなんです。それを誇張表現しているだけなんです。わたくしも、たぶん、彼女も」
芽依は表情を堅くした相手の心情を分析する。そこから導出される結論は苦々しい現実だった。
まず、宝生ひかりがジュエリストであると確信した際、最近、ひかりとの距離感が他の人間と一線を画す吉岡夢乃は仲間候補に挙げられた。
その論拠は乏しかったが、聖刻を持つ御剣七海が、宝生ひかり(ジュエリスト)のいる学校/クラスへ転校して来たことで、推論のドミノ倒しが起こる。
七海の動機の一端が宝生ひかりと吉岡夢乃にあることは、その言動からして疑いようがない。宝生ひかりがジュエリストで、その候補に夢乃と七海。では、その七海を追い掛けるようにウルトラCで転入した小夜の動機は何か?
七海と同じか。それとも七海がいるから。あるいはその両方か。何にせよ、あんな無茶をするだけの動機になり得る因果は、やはり相当に例外的な理由だろう。
鳳小夜という少女は何事にも理屈を求める。自分の行動であってもそれは変わらないはずだ。
芽依は小夜の聖刻を確認していない。だが断言できる。七海と小夜は、異世界の中で出会った、あの赤と青の決闘装束を纏った少女達だ。
例え容姿/容貌は別物になっていようと、両者の体格や言動、関係性など、その有り様は変えようがない。今にして思えば、図書館で初めて小夜を見たときの既視感――その源泉は、制服だけではなかったのだろう。
もっと深く探りを――燃え上がるような衝動を、芽依は冷徹なる理性でもって鎮火させる。
自分が連想したものを、相手が連想しない訳がない。藪をつついて蛇を招く前に、芽依は話題をすり替える。
「安心した」
「・・・・・・え?」
「アイドルユニットの話しよ。七海と鳳さんが組めないのだとしたら、私の構想が崩れてしまう。あの子が加入することでグループとして纏まるなら、ソロデビューは売れて暫くした後、大衆に飽きられたときの切り札に取っておくとするわ」
コホン、と小夜はわざとらしく咳払いをした。
「ではわたくしのプロ契約に際し、一つ条件を付けさせて頂きますわ」
その屈託ない笑顔=可能な限り悪意を排した語調こそ、警戒に値するというものだ。
「どうぞ。何でも受け入れるわ――」
気色がぱぁっと広がる。“さあ言ってやろう”という気配が漏れ出した矢先だった。
「――私が一緒に歌って踊る以外のことだったら何でもね」
芽依の逆撃は、小夜の喉を詰まらせた。
「で、では――」
だから、たぶんだ。きっと、そう。それは偶然だったのだろう。芽依の予想を越えるその一言は。
「――メンバー全員と仲良しになって頂きますわ!」
完全に意表を突かれた。だから、芽依が言葉の意味を噛み砕いて異論を唱えるより、小夜の追撃のほうが早かった。
「勿論、ビジネスライクとか、業務上必要だからとか、そんな事務的な話をしているのではありません。芸能界などという、悪鬼羅刹の跋扈する世界に挑むからには、互いに信頼し合い、尊重し合える相手と一緒がいいに決まっています。ですから、その第一歩として友好関係を万遍なく円滑にして頂き、よくよく相互理解を深め、事前準備を抜かりなく施した上で、しかるべきタイミングにおいて羽ばたくべきだと、わたくし、具申し奉りますわッ!」頬を朱に染める小夜。
飾り付けた言葉は抜きにしても、その気持ちだけは芽依にも伝わってくる。
そう、痛いほどに。
「あの・・・・・・、つまり、ですね。わたくしと、その・・・・・・」
「それじゃ、契約成立ね」
すっと手を差し出された細い手に、小夜は大いに目を瞬かせた。
「まずは、友達から始めましょう」
「・・・・・・ええ! よろしくお願いしますわ!」
小夜の暖かな手が、強く、芽依の手を握りしめた。
芽依は握り返しつつ、交わした約束の予想外の重さに驚いていた。
数日後には反故となる運命∽命運であり、本来ならスポンジよりスカスカで紙よりも薄っぺらい代物でなくてはならないというのに。
(メンバー全員と、仲良し・・・・・・?)
なのに、確かに感じられるずっしりした質感。その成分は罪悪感か、それとも拒否感だろうか?
芽依はそのどちらでも構わないと思った。それが彼女たちに向けられた、自分の期待値の重さでなければ何だって。
それからしばらくして、車は目的地に到着する。
芽依が降りたった場所は、住宅街や商業地区の喧騒から遠く離れてひっそりとあった。
辺りを青竹に囲われ、入り口から長く伸びた石畳の小道が、奥へ奥へと誘うようだった。
明らかに手入れされているが、見る限りそこには何の看板も見当たらない。人気も皆無。黄昏時を過ぎて、夕闇の気配が、もの悲しさを引き立てる。
風が吹き付け、笹の葉が一斉にさざめく。それは鬱蒼とした竹林の闇が、人に代わって芽依たちを歓迎するようで。
小夜は迷うことなく小道を奥へ歩き出した。運転を務めてくれた女性はどうやら車で帰りを待つらしく、無言で見送っていた。
小夜に付いて歩くこと数分、白灰色の小さな門が姿を見せた。
「こちらです」
漆喰の壁に溶け込むように設けられた戸に小夜が手を掛ける直前、カラカラ音を立てながら戸が開け放たれる。
中から現れたのは初老の男性だ。格好からして板前さんといったところか。顔の皺に人の良さが現れていて、安心感の持てる雰囲気だった
「ご無沙汰してます。篠崎さん」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ、お嬢様」
男性は外見通りの柔和な面もちで一礼する。
「お嬢様は止めてください。その、今は私の友人も一緒なので・・・・・・」
「では小夜ちゃん――という年齢ではありませんね。小夜さんとお呼びしましょうか。お友達も、どうぞこちらへ」
親しげに二、三言交わす二人に遅れて、芽依は敷居を跨いだ。
そして言葉を無くした。車に乗り込んだときこそどうにか捻り出したものだが、今はただただ感嘆するしかない。
圧巻、とでも評すべきだろうか? 店の外は人里離れた隠れ家といった寂しい佇まいだったが、その内側には緑豊かな日本庭園が広がっていた。
薄暗くなった園内は密やかに。灯籠がほのかに照らし、苔むした庭石に陰影を与える。
大きな池には小さな出島。石橋の下をよく肥えた錦鯉が群を成し、悠然と泳ぎ回る。
芽依はいつしか、道案内をしてくれる飛び石を外れ、池のほとりで足を止めていた。
そこに在る眺めは、無性に感性を引き付けた。理由も分からず、考えも巡らせず、芽依はただただ感じ入るまま、見ることもなく見ていた。
「ここの眺めが気に入ったかね」傍から投げかけられる声。
鯉が水面を蹴るように、芽依の心臓が跳ねた。
日が落ちているとは言え、人が近付く気配にまったく気付かなかった。それだけ魅入っていたということだ。
芽依の隣に並んだのは、杖を突いた和装の老人だった。
小柄だが、豊かな白髪と口髭を蓄えており、理知的で精悍な顔付きをしている。足腰に若干の衰えを覗かせるが、この庭園と同じくらい雰囲気のある人物だ。
芽依は”はい”と短く答えた。瞬間、自分が魅了された理由を知った。
それを見ようとすると違って見える。なのに、唯あるがままを眺めると同じものに見える。全く違うのに、とても良く似ている。
この庭園は、抽象像化された自分の世界と同じもので出来ている。
「ここは、私の世界と良く似てます」
雑感が溜息のように口から零れた。心情を明かすには小さすぎる告白だったが、静寂に広げた波紋は、老人の耳にもしかと届いていた。
「なるほどな」
老人は芽依の抽象的な理解に相槌を打った。その一言には、本当に芽依の心を覗き込んだような実感が込められていた。
芽依がそれを不思議に思っていると、
「黒岩さん? ・・・・・・あら、お爺様も。お二人とも、こんなところで一体何をなさっているのですか?」
小夜が慌てた様子で小走りしてきた。
「特に何も。庭を見せて貰ってただけよ」
「そうですか。気に入って頂けたら幸いですわ。この庭園は、そこのご老人――私の祖父である鳳彰造が生み出した数ある作品の中でも、本人が特に強い思い入れを持っているようなので」
簡便な紹介をされた当人は、軽く会釈しただけで、ニコリともしない。
「黒岩です」
芽依が慇懃に一礼しても、その態度は崩さなかった。
「お爺様も、こちらにいらしてるなら予めおっしゃってください。そうしたらこちらからご挨拶したものを・・・・・・」
「お前がここに友人を連れてくるのは二人目だったか・・・・・・少し興味があった」
「いいえ、初めてです。アレは友人ではございません」
つっけんどんとした孫娘の態度に、翁は苦笑した。
「黒岩芽依さん。これの友人であると何かと苦労するだろうが、よろしくお願いする」
翁は一礼し、踵を返すと、そのまま庭園の奥に消えていった。
様子を見計らうように、小夜が切り出した。
「無愛想な祖父で申し訳ありません。きっと、照れているのだと思います」
とてもシャイな人となりとは思えず、瞬間、どう返したものか迷う。
「立場的に言えば、愛想を振りまくべきは私の方でしょうね。こちらこそ申し訳ないことをしたわ」
「いえいえ、上出来です。お爺様のあの態度、黒岩さんのことをかなり気に入られたと思いますわ♪」
そう言い残し、小夜は上機嫌で先を行く。
その後ろ姿を眺めること数秒、
――孫も祖父も、分かり難い。
芽依は釈然としない気持ちを脇にやって、小夜の長く延びた影を追った。
さながら料亭――それが店の敷居を跨いでより、着座するまでに抱いた芽依の実感だった。
出迎えは豪奢な広間。その正面に座す、芽依の背丈の三倍はありそうな大きなガラスと、一枚隔てて望む庭園の絶景に、来客者は圧倒されるだろう。
辺りには香が焚かれていて、うっすら漂うその上品な香りに気を取られていると、脇に続く廊下に敷かれた絨毯の感触を楽しむ間もなくなる。
通されたのは、中学生二人が談笑するには些か広すぎる個室だ。そこは純和風の造りで、真新しい畳の香りと張りのある障子には一分の隙もない。
床の間には荘厳な書体の綴られた掛け軸。そしてm裾には活き活きと飾りたてられた生け花。対極的な二つの存在が一つの空間に調和し、格調高さを醸していた。
茶器こそなかったが、賓客用の茶室と言われても納得してしまえる座敷は、完全に身分不相応だ。“お茶に誘われただけで何故こんなところにいるか”なんて、宇宙の真理並に不可思議なことは、とっくに埒外になっていた。
芽依が得も言われず、座布団に正座して出されたほうじ茶をすすっていると、今度は別の意味で言葉を失った。
それは凡庸な感性しか持ち合わせない自分を恥じてのことではない。
芽依が口を噤んだ理由はもっと低次元で、とことん現実的な一点に尽きた。
スカートのポケットの中に財布は――ある。絶対。間違いない。
財布の中にお札は――ある。多分。何枚かはうろ覚えだが。
これだけの格式高い店ともなれば、お茶と菓子のセットで四桁は確実――おもむろに財布の中を確かめる真似ができるはずもなく、ただ覚悟だけを固め、小夜から差し出された品書き(メニュー)を眺めた。
直後、芽依は硬直。唖然となった。それほど想像を超える法外な値段だったのか?
違う。もっと恐ろしい事態だ。高ければ安いものを選べばいい。安価ものでも足りなければ頼まなければいい。簡単なことだ。
芽依が眺めた上質な和紙の上に写真はない。代わりに、品を形容する長ったらしい品々が軒を連ねていた。それもいいだろう。だが、どこにも値段が載っていないのは一体全体どうしたことか。
こんなことがあるのだろうか? プリントミス? まさかの値段当てゲーム?
頭の中で沸き上がる馬鹿馬鹿しい可能性を振るいに掛け、それでも残った可能性は一つだけ。
“金額を気にするような人間はここの敷居を跨がない”
店側の品格/品質を完全に信頼し、言い値で払う度量と資本を持った富裕層のみ踏み入れることを許された空間、それがこの名も知れない店なのだろう。
「いかがなさいました? やはり写真がないと注文し難いですか? わたくし、以前から載せるべきだと繰り返し進言しているのですが、一向に聞き入れて貰えなくて・・・・・・」
小夜が芽依の言動にこなれて来たように、芽依も常に想像の斜め上を行く小夜に、いい加減耐性が付いていた。
「鳳さん。このメニューには、写真よりも致命的な欠陥があると思わない?」
「確かに。品名が異常に長いですわ。もっとシンプルな方が注文しやすく、ユーザーの覚えも良いと思います」
小夜の得心はやはり掠りもしなかった。
「ぜんぜん違う。値段が無いわ。これでは私が幾ら支払うのか分からない」
「そんなの気にしないでください。ここは私が支払いますので、黒岩さんは好きなだけ注文してくださいな。時間も時間ですし、軽食ではなく夕食にして頂いても結構ですわ」
「それこそ結構よ。私は貸し借りは作らない主義なの。自分の分は自分で払う」
「いいんです。これはわたくしが、“友人”たる黒岩さんに、ちゃんと奢れる度量があることを示す絶好の機会なんです。今日という日を逃しては、アレに胸を張って抗弁してやる瞬間が、いつまでも経っても訪れませんわ!」
「だから私は――」「なかなか頑固ですわね。なら出世払いにして差し上げます。いつか社会に出たら、そのときは、逆にこの店で奢って頂きます。それならいいでしょう?」
本当ならその言葉に甘えても良かった。相手は返して貰う気などないのだから、そのまま受け入れても何も問題ない。ましてクラスメイトだったなら、“いつか”の機会を伺うこともできるだろう。
だが芽依は事情が違う。あと数日でこの街を旅立つのだ。一度遠く離れてしまえば、再会の機さえ怪しいものだ。
貸しなら自分が忘れてしまえばいい。だが借りは心残りとなってしまう。どれほど些細な負債であっても、清算せずに離れることは芽依の良心と尊厳とが許さない。いかなる屁理屈だったとしても構わない。この場は論破してみせなくてはならなかった。
「なら、その条件はクリアしているわね。私はもう一年以上前から社会に出て労働している。十分すぎる理由よ」
――所得税は払っていないけど。
などという論調にそぐわない細かな話は隠したまま、芽依は抗弁を続けた。
「私は支払能力のある人間だから、ちゃんと対価は支払う。いえ、払わせて頂戴」
芽依のその真摯な言葉に、小夜は表情を堅くした。
「ではお聞きしますが、どのような手段で収入を得ているのですか?」
「つい最近までで新聞配達をしていたわ。もうクビになったけど・・・・・・」
「新聞配達を・・・・・・クビに?」
「私、つい先日、家族を亡くしたの。そのとき、その、色々あって、無断欠勤してしまって・・・・・・。配達所のオーナーとは、一度でも休んだら辞める約束で契約してたから、それで」
「なぜ、アルバイトをしていたのですか?」
真っ直ぐ芽依を貫くような視線に、芽依もまた真っ直ぐ見つめ返した。
二人の間が張りつめる。両者共々、受け答えを誤れば、ここまでの関係さえ壊しかねない危うさを孕んでいた。
「弟のため――だった。弟は小さい頃からずっと病気がちで。治療費の足しにするつもりだった」
ずっと心に封をして来た現実が、胸を切りつけるようだった。
痛くはない。痛くはない。痛くはない――そう念じて、感傷を切り捨てた。
(今はこれで良い。すべて終わった後で噛みしめれば、それで・・・・・・)
自分は無関心/無表情を保っているだろうか? 苦しい苦しいと叫ぶような、安っぽい同情で慰めて欲しそうな態度を滲ませてはいないだろうか? ちゃんと一人でここに立っているのだと――独りで何も問題ないのだと、分かって貰えただろうか?
鳳小夜ほどの人間だったら、きっとすべてを語る必要はない。芽依はそう信じた。信じられた。自分が胸の一端でも語った相手は、信頼に足る人物なのだと。
「とにかく、食事代で消えて無くなるような小銭ではないことは判って貰えるかしら? だから何も問題ないわ」
「・・・・・・分かりました。そこまで言うのなら」
「ありがとう。理解して貰えて嬉しいわ」
相手がそれ以上食い下がる様子を見せなかったことで、ようやく芽依は安堵の息をついた。ところが、
「ああ、わたくしとしたことが、一つご説明していなかったことがありましたわ」
おもむろに両手を重ね合わせ、テーブルの上に載せる小夜。
涼やかなその表情に、芽依はやはり嫌な予感しか覚えなかった。
「・・・・・・何かしら?」
「もう察していらっしゃるかと思いますが、実はこの店、祖父の持ち物ですの。そして作ったのは何も庭先だけではありません。すべて祖父が考え、造り、そして営んで来ました。そこの品書きに値段がないのは、“つまらないことは気にせず、ここの空気と料理を楽しめ”という想いが込められているからなんです。ですが、いつからか別の解釈がされるようになり、訪れるお客様は、金銭に糸目をつけない裕福な方ばかりになってしまいました。出す気がある者は出せばいい、出せない者は出さなくていい。それがこの店元来の精神であるというのに」
「でもそれは、無料になるとも、また意味が違うと思うわ」
「無論です。鳳家は慈善事業家ではありません。ですが、暴利を貪るあこぎな商売もしておりません。ですので――」小夜の視線が微かに泳ぐ「――この店は学割が効きます」
「は・・・・・・?」
瞬間、時間が止まる。体も思考もすべてが時を止めた。例外的に口から漏れたその間抜けな単音は、無意識の悪戯だった。
「ですから、学割です。どの程度か忘れてしまいましたが、かなり割り引きして貰えたはずです」
「そのルールが出来たのは・・・・・・今しがた、かしら?」
「いいえ。わりかし昔からあったはずです。わたくしが知っているくらいですから。板長の篠崎さんか、何ならお爺様本人に確認を取って頂いても構いませんわ」
小夜は澄まし顔で芽依の追求を躱そうとした。
下手な嘘だ。小夜は知らないのだろうか? どんな小さな嘘でも、嘘は黒いのだと。
真っ白な真実だけを話すような少女が嘘を付けば、誰だってその色の違いに気付かないはずがない。
「それとも、わたくしの言葉が信じられませんか?」
芽依は小夜の言葉の裏に隠れた感情を探した。
表情と仕草と態度を分解して、過去の言動と紐付ける。
同情ではなかった。義理でもなければ、義務でもない。善意の押しつけ。悪意の発露。権力の誇示。友愛の安売り――どれも違う。
強いていうなら互いの尊重、だろうか?
それが独りよがりな思い込みに過ぎなかったとしても、芽依は既に信じると決めていた。鳳小夜と、自分の感覚とを。
「その言い方は卑怯だと思う・・・・・・でも、信じるわ。鳳さんを」
そういって素直に折れた。
「もう知らない仲ではありませんから、小夜、と呼んでください」
わたくし芽依と呼びたいですわ! ええ、是非とも呼びたいですわ! むしろそう呼ばせてくださいな! と、訴えかける謎の熱視線に圧倒され、芽依はうっかり口を滑らせてしまう。
「なら小夜、私のことも”芽依”と」
ぱぁっと弾けるその笑顔がこそばゆくて、芽依は品書きに視線を落とした。そうして、自分を曲げるにしろ、折れるにしろ、間を外しては文字通り間抜け(バカ)だと猛省した。
「では芽依、早速注文致しましょう♪」
二人はややわざとらしく/ぎこちなく名前を呼び合って、一歩近付いた互いの距離感を確かめ合うのだった。
それから、二人が揃って頼んだ餡蜜と抹茶のセットを平らげるまでの間、両者の間は言葉数少なかった。
しかし、そこに行き掛けの車内のような気まずさはない。語り合う言葉を探していたのではなかった。口を噤むことが”試し”だった。
黙ってこの場にいることが許されるのかどうか。無理にでも合わせなくてはならない相手であるかどうか。静寂さえ共有しえるかどうか。
そうやって偶然にも同じ方法で確かめていたことに気付くと、自分と似たところを相手の在り方に見つけ、また嬉しく思えた。
「如何でしたか? ここの料理は」
「餡蜜の奥深さを知ったわ。どれも同じようなものだと思っていたけど、今なら白玉を食べただけでこの店だと判る」
「満足頂けて幸いです」
「そういえば、この店はどこにも店名が載っていないけど、何というの?」
「実は、特にありません。お客様は、祖父母や両親の関係者ばかりなので、“オオトリさん”と呼ばれることが多いかも知れません」
「・・・・・・店名が、ない? それもお爺様の意向なのかしら?」
「はい、全部祖父の趣味です。本当に完成したら名を刻もうと考えていたそうなのですが、そう言い続けて四半世紀を越えていますから、多分このままなのでしょう」
「これでまだ未完成というのは、ストイックとうか欲張りというか・・・・・・随分と変わった人みたいね」
「変人です。基本的に愛想無しで、気にくわない人間には目もくれませんし。それでいて他人の心を読むのにとても長けているんです。庭先で、わたくしが”芽依をとても気に入った”と言ったのを覚えていますか? 初対面の人間に、あちらから声掛けするなんて見たことがありませんわ・・・・・・そういった意味では、お爺様と芽依は似たところがあるかも知れませんね」
「希代の実業家と比較して貰えるなんて恐縮するわ。 ・・・・・・それはそうと、覗きは感心しないわね」
「ち、違います。芽依が着いてきてないと気付いて、そのとき、たまたま・・・・・・!」
冗談だと口にして、芽依はちらりと腕時計に目を落とす。ギリアムとの合流まで、あまり時間がなかった。
思いの外、時の流れが早かった。さも惨めな思いをするかと思ったが、それも杞憂だった。自分が場違いであることは認めるが、鳳小夜はそんな卑小な感情など寄せ付けるような人間ではなかった。
芽依は眼前の少女を、まったく妬ましく思わない。でも興味がないのともまた違っていた。
ただ光年先からでも輝きを放ち続ける星を、地に足を付けたまま眺めていたいと思う。こんな感情を何と呼ぶのだろう?
七海と初めて出会ったとき抱いたのと似た想いは、やはり芽依には名状し難い。
ふと、胸の中に映り込む輝きに気付くと、自分がこれから成そうとしていることの薄暗さが際だった。
そこに暗い感情が含まれていないと言えば、恐らく嘘になる。
しかし、ひかりの明るさは、暗さがなければ計りようがないのだ。
もし、その手が間違いで汚れたままなら、きちんと洗い落とすしかない。そうでなければ、掴んだものの尊さなど分かるはずがない。
それが例え誰にも望まれない方法であったとしても、誰もが望む結果を導いてみせる――芽依は、自らに課した贖いを思い返し、強く心振るわせた。
刹那、背筋に悪寒が走る。
それは異世界が生じた際の圧力にも似ていた。だが、あの無機的な感触ではなく、動物的な――もっと色や熱や匂いのついたものだった。それに出所はすぐ近くだ。
芽依は部屋を見渡し、小夜と視線が交錯した。
刹那、ダン!――と、手元から驚きの衝撃音。
それはテーブルに手をぶつけた音だったが、その勢いが尋常でない。今まで神経を無くしたように動かせなかった左手が、壊れた機械のように暴れていた。
(くそっ、こんなときに・・・・・・!!)
咄嗟に右手で乱暴に押さえつけた。凝視せずとも、“黒い衝動”が大蛇のように巻き付いているのが判る。
芽依は蛇の首根っこを抑え込むようにして腕を掴む。小夜の様子をちらりと盗み見た。
自分の意志でないとはいえ、ジュエリスト相手に精霊力を漏らしたのだ。黒衣の正体に、このひと手合いで勘付かれた可能性さえある。
疑いの眼差しを恐れた芽依だったが、幸いにして、小夜は俯いていた。
――? いや、様子がおかしい。胸をきつく押さえ込んで苦しそうだった。
「・・・・・・小夜? どうかしたの?」
その姿は、心臓病の罹患者であった弟を思わせた。
まさか何か持病でも持っているのか疑ったときだ、
「ご心配には及びません。これは持病ではありません。このところ、少し神経が過敏になりすぎていて・・・・・・、こんなことが、時折ですが、あるんです」
それは唯の偶然だろうか? 小夜の科白が、他人の心を読んだように聞こえたのは。
すぐに顔を上げる小夜。その表情は苦渋に満ちている。だが、気丈にも微笑み返した。
「・・・・・・本当に大丈夫? 店の人を呼んだ方がいい?」
「それは、こちらの科白です。先ほど、物凄い音がしましたわ。手は平気ですか?」
手が無事か? いいや、今もって暴走中だ。しかし、どうにか押さえ込めてはいる。それに左手は今、石膏で固められたような状態で、おまけに神経を無くしている。ぶつけたところで痛くも痒くもない。
しかし、ぶつけられた方はそうもいくまい。右手の指先で、縁の凹み具合を確かめた。
「ごめんなさい。手が痙攣して・・・・・・ぶつけてしまったみたい。底に大きな傷が付いてる。悪いけど、修理費は後から請求して貰えるかしら」
「物より体の心配をなさってください。その手は、本当に大丈夫ですか? お医者様はなんと?」
何かに気付いた様子で、小夜は訪ねた。
刹那、背筋に落雷のごとき衝撃――先日の戦いが脳裏にフラッシュバック――ジュエリストとしての小夜の異能が何であったか想起した。
(悟られた?/読まれた?/覗かれた?)
「しばらくほっとけば勝手に直るから心配しなくていい、そう言われて真に受けたのだけど・・・・・・とんだ藪医者だったみたいね。ごめんなさい、大事をとって今日のところは帰らせて貰うわ」
今は意識することすら危険を孕む。言うなり芽依は席を立った。追従するように、左手が伸びる。まるで捕食対象を牙を立てんとして。
だが、芽依は二度も遅れを取りはしない。左手を必死に抱き抱えた。弁解する余裕などまるでない。そのまま逃げるようにして部屋を飛び出していた。
バッグと、謝罪と、支払いを残したまま、芽依は駆け出す。
曲がり角で従業員とぶつかりそうになりながらすれ違う。
庭園を突っ切り、そのまま敷地外へ。
呼吸がおかしいことになって、横っ腹が捻れそうだった。それでも立ち止まることを許さず、来た道を反対に走り続けた。
日が暮れて、辺りはすっかり夜の帳に包まれている。竹林に囲われた小道はダウンライトで静かに照らされ、足下は危なげない。だが芽依はあえて暗がりを欲した。
竹林の中に、立ち入れそうな隙間を見つけると、迷わず踏み込んだ。
闇に体を溶かすと、沸騰した心が徐々に冷え渡っていく。完全に凍り付くまで、そう長い時間は掛からなかった。
心の在りようと同調するように、左手が大人しくなっていく。暗がりこそが自分の住処だと言わんばかりの態度だった。
それから猛烈な羞恥心に襲われた。小夜の誘いを受けたこと、道中を楽しんでいたこと、すべてを恥じた。底なしの恥知らずだと。
「一体何を仲良く談笑しているの? 私は彼女たちの敵なのに・・・・・・!」
敵対したけど敵ではない――ベルケムに語った欺瞞が重くのし掛かる。
「敵じゃない? 馬鹿らしい。被害者がそう思ってくれるとでも?」
芽依は目に付いた竹を思いっきり横殴りにした。神経の通わない左手で。
――痛すぎるぞ、私。
後からパキリと何かの折れる音がした。竹ではなく、『手』と『心』とがひび割れた音だ。
雛が孵化するように、石膏様の物質で覆われた手に亀裂が走り、隙間から闇が吹き荒れた。
全身が隈無く包まれる。黒い衝動が満ちていく。
この世のすべてを壊したくなって、芽依は拳を思いっきり握りしめた。
力の限り、愚かな自分を殺してしまえるほどに。
「栄光を我が手に(オープンザジュエルグローリー)」
そして扉を開け放つ――
――そして扉が開け放たれる。
少し肌寒い外気に触れるなり、宝生ひかりはくるりと振り返った。
「付き合わせてゴメンね~、すっかり暗くなっちゃったや。いっつも思うんだけど、絶対ここって時間の流れが違うよね?」
ひかりは、空を見上げるように、今し方買い物を済ませたビルを仰ぎ見た。
小桜市の象徴とも言える超高層ビル――エストラントセンタービルは、オフィスだけでなく商業施設も多数出店している。ハロウィンを目前にした昨今は、ビルを取り巻くように数多のイルミネーションが飾り付けられており、数あるビルの群の中でもひときわ彩りがあった。
自動扉の中に覗かせるビルの内装もまた、別世界のように輝いている。
その目映い光を背に受けて、唯でさえ背の高いの少女の陰は、ひときわ長く伸びていた。
「いいよ。全然。今日は、部活もないし」
長身の少女――吉岡夢乃は、慌てて両手をぶんぶん振った。
普段から迷惑を掛けっぱなしだと自覚してやまない夢乃にとって、ひかりの買い物に付き合うくらい何でもない。
それでも、何の予告もなく”付き合って!“と言われたときは、流石に驚いたものだ。休日ならいざ知らず、放課後にわざわざ繁華街まで足を運ぶ気合いの入れようにも。
ひかりの品定めをする眼差しは、真剣そのものだった。これは何か特別な意味合いがあるに違いない――いよいよ夢乃の好奇心は辛抱きかなくなっていた。
「そういえばプレゼント、誰にあげるの? 近くに誕生日の子、誰か、いたっけ?」
夢乃は恐る恐る尋ねてみる。
実のところ、顔の広さとそのほんわかした人となりからも分かるとおり、『宝生ひかり』と『贈り物』の組み合わせは珍しくもなんともない。
誰にでも、さりげなく/当たり前のように贈るものだから、贈られる数を入れたら、それこそ数え切れないほどのやり取りをこなしている。端から見たって、それはもう行事というより、趣味のように見えた。
ただ、ひかりが贈る相手を明かさなかったことはなかった――ような気がして、それが聞くタイミングを逃す遠因になっていた。
「えへへ。そいつはですね――」「はぁ!? しくった!? アタシが忠告したまんまになりやがって、お前は馬鹿かッ!?」
背後から轟く少女の罵声が、ひかりの返答を遮った。
夢乃は反射的に身を縮め、おっかなびっくりに背後を向く。
今、エストラントセンタービルの回転扉をくぐろうかというところで、一人の少女――御剣七海が、携帯電話越しに相手を口汚く罵っていた。
ひかりや夢乃にまったく引けを取らない目立つ容姿をした七海だ。行き交う人は皆、好奇の目を浴びせた。振り返り、何事か確かめようとする者すらいた。
「七海さん、声デカいっす・・・・・・」
ひかりは気恥ずかしそうに頬を朱に染める。夢乃に至っては、明後日の方角を見ていた。
だというのに、当人と言えば衆目をはばからず、さらに加熱状態中だった。
「で? 結局どうなっ・・・・・・あ? 逃げたって・・・・・・、おい。まさかお前、聞き出すどころか反対にバレたんじゃ・・・・・・。とにかく、だ。早く見つけてフォローしとけ。それからこっち来て詳しく説明しやがれ。急げよ。じゃーな!」
七海は一方的に言いつけて通話を切断。前髪をきつく掻き揚げてから、後頭部をがしがし掻き毟った。そして、ずんずんと大股で二人の下へやって来る。
「どうかしたの? 小夜ちゃん何て?」小首を傾げるひかり。
もしかして――と、付けずとも、七海があんな言い方をする相手は小夜だけだろうし、まず何かあったに違いない。そもそも、七海は不機嫌な顔を隠す気がないので、筒抜けもいいところだ。
「ま、別に大したことじゃないから気にすんなって」
ところが、七海はこれを華麗にスルー。素っ気ない態度をするものだから、余計に火がついてしまう。
「気にするなって言われると、逆に気になるのが人情なんだよね。何かな何かな何なのかな~?」
ひかりがニヤニヤしながら距離を詰める。七海はサッと夢乃を壁にする。
「え?」まごつくのは夢乃。
そんなことじゃ誤魔化されないぞ~と、ひかりが右に回り込めば、七海も同じだけ夢乃を軸にして回る。
「え? え?」
捕まえるつもりも逃げ切るつもりもない二人のじゃれ合いに巻き込まれ、夢乃はおたつくばかりだった。
「んなことより、何か食おうぜ。お前の買い物に付き合ってたら腹減ったし」
七海のぼやき=気の抜けた瞬間を見逃さず、ひかりは叫ぶ。
「夢乃ちゃん、キャッチだ!」
「はい!?」
急に指名されて、夢乃は思わず目の前の標的をぎゅっと抱き締める。
「うおっ!?」
「ナーイス夢乃ちゃん!」
ひかりはすかさず七海の手首を掴み、制服のポケットから携帯電話を取り出して、トントン、と画面を軽くノック。カラフルな模様のトップ画面に映された時刻を確認。
「ヒトハチサンゴー、緊急逮捕します。容疑は『嘘ついちゃダメよ罪』、および『何か企んでいませんか罪』。ちなみに、罪が証明されるとぉー、罰金としてオリエンタルクレープのトリプルベリースペシャル代が請求されま~す!」
「おうおう、証拠はあるんか! 証人は? どないや! ああん?」
エセ関西弁でイキる被告は、顎をしゃくらせ、シャツの襟を立てて相手を威嚇。
「夢乃裁判長、判決をお願いします!」
何の弁論もせず超短期決着に持ち込もうとする検事と、あくまでふざけ倒そうとする七海の間で板挟みになる判事だったが、そもそも悩んでも仕方ないことなので、思いつきのまま答えることにした。
「・・・・・・しょ、証拠不十分のため、釈放と、します。う、『疑わしきは被告人の利益に』?」
使い所があっているのかさえ不確かな法令原則に、七海はふふんと鼻をならした。ひかりは、ぐぬぬと歯噛みして悔しそうだ。
「お奉行様! いいえ、夢乃越前様! 判ってくだーせぇー。あっしは・・・・・・あっしはねぇー、人にコソコソやられんのが一番でーきれーなんでさぁー。やるんだったら正面から正々堂々かかってこいってんだぁ。おとといきやがれー。てやんでぇい」
ひかりは口調変えて、覚えのあるそれっぽい語彙をくっつけて泣き落としに入る。時代が変われば法とその解釈も変わるものだ。
「そ、そうか。ひか、ひかりの助よ。その方の言うことにも、一理・・・・・・? ある、ような気がする。こ、これ七海よ。少しくらい教えてやっても、良いのではないか?」
「あっさり手のひら返しやがったな、おい」
七海が素でジト目をするなら、夢乃も素に戻らざるを得ない。
「あ、いや、私たちにも言えないようなことだったら、別に、言わなくても」
ふむ、と七海が黙考――というには短すぎる間を空けると、
「いや、アイツが芽依に探りを入れたんだけど、失敗したってだけだ。別に隠すほどのことじゃねーな」
あっさり企みを暴露した。
夢乃はその意外すぎる告白に戸惑うが、ひかりは怯まず一歩踏み込んだ。
「芽依ちゃん? 探り? 小夜ちゃん、何を聞き出そうとしたの?」
果たして、堅くなったその声色に気付いているのか、いないのか。詰め寄られたところで、七海は平然としたものだった。
「んん? そりゃ、アレだ。『異世界』に関してどこまで知ってるか。それと――」バツが悪そうに片目を瞑る「――ひかりとの確執の原因、だな。たぶん。アタシは異世界のことだけでいいっつったんだけど、アイツ拘ってたからなー」
「・・・・・・そんなことやろうっていつ決めたの? あたし聞いてないよ」
「悪いな、それはアタシ達の独断だ。決めたのもここに来る直前だし。アイツが”芽依と約束がある”っつーから、そのついでだよ、ついで。探りって言ったろ?」
「じゃぁ、なんで小夜ちゃんは失敗しただなんて――」「それは本人に直接聞けよ。こっちに顔出すよう伝えたし。何かよく判んねーけど、“能力が暴走した”とか言ってたから、芽依の頭ん中覗こうとしたらテンパって地雷踏んだのかもしんねーな」
確かに小夜は精神感応系異能を得意とするジュエリストだ。それこそ、他人の意思を覗こうと思えばできてしまうだろ。けれど、決闘装束なしの発動は自滅を意味するし、何より小夜がそんな卑劣な手段に頼るとは思えない。
――絶対、違う。
そう信じたい一心で、ひかりは開きかけた唇をきゅっと結んだ。
「どうした? 言いたいことがあるなら言えよ。ため込むのは精神衛生上、良くないぜ?」
挑発とも取れるその言い方にも、ひかりは慎重な構えを崩さなかった。
「さっきの件、ちょっと保留にしておいて貰えないかな? やるにしてもさ、皆でちゃんと話し合って、作戦を練ってからにしようよ」
重くなりすぎず、かといって軽んじられることもない、普段の”宝生ひかり”が出せる最大限の譲歩案には、相手を黙らせるに十分な強さがあった。ところが、
「なんで?」
「・・・・・・っ!?」
御剣七海という少女の胆力も、並大抵でなかった。
その問いには何の作意も含まれていない。ただ不思議に/知りたいと思ってのことだ。
「それは、黒岩さんのことは、その、あたし自身の問題だし、他人に口出しされたくないって言うか・・・・・・。それに、異世界のことは、関係ないよ。聞くだけ無駄だよ」
「そうか? 思い返してみると芽依のヤツに似てたかも、ってのはアタシとアイツの稀にみる見解の一致ってやつだからな。結構当たってるかもしんねーし。それに、違ったら違ったでいいだろ。身近な心配の種が一つ減るんだからさ」
「だったとしても前者は違う、そうだよね?」
「確かに」あっけらかんと。
「だったら――」「ひかりには、な。でも芽依が同じ考えとは限らないよな。もしかして和解したがってるかも知れないだろ? アタシが無理にでも止めなかったのは、そいつが理由だ。別にアイツがギャンギャンうるさかったからとかじゃないぞ?」
「・・・・・・そんなことある訳ない」
「なんでそんなこと言い切れんの?」
「態度見てれば誰だって判るし。あたし、嫌われてるから」
「だとしても、だ。当人から本当のところを聞かされた訳じゃない、そうだろ? だったら耳を貸すくらいなら問題ないだろ。聞けたら聞く的な? お前だって、自分の一体何が気にくわないのか、知りてーっしょ?」
嫌われてる理由が知りたい――そんなこと、誰が胸を張って言えるだろうか。誰だって叶うなら一生聞かず、知らずに終わらせたいに決まっている。しかも自分のことを棚に上げてだなんて。
そんな気楽で無神経な言葉が、僅かにひかりの琴線に触れた。
「そんなの・・・・・・七海ちゃんに言えたこと?」
「? アイツのことを言ってんなら勘違いだぞ。アイツはいつもアタシの何が気にくわないかはっきり言うからな。アタシはそれを受け止める。その上で無視する。むしろ指摘されれればされるほど直してやるかと思うね」
そう言い切り、七海はどーん、と豊かな胸を張った。
その独善的な主張には流石のひかりも唖然とする。だが言われっぱなしではいられなかった。
自分だって、何も考えていない訳ではない。むしろ、意識していた。ずっと意識し続けて、何とかしようと努力してきた。ただ上手くいかなかっただけで、間違ったことをやってたわけじゃない――無言の叫びが、チクチク胸に刺さった。
いつもなら、誰からどんな心ない悪口を言われたところでへっちゃらなのに、今日に限って、その小さな棘は、いつまでも刺さりっぱなしだった。
「あたしは・・・・・・、あたしだって芽依ちゃんと仲直りしたいと思ってる。悪いことしたなら謝りたいし、許して貰いたい。いい加減きちんと話し合おうと思ってるんだよ、だからプレゼント買ったし、これを切っ掛けに今度こそ仲良く――」「え?」
そのとき、一人蚊帳の外にされた夢乃が、大きな疑問符を挟んだ。
二人が同時に夢乃を振り返る。夢乃は、信じられないものを信じようと懸命な顔付きをしていた。
「・・・・・・それ本当? 本当に、芽依ちゃんに、あげるつもり、だったの?」
「ホント、だよ。そんなにおかしいかな?」
ひかりは真剣だ。その言葉は疑いようがない。だからこそ夢乃は傷つく。
「芽依ちゃん、それ、喜んでくれると思う?」
「思うよ。絶対。そう思うからコレ選んだんだし・・・・・・」
手にしたポップなロゴの手提げ袋を強く握りしめる。
夢乃はいつものように/いつもと違った悲しげな顔を浮かべる。
「夢乃」
止めに入った七海を、夢乃が片手でやんわり制止した。
言いたくなかった。言ったら何かが確実に壊れてしまう。それは元に戻せないかも知れない。でも言わなくてはいけない。それが辛かった。
(だって・・・・・・これが、いつも何もできない私が、芽依ちゃんと、ひかりのためにできる、たった一つのこと、だから)
夢乃はなけなしの勇気をかき集め、自分を奮い立たせる。
「変だよ、それ」
瞬間、ぽかん、となるひかり。
「・・・・・・変? 何が?」我が耳を疑うように。
「全部。プレゼントをあげるのも、芽依ちゃんの喜ぶ姿を思うのも、それを正しいと考えちゃうひかりも全部、だよ」
「あたしが――変?」
ひかりは自分が唱えた言葉で、その白い頬を強ばらせた。
「考えてみてよ。芽依ちゃん、家族、みんな亡くしたばっかだよ? 学校にもずっと来てなかったし、その前は、その・・・・・・例の件があったでしょ? ひかりも、聞いてるよね? 芽依ちゃん、あのとき何ていったか。
美樹ちゃんと由佳ちゃんのやったこと許さないし、クラスの皆も同罪、そう言ったんだよ。芽依ちゃんは今、誰のことも信じられないんだよ? それにひかり、あの日、悪いことしたって、そう言ったよね? 掴まれて、思わず突き飛ばしちゃったって。それなのに、どうしてそう思えるの?」
「だから、だよ。あたしは、謝んなくちゃいけない。許して貰えるかどうか判らないけど、精一杯謝る。お詫びの印って訳じゃないけど、やっぱ、やり直したいから、これでちゃんと気持ちを伝えようと思ってる」
ひかりは言葉の一つ一つを慎重に、選び取るように内心を吐露した。
だからこそ、夢乃は横に首を振る。
「・・・・・・違う、違うよ。それ。ねぇ、ひかりは一体何を謝るの?」
「だから、突き飛ばしたり、その・・・・・・あたし、色々やっちゃったこと」
夢乃の瞳に涙が溜まって、今にもこぼれそうになった。口元を抑え、懸命に堪えた。ここで泣き出したら、それこそちゃんと伝えられなくなる。それは間違っていると。それは誰にも望まれないことなんだと。
「色々? 突き飛ばしたのは、芽依ちゃんに掴まれたから、でしょ? 先に手を出したのが自分だったら、芽依ちゃんなら絶対に自分の非を認めるよ? 冷静すぎるくらい冷静に判断する子だもん。だから、そのことで怒ったり、まして拘ったりなんてしないよ?」
「そんなの――」
――話してみなければ分からない。ひかりはそう言い掛けて止めた。
「もう一度聞くよ? ひかりは何を謝るの?」
ひかりは、息を大きく吸う。吐く。もう一度吸う。
「あたし、さ。頭良くないから、これまで何が悪かったのか、正直、よく判んないよ。芽依ちゃんのこと沢山考えてみたけど、考えてることさっぱり判ってない。何で冷たくされるのかも。心当たりないし。けどさ・・・・・・判らなかったら、やっぱ謝るしかないと思うんだ。きっと、あたしが悪いんだから。分からなくてゴメン、ちゃんと理解できなくてゴメンって」
ひかりは自嘲気味に笑った。もう笑うしかなかった。
「だから、芽依ちゃん、謝って欲しい訳じゃない・・・・・・そんなことしたら、余計怒らせちゃうよ?」
「そんなの・・・・・・、話してみなくちゃ分かんないじゃん。それに・・・・・・これで、もし失敗したって、諦めなかったら、いつか、絶対、仲直りできるよ」
夢乃はいよいよ堪えきれなくなって、ひかりの手を取った。
何で伝わらないのだろう。他のことだったらなんだって自分が口にする前に分かってくれるのに、どうして”黒岩芽依”のことだけは駄目なのだろう。
もう、最後の一言を伝えるより他に方法がなかった。
苦みと苦しみとをしっかり噛みしめてから、夢乃は口を開いた
「ひかりは芽依ちゃんと向き合ってない。他の子ならそのやり方で良いよ。ひかりなら誰とでも仲直りできるよ。でも、芽依ちゃんは違うんだよ。小手先のことなんて全部見透かされちゃう。ちゃんと、正面から、ぶつからないと駄目だよ。誤魔化して、逃げちゃったら、絶対、理解して貰えないよ・・・・・・!」
「・・・・・・それを、夢乃ちゃんが言うかな」目を逸らして。
――お前はいつも逃げてばかりのくせに。
そう聞こえた。
「ただ、普通に仲良くしたいだけなんだけどさ」俯いて。
――別に理解して貰いたいとは思ってないから。
そう、聞こえてしまった。
そして、ひかりは緩く掴んだ手を振り払った。
「なんか、あたしが一方的に悪いみたいな言い方だ。なんか、やな感じ」
夢乃は三度首を振る。懸命に。それだけは違う、と。
ところが肝心なところで涙が溢れてしまった。いつもみたいに。ポロポロ、ポロポロ、ポロポロ。
ひかりはばつが悪そうに顔を背けた。
「いいよ、もう。あたしはあたしのやり方で芽――黒岩さんと和解するから。ほっといてよ」
視線を合わせようとせず、そのまま一人、駅の方へ歩き出してしまう。
その後ろ姿が、涙で霞んでよく見えない。ただ声だけはあげまいと、夢乃は必死に奥歯をかみしめていた。
「よく言った。お前、エラいな」低い声/からりとした調子。
そういって七海は、ぐいっと夢乃の肩を抱き寄せた。
なされるがまま七海に寄りかかると、仄かに鼻腔をくすぐる青林檎の香りと、温かな体温に包まれた。そのサラサラした思いやりは、降り止まない涙を優しく吸い込んでくれた。